2018年12月20日木曜日

失ったものより、今あるオトクを捜すようにしてるの。他人(ひと)とくらべずにね

失ったものより、今あるオトクを捜すようにしてるの。
他人ひととくらべずにね
樹木希林
Column 2018 No.67

 今年9月、75歳で逝去した樹木希林さんのフレーズです。彼女の死後、テレビ・映画では、彼女を追悼する番組が毎日のように流れ続けました。先日彼女の出演した邦画「日々是好日」を観に行きましたが、どの時間帯も満席で、それは初めての経験でした。

 彼女は全身癌に侵されながらも、最後まで、女優として演じ遂げた奇跡的な人でもありました。実に演技のうまい役者さんで、沢山の賞も獲得しています、私は以前から好きな女優さんのひとりですが、ここまでフアン層の広い、人気女優さんだったことをあらためて認識したのでした。  

 普段の彼女は、さらりと含蓄ある冗談を言い放ち、自分自身を下げることも上げることもなく、それは役を演じるときも同様で、多くは脇役でしたが、普段着の彼女のままで語り、演じていました。得難いキャラクターの持ち主だったと思います。たまたま数年前の「リビングひろしま」紙に、希林さんが取材されていて、その記事を手元にもっていました。その中で彼女が語った一文です。

「…年寄りになると、病気もするし、目もよく見えないと、不自由も増えて、薬やメガネ…と、必要なグッズが増えてくる。だから私は洋服やモノをなるべく減らそうとしていて、不自由さも面白がろうと思って。そこは徳江さん(映画「あん」の役)とギャップが無かったね。白髪も染めるのは勿体なくて、白髪を生かしたパーマをかけたのよ。わあ、こんなこともできなくなった…じゃなくて、面白い発見にしてるの…」

 その記事によると、彼女はマネージャーも雇わず、化粧品も持たず、バスやJRを利用して遠いロケ地にも一人で出かけていたという。

「…ジバングに入っているからJRの料金が3割引き…。こんなこと、他の女優さんは知らないんじゃない?ホントは私も“女優”然としたいんだよ~(笑)でも、ならないねえ。私は徳江さんのように草木に耳を澄ましてその声を聴くような豊かな感性もないし、耳を澄ましたら耳鳴りしか聞こえない…」

 希林さんの発する言葉は、実にスマートで、ユーモラスで、彼女なりの哲学があって、それを大切に生きてきたことが伝わってきます。他者を恐れず、自分にとっての真実を、堂々と生き、語っていたような気がします。その結果、真実を見抜く目を持っていたので、ある面、多くの人を怖がらせたようです。

「…私は、自分勝手で、決して周りに媚びないけど、欲はあるの。すべてをそぎ落として、力を入れずに、スクッと立っていたい欲…。人間として見栄は必要と思うけど、人と比較したり、他人に張るんじゃなくて、自分に張ることじゃないかしら…」

 私にとって、彼女の死は「スクリーンの巨星墜(お)つ…」の感があります。彼女独特の持ち味でさらりと演じ、味わいある光を放ち続けてきました。女優としての希林さんに、私が魅力を感じるのは、彼女は決して周りに媚びず、自分軸がブレることが無かった人のように思えるからです。

 こんな彼女が大好きだけれど、しかし不思議ですが、私が彼女のようになれる…とは決して思いませんし、また、なりたいとも思わないのです。私は希林さんとは全く違ったスタンスで生きています。髪も染めて、しっかりお化粧をして、イアリングなどもつけて、自分なりに納得できるお洒落をして人さまに会うし、仕事にも行きます。その方が、今の私にとっては居心地がいいからです。

 また遊びを大切にしていて(私もジバングに入っています)私も大抵はひとりで、行きたいところに行くし、自分にとって心地いいことであれば、惜しげもなくお金も使います。“自分勝手で周りに媚びない”…あたりは希林さんと一緒ですが、結構、周りに気は遣っています(笑)希林さんのように“すべてをそぎ落として…”の、心境にはまだまだ遠い気がしています。

 どんなに素敵な人を見ても、決してその人にはなれないし、なる必要もないでしょう。価値観の違いはどうであれ、希林さんのように、自分の信じるところを、凛として生き切った生き方を、私は見事だと思うし、とても好きでした。違いは違いのままで、自分の軸をブレさせないで生きている人は、やはりとても魅力的に思えます。

 私もさらに自分軸を大切にして、“誰とつきあうよりも…私がわたしとつきあって幸せな気分”…で、いられるような日々を、これからも過ごしていきたい…と思っています。

絶えずあなたを、何者かに変えようとする世界の中で、
自分らしくあり続けること、それは最も素晴らしい偉業である
エマーソン

*次回のコラムは1月20日前後の予定です。

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2018年11月20日火曜日

読書の時間を大切にしなさい。一冊の本との出逢いがあなたの生き方を変えることがあります

読書の時間を大切にしなさい。一冊の本との出逢いが
あなたの生き方を変えることがあります
ジョセフ・マーフィー
Column 2018 No.66

 「読書の秋」…とよく言われます。秋は、自然が豊かで気温も爽やか…何となく落ち着いて本の世界に入れる気分があるからでしょうか。

 読書というと、私自身、子ども時代から“本の虫”と言われるくらい本が大好きで、絵本から小説、エッセイ、歴史もの‥何でもそこにあるものを手当たり次第に読んでいました。いわゆる乱読です。通学の乗り物に乗っても、すぐに読みかけの本を開いて読んでいたものです。それを弟が「お姉さんはいつ見ても本に、しがみつくようにして読んでいた…。少しは外の景色でも見ればいいのに…と思っていたよ」と言われるくらいでした。

 学生時代、クラスの教授から興味深い宿題が提出されました。女性の生き方を描いた小説を、5冊以上読んで感じたことを、400文字の原稿用紙100枚以上のレポートに纏めて提出すること。今回はそれで成績を付ける…と。周りのクラスメートは「無理よ~!」…という反応でしたが、私はとてもわくわくとしたのを覚えています。山本有三の「女の一生」モーパッサンの「女の一生」円地文子の「女坂」…等々を選んですぐに読破し、レポートに取り掛かりました。

 レポートに纏めた学生時代のその経験を通して、私は、女性の性(さが)…そこから見えてくる、ひとりの人間としてのあり方を、自分なりに明確にし、腑に落ち、それが今も、生き生きと私の中で生きて働いているのを感じます。冒頭のフレーズのように、それらの本との出逢いが、今も私の生き方感じ方にとても大きな影響を与えているのを感じるのです。

書物の新しいページを1頁1頁読むごとに、私は、
より豊かに、より強く、より高くなっていく
チエーホフ

 賢人も、そこに至るまでには、書籍を読むことで自分を高め、深めていったんだな…ということが伝わってきます。確かに書籍は、その著者が経験したこと、苦労して得たもの、身に付けてきたことを、ひたすら精魂を傾けて書いています。その書物に触れることを通して、私たちは他者の人生を味わい、他者の人生を間接的に経験することができるのです。

 その結果、私たちも自分の視野を広げ、世界観を広げ、精神性を高め、自分自身を深めてきたのだと思います。もし書物を通して学べなかったとしたら、私たちは、自分ひとりの人生しか経験できないし、自分ひとりの人生しか味わうことができなかったでしょう。その結果、自分の固定観念に縛られて、頑固に不自由に生きることになったかもしれません。

 しかし、私の祖父は、私の本好きを心配していたのか、「亮子、よい本を読むことはとても大切だが、でも読み過ぎては駄目だよ…」と時々言っていました。私は自分が、書物を通して成長している自分を感じていたし、祖父が毎日書物を読んでいる姿も見ていたので、祖父の言っていることがその時は、よく理解できませんでした。読み過ぎると、目が悪くなるから…かなぁ…くらいの理解でした。

 しかしもう少し年齢を重ねたとき、祖父の言っている意味が、はっきりと分かる日がきたのです。祖父が時折言っていた言葉に「人生の答えは外にはない。外に答えを求めすぎると自分が確立できない。答えは自分の中から来るということを信頼しなさい」…と。また「人の話を聴き過ぎてはいけない」ということも時折言っていました。読書をし過ぎたり、他者の価値観を取り過ぎて自分の軸がぶれてしまうことの危険性を警告していたのだということが解ったのです。

 最近出逢ったアインシュタインのフレーズに

本をたくさん読み過ぎて、自分自身の脳を使っていない人間は、
怠惰な思考習慣に陥る

 というのがありました。それぞれの著者が述べている価値観を、安易に取り続けると、自分自身の人生に対する感性が鈍くなる…ということを言っているのでしょう。祖父の言葉が意味している答えの一端を、垣間見たような気がしました。

