2014年12月21日日曜日

感情抑圧は諸悪の原因です ~ 自分の本当の気持ちに気付いてあげることは愛に溢れる行為です ~

Column 2014 No.18

 ずっと以前のことですが、ある集いに参加した折、人間の感情についての話題になったとき、ある女性が「私はこれまでの人生で一度も怒ったことがありません・・・・」といった意味合いのことを言われたので、私はとても驚いて咄嗟に「Aさん、病気をなさいませんか」とつい聞いてしまいました。その方は即座に「はい、突然倒れたりして時々救急車で運ばれることがあります」と答えられ、そうだろうなあ・・・・と合点したことでした。

 人間をやっている以上、怒りを感じない腹を立てない人間はまずいないのです。怒りを抑え、腹立ちを抑える人間がいるだけです。そして感情の中でも特に強い感情である“怒り”とか“恐怖心”の感情を抑え続けてしまうと、必ずといっていいくらい色々な障害を生みます。これは心理学者、精神科医も証明しているところです。

 ある外国の精神科医による興味深いレポートを読んだことがあります。

 大地震、ブレーキが利かなくなったバス、ハイジャックされた飛行機・・・・など異常事態が発生したとき、そのトラブルにたまたま遭遇した人々(勿論、遭遇はしたけれど一命を取り留めた人々を対象に)心理的な追跡調査した結果の報告です。トラブルに遭遇した人々は一応に、心理的な大きなダメージを受けるので、その心理的外傷を癒す為に精神科医がそのフォローに当たります。その癒しのプロセスの興味深い臨床結果を報告したものでした。

 それによると、一番厄介だったのは、衝撃的なトラブルに遭ったにも拘らず、そのトラブルに平然と対処した人々のグループだったと報告しています。一方トラブルに遭遇したとき、取り乱したり泣き喚いたりした人々のグループは、興味深い結果ですが、最も立ち直りが早かった。それは恐怖の感情をその場で正直に感情表出したことが益となった。一方トラブルに冷静に対処し、下乗後も堂々とインタビューに応じたような人々は、数日後或いは数週間後に不眠を訴えたり、夜驚や徘徊行動などの異常な心理的反応を多く示したといいます。しかもアフターケアの長さは、トラブル後、不眠・夜驚・徘徊・・・等に伴う感情表出に至るまでの期間の長さに比例したと報告しています。

 この臨床結果からも、人は感情表出によって精神(心)の状態のバランスをとっているということがよく理解できます。自分の感情に正直に対峙せず、感じない振りをしたりごまかしたりすると、感情は昇華されないまま抑圧され、結果的にその人の身体的なものに、或いは生き方に微妙に悪影響を及ぼしていくのです。

 尤も人間は実に絶妙にできていて、抑圧したネガテイブな感情を無意識ですがさまざまな形でバランスをとっていきます。健康上のトラブルで抑圧感情を表出していくことは勿論ですが、不機嫌・短気・逆上・・・など別の感情でバランスをとったり、癇癪・人を責める・DV・物に当たる・・・のように攻撃的傾向で表出している人もあります。過食・拒食・アルコール依存・薬物依存・恋愛依存・・・等々の依存的傾向でバランスをとる人もあります。またかげ口・悪口・噂話など正当化でのバランスもあります。

 もっともこれらの多くはカウンセリングの場面で接したケースで、生育歴に端を発している場合が多く、皆“いい人”をやってきた人達です。耐えて我慢して、他者の人生のために自分の人生を犠牲にしてきた人達です。怒りの感情も不安の感情も感じないふりをしないとやってこれなかった。程度の差はありますが、幼い頃から喜怒哀楽の感情を抑えることが日常的だったのです。

 しかしカウンセリングの場で、自分を語ることを通して、ご本人が自分の生い立ちを理解し、そして許し、徐々に自分の今の感情にきちんと対峙できるようになるに従って、健康になっていかれるケースを沢山見てきました。

 怒りの感情も恐怖の感情も、正当な感情です。親業ではネガテイブな感情もポジテイブな感情も同じ位置で大切に考えています。本当に怖いとき、怖がる自分を許し「怖い!」という感情を受けとめてあげるから情緒が安定するのです。また不安や恐怖心があるから、あなたは危険な場所や猛獣に近づかないのです。実はネガテイブな感情はあなたを守ってくれているのです。

 ただ、あなたを圧倒するほどの不安・恐怖は減らしてあげないと、生きづらくなりますよね。そこで親業では人間関係を壊さない形で怒りの感情を表現する方法を学びます(コラムNo11No12参照)しっかり感じてあげて気付いてあげて、表現したいと思うことは表現し、心の中で整理できるものは整理して、そしてあとは果敢に手放していく・・・・。感情もエネルギーですから感じてあげたらあとは流してあげる方がいいのです。

 このプロセスこそが真の癒しなのです。感情は生きています!あなたの子どもです。愛して大切にしてあげてください(コラムNo1No9参照)

ネガテイブな感情も優しく見つめてあげて下さい。
それを味わうために人として生まれてきたのだから
日木流奈

“しかし感じることは難しいですよね”と多くの人が言います。「アミ 小さな宇宙人」という本の中で、宇宙人のアミはこう言っています。

頭で何かを考えることを少しやめて、
胸に注意をするようにしてごらん。
そうすれば多分感じることができるよ!


*次回のコラムは1月10日前後の予定です。

2014年12月1日月曜日

チャンスはピンチの顔をして近づいてくる

Column 2014 No.17

チャンスはピンチの顔をして近づいてくる
                                        - 武田双雲 -

 「チャンス」という言葉を聞くと私たちの多くは“よい機会”いわゆる“好機”と捉えて理解していますよね。諺にも「チャンスは前髪をつかめ!」というよく知られたフレーズがあります。「チャンスが来たぞ!と思ったら迷わずに、手を伸ばしてその前髪を掴みなさい!チャンスには後ろ髪がないから見過ごしたら、もはや掴むことはできないよ」という意味であり、要は“好機は逃すな”という警告でもあります。何だかユーモラスですよねえ・・・。

 ところが双雲氏は「・・・自分の前に、壁が立ちはだかって、“もう駄目だ”と思ってしまうとき、僕はチャンスだと思うようにしています・・・」と述べています。

 この種類のチャンスは、私を含めて多くは、掴むどころか恐らく逃げ出したくなるのが本音でしょう(笑)しかし年齢を重ねるに従って、彼が言わんとする「ピンチこそチャンス」の意味が真実だと理解できるのです。
 あのピンチがあったからこそ今の自分があるんだなあ・・・・と。

 しかし、双雲氏の言う“ピンチの顔をしてやってくるできごと”に、“これはチャンス!だ”なんてすぐにはとても思えないし、多くはそのできごとに圧倒されて、焦り・不安・自信喪失のなかで、この環境を制する(逃れる)ためにできることを必死で思い巡らし、戦いもがき、逃げたり隠れたり・・・(笑)

 しかし、その苦しいできごとからどのように逃げても隠れても何の解決にもならず、対峙せざるをえない破目にやがては陥ります。そして自分の中にあった底知れぬ 恐怖心や弱さ、愛の不毛、罪悪感、小賢しさ・・・・に、はからずも出逢うことになるわけです。しかし色々な感情に翻弄されながらも本気で対峙し始めたときから、問題は徐々に解決に向かい始め、さまざまな感情も徐々に“諦念”の域に達し、自分をあるがままに許していくプロセスに気付くことで、再び小康状態が訪れる・・・。

 ここに至ったときにあらためて、致命的だと思っていたそのできごとが、私のそれからの人生の可能性にギア・シフトしてくれたかけがえのないチャンスだったんだなあ・・・とやっと確信できる。苦しみもだえ、自分の中の弱さや醜さに出逢い、その痛々しい体験を通して自分の中に新しい視点が生まれてくる! 言葉にするにはとても難しいのですが、魂の皮がひとつ“くるっ”と剥けたような感覚・・・・。自分への視点が変わり、同時に他者への視点も変わる・・・・。ひとことで言えば愛の感覚がちょっぴり深まったような・・・。

 そうかといってやはりピンチは怖いし、できることなら引き寄せたくはないけれど、しかし「人生は即ち学び」だとしたら、自分の成長にとって必要なら、無意識を含めて私の魂はピンチを引き寄せてまでも、学ぼうと覚悟をしているのかもしれない・・・・。
 ある賢者のことばが、今の私にはしみじみと理解できます

たましいを脅かすようなできごとは、何ひとつあなたの人生には
起こりません。ほんとうに、人生のすべての体験は目覚めをうな
がしてくれます。たましいの成長に役立たないものは
何ひとつありません

最近受講者のAさんから頂いた手紙の一節をご紹介します。彼女の上に、ある大変苦しい出来事が起こり、もがき戦って・・・・そして得られた彼女の今の心境です。「・・・・人生には一点の無駄もないんですね。あのときの私の選択を、あとであれは間違っていた・・・と言ったり思ったりしたけれど、まさに適切な最高の選択だったのだと、今は思うのです。他者を傷つけたり、他者に傷つけられたことを含めて・・・・。私はそこから学んだのだ。気付いたのだ! だから罪悪感は一切要らない! 罪悪感を持っていると前に進むことができませんものね・・・・。」

