Column 2016 No.42
数十年も前の記事ですが、読売新聞の投稿欄に18歳の女性の一文が掲載されており、たまたま手元にありました。「…高校三年の女子です。私には大切にできるものがありません。お金もあって友人もいます。両親もいます。…学校の成績は学年で10位には入っています。スタイルは悪くないしブスでもありません。食べ物もあります。部屋はストーブで暖かいし、服や靴もあります。…だけど私には大切にできるものがないのです。心も身体も大切ではありません。明日死んでも未練はありません。…18歳になっていながら大切なものがないのです。悲しく情けないのです…」と言った内容でした。
この彼女の一文で、幸福とは、成績でもなければお金でも財産でもない。たとえ、容姿に恵まれていても幸福には関係ない…ということを物語っています。そしてこの女性の一文に、物や人々の存在は見えるけれど、「暖かい家庭がある…」のような“人間関係”や“愛”の存在は見えてきません。
家庭における人間関係が稀薄であったり、愛情を受け取れる環境が無かったら、どんなにものが豊富に与えられたり、勉強ができていい大学に入っても、いい就職をしても、本人の心は満たされないままでしょう。おそらく彼女もその一人で、自分のやりたいことをやることや、言いたいことを表現できる環境がなく、これまでの人生を、親の思う通りに素直でいい子として生きてきたのかもしれません。
ずっと以前、ある受講者Tさん(母親)から出たある宿題の片隅に書かれていた一文です。了解のもとに載せました。
私は無性に誰かにかまってほしい
私は無性に誰かに否定しないで私の話をうんと聞いてほしい
私は誰かに無条件に受け入れてほしい
私は誰かにぎゅっと抱きしめてほしい
私は誰かの腕の中で思い切り泣かせてほしい
私は誰かに“お前が必要だ”と言ってほしい
このお二方の例から伝わってくるのは、やはり「愛」への渇望です。しかしこのTさんはご自分の「欲求」がきちんと見えています。欲求が見えている人はそれを満たしやすいのです。だから彼女はそれを周りに求めるだけではなく、自分で自分を満たすべく心が喜ぶことを果敢になさったり、もともと正直な方ですが、自己表現の方法を学んでからは、さらに正直に自分を表現されるようになりました。今はすでに自分を取り戻して生き生きと生きていらっしゃいます。
思春期挫折、鬱、暴力・いじめ、DV、色々な依存症、歪んだ人間関係…等々。その背景には成育歴の中に、特に多くは親から愛されたという実感がないことがその原因となっています。カウンセリングの場においても、親の愛を幾らかでももらった(…と受け取っている人)は数回のカウンセリングで癒しに向かいますが、もらっていない(…と受け取っている人)の癒しには、膨大な時間を要します。人間の真の進化が問われる今、いったいこの現状をどうすればいいのだろう…と途方に暮れることがあります。
しかし「愛の定義」は本当に難しいと思います。夫が生前のころ「自分は“愛”という意味がよく解らない…」と言っていました。ハートフルな人ですが表現が苦手な為に、妻の私が、幾らか攻め口調になってそのことを指摘したり、何度か愛について論じようとしたりしていたからでしょう。
ある日、傍にいた娘(高校生の頃?)に、夫が「…お父さんは“愛”という意味がやっぱり解らんのよ…。お前はどう思うか?…」と娘に問いかけたのです。娘は即座に答えました。「その人がどんな状態であってもそのまんまを受け入れてあげることだと思う…」その辺りを答えたと記憶しています。見事な“愛の定義”だと思いました。「なるほど…」と夫も感慨深そうな表情でした。しかし、“そのままを受け入れる”ということは具体的にはどうすることなのか…私たちにとっては、とても難しい所だし知りたいところでもあると思います。
親業はコミュニケーションをベースに学びますので、その側面から述べてみたいと思います。“愛”を伝える「肯定のわたしメッセージ」や、また相手が話していることに、一切茶々を入れずにただ耳を傾ける、積極的傾聴法「能動的な聞き方」があります。特にこの傾聴法は、相手が “愛情”として具体的に受け取っていける、実は最高のコミュニケーションなのです。(コラムNo12)