ドン・キホーテは読書によって紳士になった。そして
読んだ内容を信じた為に狂人となった
バーナード・ショー

 ドン・キホーテの物語は面白くて何度か読みました。バーナード・ショーのフレーズに思わず笑ってしまいましたが、祖父の言わんとすることにも繋がるんだなあ…と、とても興味深く思ったことでした。祖父が私に伝えたいことが理解でき始めてからは、私は自分の軸をしっかり感じながら、書物を心から楽しみ、内容をしっかり咀嚼して、捨てるべきものは捨て、取るべきものは取っていく。そんな“感性”が、少しずつ育ってきたような気がします。

書物そのものが君に幸福をもたらすわけではない。ただ
書物は、君が、君自身の中に帰るのを助けてくれる
ヘルマン・ヘッセ

 人によっては色々な解釈があると思いますが、このヘッセのフレーズは、今の私の心にとてもしっくりときました。祖父が私に言わんとしていたことと統合したのです。書物はただ楽しむためだけに読むのではなく、また物知りになる為に読むのではない。書物は、私の魂の成長に、とても助けになってくれる存在…つまり私が、本当の私を見つけるための、本当の私に辿り着くためのひとつのツールとして在るもの…。

 これからも私の感性で、私にとっての良書を選び、「読書の秋」をわくわくと楽しみたい…そう思っている昨今です。

*次回のコラムは12月20日前後の予定です。

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2018年10月20日土曜日

起こってしまったことは変わらない。でも人の心は変わります

起こってしまったことは変わらない。でも人の心は変わります
・・邦画「コーヒーが冷めないうちに」より

Column 2018 No.65

 話題のベストセラー小説「コーヒーが冷めないうちに」が、同じタイトルで映画化されました(塚原あゆ子監督)邦画を観るのは久々でしたが、ファンタジックで、実に面白く興味深い映画でした。

 ある不思議なカフェがある。そこの女主人が淹れるコーヒーを飲むと、タイムスリップができ、悔いの残る人に逢うことが出来る。過去のその時点での相手に、伝え残した自分の気持ちを伝え、またその時の相手の本当の気持ちをも聴くことが出来る…というセッテイング。

 しかし、それにはちょっぴり面倒で厳しい約束事があって、過去に戻れる席はカフェの中のただひとつの席だけ。そして淹れてもらったそのコーヒーが温かい間のひとときだけがチャンス。コーヒーが冷めないうちに飲み干さなければ、現実に戻ることができなくなり、幽霊として生きるはめに陥る…(笑)

 悔いが残る人に逢うと、やはり人間なので執着が起こり、“この人とずっと一緒にいたい!現実に帰りたくない!” “それでも戻らなくては!”…その葛藤に苦しむ登場人物の心情に…その都度、深い共感で心揺さぶられるのでした。

 もうひとつ約束事があります。過去に戻って、悔いの残る人と逢って、たとえ何を伝えても、何をしたとしても、起こってしまったことは変えられない…という厳しい原則。 それでも人は悔いの残る人に逢いたいのです。現実は変わらないにしても、言い残したことを伝えることで、その人の気持・心情には、決まり(決着)がつき、それからの生き方・人生は変わっていく…。

 私自身が、もしあの日に戻れるとしたら…私は「父」に逢いたいと思いました。私の心の中に悔いが残っている人のひとりです。父は心から子どもを愛していました。それに本当に気付いたのは、父が亡くなってから…のことでした。情の深い人でしたが、生前はお酒好きで、短気で怒り早く、自己表現が不器用で、私は父の前でいつも緊張していたような気がします。何のことだったか忘れてしまったのですが、ある日、私の気持ちが大爆発してしまい、父に対して「私はお父さんからの愛を感じたことがない!」…と言い放ってしまったのです。そのとき父は黙って涙をぬぐっていました…。この場面を思い出すたびに胸が締め付けられるような思いになります。なんてひどいことを言ってしまったんだろう…と。本当は愛されていたんだ…と伝わってくる過去の、数々の場面が思い出されてくるだけに、とても切なくなるのです。

 もし過去に戻れて「父」に逢えるとしたら、私は心をいっぱいに開いて、父に伝えたいと思います。「お父さんごめんなさい!あなたの本当の愛に気づいていなかったことを…。気付くのが遅かったけど、心から有難う!お父さん愛しています!そして大好き!」…と。父を“傷つけてしまった”過去の事実は変えられないとしても、映画のその場面のように、実際に逢って本当の気持ちを表現するだけで、私の気持ちには決着がつき、さらに前に向かって歩いて行けるような気がするのです。

 私は今、しみじみと思うのです。過去に戻って気持ちを伝え直さないで済むように、大切な家族やご縁ある人に、私がいまこの時に感じている心からの愛情や本当の気持ちを、そのまま“今”正直に伝えておきたい…と。そうしないとコーヒーはあっという間に冷めてしまいます…。父の涙を見たとき「お父さんごめんなさい。言い過ぎたわ…」だけでも、そのとき、勇気をもって伝えられていたら、私の中にこんな悔いは残らなかったかもしれません。

言い過ぎもせず 言い残しもなく 自分の心をきちんと
表現できたら その日は幸せな一日  
出典:サインズ

 次は私の受講者のKさんから頂いたお手紙の一節です。

「…いずれ巣立っていく子ども達と、こんなに毎日しっかりと、向き合える時間を与えてもらっていることは、私にとって宝のような時間だ…と思えるようになってから、娘・息子のさまざまな言葉や、表情、しぐさを胸に焼き付けておこうと思うようになりました。いま世の中は、天災、テロ、事故…何が起きてもおかしくない毎日だから、思った時に「大好き!」「愛してる!」「あなたは宝物よ!」と、感じたことを後悔しないように伝えるようにしています……」

 再び同じ“今”は来ない…ということを理解していらっしゃるKさんは、このひとときに感じている、子どもへの愛情や本当の想いを、後悔しないように“今”伝えておこう…と。Kさんは、コーヒーが冷めないうちに…の理(ことわり)を実に深く理解している人だと思ったことでした。こうして受講者の方々からも学ばせて頂けるこの幸せなひとときを、私は大切にしたいと思います。そう!コーヒーが冷めないうちに…。

幸福には明日という日はありません。昨日という日もありません。
幸福は過去のことを記憶してもいなければ、将来のことも考えません。
幸福は現在があるだけです。今日という日ではなく、
ただ、“いま”のこの瞬間があるだけです
ツルゲーネフ

*次回のコラムは11月20日前後の予定です。

2018年9月20日木曜日

自分への限りない思いやりこそが愛の人になれる鍵です

Column 2018 No.64

 ある動物園の園長さんのお話です。
「…不幸にも母親猿にかまってもらえなかった子猿が母親になったら、自分の子どもにもやはり愛情を示さないんですね…。甘えてくる子猿に危害を加えることもあります。一方、母親に愛されて育った子猿が母親になったら、餌を獲得できるようになるまで、殆ど子どもを手放さずに抱いたりおぶったりし続けます…」

 このお話は、私たち人間の子育てにとっても、大切な示唆があります。次はずっと以前、新聞の投稿欄に掲載されていた一文です。
「…35歳の主婦です。2歳と3歳の子どもがいます。実は私は子どもがちっとも可愛いと思えないのです…。 最近は我が子の泣き声を聞くだけでイライラして、つい手を出してしまいます。すぐに後悔するのですが、またすぐにカッとなって手が出ます。私には母性が欠けているのでしょうか…」

 あるお母さんは泣きながら私にこうおっしゃいました。
「…子どもが苦しんでいるのを見ると、今ここで助けてやらなければ…と分かってはいるのだけれど心が動かないんです。“私だって苦しんできたのよ!あんたはまだましですよ…”と、心のどこかで冷ややかに眺めている自分が居るんです…」

 本当はどのお母さんも愛深いお母さんになりたいと思っているのです。子どもを怒るまい叩くまい…と思っているのに、カッとなると機械的にスイッチが入って、子どもを罵倒したり暴力を振るったり、嫌味を言ったり無視したりしてしまうわけです。どうしようもない自分に心の中ではおいおい泣きながらついやってしまうのです…。

 そんなお母さん方によく伝えます。「…お母さん、あなたが悪いわけではないんですよ‥。あなたが親御さんから愛を学んでこれなかっただけで、仕方ないんですよ…」と。するとご自分の生い立ちを涙ながらに語られます。いかに親に無視され侮辱されてきたかを…。そして“…でもこのままでは子どもは大変なことになる!やめなければ!…と、私どこかでずっと思ってるんです。でもつい…。どうしたらいいのでしょうか…” このように自分を責め、絶望的になっているお母さんは意外にたくさんいらっしゃるのです。