 この方も、ピンチをチャンスに大きく生かした人です。こんなに深い気付きは、多分幸せの中からは生まれてこなかったでしょう。逃げず隠れず、ピンチにきちんと対峙して、戦ってもがいたあかつきに得られた深い気付きです!この気付きは彼女のこれからの人生を大きく変容させていくことでしょう。

 彼女は、自分を大切に、自分に正直に人生を楽しんで生きている人なので、こんなピンチからも逃げず、まっすぐに対峙でき、そしてそこから学べる人なのです。楽しめる時には人生思い切り楽しんで、エネルギーを絶えず蓄えておくことは、自分への大きな愛だと思います。私も学ばせていただきました。


*次回のコラムは12月20日前後の予定です。

2014年11月11日火曜日

すべきことよりやりたいことを! ~人間関係講座(親業)~

Column 2014 No.16

 ある日レストランで食事をしていたひととき、かなり年配の女子会風のグループがあって、賑やかに会話が弾んでいました。何か興味深い話が飛び交っている様子なので、つい耳を傾けてしまいました。

A婦人
「女の人生って哀しいと思わん? 夫に尽くして、子どもを育てて、子育てがやっと済んだと思うたら、夫の両親の面倒を看んといけんじゃない。夫に尽くして子どもに尽くして、姑の面倒を看て・・・・気付いたらもう58歳よ! あ~あこんなに哀しいことってある? 今になって凄い悔しい気持ち! 10年が100万円で取り戻せるんだったら買い戻したい気持ちよ!・・・・」 

B婦人
「でもねえAさん! 10年後には68歳じゃろう。また同じことを言うんじゃないの?悔しい!10年を100万で買い戻したい・・・・言うて」

A婦人
「そうかもねえ・・・・。ほんと・・・。おんなじことを言うんじゃろうねえ。ほんとじゃわあ! 何とか今を充実して生きていかんといけんねえ・・・」

 こんなやり取りを聴いていて、同じ女性としてとても深い共感がありました。A婦人の哀しみがしみじみと伝わってくるような思いでした。そしてB婦人のメッセージ(助言)がA婦人に深い気付きをもたらした様子に、女子会パワーの威力を感じたひとときでもありました。

 家庭と言う狭い社会の中で、夫や子どもの世話・・・・。掃除・洗濯・買い物・食事作り・親戚や学校関係・近所との付き合い・・・・等々。それらを毎日必死でこなして生きてきたのがこれまでの多くの女性でした。現在は女性も多く社会に進出して、状況はかなり違っては来ましたが、しかし家庭における諸々の負担は、まだまだ女性に懸っているのが現状です。
 家庭を守り子どもを育て上げたあかつきに、ふっと我れに返ったとき、A婦人のように、充実感よりもぽっかりと開いた心の空洞を感じている女性は意外に多いのではないでしょうか。

人がとるべき責任ある行動は、ただひとつ。自分が心から
したいことをすることである。それが人生で最も責任ある
行動であり、その人が負う最高の責任である。
~マイク・マクマナス~

親業は「自分業」とも言っています。マクマナスが言っていることは親業の大切にしている精神でもあります。それは決して家事や育児を放棄することではなく、主体性をもって家事をし、主体性をもって子育てをし、主体性をもって人間関係を組む! 主体性をもって生きると言うことは環境や人間関係に流されるのではなく、自分を大切に、自分の気もちに正直に日々を重ねていくということです。つまり「自分軸」を失わないで家事をし、子育てをしていくことです。

 例えば、日々の流れの中に、自分だけの時間をどこかに盛り込んでみる・・・・。ときには家事の手をちょっと抜いて、自分の心が喜ぶことを思い切ってやってみる・・・・。行きたい所に行ってみる 体が喜ぶものを食べに行く 会いたい人に会ってみる 自然に触れてみる 思い切り無邪気に遊んでみる・・・・等々。それは子育て真っ最中であっても「自分軸」さえあれば不可能ではありません。

 「自分軸」を育てることは急務です。なぜならメディアを通しての情報が氾濫している今の環境の中で、自分軸がなかったら、気付かぬ間にメディアのロボットと化し、本当の自分が掴めないままに一生魂の放浪をすることになりかねません。特に今の子どもたちは心配です・・・・。間断なく与えられる外からの刺激は成長期にある子どもは勿論、私たち大人も知らず知らずにエネルギーを消耗し、自分を見失い、精神状態に不安と混乱を招きかねません。

 また価値観もとても多様化しています。
 例えば「朝食は抜いてはいけない・ぬいた方がいい」「玄米は体に非常に良い・玄米は胃に負担をかける」「水は一日2リットル飲むといい・水は過ぎると水毒になる」「泡洗顔は皮膚に一番負担がない・泡洗顔をやめるだけで綺麗になれる」・・・・等々。
 実は情報の中にも単に奇をてらうだけの発信がけっこう氾濫しているように私には思えてなりません。自分を理解し、自分の欲求を探り、自分の感度を信じて情報の選択をしていかない限り、情報に流されて自分を見失い、本当にやりたいことがいつまでも見えて来ない危険性もあります。

 もちろん私自身もネットで情報を探したり買い物をすることはあります。しかし私は基本的にある信念をもっています。それは「すべて自分に必要な答えは自分が持っている。探し回らないでも、自分に必要な情報は、内からも外からも必ずやってくる・・・・」と・・・・。それはふっとしたひらめきでやってきたり、人々との出会いや、ときにはわが子らのひと言から。あるいはふと見開いた書籍の一文から・・・・等々。

 もっとも、「自分軸」をもって生きている私のまわりの人たちの多くは、過度なメデイア依存はなく、適度な節度をもっています。それでもやはり、時々はネットサーフィンの手をちょっと中断して、脳を少し休めて、自然の中で、あるいはお好みのカフェで・・・・ひとりになって、ゆったりと「自分サーフィン」をしてみることは素敵だと思います! 不思議ですがそんな場面で、本当は何をやりたい自分なのか・・・の答えがふっとやってきたりします。

自分を感じ、自分と語れる人こそが、
心理的に本当に健康な人です。
~トマス・ゴードン(親業創始者)~

それは「自分軸」をさらに力強いものにしていくポイントであり、本当にやりたいものが見え、確実に自己実現へのステージに繋がっていくつまり秘法でもあるわけです。


*次回のコラムは11月30日前後の予定です。

2014年10月20日月曜日

道草は自己実現の王道である

Column 2014 No.15

道草は自己実現の王道である
                        - 河合隼雄 -

 「道草」とは名のとおり、道に生えている雑草のことですね。
 子供時代、登校するとき玄関で母が「道草しないで帰るんですよ!」とよく言ったものです。よって“道草をする”ということは家にまっすぐに帰らず、途中で友達の家に寄って遊ぶとか、公園で缶蹴りをしたりかくれんぼしたり、虫を追って山に入るとか、基地のような秘密の場所で過ごすとか・・・・。

 私たちの幼い頃の「道草」はハラハラどきどきと冒険に満ち満ちたものだったのです。夕日が落ちる頃になって我が家にたどり着くと「どこで道草を食ってたの!」と母から大いに叱られるはめになるわけです。“道草を食う”。昔から慣用的に日常の会話の中にしばしば使われていました。何だか詩的で情緒あふれる表現だと思いませんか!

 さて河合隼雄氏(ユング研究の権威)のこのフレーズは、“道草をすることは、人が「自己実現」に至る為に必要な秘法つまり錬金術である”という意味合いになります。

 子供が、何もしないでぼんやりしているひとときや、親からみれば意味のないことに没頭していたり、学校に行けないで家に籠もっていたり、無気力だったり、反抗したり、心配な友達とつきあったり遊びまくったり・・・・・これも立派な道草です。自分を見つける為に道草をくっている、まさに自己実現への秘法・錬金術を生きていると言うわけです。

 「自己実現」という表現はアブラハム・マズロー(米国の心理学者1908~1970)の造語で、潜在的なものを含めて、人はすべて愛に溢れた高次の自分に統合したいという自己実現の欲求を持っていて、それに向かって生きていると述べ、「欲求の五段階説」というオリジナルな提唱をして心理学会に大きな影響を与えました

 彼が言う「欲求の五段階説」というのは、人は誰でも基本的欲求つまり、生存欲求(第一段階)/安心・安全欲求(第二段階)/愛情希求と所属の欲求(第三段階)/達成の欲求(第四段階)/を持っていて、低次の欲求から段階的に正直に満たしていくことで、最終的に高次の「自己実現への欲求」(第五段階)へと向かっていく存在であると述べているわけです。

 つまり人は誰一人洩れることなく、自分自身に挑戦して自己実現に向かうべく、なれる可能性にあるものになろうとして命を懸けて精一杯生きている存在なのだとマズローは言うわけです。第四段階は自分の目標を達成したいというかなり高次の欲求ですが、その段階に進む準備がまだ出来ていない場合には、例えばその前段階の愛情希求の欲求を果敢に満たそうとします。そして社会人として社会や人々と繋がりたいという欲求へと続きます。