五年生のA君がある日「お母さん今日テスト返してもらったけど怒らない?」と言ってきました。普通お母さんは「怒らないから見せてごらん」と言っておいて、
“40点”のテストを見た途端に「ゲームばっかりしてるからでしょう!」とつい叱ってしまうケースは多いですよね…。ところが親業の傾聴法は次の通りです。
A 「お母さん今日テスト返してもらったけど怒らない?」
母 「お母さんが怒るかもしれないと思って不安なのね」
A 「うん、でも教えてあげるね。40点だったんだ…」
母 「そう、40点でがっかりしてるのね」
A 「そう、それから社会は60点だった…」
母 「そう、60点だったの」
A 「うん、だけどね、5年生になると理科も社会も難しくなるから仕方ないんだ」
母 「そう、五年生になると学科が難しくなるのね」
A 「そうなんだよ。でも難しいからもっと頑張らなくてはいけないんだよ…」
途中ですがざっとこんな会話です。親の気持ちは一切出さないで、フィードバックを通して、“あなたの気持ちをただそのまま受け取ってるよ…”ということを伝えているのです。子どもは、自分の思考を邪魔されないので、自分の行くべき方向がこうして見えてくるのです。特に子どもが問題を抱えているときにはとても大切な傾聴法です。(但し、親が問題を抱えた場合は“自己表現”というコミュニケーションを取ることができます…コラムNo10・No11参照)
親業が大切にしているこの傾聴法は、子どもがどんなネガテイヴな感情を出してきても、批判も講義も提案もしないで、ただただ共感をもって聴いていく。すると子どもは、自分は“丸ごと受け入れられている”“自分は自分でいいのだ”“自分の感度で生きていいのだ”…と、親の無条件の愛を感じ取って、自分に自信をもち、真の自立へと向かっていけるのです。それを繰り返し体験することを通して、自分自身をどんどん確立していくのです。それほど私たちは、Tさんが言っているように、自分の想いを否定されないで、誰かに黙って聞いてほしいのです。そして無条件の愛を感じ取って、より自分自身でありたいのです。
しかし、相手が話すことに、心からの共感で耳を傾けることは、そう簡単なことではありません。相手のネガテイヴな感情を真に受け止めていくには、受けとめる側の心的状況が整っていないと本当はとても難しいのです。私たち親も人間です。ある程度幸せでなければ、子どもや周りの人を真に受け入れることは難しいのです…。 そこで、一人の人間として自分が幸せになる為に出来ることを、次回あらためてご一緒に考えてみたいと思います。
この彼女の一文で、幸福とは、成績でもなければお金でも財産でもない。たとえ、容姿に恵まれていても幸福には関係ない…ということを物語っています。そしてこの女性の一文に、物や人々の存在は見えるけれど、「暖かい家庭がある…」のような“人間関係”や“愛”の存在は見えてきません。
家庭における人間関係が稀薄であったり、愛情を受け取れる環境が無かったら、どんなにものが豊富に与えられたり、勉強ができていい大学に入っても、いい就職をしても、本人の心は満たされないままでしょう。おそらく彼女もその一人で、自分のやりたいことをやることや、言いたいことを表現できる環境がなく、これまでの人生を、親の思う通りに素直でいい子として生きてきたのかもしれません。
ずっと以前、ある受講者Tさん(母親)から出たある宿題の片隅に書かれていた一文です。了解のもとに載せました。
私は無性に誰かにかまってほしい
私は無性に誰かに否定しないで私の話をうんと聞いてほしい
私は誰かに無条件に受け入れてほしい
私は誰かにぎゅっと抱きしめてほしい
私は誰かの腕の中で思い切り泣かせてほしい
私は誰かに“お前が必要だ”と言ってほしい
このお二方の例から伝わってくるのは、やはり「愛」への渇望です。しかしこのTさんはご自分の「欲求」がきちんと見えています。欲求が見えている人はそれを満たしやすいのです。だから彼女はそれを周りに求めるだけではなく、自分で自分を満たすべく心が喜ぶことを果敢になさったり、もともと正直な方ですが、自己表現の方法を学んでからは、さらに正直に自分を表現されるようになりました。今はすでに自分を取り戻して生き生きと生きていらっしゃいます。