 続いて私はお母さん方に伝えます。「…子どもは見捨てなければ育ちます。怒ったり叩いたりするのはまだ子どもを見捨てていない証拠です。でも怒らない・叩かないが一番いいですよね。しかしこれは一度には、なかなか直すことは出来ないものなんです。多くは体に染みついていますからね。だからついやってしまう自分をどうぞ許してあげてください。やっていい…と言っているわけではありません。やってしまう自分に気付いて、そして許してあげるのです。今は仕方ないんだ…と。自分を責めまくって、いっとき反省しても、なかなかいい方向には向かわないんです。許してあげる方が不思議ですが、徐々に辞められる方向にいきますからね…」

 こういうと、多くのお母さんは号泣されながら「…なんか楽になりました…。難しいけど、そんな自分を責めないでいいんですね…」と、“何だかよくわからないけど…できそう…”という表情をされます。

誰かを愛すること、それは私たちに課せられた最も困難な試練です

 オーストリアの詩人リルケが知人に宛てた手紙の一文に書いています。特に愛を学ばないまま大人を迎えてしまった人にとっては、“愛を学ぶ”ことは、最も難しく、リルケの言葉を借りれば“試練”だと思います。人は長年培ってきたものを簡単に変えることは難しいということです。しかし愛する能力も訓練(練習)で身につくものなのです。日々の自分の思いの傾向に気づき、赦し、そして今できることをひとつやっていく。その日々のひとつの積み重ねが大切なのです。

 やりすぎたな…と思ったらまず心からお詫びを言いましょう。子どもがいけなかったのではないことを…。罪悪感を払拭してあげることはとても大切です(コラムNo61)。一度には子どもの気持ちは晴れないでも、お母さんのことを大好きですから許してくれます。失敗してしまったりやり過ぎてしまった時、居直ったり挫折しないで、気付いたらすぐに気持ちを立て直す…これも大切な訓練です。

 機嫌のいいお母さんになることが子育てには一番大切です。親から愛を受けとれなかったお母さんはとても不機嫌です。なぜなら親に気を遣って生きてきたから、言いたいことを言わず、やりたいことをやってきていないので、幼い心が怒っているのです。

 “子どもを愛してあげられる私になろう…”それはとても大切な目標ですが、とりあえずは、遠くの目標はひとまず置いて、“今、どうしてあげたら私の心が喜ぶんだろう…” “私は今、ほんとうは何がしたいんだろう…”と、感じてみて下さい。今の自分の心を満たしてあげることが、何はともあれ一番に大切です。親からやってもらえなかったことを少しずつ、いま自分にやってあげるのです。

 幼い頃の自分が心の中で声を潜めて泣いているのを感じてあげてください。あなたは子どもの頃、お母さんに言えなかったことは何ですか。お母さんに何をしてほしかったのですか。お母さんと何をして遊びたかったのですか。本当にやりたかったことは何ですか。本当に欲しかったものは何ですか。それを自分に、いま与えてあげてください。周りの人が何と言おうと笑おうと、自分にやってあげてください。そのうち幼かった頃のあなたが少しずつ笑顔を見せ始めますよ…。これが真の癒しです。不思議ですが、気持ちが癒されてくると、いつのまにか他者に、そして我が子に、ずっと優しくなっている自分を感じるはずです。

 リルケは“愛を学ぶことは試練だ”…と言いましたが、実は、自分への限りない優しさ・思いやりこそが、愛の人になれる鍵(キーポイント)だとしたら、愛を学ぶことは、試練というよりは、‶真の癒し“であり、“自分育て”であり、決して苦しい作業ではありません。それを積み重ねていくことがまた、あなたの自己実現に向かう確かな道でもあります。コラムNo39コラムNo43にも“赦し”や“自分を愛すること”についてのテーマに触れています。

*次回のコラムは10月20日前後の予定です。

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2018年8月20日月曜日

苦手な人の前でもあなたらしく

Column 2018 No.63

 久々に会った友人のEさんが、「この頃、私ねぇわがままになっちゃったんだと思うの…。相手が自分のことばかりしゃべったり、私の興味がない分野のことを長々と話されると、すごく疲れるのね。以前はそれでも話を合わせられていたんだけど、この頃、何だかうんざりするのね…そう!苦手に感じる人が増えてきた気がするの…。これってわがままよね…歳のせいもあるのかしら」…と呟いていました。

 確かに、一方的に自分の話ばかりする人や、自慢話ばかりする人、不機嫌な人、そして他人の情報ばかりを話す人…の多くは、一般的には、相手に苦手意識を持たせてしまうようです。だから彼女の不安は当たり前と言えるかもしれません。

 私たちは、一人ひとり感情を持っている人間です。だから、誰とでも気が合って、誰とも争わないで生きていくことは不可能です。逆に「私は誰とでもうまくやっていますよ…」という人があるとしたら、自分の気持ちに気づいていないか、自分の本当の気持ちを無意識に誤魔化しているのかもしれません。

 だから誰とでも笑顔で付き合える人が社交上手で、苦手な人とは付き合えませんという人を社交下手と決めつけることは誰も出来ません。こんな経験はありませんか。ちょっと無理して苦手な人と付き合って帰った日など、ぐったり疲れたり、何となく不機嫌になったりしたこと…。 私たちは、相手が苦手な人であればあるほど、本当の自分からずれてしまって、無理に笑顔を作ったり、心にもないお世辞を言ったりして、その場を取り繕ろおうとして頑張ってしまうんですね。

 苦手意識に捉われて罪悪感を持ったり、自分を不自由にすることは辞めたいものです。“苦手な人だわ…”という今の自分の感じ方を大切にしていいのではないでしょうか。しかし“固定観念”はもたないことが大切です。何故なら、好きな人!…と、今、あなたが感じている人を、明日は苦手になるかもしれないし、逆に今、とても苦手な人が、先ではとても付き合いやすい人になるかもしれないのです。人の気持や感情は、自分を含め常に動いていて、変化・成長していくものだからです。

 社会に生きている私たちは、いつも気が合う人ばかりと居るわけにはいきません。苦手な人と仕事をしたり、致しかたなく場を同じくせねばならないこともあるでしょう。その時でも“苦手な人…”と感じている自分に決して“後ろめたさ”を持たないで、ありのままの姿で接すればいいのです。無理な笑顔も要りません。用件が済んだら「それでは…よろしく」と言って、優雅に立ち去ればいいのです。

私は人が笑ってほしい時に笑いません。
自分が笑いたかったら笑います

 イチロー選手の言葉です。頑なまでの正直さを感じますが、その心持ちが野球一筋に集中できた人生になったのでしょう。私たちも自分の気持ちを大切に正直に生きていったら、その相手の人には好かれないかもしれませんが、私たちの人生は充実していくことでしょう。その上、正直な自分が大好きになるはずです。自分を好きになることは、よりよい人間関係の大切な第一歩なのです。

  “投影”という心理学用語があります。「泥棒は誰よりも自分の家の戸締りに気を付ける」…これは“投影”を解かりやすく現している例え文です。つまり私たちは自分の中にあるものを他者に投影して見てしまいやすいということです。

 自分の中にある認めがたい感情や性質を、相手の中に見ると、その人が苦手に思えたり、嫌いになったりする傾向があるというわけです。「あの人は、ずるいからいや!」というけれど、もしかしたら、相手のその許し難い性質が自分の中にもあって、そのことに気付いておらず、感じないふりをしているのかもしれません。相手に腹を立てているようですが、実は自分に怒っているのです。

自分を見るように他者(ひと)をみる。
他者(ひと)をみるように自分を見る

 という故事もあります。私も親からよく言われていた言葉に「人の振り見て、わが振り直せ…」というのがありました。角度はちょっと違いますが、他者の中に学ぶべきことがあるということ…。相手の中に見るその許しがたい性質が、もしかして自分の中にもあるのかもしれないなあ…と感じてみるとき、大きな気付きが生まれます。苦手な人からも、私たちは自分自身を理解していくことが可能であり、学ばせてもらっているのですね。

 私たちはみんな、鏡のようにお互いを映し合いながら気づき、学び合い、お互いに進化・成長しているのだと思います。苦手な人に出逢った時、自分に正直にすっと立ち去るか、自分理解のチャンスと捉えるかは私たちの選択です。正しい・正しくないはありません。好きな人がいて、嫌いな人がいて、付き合いやすい人がいて、苦手な人がいます…というあなたはとても人間的な人なのです。

相手の好みに無理やり合わせていると、いつか心と身体が痩せ細っていきますよ。
私はわたし…と思えるようになる為にはまず嫌なことはしない…
と決めればいい。“Yes” “No” をはっきりする…これは大事です
瀬戸内 寂聴