 社会に順応できにくかったり、人とうまく繋がれないと、とりあえず撤退して家に籠もる状態をやることもあり、また夜な夜な出ていって、とりあえず気持ちを発散する状態をやっている子どももいます。また“毎日が生きづらい”“友達とどう付き合っていいのか分からない”“勉強に本気で向かえない”“クラブ活動の人間関係が苦しい”“入試に本気で臨めない”“何がやりたいのか分からない”・・・・・等々。達成の欲求段階に向かう前準備に手こずっている若者は沢山います。多くの親御さんはこの状態に焦り、何とかしようと、うるさく言う、つまりプッシュすることで子どもの問題の解決を試みますが、効果はないはずです。

 もしかしたら第三段階の前の、第二段階の安心・安全の欲求が満たされていないのかもしれません。ご両親が仲良くなられることだけで心が安定し、動き始める子どももいます。「家庭内環境」も自己実現への道程に無関係ではないのです。

 カウンセリングでご縁のあった子どもですが、「不登校」という道草を4~5年やってやがて精神科医になる夢を果たしたというケースがあります。不登校という選択をし、時間をかけて道草を食べながら、満たし切れなかった第二段階・三段階の欲求を果敢に満たし、第4段階に向かうべくエネルギーと栄養をしっかり蓄えたのです。

 子どもの今の状態が、親にとってはとても心配だったり苛々したり悩みますが、子どもは自分にとって必要なプロセスを本能的に知っていて、色々な形でそれを満たしていこうとします。実は人生を通して何ひとつ無駄はないのだなあ・・・・と思えてなりません。親ができることは「マズローの法則」に当てはめて考えるなら、子どもが無意識に行動しているその背景にあるその子の充足したい欲求を、できる範囲でうまく満たしてあげることがとても大切に思います。

 しかしそれができる為には親自身が、ある程度満たされているか否かが大きく影響します。親自身も、満たせてこなかった基本的欲求を果敢に満たすべく、人生をかけて体験・冒険(道草)をしていくことはとても大切です。“もう歳だから・・・・”はやめてしっかり道草を食べていきませんか! “歳だから失敗はできない・・・”なんていう弱腰もやめましょう! 冒険には失敗はつきものです。前コラムに取り上げた曻地三郎氏に私は生きる元気をさらに頂きました。生きている限り夢を見失うまいと・・・・!

もっと遠く飛ぶための後退!
- ユング -

冒険に伴う失敗も挫折も、自己実現に向かうための尊い布石!
時にはしっかり後退して助走をつけ、恐れず何度も跳んでみませんか! 
お互いに!


*次回のコラムは11月10日前後の予定です。

2014年9月30日火曜日

Go ahead!前進また前進!

Go ahead! 前進また前進!
                        - 曻地三郎 -

Column 2014 No.14

 100歳を直前に迎えられた頃の曻地三郎氏(養護学校・しいのみ学園園長)のメッセージです。もしご存命であればおそらく110歳近くになられておられるはずですが、ネットがうまく繋がらずご存命か否か不明のままです。

 5~6年前に求めて読んだ、彼の「ただいま100歳~今からでも遅くはない~」(致知出版)を再び手にとってみて、今回のコラムはまず曻地三郎氏のことを主に書いてみたいと思いました。

 本の表紙の帯に書かれていた曻地氏の“100年生きてつかんだ生き方の秘訣 各世代に送るメッセージ”を抜粋してみましょう。特に40代以降の人に送られているメッセージには目を見張るものがあります。

40代   最も花の咲く時期。勝負せよ。
50代   人生の最高のとき。50代は人生の花道。
60代   飛躍のとき。自分の学問・実績を広げよう。
70代   70くらいで屈してはならない。自分を鍛えよう。
80代   駄目だと思ったら駄目になる。半分の40代の積りで頑張る。
90代   今からでも遅くはない。
100代  Go ahead! 前進また前進!  

 人生を極めた人の言葉は身にしみ、 実に勇気を与えられますね!

 曻地氏は長男・次男さんとも小児麻痺だったことから、全財産を投じて「養護学校・しいのみ学園」を創設されました。養護学校が日本にはまだ1校もない時代でした。100歳にしてなお現役の園長です。

「私は人生で何度も失墜し、“隠遁したい”“もう死んでしまいたい”とまで思いつめたことも何度かありました。しかし人生は戦いである!負けては駄目だ!と気持ちを持ち直しては人生を戦い抜いてきたのです。」

 Go ahead! 前進また前進! 曻地氏は絶えずご自分に負荷を掛けながらの懸命な生涯だったのです。

「私は100歳のいまも毎朝ラジオの語学講座で中国語と韓国語を学んでいます。100歳でも中学3年生のような気持ちで勉強をしています。毎日が前進です。」 

 彼の場合、いわゆる単なるボケ防止の為の学びではなく、韓国と中国に養護学校を創る夢を果たしたいがためなのです。すでに実験的には早くから進められており「・・・・・これが私の百歳の仕事です。勿論自分で陣頭指揮を取ります・・・・」 百歳にしてこの広大なる夢!!

 そして驚くことに、100歳になられても2時間もの講演を立ったままでされるとか、階段も手すりを持たずにすたすたと上り下りなさっているとか! いわゆる奇跡の人です! 曻地氏のその根性と生き方には、ただただ敬服・感服以外にありません。

 そんな折も折、近くに積んでいた ひろさちや氏(仏教伝道者)の“がんばらない がんばらない”という書籍のタイトルが目に飛び込んできて、あまり頑張れないでいる今の私をほっこりと包んでくれたような気持ちがして・・・・・苦笑したことでした。

 そう! 頑張れないことがあってもいいのだ。息を抜いて緊張した体と心をグッとゆるめてあげることも大切なのではないかと・・・・。自分の心と体のリズムを理解しながら、今を正直に大切に生きていこうと・・・・。曻地氏も、休息しご自分をそっとあたためてあげられるひと時はきっとあったであろう。心の温かさが伝わってくるようなお人柄だから・・・・。

Go ahead! 元気が出たら前進だ!人生は君次第だよ!

いささか停滞気味だった私の心情に、曻地氏の人生哲学がこんなエールに聴こえて、魂が再び喜び、躍動したひとときでした。


*次回のコラムは10月20日前後の予定です。

2014年9月10日水曜日

あなた自身が自分のために生きるのでなければいったい誰があなたのために生きるのでしょう。そして今、生きるのでなければ あなたはいつ生きるのですか

あなた自身が自分のために生きるのでなければ
いったい誰があなたのために生きるのでしょう。
そして今、生きるのでなければ あなたはいつ生きるのですか
~バビロニア経典~

Column 2014 No.13

 私たちは幼い頃から周りの大人から「わがままはいけません」「親の言うことは聞くものです」「人から頼まれたことは断ってはいけません」等々。自分よりも他者のために生きることが大切である・・・・ということを潜在的にたたみ込んで大人になってきました。

 しかし親業の人間関係講座では

☆ あなたの人生の主役はあなたです
☆ 欲求充足こそが人生の目的です

と謳っています。しかし多くの女性にとっては、気付いたら夫の脇役で生きていたり、子どもの人生に命を賭けたり、第三者の評価を気にしたり・・・・で、自分の人生の主役になり切ることはなかなか難しいようです。しかし誰かの脇役で生きるということは、多くは、生きている実感がないから、わけのわからない不安や不満、恐怖心を抱えて生きる羽目に陥ってしまいます。

 そしてひとりのその不機嫌な波動が実は、子どもや家族・社会の混乱に影響を与えていくのだ・・・・無関係ではないのだ・・・・ということに気付いている人はどれだけあるでしょうか。

 世界を見渡せば私たちの身近な国々においてさえ、21世紀になった現在もなお、終わることのない憎悪と積憤の連鎖が繰り返されています。そして貧困、環境汚染、環境破壊、核の脅威・・・・等々 私たち地球世界には問題が山積みです・・・・。そこだけを見ていると解決の糸口も掴めず、絶望感に打ちのめされてしまいそうです。

 もう、私たちひとりひとりの思考と視点を本気で変えることしか解決の道はないのではないかと今しきりに感じています。最近読み終えた「引き寄せの教科書」の著者、奥平亜美衣氏は

自分が幸せになるしか世界を変える方法はない!

