2016年2月20日土曜日

子どもの甘えを適切に受け入れる ~子どもが親を必要としたとき~

Column 2016 No.33

先週の講座で、受講者のDさんから「“甘やかしと甘えを受け入れる”の違いがよく分からないのですが…」という質問がありました。“甘やかし”と“甘えを受け入れる”の違いは世間一般にもかなり混同されています。子どもの真の自立にとって、大変重要なことなので、今月のテーマにしてみました。

 子どもが親を必要としたとき、どう係わったかは、子どもの人格形成の上で非常に大切なポイントです。深刻な社会問題を起こす子どもの背景に、親に“甘えを受け入れられた”という実感が、その子の中に極端に欠けていたという現実が多く存在しています。しかし事件後のインタビューで、専門家ですら“それは甘やかしの結果です”と一括りにして報道しています。事件によっては当たっている場合もあるし、多くは違う場合も多いのです。

 一括りの判断に危険性を感じるのは、子どもが一人の人間として自立して育っていく上で大切なプロセスである“子どもの親への甘え”までいけない…と多くの親たちが誤解してしまうと、大切な子どもの心は育たないからです。「甘やかし」と「子どもの甘えを受け入れる」ことの間には、はっきりとした違いがあります。わかりやすく言えば親中心の関わりなのか、子どもの気持ちを大切にした関わりなのかの違いです。その違いを私の観点から説明してみたいと思います。

 “甘やかし” の親は、子どもの今の心の位置は殆ど関知せず、親中心の考えで習い事をさせたり、洋服を与えたり、金銭を与えたりします。ある子どもが言いました。「家には、いっぱい物があります。でも僕が欲しいものは何ひとつありません…」と。子どもが求めていることには、関心を示さないのです。つまり甘やかしの親は、子どもが頼んでも来ないことを一方的にやったり与えたりするわけですが、子どもが何か求めてきたものには、多くは無関心な態度です。

 やがてそれらの子供(放任で育った子どもも含みます)が思春期を迎えると、多くは愛情飢餓と欲求不満を抱えているので、親に対しても横暴な態度を取ってきたりします。すると多くの親は子どもに屈服し、子どもが要求するものを、何の判断もなく与えるということも起こってきます。世間に迷惑がかかる行動をしても、親がそれを制する影響力も指導力もありません。また、子どもの心の痛みは必ずしも親に向かうとは限らず、社会に向けたり、或は、子ども自身の内側に向かうということもあります。心身症とか鬱…のような形で。

 一方、“子どもの甘えを適切に受け入れる”ことの大切さについて考えてみたいと思います。甘やかしとの違いは、親の視点が自分中心ではなく、子どもの今の心の位置・視点を大切にした接し方で、しかも、親自身の感性をも大切にした接し方です。つまり、子どもが親を必要としたとき、「NO」にしても「YES」にしても子どもに真摯に対峙していく姿勢を持っているということです。

 幼いころから子どもは「お母さん見て!」「お話し聴いて!」「これやって!」「これ買って!」と依存してきます。子どもにとってはまさに正当な依存なのです。そして甘えたい・注目してもらいたい…のサインである場合も多いのです。だから決して無視しないことが大切です。親を必要としているときには、ちゃんと見つめてあげてください。そしてお母さんがそのときやってあげられるなら、「いいわよ!」と無条件にやってあげていいのです。もし疲れているなら「ごめんね。お母さん疲れているの。自分でやってくれる?」と丁寧に断ってください。

 実は頼んでくる行動そのものが、自立の行動なのです。だから、やってあげたからといって自立を阻むという心配は全くないのです。むしろ逆ばかりだと、満たされないこだわりと欲求不満の感情を、子どもの心に残します。中学生の子どもが「お母さん麦茶!」といってきたら多くのお母さんは「中学生でしょ!それくらい自分でやんなさい!」と、つい蹴散らかすような言い方で断りませんか。実はお母さんは子どもの自立を心配しているんですね。