*次回のコラムは9月20日前後の予定です。

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2018年7月20日金曜日

時をわきまえた沈黙は叡知にして、如何なる雄弁より勝る

時をわきまえた沈黙は叡知にして、如何なる雄弁より勝る
プルタコス
Column 2018 No.62

 「沈黙が怖い…」と言う人は結構あります。沈黙が怖い人は、相手の沈黙を破りやすく不自然に饒舌に話したりします。親業では、相手の話すことを“黙って聴いた”り、自分が“黙りたいときには黙る”ことを選択できる…ということをコミュニケーションのひとつの手段としてとても大切に考えています。“語る自由”もあれば“沈黙の自由”もあるということです。

 次は私の講座を受講下さった保育士Hさんの体験です。

「…先日、老人施設にお手伝いに行った。80代半ばの女性が私を呼び“暇になったら来てください”と言う。傍にいき“ご用ですか?”と訊くと “……”(沈黙) “お天気がいいですね!” “……”(沈黙) 何を言っても答えて下さらない。私の話し方が悪いのか…話のネタは…? どうしよう!と、不安でいっぱいになり、その場を立ち去ると、また呼びに来る…。

…“お話しましょうか” “……”(沈黙) 長椅子に一緒に座り、“そうだ…彼女に寄り添ってみよう…。沈黙を守っている彼女のその位置を、親業的に尊重してみよう…”と思い、彼女の手を握り、外の景色を一緒に黙って静かに眺めた。今までの心の動揺・不安から解放され、私の心はゆったりした。彼女を見ると、とても幸せそうだった。15分くらいの沈黙だったと思うが、いい時間が流れた(…と私は思った)

…私は立ち上がって“仕事がありますのでいきますね…”と言うと、“ありがとう”と、にっこりして言われた。こういう接し方もあるんだ…と嬉しくなった。“沈黙”を選ぶ…というコミュニケーション。目から鱗の感じがした…」

 このHさんの体験から、「沈黙」の中には実は、言葉では決して言い現わせないその人の感情や深い想いが湛えられている…ということが伝わってきます。そして私たちが沈黙をするとき(無意識を含めて)、やはり言葉に言い現わせない自分の想いや感情…があり、それを言葉にすると虚しくなってしまいそうな深い想いがあるとき、自然に沈黙を選んでいるような気がします。

 私にも「沈黙」の中に、しみじみと深い愛の力を感じた体験があります。私の二番目の子どもが1歳の誕生日を前に病気で死んでしまいました。青天の霹靂で、私は一生分の涙を流したと思いました。周りの人は色々な慰めの言葉を下さいました。ご愛念はしっかりと伝わってきましたが、何故か心の哀しみには届きませんでした。

 その時の私の父の態度は、他の人々とは全く違っていました。父は無言のまま、私が移動するところに、ただついてくるのです。そして私の傍に何も言わないで、ぴったりとずっと共にいてくれたのです…。その時の、父のその静かな沈黙の中に、ほんものの愛を、私はしっかりと感じとったのです。娘の心の痛みをとうてい言葉では言い現せなかったのでしょう…。普段は我が強く、どちらかと言うと苦手な父ですが、その時の父の温かさは今も決して忘れていません。

 しかし沈黙には色々な顔があるようです。「沈黙」も使い方によっては武器にもなります。言い争いになった時、片方の人が沈黙を行使すると、相手は不安に陥し入れられます。それを沈黙効果と言いますが、このように“作為された沈黙”は、人をコントロールしてしまう危険性があります。

 また「沈黙」はその人を大きく素敵に見せる効果もあります。以前CMに「男は黙ってサッポロビール!」というのがあり、大ヒットしました。“黙ってビールを飲んでいる男性って確かに男の色気を感じるよね!”と言った女性は沢山いました。本当は話すことが無くて自信も無く、黙ってビールを飲んでいたかもしれないのですが…(笑)  やはり沈黙効果のひとつです。

 さて、次はインドのマハトマ・ガンジーに啓蒙され、非暴力運動の先頭に立って、黒人の人種的差別撤廃のために尽力を尽くし、志(こころざし)中半で凶弾に倒れた米国のキング牧師の言葉です。

最大の悲劇は、悪人の圧政や残酷さではなく、善人の沈黙である

 “今、発言すべき問題になっていることに沈黙をすることは、自分たちの命をあきらめてしまうことと同じである…”と。つまり発言しなければならない時には勇気をもって発言すべきである…。“時をわきまえた発信力”の必要性を彼は訴え続けたのです。彼は現実の厳しさを理解しつつも、決してひるまず、言うべきことを果敢に発信し行動していきました。そしてそれは多くの人々の共感を呼び、遂に「公民権法」が制定されたのです。アメリカ建国以来、法の上に施行されてきた人種差別が終わりを告げたのです。結果的には彼は凶弾に倒れました。しかし彼の生きざまと彼のメッセージは後世の人々の魂に力強く生き続けています。

 老人施設でのHさんは “そうだ!沈黙をしてみよう…”と、沈黙を選んで、女性に寄り添ってみられました。その“時をわきまえた沈黙”は、相手の女性にとっていかなる会話よりも、心から安らげるひとときとなりました。

 時を得た“沈黙”そして、時を得た“発信”…しかしその“よき時”は誰も教えてはくれません。それがコミュニケーションの難しさです。その為には、私たちは絶えず自分の心の動き・認識へとチャネルを合わせて生きていくことが、やはり基本的に大切に思います。自分の感情、想いが掴めるに従って、コミュニケーションの感度は増してきます。やがて、自分にとってもそして相手にとっても益になる、適切なコミュニケーションの選択が、より可能になるのではないでしょうか。

ひとは“発言する”ことのみならず、“発言しない”
ということにも責任をもたねばならない   
キング牧師

*次回のコラムは8月20日前後の予定です。

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2018年6月20日水曜日

自分にも非がある…と気付いたら、堂々と自分の方から謝りましょう

Column 2018 No.61

 街中で見知らぬ女性に“ドスン!”とぶっつかりました。私が歩きながらショーウインドウに見とれていた為です。私の行動がまずかったにも拘らず、その女性の方が咄嗟に「あら!ごめんなさい!大丈夫ですか!」と謝って下さったのです。勿論私も非をお詫びしましたが、その時の温かかった気持ちは今も覚えています。

 私たちは、結構お詫びは下手のように思います。特に相手側にも非があると思うときにはなかなか謝れないものですが、私が街中で出会った方は、明らかに私の方に充分な非があるにも拘らず果敢に謝って下さったのです。その時に私が感じたことは、“どちらがいい悪いではない。起き湧いたアクシデントに自分が係わっていたなら、堂々と自分の方から謝ろう!”…と、その時の温かさがそんな気持ちに私を押してくれたのでした。

 しかし、誤解を受けて、“謝るべきはあなた…”という立場に自分が立たされた時の葛藤はなかなか苦しいものです。そこに至ったいきさつを説明すれば、誰かの名前を出さなくてはならなくなったり…言い訳けを聞いてもらいたくなったり、その葛藤は尋常ではありません。そのような事態に陥った時、思い切り腹をくくって、弁解は一切やめ、謝るべきことは誤り、次に向けての建設的な行動を起こせた時は、ひとときは苦しくとも、やがて自分の中にさわやかさが戻ってきます。“今の自分ってなかなかいいな!”と思えるひとときです。

 誤解を解くことはとても難しいことです。思い込んでいる他者の思いを変えることはなかなか出来るものではないと私は観念しています。その誤解を解きたいという気もちが、誰かを守る為なら別ですが、自分を守るための言い訳ならもうやめよう…と心に決めています。誤解を解くことに奔走しない…結構ある種の覚悟が要ります。相田氏の次のフレーズには何か心ひかれました。

柔道の基本は受け身 受け身とは転ぶ練習
負ける練習 人の前で恥をさらす練習
相田みつを

 お話は変わりますが、女性Yさんが、ある体験を話してくださいました。「…私が小学生低学年の頃、学校の帰り、広場で数人の友達と遊んでいました。そこに母がきて“すぐ帰りなさい!”と怖い顔で言うのです。私はもう少し遊びたかったので、ぐずっていたら、いきなり私の顔をぶったのです。お友達の前で叩かれて、私は本当に恥ずかしかった…。あのひとこまは、今思い出してもつらいです。私は今も母を大嫌いだし、あのことも許していません…」

 もしかしたら、その時お母さんの身の上に何か起っていたのかもしれません。困惑するアクシデントとか、何かで深く傷ついてしまっていたとか…。親も人間ですから気持ちのバランスが崩れることはあり得るのです。そんな時、一番甘えられる子どもに、このように感情をぶっつけてしまいやすいのです。…でも決して忘れてはいけない大切なことがあります。