 と喝破しています。まさに大共感で、私には膝を打つ感じがありました。私自身も常にそう信じ、講座でもお伝えしているからです。


 さて最近、知人からの情報で久々に映画館に足を運びました。タイトルは「マダム・イン・ニューヨーク」インド映画です。ごく普通の主婦である女性が勇気ある一歩を踏み出して、コンプレックスから立ち上がり、一人の人間としての誇りと自信を取り戻し、自立していくストーリーです。

自信と誇りを取り戻した彼女は言います

「ありがとう!自分を愛することを教えてくれて!」

 そして自分への愛は、さらにまわりへの愛へと広がっていくのだということを彼女の次のメッセージは示唆しています。

「・・・・相手との折り合い方を見失ったとき、そんなときこそ自分で自分を助ける時よ! 自分を愛し大切にすることは、あなた自身が一番うまくできるはず。そしてそれができたら再び相手と対等だと感じられるようになれるわ・・・・。」と。

 自分を真に幸せにできたひとりの女性のこのメッセージの中にこそ、世界を変えていける答えがあるような気が私にはしきりにするのです。自分を愛している容量でしか他者への優しさとか思いやりは決して表せないのだから・・・・。

 私たちひとりひとりが自己否定をやめて、自分を許し自分を愛して、納得できる自分の人生を果敢に創造していく。つまり一人の人間として自分の軸をもち、決して一般論に流されるのではなく、自分の感度を信頼して選択していけるようにひとりひとりが自立していく・・・・・。

 自分を愛し、自分の感度を信頼して生きるこうした自立した人々こそが、やがて必ずや民族の共存・共栄、人類を真の平和へと確実に導いていける人々なのではないかと・・・・。


自分自身を愛することができないうちは 他人を愛そうと
しないでください。それはできない相談です。
~ポール・フェリーニ~


*次回のコラムは9月30日前後の予定です。

2014年8月20日水曜日

コミュニケーションの基本「表現力」と「共感力」(その3) ~共感力は相手の真の自立を助けます~

Column 2014 No.12

 市内の電車の中で二人の婦人の会話が耳に入ってきました。

A婦人 「私ね、この連休に東京に行ってきたのよ!」
B婦人 「私は岡山の美術館に行ってきたの!」
A婦人 「東京ってやっぱり都会よねえ!活気があるし見たいものはなんでもあるし!」
B婦人 「美術館で私は久々に心が洗われたわあ!」
A婦人 「都会ってやっぱり洗練されてていいよ!」
B婦人 「あなたってさっきから都会都会って言ってるけど、地方には地方のよさがあるんじゃない?都会コンプレックスじゃないの?・・・・」
A婦人 「・・・・・・・・・」
B婦人 「・・・・・・・・・」

 ざっとこんな会話でしたが、どうやら二人の会話は途中で止まってしまい、気まずい雰囲気が漂ったようでした。こんな会話って結構多いと思いませんか。相手側の発言を聞いているのかいないのか、お互いに自分の言いたいことだけを言い放っています。

 もしこの会話が次のようであればどうだったでしょう。

A婦人 「私ね、この連休に東京に行ってきたのよ!」
B婦人 そうなの!東京に行ったんだね・・・。実は私は岡山の美術館に行ってきたのよ!」
A婦人 そう!美術館もいいよねえ。東京もなかなかよ。活気があるし見たいものはなんでもあるし・・・」
B婦人 そうね!さすが東京よね。それでどこに行ったの?」
A婦人 「うん、六本木あたりを散策したのよ。楽しかったよ!・・・・ところで美術館はどうだったの?」

 このような会話の運び方が実は、共感(親業では能動的な聞き方)をベースにした自分も相手も大切にしたコミュニケーションです。この流れの会話であれば、B婦人の「・・・・都会コンプレックスじゃないの?・・・・」のような皮肉っぽいメッセージは決して出てはこなかったでしょう。

 次の例は保健師(Mさん)と82歳の老婦人(Kさん)の会話です

Kさん 「こんな体になって、早くお迎えが来なくてはいけません」
Mさん 早くお迎えに来てほしいんですねえ・・・・・・・・共感
Kさん 「早く死ななきゃいけません」
Mさん 死にたいようなお気もちなんですねえ・・・」・・・・・・・・共感
Kさん 「みんなに迷惑をかけているから死んだ方がいいの」
Mさん みんなに迷惑をかけていると思うから早く死んだ方がいいと思うんですねえ・・・・・・・・共感
Kさん 「そうなんよ!・・・・でも死にたくないよ!死にたくないんよ!」
Mさん 本当は死にたくないんですねえ・・・」・・・・・・・・共感
Kさん 「うん・・・」
Mさん 「そうね。お迎えが来るまではちゃんと生きとかんといけんのよ!Kさんの世話をするのはみんな嫌じゃないんよ。ご飯をいっぱい食べてみんなを喜ばせてね」・・・・・自己表現
Kさん 「はい!」

Mさんの感想:
何度もKさんに会っていますが「死にたくない」という本音を聞いたのは初めてでした。共感をもって能動的に聞くということは、無心になってその人の思いをそのまま受けとめることなんだと思いました。ごまかしたり慰めたりするのではなく、相手のそのままの気持ちを丸ごと受け止めることなんだと知りました。無心に聴くことで相手が結論を出すことをお手伝いできるのです。

***********

共感的コミュニケーションのポイント

☆ 相手が言ったことを黙って聴いたり、あいづちを打ちながら聴く
☆ 相手が言ったことをそのまま繰り返してみる
☆ 相手が言っているその背景にある気持ちを汲んでみる

 これは簡単なようですがやはり練習が必要です。
 特に子どもを育てている親御さんは、子どもを自立させるためには何はともあれ共感力が要ります。親の考えを受け入れ過ぎて自分の人生が生き辛くなっている子ども達をあまりにも沢山見てきました。

 子どもが今考えていること、またその子の心の中におき湧いている嬉しい気持ち、悲しい気持ち、つらい気持ち、悔しい気持ちをそのままに受け止め、共感力で受け入れていく。すると感情が発散でき、その子の中にある混乱が自然に整理できていくのです。

 そして見失っていた自分を取り戻していけるのです。気持ちが整理できたら、やがてその子の中からその子なりの答えが必ずやってきます。またその答えで生きさせてみることが、その子どもの真の自立へのプロセスに大きく繋がっていくのです。

 多くの心理学者や精神科医は研究の結果次のように言っています

当人の考えた解決策に従わせることが一番信頼できる。
当人の人生において彼の考えた解決策はどんなものであれ、
実は当人にとって一番ベストな解決策である。



*次回のコラムは9月10日前後の予定です。

2014年7月29日火曜日

コミュニケーションの基本「表現力」と「共感力」(その2)  ~“表現力”を身につけて実感のある人生を!~

Column 2014 No.11

 前回は、表現力(発信)と共感力(受信)の“双方コミュニケーション”を使っての「対話力」の大切さを書きました。自己表現と傾聴(共感)についてもう少し詳しく知りたいと言う声がありましたので、これから2回にわたって今回は「自己表現」次回は「傾聴(共感)」について親業が大切にしている心を、さわりだけになるとは思いますがお伝えします。

 日本人は自己表現が苦手な国民だとよく言われます。「和をもって尊しと為す」という精神を大切にしてきた日本の風土には、自己表現はあまり重要視されない歴史があったからでしょうか。

 しかし相手の気持ちを大切にすることは勿論、自分の気持ちをも大切にできたとき、これこそが「和の精神」であると私自身は理解しています。

 日本の子どもたちが海外でホームステイをしたときの様子を耳にしたことがあります。例えばステイ先の友達から「君、何の曲が聴きたいかい?」と聞かれると咄嗟に「何でもいいよ」と答える子が多いと聞きました。食卓に並べてあるドレッシングの中から自分の好きなものが「これが好きです」と選べない子も多いようです。しかしこれは決して子どものせいではなく私たち親が、子どもに考えさせ選択させる機会を奪ってきたことが原因でしょう。

 親業では「自分を感じてください」と絶えず投げかけます。いつも自分の本当の気持ちに気付いていないと、自己表現はとても難しいのです。自己表現できる子どもに育てようとするなら、その子が体験し、感じるチャンスを奪ってはならないし、その子が選択するチャンスをできるだけ沢山与えなくてはならないでしょう。

 自分の気持ちが掴めると、はじめて
 「私は今こう考えています」「私は今とても嬉しいです」「私は困っています」というふうに自分の気持ちを内外一致で表現できるのです。すると相手にあなたの気持ちがまっすぐに伝わるので、本当のあなたのことが解ってもらえるのです。そして自分を語るから、何しろあなた自身が生きている実感がつかめるのです。

 自分の気持ちを掴めない人はどうしても人称が第三者になりやすい。「うちの主人がこう申しています」「Aさんはこんな考えを持っているみたい」このように他の人称で話す人は、多く人間関係のトラブルを引き起こし、孤立する結果になりやすいのです。自分以外の人の気持ちは決して代弁してはならないのです。できるのは自分の内面を内外一致で表現することだけです。

 自分の本当の気持ちに気付いて、それを表現してみてください。自己表現ですから、人称はいつも「わたしは」です。誰でも生きることに息詰まってしまうと、多くは苦悩や怒り、嫉妬などネガティブな感情に圧倒されてしまいます。しかしどんなにみっともないと思う感情であっても、感情は嘘偽りのない真実なのです。だから自分の一部分として抱きかかえてあげるだけの自分への愛、自分への優しさがとても大切なのです。弱さのまんまで、怒り狂ったまんまで正直に自分を語ってみましょう。

   「わたしは凄く傷付いています」
   「わたしはいま怒っています」
   「わたしはほんとうに弱い人間なんです」

カウンセリングに来ていたある青年が以前こんな気付きを話してくれました「・・・・弱さを見せたら、人は自分から立ち去るのではないかと思っていました。でも本当は弱さを出せば出すほど、人は近づいてくれるんだとわかりました・・・・」と。

 私たちは人と親密になりたいと思いながら、本当の自分を語らないために相手との壁が埋まらず、いつも寂しいのです。孤独なのです。何十年も夫婦をやりながら 今でも他人のままという方々を沢山見て来ました。

 でも受講生のTさんからはこんなお便りを頂きました。

 「・・・ある日わたし宛にこんな暑中見舞いの葉書が届きました。
 “暑い日が続きますがいかがお過ごしでしょうか。汗だくになりながらも頑張っておられる姿をいつもまじかに拝見し、陰ながら大変感謝しております。なかなか口に出しては言えないので書面にてお礼を言いたいと思います。前向きな人生と刺激をいつもありがとう!・・・”
 でも差出人の名前がありません。15分位悩みましたが、なんと夫の字だったのです。手作りの葉書に富士山の絵が描いてありました。感動で涙が溢れてしまいました。」

 ご主人の自己表現が、奥様にこんなに感動を与えたのです!

