2017年9月20日水曜日

自分の身体にもっと思いやりを

Column 2017 No.52

 私たちの身体は、物理的には目に見えない精神(心)と物理的に目に見える肉体で出来ています。精神(心)で人生を感じ味わい、肉体で生きている実感を味わい、生を楽しんでいます。私たちの身体は “大海原を航海してくれる船”です。

 そして船の中から、天与の視・聴・触覚でもって人生を味わい楽しんでいます。視覚で海・空・山・星々・森・花々…等の自然を楽しみ、書籍・絵画・映画・舞台等を楽しみ、子ども・伴侶・友人・ペット等の表情を見つめて幸福感に満たされます。聴覚で波の音・鳥の声・風の音・雨の音・音楽…等を聴いて楽しみ味わっています。味覚で食事・美酒・スイーツの美味しさを楽しみ、味覚を生かして美味しいお料理を作ります。嗅覚で海の香・花の香・森の香・食べ物の香…等を楽しんでいます。触覚で自然を体感し、人と繋がり愛を確かめ合います。

 身体に備わった、この五感と精神(心)は、絶妙に融合し協調して、私たちの大海原の航海を見守り、人生をかけて私達を救護し楽しませてくれています。ところが一生をかけてお世話になっているその心と身体を、私たちはどれだけ意識し、大切にし、感謝をしているでしょうか。知らず知らずのうちに無理をしていると“身体を酷使していますよ!”“身体に無関心すぎますよ!”と、身体は症状を示して警告してくれます。 私自身も寝不足が続いたり、ついつい休息することを怠って不養生が続くことがあります。すると頭痛が来たり、不整脈を起こしたりして絶妙にサインが送られてきます。私たちの身体は、私たちが楽しく無事に人生を航海していけるように…と、懸命に見守ってくれているのです。愛に溢れているのです。

身体が発信する“信号”“身体語”を日々正しく受け止めること。
それが養生の第一歩です  五木 寛之

 若い頃に比べると私自身も、ちょっとした段差や、何かの端に躓いて転ぶことも出てきました。こんな時、以前の私は、「ほんとうにつまらんねえ…。こんなことで!」…と、本当に痛くてとてもせつない時に、本当は一番優しさが欲しい時に、自分に対して嫌悪と誹謗で接してしまっていました。不安や恐れの感情で接することはあっても、共感と愛情のまなざしで接してあげられることはあまり無かったような気がします。

 今は少し違ってきました。傷んだ体をさすりながら、「痛かったねえ!痛かったねえ…。ごめんね!今度から気を付けるよ…」と、咄嗟に言えるようになりました。(これも訓練です…)そして不思議なのです。すると身体はちゃんと答えてくれるのです。“大丈夫よ…”と。不思議なほど痛みも和らぎ、重篤な症状にならない…そんな経験を何度もしています。

 医師の長堀 優氏は「…米国の細胞生物学者、ブルース・リプトン博士は“細胞一個一個に感性がある”と言っています。例えば単細胞のミドリムシは餌があれば寄っていくし、毒が来ると逃げていく。単細胞ですから脳みそも神経もないわけですが、そういったことが全部わかる。だから博士は“細胞はそれだけで完璧な生命体である。しかも生きる感性を持っている…ということを言っているんです。そうであれば癌も細胞ですから、生きる感性があるので、当然人間の思いとも関係してくる…」と述べています。

 最近読んだ次の書籍は、そのことを立証するような、驚くような実体験が書かれていました。今回のコラムはその著者である工藤 房美氏のメッセージを中心に、お届けしたいと思います。その頃彼女は、末期の癌で子宮から肺・肝臓・腸骨…と癌は全身に転移し、手の施しようがない状態で、医師からは「広がりすぎて手術は不可能です。抗がん剤治療だけをやります。残念ですが1ヶ月の命です…」とある日宣告されます。彼女には3人の子どもがいるので、“まだ死ねない!”と、その現実を受け入れることができず、打ちひしがれ、絶望状態に陥ります。