思春期挫折、鬱、暴力・いじめ、DV、色々な依存症、歪んだ人間関係…等々。その背景には成育歴の中に、特に多くは親から愛されたという実感がないことがその原因となっています。カウンセリングの場においても、親の愛を幾らかでももらった(…と受け取っている人)は数回のカウンセリングで癒しに向かいますが、もらっていない(…と受け取っている人)の癒しには、膨大な時間を要します。人間の真の進化が問われる今、いったいこの現状をどうすればいいのだろう…と途方に暮れることがあります。
しかし「愛の定義」は本当に難しいと思います。夫が生前のころ「自分は“愛”という意味がよく解らない…」と言っていました。ハートフルな人ですが表現が苦手な為に、妻の私が、幾らか攻め口調になってそのことを指摘したり、何度か愛について論じようとしたりしていたからでしょう。
ある日、傍にいた娘(高校生の頃?)に、夫が「…お父さんは“愛”という意味がやっぱり解らんのよ…。お前はどう思うか?…」と娘に問いかけたのです。娘は即座に答えました。「その人がどんな状態であってもそのまんまを受け入れてあげることだと思う…」その辺りを答えたと記憶しています。見事な“愛の定義”だと思いました。「なるほど…」と夫も感慨深そうな表情でした。しかし、“そのままを受け入れる”ということは具体的にはどうすることなのか…私たちにとっては、とても難しい所だし知りたいところでもあると思います。
親業はコミュニケーションをベースに学びますので、その側面から述べてみたいと思います。“愛”を伝える「肯定のわたしメッセージ」や、また相手が話していることに、一切茶々を入れずにただ耳を傾ける、積極的傾聴法「能動的な聞き方」があります。特にこの傾聴法は、相手が “愛情”として具体的に受け取っていける、実は最高のコミュニケーションなのです。(コラムNo12)
相手の話に耳を傾ける。これは“愛”の第一の義務だ
ポール・ネイリッヒ
“40点”のテストを見た途端に「ゲームばっかりしてるからでしょう!」とつい叱ってしまうケースは多いですよね…。ところが親業の傾聴法は次の通りです。
A 「お母さん今日テスト返してもらったけど怒らない?」
母 「お母さんが怒るかもしれないと思って不安なのね」
A 「うん、でも教えてあげるね。40点だったんだ…」
母 「そう、40点でがっかりしてるのね」
A 「そう、それから社会は60点だった…」
母 「そう、60点だったの」
A 「うん、だけどね、5年生になると理科も社会も難しくなるから仕方ないんだ」
母 「そう、五年生になると学科が難しくなるのね」
A 「そうなんだよ。でも難しいからもっと頑張らなくてはいけないんだよ…」
途中ですがざっとこんな会話です。親の気持ちは一切出さないで、フィードバックを通して、“あなたの気持ちをただそのまま受け取ってるよ…”ということを伝えているのです。子どもは、自分の思考を邪魔されないので、自分の行くべき方向がこうして見えてくるのです。特に子どもが問題を抱えているときにはとても大切な傾聴法です。(但し、親が問題を抱えた場合は“自己表現”というコミュニケーションを取ることができます…コラムNo10・No11参照)
親業が大切にしているこの傾聴法は、子どもがどんなネガテイヴな感情を出してきても、批判も講義も提案もしないで、ただただ共感をもって聴いていく。すると子どもは、自分は“丸ごと受け入れられている”“自分は自分でいいのだ”“自分の感度で生きていいのだ”…と、親の無条件の愛を感じ取って、自分に自信をもち、真の自立へと向かっていけるのです。それを繰り返し体験することを通して、自分自身をどんどん確立していくのです。それほど私たちは、Tさんが言っているように、自分の想いを否定されないで、誰かに黙って聞いてほしいのです。そして無条件の愛を感じ取って、より自分自身でありたいのです。
しかし、相手が話すことに、心からの共感で耳を傾けることは、そう簡単なことではありません。相手のネガテイヴな感情を真に受け止めていくには、受けとめる側の心的状況が整っていないと本当はとても難しいのです。私たち親も人間です。ある程度幸せでなければ、子どもや周りの人を真に受け入れることは難しいのです…。 そこで、一人の人間として自分が幸せになる為に出来ることを、次回あらためてご一緒に考えてみたいと思います。
*次回のコラムは12月20日前後の予定です