*次回のコラムは8月20日前後の予定です。

2014年7月9日水曜日

コミュニケーションの基本は、発信と受信。 それは「表現力」と「共感力」です

Column 2014 No.10

 親業では 自分と相手との間に心地よい人間関係を組んでいくための効果的なコミュニケーションとは何かを学び、練習をして身につけていきます。

 コミュニケーションの基本は 表現力つまり“自己表現”と、相手の話を共感をもって聞く“傾聴”の、「発信と受信」の双方向コミュニケーションです。それを図にしたものが下記のとおりです。
コミュニケーションは大変難しいと言われますが、事実はとてもシンプルなのです。表現力!と共感力!この二つの力を手に入れたら、あなたはコミュニケーションのベテランです。

 それは表現力(わたし大切)と共感力(相手大切)の双方向コミュニケーションであり、それぞれの個人の中でそれが心地よいバランスを持ったときに、双方に、はじめて平和な「対話」の場が生まれます。

 さて、わたし達に身近な国々、アラブ諸国とその周辺ではいくらか民主化が進んできたとはいえ、民族・宗教・領土・資源をめぐって今もなお絶えることのない紛争、小競り合いが続いています。いくら権力や武力で制圧をしても、人の心まで制することは決してできない。人としての尊厳性を無視して、真の解決には決して向かえないということでしょう。

 いま問われる急務は、どんなに時間はかかっても、人と人とが、政党と政党が、民族と民族が、国家と国家が「対話」によってどう歩み寄っていけるか!ではないでしょうか。もっとも対話ですべてが簡単に片づくとは決して思いませんし、並大抵ではありません。それにお互いの過去の過ちや痛みを、許しあえる日が来なければとても難しいでしょう。しかしそれさえも対話なくしては不可能でしょう。

 まず個人レベルから「対話」の力量を養っていくことは、いま私たちに出来る世界への貢献の大きな第一歩ではないでしょうか。もし我々人類一人一人が双方向コミュニケーションをベースにした「対話力」を子ども時代からある程度体得していたら、世界の混乱はもう少し早く治まっていたのではないかと・・・・。

 受講者の方の、ある事例をご紹介します。

 夫が今夜も呑みに出かけるという。今週はもう3回め!私はとても受け入れられない。それで夫に自分の気持ちを正直に表現してみました。 

「あなた、今日は3回めなの。年末になると生活費が嵩むし、私とても不安なの。」 ・・・・・・自己表現
「俺が呑みに行くというとお前はすぐ嫌みをいうね」
「あなたは私から嫌みを言われてるようで、気分悪いのね」・・・・・・共感
「そうだよ!」
「でもね。嫌みで言ったのではないのよ。新年を迎えるのにお金が足りなくなるのではないかと不安なのよ」・・・・・・・自己表現
「そうか、不安なのかあ」・・・・・・・共感
「そう!新しい年を気持ちよく迎えたいのよ」・・・・・・自己表現
「わかった!今夜はやめとくよ。連れが待っているわけではないしな」
「わあ、嬉しい!有難う!コーヒー入れるわね。」・・・・・・自己表現

気付き:
いつもお金のことを言うと、「うるさい!」「しっつこい!」という夫がはじめて「わかった!」と言ってくれたのには驚きました。自己表現って伝わるんですね。

 相手について価値判断したり責めることをしないで、自分の思いや痛みを正直に表現していく。そして相手の言い分(反発)に対しては、反発で返すのではなく、一度きちんとそのままを受け取って共感で返してみる。表現力と共感力がみごとに発揮され、穏やかな「対話」が成立しています。そしてお互いに納得の解決策にたどりついています。

言い過ぎもせず 言い残しもなく 自分の心を
きちんと表現できたら その日は幸せな一日
                 - サインズ -

*次回のコラムは7月30日前後の予定です。

2014年6月10日火曜日

今の瞬間を感じて生きる

Column 2014 No.9

過去に生きるのはよそう。今を生きよう。
食べているときには食べ、愛しているときには愛そう。
誰かとおしゃべりをしているときにはしゃべり、
花を見ているときには花を見よう。
そしてその瞬間の美しさをつかみとろう。
- レオ・バスカリア -

 今を生きることの美しさをみごとに表現していますね! 確かに過去はすでに去っていった人生。未来はいまだ来ぬ人生・・・・。そう考えると、まさに「今」だけが現実であり、躍動している命が感じられる瞬間です。そしてこの瞬間こそが輝きの瞬間であり、変容の鍵でもあるのか・・・と。

今だけに視点をすえて生きる

 しかし簡単なようで、なかなか簡単ではありませんよね。もう過去は手放したいと思っているのにジグジグと引きずったり、その上、まだ来てもいない未来を、まるで現実に起こっているかのように、不安と恐怖でしっかりとイメージして怯えて待っている。私たちは自分の人生の創造者ですから、無意識ですが、結果的にはイメージ通りの望まぬ人生を創造していくことになる・・・・。

 私はいま“この瞬間を生き切ることの実感”を得たいと本気で挑戦している者のひとりです。どうもこのあたりに、生きる意味の本当の答えがありそうだと! しかし、ネガテイブな感情を手放すところでちょっと手間取ったり、特に過去の思いの癖(習い性)を手放すことはなかなか容易ではありません。

 以前にも書きましたが、私の祖父は仏道を真摯に求道していた人でした。
彼は常住坐臥「南無阿弥陀仏・・・」とお念仏を唱えていました。あるとき私は、その理由を祖父に尋ねたのです。祖父の答えから私なりに理解したことは、お念仏を唱えることで、祖父は日常のさまざまな想念や捉われを解放していたのでは・・・と。

 つまりお念仏は祖父にとっての想念を放つためのひとつのツールのようなものだったのではないか…と。(祖父にとっては本当は感謝とかもっと深い意味があったと思いますが)“思考も訓練のたまものです”と以前のコラムにも書きましたが、確かに祖父は捉われのない人で、価値観にも幅があり、そして機嫌のいい人でした。

 前回のコラムから再び日木流奈君のメッセージを・・・・
 「・・・・不安や恐れは思いと反対の結果を生み出します。希望を持ち、大丈夫、大丈夫といい続けましょう・・・・」

 “大丈夫、大丈夫!”は流奈君お勧めの強力なツールです。
 きっとネガテイブな感情を手放すことには、それだけの意気込みが要るのですね。

 私は“有難うございます!”を多くツールにしています。“ツイている!ツイている!”でも“必ずよくなる!”でも自分に馴染むものならなんでもOK!だと思います。ツールに万全の思いを託して、ネガテイブな感情を本気で手放したつもりになる!“そのつもりになる”・・・がポイントです。

 ある脳学者の書いた本の中にこういう表現がありましたよ。
 「・・・・実は脳はだまされやすいのです」と。ネガテイブなものであろうとポジテイブなものであろうと、あなたが思考したとおりに、脳は判断しないで受けとり現実化していきます・・・・と。 こわいですねえ・・・。

 そのためにも自分が“生きたい人生を、持ちたい感情を脳に信じ込んでもらう”日まで(笑)思考の訓練を重ねて、バスカリアのいう“今の瞬間の美しさ”をつかみとれる自分になりたいものと心から切望しています。

 これからもきっと何度も訪れてくるであろうネガテイブな感情を、しっかりと感じ受けとめ、そしてツールの力を借りながら優しく、しかし毅然と手放していきたいと思っています。

きのうはヒストリー あしたはミステリー きょうはプレゼント
- 作者不詳 -

 まさに現実は今だけ! 今を生きる真の醍醐味に目覚めたいものです!         