 いきなり叩かれて家に連れ戻されたYさんは、おそらく意気消沈して、ひとりで泣いていたかもしれません。母親を睨み付けていたかもしれません。子どものそのサインを決して見逃してはいけないのです。見逃してしまうと、Yさんのように、心に受けた傷を大人になっても持ち続けてしまうのです。その上彼女の子育てにまで影響が及んでしまうでしょう。大切なことは、親の感情が収まった時でいい、必ず子どもに許しを乞うことです。「…Y子ごめん!お母さんひどいことをしたね…。実は~のことがあってね、お母さん混乱してたんだよ…。でもY子に当たるなんて最低だよね…。本当に悪かった。許してほしい…」のように。

 心からの謝罪をしたら、子どもは、すっと許してくれます。大好きな親ですから謝罪さえあれば許そうと子どもは思っているのです。そのためには親は、自分の過ちを直視し決してごまかさない。誤魔化した結果は、やがて親の方が、それに振り回される結果にもなります。“あの時どうしてすぐに謝らなかったんだろう”…と。いつまでも後悔が私たちの心を苦しめます。その上、親と子の関係も壊れる方向に向かってしまいます。相手が誰であれ、こちらに非があるときには、決して言い訳をせず、率直に謝罪することはとても大切に思います。過去の人であれば、心の中で一度真剣にお詫びをしたら、すべて学びの体験だから、自分を心から許してあげましょう。次は私の受講生の方の事例です。

野球道具の置き場所を決めている。ある日私が帰宅したら、玄関の上り口にそれらが置いてあった。長男M(中1)が図書館から帰ってきた。

 母 「M君!どうしてここに置きっぱなしにしてるの!?
    いつも言ってるでしょう!ちゃんとやってよ!」
 長男「言っとくけどねえ、俺じゃないよ!どうして俺って決めつけるんだよ!」
 母 「だってあなたしか使う人いないでしょ!」
 長男「うるせえなあ!おれじゃないって言ってるだろ!」

…と言って、怒って自分の部屋に駆け込んだ。実は小6の次男が、兄がいない間にそれを使って玄関に放り、そのまま友達と遊びに出掛けたらしい。私は長男に謝りたい…と思い、長男の部屋に行ったが「うるさい!ほっといて!」とけんもほろろ、取り付くしまもない状態。でも私は部屋の外から心を込めて詫びた。

 母 「本当にごめんなさい!お母さん確かめもしないであなたのせいにして!
    気分悪かったよね…。本当に申し訳なかったわ…。許してほしい…」

<気づき> 講座でフォローの大切さを習ったところだったので、本気で詫びた。その時は「あっちへ行って!」と怒りの反応でしたが、「ごはんよ!」と言うと、すっと出てきて、気持ちを取り直してくれているのが解りました。これからも子どもを傷つけてしまった時は、素直に認め、謝っていこうと思いました

*次回のコラムは7月20日前後の予定です。

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2018年5月19日土曜日

大きく深い鈍さをもて!利口であるより愚直であれ!

大きく深い鈍さをもて!利口であるより愚直であれ!
村上 和雄
Column 2018 No.60

 村上氏は「鋭」の方法よりも「鈍」なやり方を積み重ねることで、高血圧の黒幕である酵素「レニン」の遺伝子の解読に成功。世界的な業績として大きな注目を集めました。彼は著書「アホは神の望み」(サンマーク出版)の中で繰り返し述べているのは、こざかしい理屈や常識の枠を超えてしまう器の大きな“愚かさ”の復権でした。

ハングリーであれ、愚かであれ  スティーブ・ジョブズ

 多くの成功者が、自分のことを“…頭の回転が鈍く要領の悪い人間だった。しかしそれが成功へと導いた…”と自分自身を表現しています。そして“その鈍さがあってこそ、難解な問題を諦めることなく、真面目にコツコツと粘り強くやり続けることができた。しかも鋭さに欠けるから、無駄も多く、遠回りで向こう見ずな決断もして、しかしそうこうやっているうちに驚くような発見につながったんだ”…と。

 「愚か」と言うフレーズに出逢って、一番に思い出したのは、トルストイの「イワンの馬鹿」(あすなろ書房)というロシアの民話です。この民話には菊池 寛をはじめ沢山の和訳がありますが、特に北御門二郎氏の訳本は血肉が通っていると思いました。のびのびと愚直に生きるイワンのひととなりがよく現されています。私なりに理解したあらすじをご紹介してみたいと思います。

 「…昔、ある国に一人の裕福な百姓が住んでいました。彼には四人の子どもがいて、息子のイワンは三男でした。イワンには二人の兄がいて長男は権力に憧れ、次男はお金に執着して商いに追われていました。イワンはみんなに馬鹿にされながらも、耳と目が不自由な妹の面倒を見ながら、毎日汗水たらして百姓生活です。イワンは狡猾な兄たちに、たびたび利用されながらも決して争わず、恨むこともなく要求されるものを「いいとも、いいとも」と惜しげもなく差し出します。“また働けば何とかなるから…”と、全くの無抵抗…。彼は骨身を惜しんで働くけれど、お金にも権力にも全く執着がないのです。結果的に兄弟間には争いが起こりません。それを眺めていた小悪魔たちはそれが面白くなく、兄弟三人に取り付いて仲をかき乱そうと謀ります。兄二人は強欲で、私欲を満たすためなら手段を選ばずですから、悪魔の誘惑に簡単に乗ってしまいます。ところがお金にも権力にも全く興味がないイワンですから、悪魔の策略はことごとく失敗に終わります。

 逆にイワンに命乞いをする悪魔から金貨と兵隊が出る便利なからくりを手にします。欲のないイワンですからからくりで手にした金貨も、彼は、遊具・アクセサリーだと思っています。からくりで手にした兵隊は、ただ歌を歌ってくれるものだと理解しています。またまた兄たちに利用されますが、兄たちの振る舞いを見て、金貨も兵隊も人を不幸にすると分かったイワンは金貨づくり・兵隊づくりを兄たちに断ります。(中略)

 偶然な経緯があって、ある国の王様から娘(姫)をイワンの妻に…と望まれます。そこも権力欲のないイワンですから、よく解らないままに王室に婿入りします。王様がお隠れになった日(亡くなられた日)イワンはすぐに自分の王衣を脱ぎ、野良着に着替えて百姓仕事を始めます。妃もイワンに従います。目と耳が不自由な妹も呼び寄せます。しかし国民はイワンが馬鹿だと気付き、賢い人たちはみんなイワンの国から立ち去りました。いわゆる馬鹿な人たちだけが残ったのです。

 そしてお金は誰も持っていません。残った愚直な国民は王様に倣って、一生懸命に働いて自分も食べ、働けない人々にも食べさせます。それからも小悪魔たちの邪魔が入りますが、のれんに腕押しのようなイワン国の人々にお手上げ状態です。イワン国ではお金を貯える習慣がなく、互いに物々交換をしたり、労力でお礼をしたりして生活しています。それで何も困ることはなく充分幸せで満足しているイワン国の人々だから、悪魔が金貨をちらつかせても、何の反応もしません。やがて落ちぶれた二人の兄たちが頼ってきますが、やはりイワンは彼らを養っていきます。「私を養って下さい」と言う人がいれば、誰でもイワンは「よしよし、一緒に暮らしなさい。わしらの所には何でもどっさりあるから」…と受け入れます。ただひとつ、イワン国には習慣があります。手に“たこ”(仕事をすることで擦れる部分に出来た手の傷あと)のある者は食卓についていいが、“たこ”のない者は、人の食べ残しを食べなければならないという…。」

 この作品はロシアのトルストイによって書かれました。トルストイは伯爵家の四男として生まれ、何不自由のない生活でしたが、“人は何のために生きるのか”彼の中に深い迷いが生じてきます。周りの人々の貧しい環境を知るに従い、自分自身の豊かさに疑問と羞恥心を感じ始める。彼はその苦しみに対する答えを、自然科学や哲学の中に真剣に捜し求めました…が、何処にもその答えを見つけることはできませんでした。やがて彼は、真の安らぎは「神への信仰」の中にこそあることを悟ります。そしてそれは無学で貧しい素朴な、額に汗して働く農民や労働者の信仰の中にこそあることに気付き、自身も野に出て田畑を耕し農業に心を傾け、所有地に学校を開くなど、農民の子どもの教育にも力を注ぎ始めます(石田昭義氏のトルストイ略年譜を参照) 