 しかし、彼女は、入院中知人から送られてきた 村上 和雄著の「生命の暗号」(サンマーク出版)という書籍に出逢っていました。そして神秘的な遺伝子の働きを知った彼女は、雷に打たれたような衝撃を受けます。“…こんなに自分のために働き続けてくれた細胞に全くの感謝もしないで無理を重ね、癌になってしまうほどに細胞を傷つけてしまった…。身体からの小さなサインの数々を無視し続けた結果、最終手段として細胞は癌という形で主張するしかなかったのだろう…。もっと関心をもって注意深く気持ちを聴いてあげればよかった…。申し訳なかった…”と。

 そして彼女は決意します。“残り少ない命だけれど、これまで支えてくれた60兆個の細胞と遺伝子に心を込めてお礼を言ってから死のう…”と。それからというもの、彼女は寝ても覚めても「細胞さん有難うございます!」と唱え続けます。
 癌細胞には最初は“有難う…”とは言えなかったけれど、健康な細胞に感謝の言葉を言い続けているうちに、とても自然に、癌細胞にもお詫びと感謝の言葉がでるようになった…と述べています。

「…私は癌が治るように“ありがとう!”と唱えたのではないのです。私を支えてくれていた細胞が、癌細胞になってまで自分に気付かせようとしてくれた、その健気さを心から愛おしいと思い、心からごめんなさい。これまでありがとう…という気もちになったのです。…抜け落ちていく一本一本の髪の毛にも“今まで私の髪の毛でいてくれてありがとう”と、感謝しました…」

 そしてこう言っています。「すべての細胞に、無心に“ありがとう!”と感謝していたら、有難いという気持ちが降ってくるようになった…。続いて“ありがとう”と言っていたら、さらに有難い気持ちが降ってきて、まるで雪のように心にふんわりと積もっていき、やがて“感謝”が心いっぱいに降り積もって、溢れだしてきた…そしてこれまでに経験したことのないような幸福感に満たされてきたのです…」と。

 そして自分が癌だということも、残り少ない命だということも、髪の毛が無いということも、そんなことが一切どうでもいい些細なことに思えた…。そしてただ感謝いっぱいで、嬉しくて幸福な気持ちに満たされていた…と言います。それから数か月後ですが、久々に訪れた病院での検査では、何と!肺を覆い尽くしていた水玉模様の癌も、肝臓にあったこぶし大の癌も、跡形もなく消えていた…。癌の告知から約10ヶ月後のことだった…。

 彼女は言います「…毎朝朝日を浴び、生かされていることに感謝し、自分の身体に、ひたすら”ありがとう”を言い続け、金髪のかつらをかぶってお友達に逢いに行き、そうやってわくわく楽しく過ごすなかで、(村上和雄先生の言われる)からだの95%の眠っていた遺伝子が目を覚ましたのでしょう。そして(癌細胞は健康細胞に変わり)本来の仕事である“健康に生きるための活動に”に加わりはじめたのでしょう」と…。そして「“ありがとう”の感謝の言葉は、正確には数えていませんが、優に10万回は超えたと思います…。」

今ある“苦しみ”は、本来の自分からのメッセージであり、
“愛に他ならない”のだと気付き、受け入れたとき、
その時こそ本当に心からの感謝ができるのだと思います
工藤 房美

工藤 房美氏 の書籍を紹介しておきます。
「遺伝子スイッチ・オンの奇跡」(風雲舎)


*次回のコラムは10月20日前後の予定です

2017年8月20日日曜日

一日1回でいい。ほんの僅かな時間でいいから、
一人ひとりの子どもを、心を込めて見つめてあげよう
ジョンソン
Column 2017 No.51

 子どもへの愛情表現はスキンシップだけではありません。コラムNo42でご紹介したコミュニケーションは“無条件の愛”を伝えていく上でとても大切なコミュニケーションの方法です。またコラムNo48でお伝えしましたが食を満たしてあげることも基本的な愛情伝達です。そして冒頭のアメリカの心理学者ジョンソンが“一人ひとりの子どもを心を込めて見つめて…”と言っていますが、愛情のこもった目線を子どもに合わせていくことは、子どもが親の愛情をシンプルに受け取ってくれる大切な愛情伝達のもうひとつの方法です。