*次回のコラムは7月10日前後の予定です。

2014年5月20日火曜日

期待しないであきらめないで

Column 2014 No.8

期待しないであきらめないで
- 日 木 流 奈 -

 今日は日木流奈君のことを書いてみたいと思います。幼い頃から成熟した知恵者であった彼を“流奈(るな)君”とたやすく呼ぶのは少し戸惑いはあるのですが(笑)・・・・。

 流奈君は極少未熟児で産まれ、生後2週間で三度もの大手術を受けるほどの障害を持って生まれました。手術や薬物投与の結果、脳萎縮という後遺症が残り、それ以後も何度もの危機がありましたが、入退院を繰り返しながらも命をつなぎ、現在彼は24~25歳の青年です。彼の両親は障害を持って産まれた流奈君をそのままに受け入れ、ひとときも彼について諦めなかったといいます。脳萎縮という後遺症が残った彼が、これから生きていくために、“親として何が出来るか”だけを考えたのです。

 そして流奈君が2歳のときグレン・ドーマン博士のドーマン法に出会い、そのプログラムを開始します。彼は重度の障害を持っていますので、手足は勿論自力では動けず、言葉も口頭では全く伝えることは出来ません。しかしドーマン法の運動プログラムや知的プログラムを通して彼の無限の能力が大きく開花していきます。勿論母親の介助は要りますが、文字盤を指すことで、流奈君は、水を得た魚のように自分の気持ちや意志を溢れるように伝え始めたのです! それは人の心を揺さぶるような愛と智慧に溢れた深いメッセージでした。

 彼は言っています。「・・・・医学の進歩により、私の脳の回路がある日突然繋がって、歩けたりしゃべれたりするかもしれません。私はまだ諦めてはいないのです・・・・」と。 決して諦めないという精神はご両親から流奈君にも引き継がれていったようです。

 一方、私たちは自分に対してもわが子に対しても、目標への期待はとても高くて、少しでもそれから逸れてしまうと、簡単に諦めモードに入ってしまいやすいということはないでしょうか。

 親業の勉強に来られたお母さん方が時々こんなことを言われます。「私は子育てに失敗しました」と。お母さんがそれを子どもがいるところで言ったら「おれって失敗作なわけ?!」と切り返してきたそうです。“失敗”だなんて、子どもからしたらとてもショックな発言ですよね・・・・。 

 子どもの人生はまだまだこれからなのに、もう決め付けているのですか…と尋ねましたが、実は諦めていないからこの講座を選択されて来られているんですよね。そこから、これまでの思いの姿勢を正して、学習した新しいコミュニケーションをとっていくことで、ご自分を取り戻され、子どもとの関係も取り戻して、親子双方が自立への道を歩み始められるのです。

“人生、諦めさえしなければ何とかなる!”
これは私の持論でもあります。

今年のソチオリンピックでホットな話題になりましたが、フィギュアスケートの浅田真央さんが前半のショートの競技では予想もしないハプニングで、まさかの16位という成績でしたが、彼女は最後まで決して諦めず、メダルは惜しくも逃しましたが、続くフリーの競技での彼女の美しく優雅で伸びやかな演技は世界の人々にいまもなお深い感動として記憶に残っています。“諦めない!”とても美しい響きですねえ。

 流奈君はこんなことを言っています。
 「・・・・不安や恐れは思いと反対の結果を生み出します。希望を持ち、大丈夫、大丈夫といい続けましょう。自分の出来ること、やるべきことをしさえすれば必ず未来は開けます。諦めないでください・・・・」と。

 流奈君の著書を一冊だけご紹介しておきます
 「自分を完全肯定できますか」(講談社)


*次回のコラムは6月10日前後の予定です

2014年4月30日水曜日

起き湧くものごとをまっすぐに見る

Column 2014 No.7

 もし私たちが周りに起きわいてくる事象を、一切の価値判断を加えず、そのまま事実だけを見、受け取り、そのことだけに対処できたとしたら、人生はどんなにシンプルで軽やかになることでしょう。

 わが子にこんな表現をしてこなかったでしょうか。「ぐずぐずして!本当にぐずなんだから」「あなたは何てだらしないの!」・・・。子どもを思えばこその表現かもしれませんが、これは親のフィルターを通した価値判断であって、事実の行動ではないので、子どもを戸惑わせ、思い込ませ、傷つけてしまいます。

 事実の表現をすると、
「登校時間が迫っているよ。遊びながら食べていると・・・」が事実の行動であって“ぐずねえ!”は事実の行動ではありません。このように子どもの行動を見つめるときの親の感情にバイヤスがかかると、なぜか“だらしないんだから!”という事実ではない表現になってしまいやすいのです。ところがそのバイヤスを外してみると、必ずひとつの事実の行動が見えてきます。
「ほら、シャツがズボンから出てるよ」
「ご飯粒が口からこぼれているよ」
 このように事実だけを伝えると子どもは理解しやすく、行動を変えるきっかけとなります。

 親業では講座の第一日目に、子どもの行動を一切の価値判断・レッテルを貼らずに、事実の行動を見ていく訓練をします。価値判断で私たちは子どもを無意識に傷つけてきましたし、私たち自身も幼い頃から“頭が悪い子ねえ”“冷たい子ねえ”“器量が悪い子・・・”“気が利かない子・・・”等々。周りからの事実ではない価値判断の表現でどんなに傷つき自信を失ってきたことでしょう。

 そして困ったことに価値判断で育った私たちは、無意識ですが、ついわが子にも同じように価値判断を下して、子どもの自尊心・自己価値感を壊してきました。しかし“事実だけを見ていく”ことは、よほど意識化し、訓練していかないと身につかないものでもあります。それほどに習い性になってしまっているんですね。その面では、私もまだまだ修行中です。
随分昔のことですが心に残っている私の体験があります。

 バスに乗り込んできた二人の若者が、見るからに問題ありそうに見えました(これは大いに私の価値判断)。デンと座席を陣取って(これも私の価値判断)、憮然としています(これも価値判断)。そんな折、近くに座っていらした80前後に見えるご婦人が「ありゃあ、両替せんにゃあいけんのじゃあ。やれやれ・・・」とひとりごと。するとすかさず、例の若者の一人が、「おばあさん、替えてきてあげようか?」と言うのです! 私は瞬間“わあ!大丈夫かしら?”と(凄く失礼な価値判断)その青年を疑ってしまっているのです。その若者は婦人から1000円受け取ると両替器に向かい、両替を済ませると、自分の手の中で金額を確かめて「はい!」と老婦人に渡したのです。しかも“やってあげた”の表情は微塵もなく、まさに自然体!そのものでした。

 私はその時、自分の中の価値判断の根深さに愕然としました。そして心の中でその若者に懺悔しましたよ。心から・・・。その出来ごと以来、みんなみんな素敵な存在なんだなあ・・・。私のなかの混乱が、無意識に若者に価値判断を下し傷つけ、その結果による若者の混乱が、国や社会の混乱につながり、それがまた国家間の対立に及んでいく・・・。

起こっていることはすべて“中立”です

 ある賢者のこの言葉には深い智慧を感じます。必然性をもってただ起こっている事象に対して“正しい・間違っている”“いい・悪い”と色付けをし、しかも異なる価値観が受け入れられず、相手に攻撃を仕掛けていく・・・。これが今、世界のあちこちに起こっている悲しい現実です。

起きわくものごとをまっすぐに見る

何はともあれ、私の心の中で起きわいてくる感情や気持ちに価値判断を加えず、まっすぐに見て、感じて気付いて、そして許して。まず私からそのように生きていこう・・・・。


*次回のコラムは5月20日前後の予定です

2014年4月11日金曜日

面白きことのなき世を面白く (その2)

Column 2014 No.6

面白きことのなき世を面白く
- 高 杉 晋 作 -

 仏門を敬虔に求道していた今は亡き祖父は、こんなことを言っていました。
「人間はなあ。修行のために生まれてきとるんでえ。人間に生まれたら“生(しょう)老(ろう)病死(びょうし)”の苦しみからは誰一人逃れられんのじゃ。生まれくる苦しみ、生きる苦しみ、老いていく苦しみ、病む苦しみそして必ずくる死の苦しみ。しかしこの苦しみがあるけえのお、人間は上っ調子にならず、悩み苦しみながら自分の生き方を反省したり、気付いたり、そうやって魂は成長していくんよのお・・・・」みたいなことを孫の私に時々言って聴かせていました。

 そのころの私には祖父の言っていることがよく解りませんでした。
“そんな苦しみがあるなんていやだなあ。恐いなあ”程度の理解でした。しかし“生(しょう)老(ろう)病死(びょうし)”という言葉は妙に脳裏に焼きついていました。

 そして年齢を重ね、自分の体験も重ねていくに従って、“なるほど!生きるということは“生老病死”に縁のない人は一人もいないんだなあ・・・。生きるということはまさに修行なのかもしれない。人間て何といとおしい存在なんだろう・・・”と祖父の言っていたことが身にしみ腑に落ちる年齢になりました。

 そして思うのです。だからこそ高杉晋作のいう「面白きことのなき世を面白く」生きていくことの大切さがあるのではないかと。すべきことだけをして人生しかめ面をして“生老病死”に翻弄されながら一生を生きていくのか。あるいは小さな晴れ間を大切に、心が喜ぶことを本気でやり、笑い、喜び、楽しんで、緊張したエネルギーを発散し、生きるエネルギーを蓄えながら“生老病死”をも受け入れて、心強く生きていくのか!