 そんな環境の中でこの「イワンの馬鹿」は生まれたのでした。このイワンの生き方こそがトルストイの理想郷だったのでしょう。訳者の北御門二郎氏も「イワンの馬鹿」の生き方に心酔し、「…わたしはこの世に生がある限り、人類の理想郷である“イワンの馬鹿”のような村の実現に一歩でも近づくよう皆さんと一緒に歩んでいくつもりです…」と語っています。(北御門氏2004年死去)

 今回のコラムは、「イワンの馬鹿」の解説文のようになりましたが、作者であるトルストイ自身がイワンを理想としていた…という実像に触れ、私の中で、文学・哲学の神様的存在であった彼が、急に身近に感じられたことでした。私はこれまで、イワンのような愚直な生き方に心服している多くの賢者・識者がいることに、とても不可思議な気持ちをもっていましたが、彼らは未来を見通していたのだと思います。つまり長い歴史の中で人類は「権力とお金」に惑わされて奔走し、結果的に戦争・テロ・人種差別…等々を生み出してきた…。人類の真の幸せは権力でもなくお金でもない…。イワンのような無欲で無抵抗な生き方が示唆しているその魂と精神こそが、これからの人類に必要なのだ…ということを。

 「頭脳への理詰めなアプローチの結果としての智恵などは、イワンの智恵には、とても及びつかない…」と町田宗鳳氏も語っています。村上氏がいう「アホ」もトルストイが言う「馬鹿」も、学問は無いけれどその愚者の生き方の中にこそ真実があるのだ…と、最高の敬意と賛辞の気持ちをその語句で表現したかったのでしょう。そしてまだ足元にも及びませんが、私もしっかりと自分を生きながら、イワンのようなまっすぐな、愛に溢れる精神性を決して忘れまいと思いました。

 雨ニモマケズ 風ニモマケズ
 雪ニモ 夏ノ暑サニモマケヌ

 丈夫ナカラダヲモチ
 慾ハナク 決シテイカラズ イツモシズカニワラッテイル
 一日玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタべ(中略)

 東二病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
 西二ツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ
 南二死二サウナ人アレバ 行ッテコワガラナクテモイイトイヒ
 北二ケンカヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ

 ヒデリノトキハ ナミダヲナガシ
 サムサノナツハ オロオロアルキ

 ミンナニデクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ クニモサレズ
 サウイウモノ二 ワタシハナリタイ
  
 宮沢 賢治

*次回のコラムは6月20日前後の予定です。

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2018年4月20日金曜日

対人関係のポイントは聞く力にある

対人関係のポイントは聞く力にある
ピーター・ドラッカー
Column 2018 No.59

 ピーター・ドラッカーは、オーストリア出身の現代経営学の基礎を築いた人物で、“マネジメントの父”とも呼ばれており、ビジネスの世界に生きている人々でその名を知らない人はまずいないでしょう。没後10年以上たった今も、その理論は多くの経営者の模範とされています。彼がマネジメントの上で大切にしていたことは、社会・組織の中での「人間」という観点でした。特に人間関係に於けるコミュニケーションを大切にしており、次のように語っています。

話し上手だから人との関係は得意だと多くの人が思っている。
対人関係のポイントは「聞く力」にあることを知らない

過去のリーダーの仕事は「命じること」だが、
未来のリーダーの仕事は「聞くこと」が重要である

 書籍の中では「聞く」と訳されていますが、日本には「聴く」という漢字の語彙があります。彼の言いたい意味は、“聞く”というより、実は「傾聴」という姿勢に近いのではないか…と思います。「聴」と言う文字には、耳と目と心が合わさっています。それはまさに相手(顧客・来談者)のお話を聴くために非常に大切な三つの姿勢です。カウンセリングの場で私も大切にしている姿勢です。

 真摯な目線(まなざし)で相手の気持ちの動きを感じとり、相手が言わんとする事実をで正確に受けとり、私心を脇において、をいっぱいに開いて聴いていく…。すると不思議ですが相手は、徐々に自分の心をオープンにして、本当の気持ちを話してくださいます。…というよりも、相手が語りたい本当の気持ちが流れてくる…と言った方が近いかもしれません。

一般的に「きく」と言う姿勢には幾らか違う意味があります。
・聞く……相手が話している事実の内容を聞きとる
・訊く……相手のことに関して尋ねる 
・聴く……耳だけでなく、心とアイコンタクトを大切にしてハートで聴き取る

 まさに「聴く」という姿勢こそが、本気で聴く姿勢であり、他者を大切にした姿勢なのです。親業講座ではコミュニケーション能力を磨くために「聴き方」や「伝え方」の双方向コミュニケーション(コラムNo10)の方法・理論をお伝えし、訓練(練習)をしていきます。今回のテーマである「聴く」と言う側面は、双方向コミュニケーションのうち“相手を大切にする” 側面です。

私たちは聴く方法を教えられていないが故に聴くことが下手なのだ

 …と、「対話と説得の技術」の著者、ラルフ・G・ニコルス博士は語っていますが、真実だと思います。しかし…「私ね!話し方教室に行っているのよ」と言うことはよく聞きますが、「私ね!聴き上手になる勉強をしているのよ」…はあまり聞いたことがありません。ちなみにアメリカのある土地で「聞き方教室」という公開講座を開いたところ、時間になったが一人の出席者もなかった…という報告を耳にしたことがあります。今の社会では“人の話をよりよく聴けるようになる”…と言うことにはまだあまり価値を置かれていないようです。

 ずっと昔に読んだ、三國一朗氏の「話術~会話と対話~」という本の中に、興味深い一文がありました。「…女の人達が話しているのを聞いていると、小鳥たちが木の枝にとまってさえずりあっている、それと同じで、お互いに好き勝手に口を動かし声を出し合っている。その間に多少の情報のやり取りはあっても、要するに声の出しっこに過ぎません。相手の話を聞いているようには見えますが、本当は、相手の話が一段落するのを、今や遅しと待ち構えているに過ぎない。相手が一秒でも半秒でも話しやめたら、すぐさましゃしゃり出てしゃべり始める。そういう姿勢の連続ですから一見賑やかで楽しそうに見えても、決して会話と言うものではなく、小鳥たちと50歩100歩のさえずりくらべなのです…」

 …思わず笑ってしまいましたが、それぞれが勝手におしゃべりしていて聴く人が全くいない女性の集まり…私もよく出会う場面です。ドラッカー氏も言っているように、未来は“他者の話が本気で聴ける人”つまり“人を大切にし人を生かす能力のある人”が、仕事のパイオニアとなり真のリーダーになっていくのでしょう。また、家庭にあっては、子どもが話すことを親がしゃしゃり出て邪魔することなく、子どもが考えていることを、耳と目とハートで本気で聴きとっていく。それは子どもが自分の生き方に自信を持ち、真の自立に向かえる一番大切な姿勢なのです。

 親業の聴き方 (コラムNo12) を改めてご紹介しましょう。私の講座を受講下さったHさんの事例です。

思春期に入り、少し太っていることをとても気にしている長女。気分が不安定になると叫んで訴えてくる。

長女「あ~ん!すごい太っていやじゃ~!」
母 「太るのがいやなんじゃねえ…」
長女「もうこのおなかいやなんよ~!」(泣きながら…)
母 「いやなんよねえ…」
長女「もういやよ!私ばっかり太っとるけん!」(わ~ん!ベッドで伏せて泣く)
 ~母 沈黙…1~2分~ 長女、がばっと起き上がり
長女「腹筋するけん 足もって!」
母 「いいよ」

<気づき>
聴き方を学んだことで、沈黙することの大切さも知りました。何か言ってやらなければ…といつも言葉を捜していたことが、不自然だったり、余計なお世話に繋がっていたことに気付きました。子ども自身で解決する力があることを信じ、待つ姿勢を大切にしていきたいと思います。

 Hさんがおっしゃってる通りです。子どもは、自分の人生に関することは自分で考える力を持っています。考えを与えすぎると混乱してしまいます。子どもが感じていることを、ただそのまま受け取ってあげて、子どもが自分の人生から脱線しないように、聴くことで援助していくのです。勿論、自己表現(コラムNo11)も大切です。特にお母さん自身が自分の人生を充実していく為にはとても大切なコミュニケーションです。しかし子どもの真の自立は、親が本気で「聴く姿勢」なしには望めないのです。

あなたはいつも原因を訊いても、私の気持ちは聴かない
~邦画「幼な子われらに生まれ」の中の前妻のセリフ~

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と
答える人のいるあたたかさ
俵 万智

*次回のコラムは5月20日前後の予定です。

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2018年3月20日火曜日

その子なりの歩みを許された子どもは、輝いて自分の道を生きていきます

Column 2018 No.58

 ある精神科にお勤めの看護士さんがそっと呟いていらっしゃいました。「…病院に入っている殆んどの人が、子どもの頃からとっても真面目で、きちんと生きてきた人なんですよね…。悪ガキや若い頃に不良をやったというような人は、ひとりも入院をしていませんよ…」と。