 この“一人ひとりの子どもに…”という辺りが実はポイントです。親である私たちは幾らか相性はあるにしても、どの子にも同じように愛情をもっています。ところが子ども達から「お兄ちゃんの方が大切なんでしょう!」とか「妹ばっかり可愛がって!」と、ある日唐突に言われて、全くその気がないだけに、とても衝撃を受けたという体験は無いでしょうか。

 しかし胸に手を当てて考えてみたら、子どもにそう思わせた行動・言動が、もしかしてあったかもしれません。あるお母さまの体験ですが、毎朝二人の兄弟を集団登校の場所まで送って、その二人の兄弟に“いってらっしゃ~い!”と手を振って見送ります。ある日のこと学校から帰宅した兄弟のひとりが「ママ!言っとくけどね!朝バイバイするとき、いつもK(弟)ばっかり見とるよね!」とすごい見幕で言ったそうです。

 お母さんの心に衝撃が走りました。何故なら心当たりがなかったからです。でもよく考えてみたら、お兄ちゃんは集団行動に慣れていて、しっかり行動できるけれど、今年学校に上がった弟はまだ自信なさそうに見えるので、“心配の目で弟の方ばかり見ていたのかもしれません”とお母さんはおっしゃっていました。でも子どもにはそんな理由は通用しません。一人ひとりがみんな親の愛情を必要としているのです。親の目線が今どこに行っているのかをいつも見ているのです。親の目線で愛情を測っているということがあるのです。大切に思っている親が、自分を見つめてくれないのは想像以上に子どもにとっては悲しいことなのです。「注目されたい」という欲求は人間の基本的欲求のひとつで、子ども時代に充分に満たされる必要があるのです。

 学校の授業で、子ども達はみんな、授業の内容に集中しているか…というと、実はそうばかりではないのです。親からの愛情を充分に受け取っていない子供は、教師が話す課題に注目しない…というより“注目できない”で、教師が、いま誰を見ているか、自分にも注目しているか、どんな感情でいるか…等々、“課題よりも教師自身に注目する”傾向がある…と言われています。

 このように、親からの“愛情の確認”は、その子の将来の“課題への集中力”にも確実に影響を与えていく…ということなのです。この側面から考えても、親は一人ひとりの子どもにきっちりと視点を合わせて、本気で子どもの話を聴いたり、親の愛情を伝えたり…つまり“注目されたい”という基本的欲求を満たしておいてあげることは非常に大切だということが解かります。

 無意識ですが、親は、一番最初に生まれた子どには特に注目する(目線がいく)傾向があります。何故なら親にとって初めての子どもは、何事も初めてなので、いいも悪いも緊張がいつもあります。幼稚園も初めて、学校も初めて、勉強も初めて、ママ友も初めて、受験も初めて…当然に注目がいきます。だから昔から“総領の甚六”という故事があり、一番初めに生まれた子は、多くの目線が集まり、しっかり関わられており、大切に育てられているので、おっとりとして、お人よしが多い…というわけです。結構真実を付いているような気がします。

 しかしその弟妹となると、親にとってはどの子も可愛いことには決して変わりないのですが、幾らか育児のコツもわかり、慣れてきてそれほど手も心も掛けなくなる…。つまり“注目が少なく”なっていくわけです。しかし子どもから見ると、自分に目をかけてくれないということは “自分は居ても居なくてもいい存在なのではないか…”“自分には価値がないから親が大切にしてくれないのだ…”と、受け取っていく場合だってあるのです。

 以下に、私の講座を受講されたあるお母さんの体験の一部を、ご本人了承のもと紹介します。

 8歳のH子さんとお母さんが一緒にお風呂に入っていた時、H子さんが急に泣き出してこう言ったそうです。「あのね…夜ご飯の時、クイズ番組でお兄ちゃんが答えを当てたでしょ。その時ママもパパも“凄いね!”ってお兄ちゃんを褒めてたよね。その前の問題で私が当てた時は、パパもママも“ふう~ん”という感じで全然褒めてくれなかった。私すごく悲しかったよ。お兄ちゃんばっかり!えこひいきだよ!」