 私は後者の生き方を選びたいと思いました(*前回コラム)。それまでの私は心が喜んでいないから慢性的に不機嫌で、子どもに対しても些細なことで腹を立て、すべきことを要求したり神経質に勉強させたり躾けたり・・・。子どもは本当に苦しかったことでしょう。しかしこれこそが親の愛だと確信していたわけですから始末が悪い・・・。

 しかし私自身が心が喜ぶことを選択し、自分の世界を築いていくに従って、これまで確信していたそれは本当の愛ではなかった、申し訳ないことだったと心から気付いたのでした。

 こうして私自身の心の縛りがほどけてくるに従って、なんと!時を得たように長男が不良(*差別言葉であればお許しください)の仲間と付き合いを始め、タバコは吸う、ヘアスタイルはツンツン、勉強とは全く無縁の人となりました。成績は目も当てられない状態。しかし私の心は全く騒がない。“これでよし!これでよし!”と不思議なくらい心の底から思えるのでした。

 親に嵌められた足かせを思い切って外さなければならない“善き時”をただ迎えただけなのです。この子はここを通らなければ次のステップには決して向えないことを私は確信していましたし、彼の無意識層もそれをわかっていたのだと思います。荒れた生活になったわが子を、不動心で見つめ守れたことは、真面目で不機嫌だった以前の自分からは想像できないことでした。ちなみに長男は拍子抜けするほどに素敵な紳士に今は変身しています(笑)。このホームページを立ち上げてくれたのも実は彼です。

 コラムのNo.1で書きましたお釈迦様の“自分ほど尊く大切な存在はない・・・” まず自分を愛せよ・・・この言葉の深い意味を、まだ入り口ではありますが体験した感じがしました。

 “世の中が良くなれば、みんな幸せになる!”その信念で、自分の出来ることで真摯に社会へ貢献している人々が沢山あります。まさに尊敬に値する方々であり、頭がさがります。

 一方、世の中がいかなる状態であろうとも心揺るがさず、一人一人が自分の存在に責任を持ち、生きたい人生を創造し、それを心から楽しみ、自身の心の平和を保っている。そんな愛に満ちた人から“発信される信念・情報”は、自ずからまわりに人々を引き寄せて感化し、その場は光の場と化すことでしょう。

 そう! 一隅を照らせるそんな人々の“光の場”が、あちこちに増えていくに従って、やがて地球世界は一瞬にして進化を遂げる日がくる!
 そう思えてならないのです


 もと外科医師であった帯津良一氏は、現役時代「死を恐れない人はどんな人ですか・・」の質問に次のように答えています。

“自分の人生において、やりたいと思ったことをほぼやったという実感を持っている人の多くは、死を恐れず静かに穏やかに移行されますね・・・“


*次回のコラムは4月30日前後の予定です

2014年3月20日木曜日

面白きことのなき世を面白く (その1)

Column 2014 No.5

面白きことのなき世を面白く
- 高 杉 晋 作 -

 幕末の志士、高杉晋作のこの呟きには何か膝を打つ感じがありました。
 幕末から時代も大きく経過し、文明文化も目覚しく進化した現代ですが、果たして面白い世の中になっているのでしょうか。

 国際情勢、政治情勢、経済の行方・・・等々。真剣に見つめ感じるほどに、どの側面を見ても喜びどころか、底知れぬ不安や焦りの心情が多くの人々の心を占めてしまいます。そして人の心もすさび病んできています。欝、心身症、暴力、いじめ、自殺願望、薬物依存・・・等々。

 心配な状況を挙げれば枚挙にいとまがありません。
 このような不確かな世の中にあって、自分を見失わず、凛として生きていくためにいったい私たちは、何が出来るのでしょうか。

 世界情勢の混乱も、不安定な政治・経済情勢も、実は私たち一人一人の責任回避の結果でもあります。人の心を侵す病も、我々が無関心の結果作り上げてしまった病的な社会環境・自然環境、そして我々一人一人の病んだ心の反映でもあると思うのです。もうその責任からは逃れられない大切な時期に来ていると思います。

 しかし一方、その不安な流れにただ同調したり、心を痛めるばかりでは状況の改善は決して望めないでしょう。こんな世の中にあって「・・・だからこそ面白く生きていこう」という高杉晋作の提案はとても興味深く、意味があることに私には思えたのです。

 待っていても世界は面白い生き方を見せてはくれないでしょうし、また人に依存しても永続的な幸せは決して与えてはくれないでしょう。としたら自分の喜びは自分で見つけ、創っていく以外にないのではないでしょうか。

幸福だから笑うのではない
笑うから幸福なのだ

アランという人の名言です。幸せは自分で創っていくものだということを教えてくれているような気がします。あなたの心が笑えるようなことをやってみませんか・・・と。

 実はこの考え方を親業ではとても大切にしています。
 「すべきことよりやりたいことを!」これは人間関係講座のキャッチフレーズのひとつでもあります。一度しかない貴重な人生、あなたの心が本当に喜ぶことをやってみませんかという問いかけです。

 私の子どもがまだ小・中の学齢期にあったころでした。私はこの問いかけを大切にしてみようと心に決めました。夫や子どもを送り出したあと、まず自分に尋ねたものです。「今何がしたい?」と。午後友人に会えるなどの楽しみがある日は「お掃除に洗濯ね!」“すべきこと”もわくわく出来るんですよね。

 ところが多くは「う~ん!コーヒーが飲みたいな」「本が読みたい!」「眠りたい」心も体も疲れている時代には、多く“思い切り眠りたい”が私から来る答えでした(笑) そこで“すべきこと”は後回しにして、改めて布団を敷きなおし数時間眠ったものです。主婦が朝っぱらから昼寝なんて・・・と当分は罪悪感との共歩きでした。でもやりたいことを正直に果敢にやってみたのです。自分だけのために楽しんだ経験があまりなかった私は、こんな辺りからの出発だったのです。

 無性に海が見たい日があって、身支度をして一人で海を見に行ったことも何度かあります。メリーゴーランドに乗りたいと思い始めたので、あちこちの遊園地を求めて飛び歩いたひと時もあります。新幹線に乗って行ったこともありますよ。大きな大人が何で? 笑えますよね!

 でも、人が何を言おうと笑おうと、自分にしか解らない心が喜ぶことを優先順位の一番においてみたのです。 敢えて、意識的に!

 すると子ども時代に遣り残したことや、満たしてこなかった欲求が見え隠れしました。会いたい人に会ってみる。食べたいものを食べてみる。行きたいところにいってみる・・・私の心はどんどん満たされていきました。
 “今を生きている”実感があり、わくわくしました。

 “面白きことのなき世“もまんざらではなく思えてきました。そして自分の心の中に大きな変化が訪れたのです。

夢中で書いていたらこんなに長いコラムになってしまいました。
続きは次回のコラムに譲ります。


*次回のコラムは4月10日前後の予定です

2014年2月27日木曜日

すべての技(わざ) 学問そして思考・感情さえも すべて訓練のたまもの (その2)


Column 2014 No.4

前回のコラムでは感情や思考さえも訓練次第で変化し、その結果人生も変わり得るのだということを考えてみました。そこで今回は、五日市氏や斉藤氏の勧めるようなメッセージの意図が、すぐに手に入る人となかなか手に入りにくい人がいるのはなぜだろう・・・がテーマです。

例えば、斉藤氏の「ツイてる!ツイてる!と言っていれば必ずツイてきます」というフレーズを聞いての反応の仕方には、二つあります。
“うん!そうかもしれない!”と何の疑いもなくすぐにやってみるタイプの人と、“これまでの人生ツイたためしがない。そんなに簡単に手に入るわけはないだろう!しかしちょっとやってみるか”と疑いながらかかる人の二つのタイプです。

前者の人はある程度自己肯定感があり、自分の心に響く言葉を聞くと、何の反作用もなく受け入れ、行動をする(訓練する)ので、それはやがてその人の潜在意識レベルに届き、望むことを現実化していきます。
一方、後者の人は一般に自己肯定感が低く、潜在意識の中には多くの否定的な思考が重ねられています。例えば

幸せになれます・・・・・・「なれるはずはない。どうせ私は・・・・」
かならず手に入ります・・・・・・「そう簡単に手に入るはずがない」
有難う。感謝します・・・・・・「そらぞらしくて言えない」

といった具合です。このレベルにいる人は、ポジティブな思考に出会うと反射的に反作用がおこり、潜在意識からくる無意識層の馴れ親しんだネガティブな思考の方に多くは舞い戻ってしまうか、途中であきらめてしまうかのどちらかです。本人が訓練の土俵からおりてしまうので手に入りようがありません。

 よく挙げられるこんなたとえがあります。

 「泥水でいっぱいのコップがあります。
  しかしそこに清水を注ぎ続ければ、
  そのコップの水はやがて必ずきれいな清水に変わります」

もしも後者の人が汚水(ネガティブな思考 )でいっぱいの人であったとしても、決してあきらめないで、生きる上で自分が願う思考を、少しずつでも注ぎ続けていくならば、当分の間は“汚水と清水のせめぎ合い”はあるとしても、潜在意識を占領していた自己否定の思考はやがて降伏し、新しい思考に機嫌よく席を譲ってくれるでしょう。どんな思考もみんなあなたを愛している自分の一部だからです。

思考も訓練のたまものです。

「どうせ私は・・・・」の居直り姿勢は、私たちの人生に於いて大きな大きな損失です! 賢者は言っています「あなたの人生はあなたが創造者です。あなたは今も、自分が創造した世界に生きているのですよ」と。

一度しかないこの人生!
ほんとうに生きたい人生をお互いにデザインしていきましょうね。

*次回のコラムの更新は3月20日前後の予定です。

2014年2月7日金曜日

すべての技(わざ) 学問そして思考・感情さえも すべて訓練のたまもの

Column 2014 No.3

私が指導しているセミナーのひとつは「親業訓練講座」という講座名です。ずっと昔、私自身が生徒としてはじめてこの講座を受講したいと思ったとき、実はこの“訓練”という名称に少なからず抵抗を覚えた記憶があります。訓練!?何を叩き込まれるんだろう・・・みたいな一種の緊張を感じたものです。

