2016年8月20日土曜日

自分に無条件の赦しを!

Column 2016 No.39

 親業のひとつの講座の中に、自分と親との関係(自分がどう育ったか)を見つめ、レポートに纏めて提出する…という作業があります。多くの方は、思春期までにいろいろな形でかなり整理して大人を迎えますが、中には“自分が自分であってはいけない”と、どこかで思い込んで、大人を迎えている人も多いようです。

 そういう方々は、結果的に人間関係(夫や妻との関係など)がうまく保てなかったり、我が子が心から愛せなかったり…と現在の生きざまに微妙に影響を与えていきます。講座指導者として私自身がその方の痛みを心から受けとめて、コメントを返していきますが、時には専門のカウンセリングを必要とされるかたもあって癒しが長期に渡ることもあります。

 育ちの上で受け取った自分自身へのネガティブな思い込みから抜け出るのは、やはり並大抵ではありません。何故なら育ちの上で、親や周りの人々から受け取ってしまった感情想念は、ユング(スイスの深層心理学者)の言う個人無意識層の中に根強く記憶しているからです。

 からくりが理解できれば、本当はシンプルに昇華できるはずなのですが、多くは手強いくらいの思い込みもあり、本人は無意識ですがなかなか手放そうとしないのです。潜在意識に抑え込んだ感情は、必ず顕在意識に上がってきて、やがてその人の現実を創っていきます。私がよく受講生の方々に伝えるのは、潜在意識から上がってきたその時こそがその感情が昇華していく良きチャンスだということ。大切なのはその時の捉え方です。それは苦しい作業ですが、感じては手放し、気付いては手放していけば、潜在意識はやがて綺麗になっていくはずなのです。

 日本に上陸して、このところかなりポピュラーな、ヒーリングメソッド“ホ・オポノポノ”(ハワイの精神科医ヒューレン博士提唱のもの)も、実はこの原理にフォーカスしているのです。ところが多くの人々にとって、そうは分かってもその固着した潜在意識の観念の方に足を取られて、せっかく昇華しょうと出てきたその感情想念に多くは執着して、再び潜在意識に落としてしまうのです。この悪循環のループを何とか断ってしまわなければ、いつまでもそのループの罠の中で苦しむことになってしまうわけです。一生懸命に求めながら、望む現実が創れない大きな原因が、この辺りにあるような気が致します。

 ループの罠から外れていく為に、親業のひとつの考え方がとてもヒントになると思いますので、ご紹介したいと思います。まずコラムNo12を参照ください。双方向コミュニケーションの中の「受信」つまり相手が話していることを茶々を入れずに共感をもってそのままに受け入れて聴いていく聴き方です。相手の人が怒っていても落ち込んでいても、一切の判断をやめて、ただひたすらその人の気持ちそのままの感情を、受容して聴いていくプロセスです。

 この方法を自分自身にもやっていこうというのが、親業の勧めている所謂「セルフカウンセリング」です。潜在意識から絶えず顔を覗かせてくるどんなネガティブな感情をも、一切批判・判断しないで、ただ真っ直ぐに事実を見て、無条件に受け入れていく。つまり心からの「共感」をもって自分と語っていくのです。

「私はどうしても母が許せない!」(本音の自分)
「そうかあ、母が許せないんだねえ…」(客観的に見ている自分
「こんなことがあった!あんなことがあった!…」(本音の自分)
「そうかあ、こんなことやあんなこともあったんだねえ…。本当に傷ついたねえ。だから今もゆるせない気持ちでいるんだねえ…」(客観的に見ている自分

 …といった具合にです。大切なことは、自分の本当の気持ちから絶対に逸れないこと。迷っている自分、醜い自分そのまんまの自分を赦すのです。事実をきちんと受け止めることこそが自己理解であり、癒しであり、実は究極の赦しなのです。そしてそれがやがて深い気づきに繋がるのです。例えば“この母に出逢ったからこそ~を学べたのだ…”のような発想の転換にやがて辿り着くことも多いのです。本当の自分に対峙していると、気付きは自然にやってきます。焦らないことです。

 しかし大切なことは、感情に長居をすることは禁物です。「感じること」と「感情に浸ること」とは違うのです。感情に執着しやすい自分に気付いて、爽やかに解き放していく。難しいですが、それがこの世界での学びなのだと思います。