 お母さんはそんな気持ちはなかっただけにびっくりされましたが、その時の子どもの気持ちをきちんと受け止めて「そうか…自分の時は褒めてもらえなかった…と寂しい気持ちでいるんだねえ…。ごめんね。悲しかったね…」と心からの共感で受けとめられました。すると「そうよ…。凄く悲しかったんだから。特にママはいつも受験のことでお兄ちゃんのことばかり構ってるよね。私、そういうのもいつも寂しいんだよ」

 お母さんは決して言い訳をせず、そのH子さんの気持ちを、続いてそのまま受け止めていかれました。「そうか…お兄ちゃんは構ってもらっているのに、自分は注目されていないと感じて寂しい気持ちでいるんだね…」と。すると「そうよ…私、一人ぼっちな気持ちになるんだから。受験だから仕方ないとは思うけど、私にもやっぱり構ってほしいよ(泣く)」「もっと構って欲しかったんだね。寂しい思いをさせてごめんね…」

 そのあとのお母さんの感想です。「クイズ番組のことがきっかけではあったが、娘が日頃の思いを打ち明けてくれたのには驚いた。講座に通い始めてからなるべく能動的な聞き方(共感をベースにした聴き方)を心掛けるようになったので、娘も思いのたけをぶつける気持ちになってくれたのかもしれない。息子にばかり構っている積りはなかったのだが(中略)…娘はそのあと、安心したように静かに泣き続け、そのあとは私に甘えてきました…」

 H子さんはお母さんに本音を語ることができ、本当の自分の気持ちをそのまま受け止めてもらって、どんなに癒されたことでしょう…。子どもは、すべて分かっているのです。お母さんの大変な事情も…。だから一生懸命我慢もします。しかしやはり寂しい思いをしているのです。やっぱり見つめてほしいし関わってほしいのです。

 H子さんの言い分・訴えは、誰にも言えず寂しい気持ちを抱いたまま黙って我慢をしている多くの子ども達の気持ちを、明確に代弁してくれています。子どもを育てているお母さん(お父さん)方お一人おひとりに、このH子さんのメッセージを是非お伝えしたいと思いました。

子どもへの最大のプレゼントは 親の積極的関心です
加藤 諦三


*次回のコラムは9月20日前後の予定です

2017年7月20日木曜日

今、この瞬間を幸せでいましょう。それで充分です

今、この瞬間を幸せでいましょう。それで充分です
マザー・テレサ
Column 2017 No.50

 次の一文(作者不詳)は、ずっと以前、受講者のK・Mさんが私に送って下さったものです。

最初 私は高校を卒業し、大学に入ることばかり考えていた
その次には 大学を卒業し、就職することばかり考えていた
その次には 結婚をして、子どもを持つことばかり考えていた
その次には 私が再就職出来るように、早く子どもが大きくなって小学校に上がってくれることばかりを考えていた
その次には退職することばかり考えていた
そしてもうすぐ「死ぬ」という今になって‥‥ふと、“生きる”ということを忘れてきたと気がついた      

 先日、久しぶりに出逢ったこの一文に、私は再び引き込まれました。私自身、今を生きることの大切さを理解し、今に意識を置いて生きようと、心してきたつもりではいたけれど、この作者と同じように、人生の終盤に近づきつつある今、本当に“生きてきただろうか…”と、あらためて自分の人生を振り返ってみる気持ちになるのでした。

 確かに、私は懸命に子どもを育て上げ、また仕事も頑張って一応の成果もあげてはきたけれど、心の一隅に時折よぎる、虚しさや、寂しさ・憂うつ感…はいったい何だろう。機関車のように前だけに向かって懸命に生き抜いてはきたけれど周りの景色をゆったりと眺めてきただろうか…。いつも先々起ってくることを予測して、仕事においても何事においても、用意周到に準備をして臨んできたけれど、自分の成果を楽しんだり、評価してあげてきただろうか…。