 子どもは本来、天真爛漫でなかなか親の思うようにはなりません。そのように自由でのびのび生きていた子ども達が、なぜ委縮していってしまったのでしょうか…。ずっと以前になりますが、不登校をしていたS子さん(小5)にお母さんが訊きました。「どうして行けないの?」と。するとS子さんは答えたそうです。「私、もういい子でいたくないから!いい子をしておくのがとってもしんどいから…」と。S子さんは自分の苦しさに気づいて自分から不登校を選んだのです。

 いわゆる、いい子と言われる多くの子どもは、自分の人生を生きることから脱線してしまった子どもたちです。つまり、周りの人たち(親・家族・先生・友達…)の欲求を満たすことばかりを考えて生きてきたので、自分の人生の喜びや、わくわく感、つまり人生の体験・実感が極端に少なく、周りからは「いい子いい子…」と評価されながらも、S子さんのように、心の中に“何か違う!私じゃない!”と言ったような、もやもや感をもったまま思春期を迎えます。

 そして傷ついた子ども達は、自分軸を取り戻すために、思春期に、多くは問題行動を起こして周りと闘い、心のバランスを取り戻そうとします。いわゆる「反抗期」と言われる、とても大切な癒しの時代を迎えるわけです。反抗の噴出の出方には、外向型と内向型があります。外向型はいわゆる暴言暴力・怠学・夜間徘徊・家出・異性交遊…等々のいわゆる逸脱した不良傾向として表現してきます。内向型は不登校・過食拒食・心身症・鬱…等々、自分に籠る(内に向かう)という傾向で現わしてきます。表現は真反対ですが、いずれも育ちの上での心の痛みを癒さんとする、その子なりの心のバランスのとり方です。

 教師も私たち親も、実は“いい子”が大好きです。「人生は、おまえが考えてるような甘いもんじゃないぞ!」「遊んでばっかり、本でも読んだらどうなんだ!」「それはわがままと云うもんだよ!」「少しは人のことを考えたらどうだ!」…のような正論で、“いい子”の枠組みに嵌めていこうとします。それが強ければ強いほど子どもは、まんまとはまっていきます。教師や親が望む“いい子”像をあげてみましょう。

1. 素直で優しい子
2. 明るくて活発な子
3. 誰とも仲良くつきあえる子
4. 学校の成績がいい子(すべての科目が)
5. 何事にも積極的でしっかりした子
6. スポーツも得意な子‥‥‥‥‥‥‥等々

 こんな神様のような子供が果たしているでしょうか。でもいい子の罠にはまってしまった子は、必死でそのいい子の枠組みに入らなければ…とますます強迫的に思ってしまうのです。子どもの頃から決してこのような完成品は無いのです。子どもは色々な過ちを犯しながら、感じたり気付いたりしながら、ゆっくりと自分軸を育てていきます。自分が本当にやりたいことをやって、自分の欲求を適切に満たしながら、自己実現コラムNo15)に向かって徐々に成熟していくプロセスを、ひとり残らず取っていくのです。

道草は自己実現の王道である  河合 隼雄

何度も取りあげるフレーズですがまさに真実です。母親が「クラスの先生からお宅のお子さんは申し分ありません。忘れ物は一切しないし、勉強も友達関係も問題ありませんし、教師に反抗的な態度を取ることもまずありません。そして素直で優しくクラスのみんなに好かれています…と言われました!」と大満足をしているのですが、私はよく言います。「お母さん、子どもは完成品ではないのです。お子さんはかなり緊張した日々を送っていると思いますよ。出来るだけやりたいことをやらせ、言いたいことを言わせてください」…と。

 いわゆる“いい子”の枠にはまってしまっている子どもは、何でも完全にできなくては自分は駄目なんだ…と受け取っています。しかも失敗を恐れて、臆病・冒険をしない・試行錯誤をしない…といった特徴があります。いつも安全領域で生きています。よって、いつも周りを伺い評価を気にして、相手に合わせて生きることしかできません。つまり自分軸がとても脆弱です。大変ストレスフルな状態で生きています。…それが見かけのいい子の実像です。大人にとって“都合のいい子”を、私たちは無意識に“いい子”と定義づけてしまっているのです。

☆ 20世紀最大の物理学者、アルベルト・アインシュタインは5歳までしゃべれなかった。文字が読めるようになったのは7歳の時。学校はアインシュタインにとってはとても窮屈で、義務教育時代はずっと劣等生だった。

☆ 発明王と称えられたトーマス・エジソンは教師から「こんなに頭の悪い子は初めてだ!学校ではお引き受けできません」と言われ、中途退学を余儀なくされた。

出典:偉人物語(主婦と生活社)

 偉人といわれた人の中には幼少期は結構問題があった…という人は少なくないようです。それは学校や社会という枠組みの中で、本来の彼らの伸びやかな生命力や創造力が、押し付けられる常識や正論にはまり切れず、閉塞状態になり、いわゆる“いい子”の枠組みからはみ出した人々です。そしてその枠組みからすっかり抜け出た後に、彼らの本来の能力が輝き始めたのです。彼らは周りから急がされることなく、ゆっくりゆっくりと自分本来の使命を見つけていったのです。次はアインシュタインのフレーズです。

私の学習を妨げた唯一のものは私が受けた教育である

何かを学ぶ為には自分で体験する以上にいい方法はない

子どもはゆっくりと子どもをやる権利があります。本当にやりたいことをやって魂の喜びを感じる権利があります。試行錯誤し、失敗を侵す権利も、失敗をして落ち込む権利もあります。落ち込みを続ける権利も、這い上がる権利もあります。怒る権利も泣き叫ぶ権利もあります。それがその子どもの人生の体感であり、生きる実感です。

 しかし親は、なかなかそれが信頼できません。“いい子”をやってくれていると安心なのです。私も親ですからそれがよく解ります。親の描いた青写真からどんなに子どもが外れていようと、どれだけ子どもを信頼して待っておれるか…は子どもを育てる上での、親の一番の修行なのかもしれません。

ひきつった顔で最後に母は言う。あなたのためよ。
あなたのためなのよ。俺のためなら黙ってくれ
中2男生徒の川柳

*次回のコラムは4月20日前後の予定です。

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2018年2月20日火曜日

感謝の心が人を育て、感謝の心が自分を磨く

感謝の心が人を育て、感謝の心が自分を磨く
ステイーブ・ジョブズ
Column 2018 No.57

 「ありがとうございます」という感謝の言葉の深遠さは、聖人をはじめ賢者、知識人の多くが語っています。

全てのことに感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって、
神があなた方に求めておられることです。  
テサロニケ第1 5章18節

私たちを取り巻くすべての美、気付かれないような美に
感謝の心を持ちなさい。太陽の光、夕焼け、星々、雲、樹木、
そして人々に感謝の心を持ちなさい。
オショウ(インドの宗教者)

感謝の心が高まれば高まるほどに、
それに正比例して幸福感が高まっていく。
松下幸之助

 日本の「ありがとうございます」という“感謝の言葉”の意味合いは、英語の“サンキュウ”を含め、他のどの国の言葉にもきちんと当てはまるものが無い、と言われています。つまりいずれの外国語にも訳されないニュアンスを含んだ“感謝の言葉”なのです。

 「ありがとう」は漢字で書くと「有り難う」となり、意味は“有り難し”、つまり「今、あなた様に親切にして頂きましたが、あなた様のこのご親切は、決して当たり前に有るものではなく、有り難き(有ることはとても難しい)ことなのです。“有り難きことなのに、有り難きご親切、誠にありがとうございます”」…というのが“ありがとうございます”の本来の意味合いなのです。

 こう考えると、私たちの「ありがとうございます」という“感謝の言葉”には深い精神性とエネルギーが宿っているように思います。コラム52で感謝の奇跡を取り上げましたが、“有り難きこと”に感謝している人々にとって、その人に起き湧くことは、決して奇跡では無く、当然のことなのかもしれません。

 世界一過酷なモータースポーツ競技と言われるダカール・ラリーで、世界最多連続出場33回。世界最多連続完走20回…という二つのギネス記録を持つ、現在もなお現役の菅原義正氏(76歳)のメッセージです。

 「…僕は“感謝”という言葉を大切にしていましてね。スポンサーさんは勿論ですが、車や大地にも感謝しています。一生懸命走ってくれてありがとう!場所を使わせてもらってありがとう!…って。そうすると教えてくれるんです。この先もう少し行くと深い川があるとか、溝があるとか…。勿論自分がしっかり目を開けて周りを見ていないとダメですよ。感謝の気持ちをもって、よく観察していると、大地がそうやって教えてくれるんですよ。逆を言えば、感謝の気持ちがないと完走できない。必ずしっぺ返しが来ます…」(出典:月刊誌“致知”)