 ずっと以前に聴いた、宗教評論家ひろさちや氏のお話(おそらくカセットで…)の一節に、とても心に残る逸話の紹介がありました。確か「曲がった松」と言うタイトルだったと思います…。

 「あるお寺の庭に、一本の曲がった松の木がありました。和尚さんは、数人の小坊主さんに言いました。“よいか!あの松をまっすぐに見たものに、褒美を与えるぞ…”と。小坊主たちはさっそくまっすぐに見える場所を探そうとして松のまわりを歩き回りました。“和尚さま!ここから見ると松はかなりまっすぐに見えます!”と口々に和尚さんに伝えるのでした。ところがひとりの小坊主Bは、松のまわりを一回りして言ったそうです。“和尚さま。私にはどう見てもこの松は曲がって見えます…”と。和尚さんは、しばらくして小坊主たちに伝えました。“よし!曲がった松をまっすぐに見たB坊主に褒美を与えよう!…”と。」

 曲がった松はどう見ても曲がっているのです。“まっすぐに見る”ということは曲がっている松を曲がったままに見る。それが“事実を見る”ということなんですね。私たちはこの逸話の中の多くの小坊主さんのように、曲がった松なのに何とかまっすぐな松として見たいのです。つまり痛みを伴ったネガティブな感情…怒り、悲しみ、不安、嫉妬、惨め…等の感情は、何処かいけない感情として、見ないふりをしたり、まっすぐに感じることから多くは逃げようとしてしまいます。自分の今いる心の位置をまっすぐに、つまり事実を事実として見ていくことこそが、真の自己理解である…と賢者(和尚)は言おうとしているのですね。

 私の祖父が時に口にしていた言葉があります。「われわれ凡夫は生きているだけで罪深い存在なんだ。しかし佛(ほとけ)さんは、そのことをしっかりご存じで、“罪悪深重の我々を、そのまんまで救う”と言って下さっているんだ…だから何でも恐れず体験することが人間としてとても大切なんだよ!」と…。確かに!地球次元を体験するために私たちは生まれてきたんですものね!

 ところが体験をして失敗をしてしまうと大抵“自分はなんて駄目なんだろう…”と、また自己処罰の感情に圧倒されるんですよね…。そして多くの人が言います。「赦そうと思うのに恨みの感情を手放せない自分が赦せないんです」…と。赦せない自分を赦せない…私にはその痛みが痛いほど解ります。でも私は、それでも赦す練習をしています。何ごとも練習です!訓練です!赦せない自分、駄目だと思っている自分に“…それでも私はわたしを赦します。OK!大丈夫大丈夫!”と何処までも丸ごと赦してしまうのです。

 それが何度来ても赦してそして赦すのです。失敗しても恥をかいても、例え過ちを犯したとしても、そこに気付きさへあれば、経験したことが大切なのですから。祖父が言うように、大いなる存在は我々を初めから赦して下さっているのだから…。「赦し」は自分への最高の愛でありまた未来を創っていく力です。 私もまだまだ修行中ですがどんどん楽になっています。そして練習をしていくと、感じることと手放していくことが、ほぼ同時に出来るようにもなります。

 曲がった松をまっすぐな松に見ようとする徒労はやめて、ネガティブな感情をそのままに抱きしめてあげましょう。幼い子どもと一緒です。むずかっている子どもを、暫く抱きしめていてあげていると、子どもは納得して自分からすっと離れていくではありませんか。感情も同じです。

自分を赦さないということは、世界さえも変えられる力を
自分の中に閉じ込めてしまうことです
パトリック・ミラー

あなた方のすべての過去は、神にとっては何ほどのものでもありません。
神にとってあなた方は自分の世界を試行錯誤しながら探検している子どもなのです
ポール・フェリーニ

もしもこの世が喜びばかりなら、
人は決して勇気と忍耐を学ばないでしょう
ヘレン・ケラー

私たちの敵とは「ためらい」です。自分でこんな人間だ思ってしまえば、
それだけの人間にしかなれないのです
ヘレン・ケラー


*次回のコラムは9月20日前後の予定です