 もし子どもの自立を心配して、断わりたいのであれば「ごめんね。悪いけど自分で入れてくれる?」のように、やはり尊敬した言い方で断ってください。そして「助かったわ」とあとで伝えます。幼い子供であれば「ごめんね。ひとりでやってみて!お母さん、ここで見ているからね!」と言えば、多くは甘えの行動ですから、見つめてもらいながらならできるのです。そして「ひとりで出来たね!」と言って認めてあげる…。このように尊厳性をもって接するなら「YES」でも「NO」でも子どもには伝わりますし、決して自立を妨げることにはなりません。

 「北風と太陽」という有名な童話がありますが、とても示唆があります。旅人が自分でマントを脱いだのは、厳しい北風の力ではなく太陽の愛の力でした。同じように、子どもは北風に遭うと縮かむばかりです。“やらせ”の北風ではなく、黙って見守ってあげたり、時には気もちよく応じてあげる太陽のような愛情とおおらかさの中で、子どもの心はのびのびと育ち、自立へと向かえるのです。勿論、子どもの自立を援助するのは、こうした場面ばかりではありません。親と子どもの日々のコミュニケーションすべてが、子どもの自立に大きく影響を与えていきます。

 20数年も前、その頃思春期に入っていたKさんという娘さんが私に話してくれた深刻なお話です。(Kさんの連絡先が不明で打診がとれないので、事実に近い形ですが、幾らか形を変えています)Kさんは親思いのとてもいい子どもで育ちました。思春期を過ぎた頃から過食嘔吐が続き、衰弱が激しかったために入院。その頃、彼女はこう語りました。

 「…あの頃、病院にいた自分は、5歳くらいの子どもになっていました。母が恋しくて恋しくて、どうやったら病院から出られるだろう、母に会えるだろう…と5歳の子どもの頭で考えていました。手首を切ったら、母がすごく心配して飛んできてくれるかもしれないと、本当に手首を切りました…。

…確かに母は来てくれましたが、病院に文句を言って、私に“もうこんなことしないのよ!”とひとこと言うと帰ろうとしたので、私は必死で“お母さん一緒にいて!お願い一緒にいて!”と頼んだけど、母は“忙しいのよ!”とひとことを言って帰ってしまいました。私は必死で玄関まで追っていったけど、もう姿はなかった…。その時、本当に母は何もしてくれなくてもよかったの。ただお昼まででいいから、一緒に傍にいてくれて、リンゴの皮をむいて食べさせてくれて…。ふつうに私のこと構ってくれたらよかったの。そしたらきっと私、元気出たと思う…。でも期待した自分が馬鹿でした…」と。

 本当にKさんのやりきれなさが伝わってきて、胸がいっぱいになりました。お母さんは確かに忙しかったのかもしれません。でも命を張ってまで、親を必要としたこのひとときに、お母さんはなぜ気付いてあげられなかったのでしょう…。

 このように思春期は、これまで満たされなかった感情が、外向きや内向きに疾風怒濤のように溢れ出てくる時期なのです。それは、情緒が安定した、いい大人になる為の、親への“最後の甘え”です。親が子どもの悲しみを理解し、抑圧してきた不安や怒りの感情を理解してやりながら、まっすぐに子どもに対峙していけば、時間はかかりますが、子どもは必ず自分の軸を取り戻します。

 思春期挫折という、最後の子どもの甘えを受け取れず、親が逃げてしまったり、権力を使ったりすると、子どもは問題を抱えたまま大人を迎え、どこから来るのかわからない不安と葛藤との闘いで、一生を費やしてしまうことになるかもしれないのです。日常的な不機嫌、家族へのDV、アルコール依存、身体的なトラブル…等々。すべて満たされなかった甘えの、無意識の悲しいバランスです。

 Kさんの母親のように、私たち親は子どもの本当の気持ちを受け取れず、微妙にずれた対応をしてきたということはないでしょうか。しかし、今からでもいいのです。気付いたところから、子どもの心の位置にしっかりと気づいて、子どもの甘えを適切に満たしてあげたいものです。

“愛されている”という感情の持つ非常に大きい力…
それは心と体の成長を促し、心理的・身体的な障害を治す上で、
私たちの知っているものの中で、最も優れた治療効果をもつものである…
トマス・ゴードン(親業創始者)


*次回のコラムは3月20日前後の予定です。