 菅原氏のこのメッセージが、まっすぐに私に伝わってくるのは、私自身これまで生きてきて、人・動物…は勿論、宇宙そしてすべての自然、すべての物体…等々にも実は“意識”があるのではないか…という確信に近いものを持っているからです。その存在に、私の心(意識)を向けて、愛の言葉を掛けたり、感謝の言葉をかけると、菅原氏と同様、確かに何かしら答えてくれた…という体験を幾度もしているからです。

 天才的なプロ野球選手であり、現在米大リーグ選手として目覚ましい業績を伸ばし続けているイチロー選手。彼がバッターとして立つとき、背筋をまっすぐに伸ばし、右手でバットを垂直に立てる…。彼のその動作を見ると、彼の次の言葉をいつも思い出します。

 「このバットの木は、自然が何十年もかけて育てています。僕のバットはこの自然の木から手作りで作られています。グローブも手作りの製品です。一度僕がバットを投げたとき、非常に嫌な気持ちになりました。それからは、自然を大切にし、作ってくれた人の気持ちを考えて、僕はバットを投げることも、地面に叩きつけることもしません。プロとして道具を大事に扱うのは、当然のことです…」

 バットを垂直に立て、そのバットを真摯に真っすぐに見つめる…彼のその特殊なポーズは、彼の“バットへの感謝の儀式”なのだ…と、私は受けとめています。感謝の思いや感謝の言葉には言霊(言葉に内在する神秘的な力)が宿っていると言われます。彼の、野球への無限とも思えるエネルギーも、そして業績も、レーサー菅原氏と同様、万物への敬虔な感謝の姿勢が底辺にあるからではないか…と、私にはそう思えるのです。

 最後に私の親業講座の受講者Yさんの事例を、ご本人の了解のもとにご紹介致します。

 「…講座から帰宅して、その夜、思い切って夫に、これまでの感謝の気持ちを伝えたのです(20年ぶりにビールのお酌もしたりして)すると、夫は大変驚いていましたが、翌日メールで“20年間の仕事や職場での苦労がすべて癒されたような気がしました…”と言って、とても喜んでくれました。夫への感謝のメッセージは…気恥ずかしくて、思ったことの半分も言えなかったのですが、こんなに喜んでもらえ、気持ちがストレートに伝わるとは…今さらながら驚くとともに、親業に出逢えてよかった!としみじみ思いました…」

素敵な夫婦関係の決め手は「ありがとう」のたったひとこと
斉藤 茂太


*次回のコラムは3月20日前後の予定です。

2018年1月20日土曜日

あきらめる一歩先に必ず宝がある

あきらめる一歩先に必ず宝がある
ナポレオン・ヒル
Column 2018 No.56

 私たちは、諦めたことで、如何に沢山の宝を見過ごしてきたことでしょう。“あきらめる一歩先”ですから、諦めてしまったら、そのわずか“一歩先の宝”には出逢えないまま…ということになります。トーマス・エジソンもその昔、同じ意味のことを言っています。

人生に失敗した人の多くは、あきらめた時に、
自分がどれほど成功に近づいていたか気付かなかった人たちだ

 私たちが諦めてしまうのは、一歩先に宝がある…ということを確信できないことに問題があるようですが、確信できない理由の一つは、実感のある“成功体験”が稀薄だったということがあげられると思います。その結果“自分は成功できるはずがない…”という強い“思い込み”が生まれて、うまくいかないと判断すると、すぐに諦めてしまう。その思い込み…とはいったい何でしょうか。こんな逸話(どうやらこのお話は事実らしいです)が記憶に残っています。

 「…本気で闘ったらどんな動物をも震え上がらせるほどの力を持った大きな象が、簡単な杭につながれたまま、サーカス場からまた新しいサーカス場へと移動していく姿。何の抵抗もしない。飼いならされたとはいえ、大きな木を根こそぎ引き抜ける力がある筈の象が、どうして逃げようとしないのか…。それは実は子象のときに、子象にとっては太く頑丈な杭に繋がれた。子象は逃げようと、来る日も来る日も、もがいてそしてもがいてみたが、ついに杭を引き抜くことは出来なかった。ある日子象は、逃げることは絶対不可能なんだとすっかり諦めてしまった。その日以来、簡単な杭に繋がれても“杭は絶対引き抜けない…”という観念(思い込み)が刷り込まれてしまって、大人象になっても再び挑戦をしようとはしない…」という物悲しいお話です…。

 私たちもこの子象と同じように、幼い頃から、失敗したこと(貴重な失敗体験)に対して、親や周りの人々から“あなたは未熟”“あなたは頭が悪い”“あなたは何をやってもダメ”…こんなニュアンスを含んだ言葉を投げかけられて育ったとしたら、実は事実ではないのに“自分は無力なんだ”…と思い込み、この子象と同じように、自分で自分の足を、頑丈な鎖で縛ってしまうのです。

人生において我々が囚われている鎖は、我々が生み出したものに他ならない
チャールズ・ディケンズ

 もう十分に心も身体も大きくなったのだから、もう一度踏ん張ってみたら、その鎖を簡単にもぎ取ってしまうことができるはずなのに“私は無力なんだ…”の思い込みが、無意識にブレーキを掛けてしまい、それこそ“宝の一歩手前”で諦めてしまうのです。思い込みは幻想だということに気付かないままに…。

 私たちが容易に諦めてしまうもうひとつの理由は“視野の狭さ”があげられます。今年のお正月は子ども達と共に、九州のハウステンボスで過ごしました。夜、皆んなで、久々に観覧車に乗ってみました。観覧車からは、美しいネオンに輝いたハウステンボス全体の光景を一望のもとに眺めることができました。“私たちが宿泊しているホテルはあそこだ!”“今見てきた所はあそこだね!”…高い所から視野を広げてみると気付かなかったことに気付きます。“あの道の方が早くいけそうだ”“あの道は行き止まりだね”…というふうに。視野が広がるとあの道この道と全体像がつかめるので、例え迷っても、簡単にあきらめる気持ちにならないものです。

 1980年代のアメリカ映画「いまを生きる」(邦題)の中で、赴任してきた教師役のロビン・ウイリアムズが、厳格な規則に縛られて、不自由に生きている生徒たちに伝えたメッセージが、とても印象に残っています。「さあみんな、机の上に飛び乗ってみろ!どうだ!机の上に乗るだけで世界は違って見えないか!」…
生徒たちは恐る恐る机の上にあがります。こうして次第に教師の感化を受けていった生徒たちは、窮屈な縛りの生き方から、徐々に自由な見方・生き方…に大きく目覚めていきます。

 “君たちは生きたい人生を生きる権利がある。広い視野で、意識をぐっと広げて物ごとを見れば、解決策はひとつではない。諦めるな!本当に生きたい人生を選んで生きていくんだ!”…ということを教えたのです。そして“少し離れた位置から自分を見たら、今いる自分の位置が明確になり、冷静に周りが判断できる。取るべき行動も見えてくる…” つまり自分を客観的に見る…ことの大切さをも、この教師は伝えたかったのだと思います。

 “自分を客観的に見る”ということは、自分はこんな事態に陥ると、どんな感情が起こり、どういった行動をとる傾向にあるんだろう…と、価値判断をすることなく、自分の中に起き湧く感情や行動の、事実だけを真っ直ぐに見る姿勢です(コラムNo7)。つまりそれが「自己理解」あるいは「自分を知る」ことに繋がっていきます。 自己理解が深まれば深まるほどに、自然や人間の在り方の摂理が理解でき、世界(選択肢)は無限に広がっていくでしょう。だから客観的に自分を見れる人は物事を簡単には諦めないのです。

 しかし、人生には“分かれ道”もあれ“行き止まり”もあります。人間の力ではどうしようもないこともあり得ます。その時、その状況を “人生とはそのようなものである”…と、そのままに受け入れてみる。それが“諦念”であり、単なるあきらめとは違います。諦念…を辞書で引くと「道理を悟る心、また諦めの気持ち」とあります。いかなる時も自分自身の勘を信じて、慌てず決して諦めず…突き進んでいくのか、一端立ち止まるのか、撤退するのか…を選択していく。その撤退は決して“あきらめ”ではなく、諦念であり、それは“道理を悟った”人の、深い智慧から生まれて来るもの…と理解しています。

人は常に前だけには進めない。引き潮あり、差し潮がある
ニーチェ

あきらめない! 一歩ずつ…
三浦 雄一郎

*次回のコラムは2月20日前後の予定です。