 5月の中半、娘と久々に佐伯区の植物公園に行きました。暑くもなく寒くもなく心地いい天候でした。可憐な花、エレガントな花、堂々とした花々たちが、精一杯自分の花を咲かせていました。花々と心を通わせながら丁寧に見ていきました。時折聴こえてくる鳥たちの声にも耳を傾けました。ベンチに腰を下ろしてソフトクリームを食べながら空を眺めると、綿菓子のような雲が浮かんでいました。何という幸せなひとときだろう…。時間が止まっているような感覚がありました。時間に追われるような日々の感覚が、遠くに感じられるようなひとときでした。明日の仕事のことも、今夜の夕食のことも考えていませんでした。そのひとときがただ心地よく、心も身体も平安と喜びに満ちていたのです。久々に今のひとときを楽しんでいる感覚です。

過去に生きることはよそう。今を生きよう。
食べているときには食べ、愛しているときには愛そう。
誰かとおしゃべりをしているときにはしゃべり、
花を見ているときには花を見よう
そして瞬間の美しさをつかみとろう

 以前コラムで取り上げたレオ・バスカリアの詩を思い出しました。そう!躍動している命が感じられるのは、過去でも未来でもない。まさに「今」だけなんだなあ…と、無心に咲く花々や広い空を眺めながら改めて実感したのでした。本当の自分に出逢えたような安堵感…。前だけを見つめて生きることも素敵だけれど、時には周りの景色を眺めたり、こうして心赴くままに降り立って、すべての日常から離れてみる…。こんな機会をもっともっと自分に与えてあげたい…そう思いました。何故なら本当に生きている実感は、こうしてゆったりと自分の心に出逢ってあげているときなんだなあ…と改めて気付いたからです。

 しかし世の中は楽しいことばかりではありません。つまり、晴天もあれば雨天もある…。

誰にだってあるんだよ 人には言えない苦しみが…
誰にだってあるんだよ 人には言えない哀しみが…
ただ黙っているだけなんだよ…    相田 みつを

 心地いい幸福がずっと続くなんて誰も信じてはいないでしょう。その通りです。人生には色々と予期せぬことが起こってきて、希望を失いかけることもあるものです。しかし、本当の自分に出逢うということは、苦しい場面であっても逃げないで、幸せな場面と同じように、そのひとときの住人になることだと思うのです。

ネガテイブな感情も優しく見つめてあげてください。
それを味わうために人として生まれてきたのだから。 日木 流奈

 ネガテイブな感情も私たちの大切な一部です。静かに呼吸を意識しながら、苦しいひとときの自分、哀しいひとときの自分と共にいてあげる。しかし長居をする必要はないのです。感じては見送り、感じては手放す…。あとは気持ちの赴くままに心が喜ぶことをやってあげたらいいのだと思います。何故なら私たちの心は本当はいつも喜んでいたいから…。

 喜びも哀しみも私の人生の大切な伴侶…。「今を生きる」ということは、現在に集中できる能力です。うわの空にならないように、瞬間瞬間を感じて生きていく。

自分を揺すって絶えず目覚めていよう…。
今日を心ゆくまで味わって生きるのだ。 デール・カーネギー

 “自分を揺すって絶えず目覚めて…”というカーネギーのフレーズは、私の心を沸き立たせるものでした。まさに現実は“いま”だけ!そしてそれが本当の自分に出逢っているひととき…。目を覚まして、思い切り感じて、生きていこう。

昨日は去りました。明日はまだ来ていません。
私たちはただ今日あるのみ。さあ始めましょう。 マザー・テレサ


*次回のコラムは8月20日前後の予定です

2017年6月20日火曜日

あなたの感度はあなたの最高の教師です

Column 2017 No.49

 自分からくる感度は、自分にとって最高の教師だ…と思える人は、生きる上で、まさに“最高の感度”を持った人だと思います。今の時代、メデイアによる情報にどっぷりと浸かって自分軸がどんどんブレて、それにつれて生きる上での“感度”が極端に鈍ってしまっている時代に思えます(コラムNo16)とても憂慮すべきことに思われます。

 本来は一人ひとりの中に、いわば感度を基本とした自動制御装置のようなものが備わっており、今は息を抜くとき…いまは頑張るとき…それは誰にも分からないけれど、無意識にそれに従って健康に気をつけたり、休息を取ったり、頑張ったりしていけるわけです。ところが今の時代、会社では一日中パソコンに向かい合い、乗り物に乗ればスマホでのゲームに余念がない人々…。いつ自分の気持ちや自分の身体を感じるひとときを持つのでしょう…。感度はどんどん鈍っていくことでしょう。