ところが参加してみたら何も叩き込まれることはなかったし、一切強制されることもなかった・・・。ただ、知らず知らずに子どもの心を傷つけるコミュニケーションをとってきたこれまでの自分に気付き、臨床心理学に由来した新しいコミュニケーションの形を学習し、その方法を練習し実践し身に付けていく。何度も何度も練習をする・・・。ただそれだけで私をはじめ参加したお母さん(お父さん)方が少しずつ力量がついてきて、その結果、周りの人との関係、子どもとの関係が目を見張るように変わっていく。

それはまるで魔法のように思えたものです。“コミュニケーションの訓練”で人間関係が変わりうるのだという事実は、私にとってはとても衝撃的なことでした。だから今、親業のこの“訓練”というネーミングは私にはとてもとても大切に思えるのです。 

名刀づくり・名器づくり・銘酒作り等々…の達人。 野球・水泳・スケート・ゴルフ等々…の名プレイヤー。 私たちは表舞台での彼らの人智を超えた神わざとも思えるわざに、ただ酔いしれていますが、実はその裏では想像を絶するような地道な修錬(訓練)が重ねられていることは周知の通りです。決して屈しない精神力で、厳しい負荷をかけながらの並々ならぬ訓練が、実は神わざとも思えるような美しい作品、美しい演技、そしてプレイへと昇華しているわけです。“訓練”なくして身に付くものは恐らくこの世には何ひとつ無いでしょう。

ところが思考・感情さえも実は無意識の“訓練の結果”だと理解している人は案外少ないのではないでしょうか。たとえば怒りの感情をすぐに現わす人があります。その人の育ちの背景には実は多くの事情があり、子ども時代から親あるいは周りの人から(勿論色々な形はありますが)多く怒りの感情で接しられています。それは子どもにとって強力なモデリングとなって、怒るという感情の構えが徐々に強固になっていきます。無意識レベルの訓練だからです。その人にとって苦しかった痛み(トラウマ)はやがて大人になると、怒りの感情として周りに発散(昇華)する結果になり、それがまた訓練となって怒りに達するハードルはますます低くなっていきます。 これは逆に、自分にとって好ましい感情も、意識化し練習をすることで身につくという証明でもあります。

“思考”も訓練しだいで変化し、その結果人生も変わってくる
のだということを多くの知識人も唱え始めています。

ひとときブームとなった、五日市 剛さんはこんなことを言っています
「ありがとう!感謝します!という言葉を唱えているとあなたの運命は魔法のように変わってきます」・・・・と。

斉藤一人さんも同じことを言っています
「ツイてる!ツイてる!と言っていれば必ずツイてきます」・・・・と。

この人たちが言っていることは確かに手に入るものだと私も思います。ただすぐに手に入る人と、なかなか手に入らない人とがあるとは思います。

その違いは何なのでしょうか。メッセージが長くなりましたので
この続きは次回のコラムにゆずります。

次回のコラムの更新は2月下旬の予定です

2014年1月24日金曜日

過ちをおかさない人はありません。過ちは修正をもたらしてくれる贈り物です。 あなたには、過ちをおかしそれから学ぶ時間はたっぷりあります。 ~ポール・フェリーニ(牧師)~


Column 2014 No.2

このフレーズは私が今年の年賀状にしたためたものです。
“人は過ちから学べる・・・”“学ぶ時間はたっぷりある・・・”なんと大きく暖かいゆるしのメッセーでしょう。

 私は親業インストラクターになって30年近くを迎えます。しかしその出発は力量も、ひとりの人間としても、まさに未熟なままの出発でした。ボードに平気で間違った文字を書いたり、大切な言葉の言いまわしを間違えたり、高邁なことを言って自分以上に自分を見せようとしたり・・・数え上げれば未熟さには限りがありません。文字や言い回しの間違いは、受講生の方々がその都度まっすぐに私に指摘してくださったものです。

 私にとってはとても恥ずかしいことでした。しかし指摘されたミスは再び繰り返すことはなかったし、ミスに気づかないまま講演や講座を続けていたとしたらその方がずっと恥ずかしい結果になったことでしょう。失敗という修正のチャンスが私に訪れたこと、受講生の方々の率直なご指摘に今も心から感謝しています。

 でも一番見逃しやすいのは“自分にしか解らない過ち”です。ちょっと吐いた小さな嘘、微妙に他人さまを批判した瞬間・・・等々。仕方なかったのよ・・・。あの人が言ってること変だもの・・・と心の中で言い訳たらたら・・・・。本当は自分に向かわなければならない貴重な瞬間なのに微妙にすり抜けようとする。でも自分の感情はとても正直でやはり心地悪いし、自分で自分の評価を下げていきます・・・。しかし有難いことにやがて必ず対峙しないではおれない羽目にも陥ります。

 私はある時から、保身は出来ることならすべてやめて、本当の自分を知りたいと心から思うようになりました。そのためには恐れず“失敗を自分に許そう”と決意したのです。本当に成長したかったのです。しかし、結構それは勇気の要る決断でした。

 なぜなら失敗は、私の中の弱点が明るみに出ることであり、見たくない気付いていない自分の中の闇の部分に、対峙せざるを得ない結果にもなるからです。
 あるときは愛に欠け愛に悖る自分の言動に愕然としたり、自分の今いる位置の不確かさに戸惑ったり・・・でもその都度、決して逃げないでじっと自分の感情と対峙していきました。苦しいけれどその痛みから沢山のことを学んできたと思います。自分の思いの癖や思いの傾向にどんどん気づいていったのです。

 「過ちを改めざる即ちこれを過ちという」孔子の言葉です。

 過ちは決して恥ずかしいことではなく、軌道修正をしてくれるチャンスです!過ちに目をつむり、学ばないまま出来事の後悔ばかりをして、罪悪感という重い鎖を一生引きずって生きている人は案外多いのではないでしょうか。
 後悔は決して美徳ではありません。相手があるなら自分の心の中でその人に心から詫び、過ちの経験から学んだことに心から感謝して、そしてあとは自分を果敢に許し、果敢に手放すこと。学んだらその出来事はすっぱりと“お払い箱”です。

 “自分の中で自分を曝け出す勇気!”
 これからもまだまだ私の自己理解の旅は続きます。

(次回のコラムの更新は2月初旬の予定です)


2014年1月3日金曜日

感じることを意識化する


Column 2014 No.1

私たちは他人(ひと)さまを感じることには慣れてきました。
 「他人のことをもう少しは考えなさい」
 「そんなことをしたら他人さまに笑われますよ」
 「そんなことを言ったら嫌われますよ」
 このような環境の中で育ってきた私たちは、他人の目を気にする生き方、他人に合わせる生き方が大切なんだという価値観を無意識に受け入れてしまいました。

これまでカウンセリングを通して多くの方々にお会いしてきましたが、実はその多くの方々が、幼い頃からあまりにもまわりの感情や言動に合わせて生きてきた為に、自分が誰なのか、自分は何を大切に生きていきたいのか・・・が解らなくなり、自分の軸から大きく逸れてしまい、迷い子になってしまった姿でした。

恐れで他人さまを感じるのではなく「愛の心」で他人さまを感じ、思いやりを示すことは人間としてとても美しく大切なことです。しかしそのためには一切の判断をやめて“ありのままの自分を愛する”こと。ありのままの自分を愛するということは、自分の中のどんなネガテブな感情をも許して感じ切り、そこから学び、そして気付いていくということです。そうしない限り他人さまを愛の心で感じることはとても難しいのです。最近の研究結果でも自己受容と相手を受容する度合には密接な関係があることが証明されています。

お釈迦様は生誕してすぐに数歩歩かれ(真偽はともかくとして)天と地を指差し「天上天下唯我独尊」と唱えられたという逸話は有名です。“天にも地にも一人一人自分ほど尊く大切な存在はないのだよ”と言い切っておられるのです。 “自分を尊重し、愛し、大切にできる人だけが、他人さまを大切にできるのだよ。だから自分を大切に! 自分を愛せる分量でしか他人さまは愛せないんだよ・・・”ということを聖者と呼ばれたお釈迦様は生まれながらに(?)理解していらしたのでしょうか。

自分を愛し、自分を大切にする一番のステップが“自分を感じる”ことです。
 「今、私は傷ついたな」
 「今、私はちょっぴりあの人を羨ましいと思ったな」
 「今、私はすごく怒っている」
 親業では、感情に“いい・悪い”は無いと伝えています。感情は人間である証拠です。どんな感情をも受け入れて感じ切っていくことは癒しであり、自分を知ることであり、自分の軸から逸れない生き方であり、これこそが真の「自己受容」の姿だからです。

しかし、恐れで他人さまを感じることに慣れてしまっている私たちは“自分を感じる”ことは容易ではありません。当分は“ああ、また恐れで他人さまを感じているな”と気づき、おっと!と自分の軸に戻り、今の自分の“本当の感情に意識的に気付いていく訓練“が要るかもしれません。しかしこの訓練は大いにやってみる価値があります。

それは自分の軸が太くなっていく道であり、それが“真の自立”であり、「あなたの自己実現の完成」へと直結しているからです。