 特に子どもにとってはあらゆる瞬間が大切です。一人でぼんやりしたり、砂いじりしたり、パパと釣りをしたり、水族館に行ったり、星空を見たり、ママとお菓子作りをしたり、本を読んだり、冒険をしてわくわくしたり、度が過ぎて叱られたり…どの瞬間も子どもの感度を育て、自分軸を強くします。ところが今の時代メデイアに押されたり、また勉強に時間にとられて、自分を感じる時間は殆どありません。

 子どもは自分軸が弱体化してくると、無意識ですが危機を感じ、いわゆる不登校をしてみたり鬱をやったり、逆に家庭内暴力に出たり暴走したり…社会や大人とのせめぎ合いをしながらでも、自分軸を取り戻すために果敢に戦います。わからなくなった自分を探し求めている状態です。愛のある指導は大切ですが、焦らずじっくりと、今のその体験を味あわせてあげることも大切です。

人間の目は 失敗してはじめて開くものだ
チエーホフ

子どもたちは勿論、人は間違いを侵しながら学ぶ権利があるのです。悩む権利も、迷う権利も、落ち込む権利もあるのです。そんな痛みの中で人は哲学をし、鋭敏な感度・自分軸を育てていくのだと思います。間断なく与えられる外からの刺激(メデイアからの溢れる情報・親からの支配や怒声・説教…等々)によって子ども達は(私たち大人も)自分自身にゆったりと対峙するチャンスが奪われ、大切なエナルギーをすり減らし、自分自身をどんどん見失っていくのです。その結果が今の子ども達や人々の心の混乱であり、憂慮すべき社会情勢なのです。

 受講者Uさんの体験です。「…食事のとき家族みんなでテレビを見ているとき、父がニュースの内容について“あいつはいい・悪い”とか、“けしからん”とか自分の考えを大声でずっとしゃべり続けるので、私は私なりの考えを感じるゆとりがなかった。いつも父親の意見を聞かされてきました。だから、何処か借り物の人生を送ってきたような気がするのです…。」

 Uさんはその痛みがどこから来たのかに気付かれ、乗り越えていかれました。自己理解は大切です。しっかり自分を感じて、この違和感はどこから来るのだろう…このしんどさはどこから…と自分を感じてみることはとても大切なのです。その多くの答えは社会情勢や家庭の中で“自分を生きてこれなかった環境があった”ということです。

 人の数ほど生き方のスタイルはあるのです。正しい・正しくないは無いのです。自分のスタイルを大事にして、自分の感度を大切にして、他者と較べず、自分の道を堂々と生きていけるような環境を、子ども達にも私たちにも与えてあげたいものです。

人は人 吾は吾なり とにかくに 吾行く道に 吾は行くなり
西田 幾太郎

 「親業」が基本にしている考え方は「自分軸」がものさしです。例えば、一般論に“子どもが人を叩いたら、怒る(叩く)べきです”…があったとします。その価値観を100%信頼して、あなたがあなたの子どもにいつもそれをあてはめるとしたら、子どもはつぶれます。「親業」では決して世間のものさしで判断をしません。

 以前のことですがある街なかで、父親が前を歩き、2人の兄弟がその後ろを歩いていました。弟が盛んに兄の方にちょっかいを出しています。兄の方は初めは無視をしたり、かわしたりしていましたが、とうとう切れた様子で弟を蹴って泣かせてしまいました。すると父親がいきなり振り返り、兄の方の頭をげんこつで殴りました。兄は何の抵抗もしないで、虚しそうな表情で歩いていきました…。こんなことが続いたとしたら、この兄の方の救いはありません。いつか潰れてしまうでしょう。父親は子どもの様子は一切見ていないで、無意識ですが、世間の物差しや先入観で反応したのでしょう。

あなたの感性がものさしです

この父子の親子の場面でも、親は自分の“今の感度”を信頼していくのです。ある時は2人の子どもの言い分をきちんと聴いていく。ある時は言って聞かせる。ある時は蹴らずにおれなかった兄の心の痛みに共感していく。或は黙って見守る…。それを決めるのは、お父さんお母さん一人ひとりの感性であり、それを信頼していくのです。またその感性を訓練していく場でもあります。

 自分の感性や感度を、より信頼していくためには、自分の感じ方を尊重していくことから出発です。私たちは育った環境の中で、“あなたの考え方は未熟だ…。あなたの感じ方はおかしい…。あなたは間違っている…。”私たちはそう受け止めてしまった為に、自分の感じ方に自信が持てないのです。感情には間違いというものはないのです!自分に来た感情は、自分にとってはいつも真実なのです!その自信を取り戻していくことからです。また自分の気持ち感情の真実を、どう表現していくかは、勿論大切ですし訓練も必要です。

 外からの情報に頼り過ぎないで、自分からくる情報を信頼して生きてみる。“こんな時あなたはどうしたい?”“今あなたはどう感じてる?”と自分に問いかける練習も必要です。やがて必ず答えが、自分の中からやってきます。自分を信頼すればするほどやってきます。直観力も冴えてきます。社会の、ある種のイデオロギーに流されたり、宗派のドグマや価値観を鵜呑みにすることもなくなり、ひとり一人の中にある感度(制御装置)が正常に起動し始める!それこそが、私たちの悲願である“人類の平和”への強力な流れを作っていくのでは…と私は信じているのです。人類一人ひとりの魂の中にこそ真実が存在していると思うからです。祖父のことをたびたび出して恐縮ですが、名言だと思うので書いておきます。

  本を読み過ぎない(しかし本を読むことは大切と常々言っていました)
  価値観を鵜呑みにしない
  誰であれ他者を崇拝しすぎない

 “何事も過ぎたるは及ばざるが如し…だよ。自分を信じ、自分からくる答えを信頼して生きていきなさい…” それは、彼が常に言いたかったことでした。その影響からか、私は、私に来たフイーリングは、私にとって行くべき道…そう信じて今日も生きています。自分の中にある力を信じない限り、人は“孤独や惨めさ”からは、決して解放されないと思うのです。そして真の平和…も。


*次回のコラムは7月20日前後の予定です

2017年5月20日土曜日

一番おいしい料理はお母さんの作る料理だ

一番おいしい料理はお母さんの作る料理だ
田中 健一郎
Column 2017 No.48

 「食べる」ことは、人間の最も基本的な欲求である…と心理学者のマズローも言っています。生命を維持したい…という“生存欲求”に繋がっているからです。確かに「食」は人間の生存に係わる最も基本的な分野です。しかし飽食と言われているこの時代ですが、人々の「食」に対する心の置き方考え方は今なお発展途上にある気が致します。

 厚生労働省が提示している “食を通じて子どもの健全育成のあり方に関する検討会”に関する報告書の中に次のような一文がありました。

「…近年子どもの食をめぐっては、発育・発達の重要な時期にありながら、栄養素摂取の偏り、朝食の欠食、小児期における肥満の増加、思春期における痩せの増加…など問題は多様化・深刻化し、生涯に亘る健康への影響が懸念されている。また親の世代に於いても、食事づくりに関する必要な知識や技術を十分有していない…との報告が見られ、親子のコミュニケーションの場となる食卓において家族そろって食事をする機会も減少している状態にある…(以下略)」

 確かに私個人の仕事を通してもその実態を知ることになります。
 母親が精神的な不安定で朝起きることができず、よって朝食の用意ができない。お弁当も作れない。また現在多く問題になっているのが、共働きや自営で両親が忙しくまた子ども側にもお稽古や塾などの事情もあって、食事の時間がまちまちで家族そろっての食事ができにくく、子どもが一人で食事をする日が多い。また親が日常的に忙しく、店で作られた食品・加工食品・ファーストフード・レトルト食品…等々で賄っていることが多い。当然、栄養が問題になっているケースも目立ちます。

 さらに厚生労働省が指摘しているように、親自身が“食事が如何に子供の身体・精神に影響を与えているか”という知識を学んでいない。また料理を作る為の技術を習得していない…例えば包丁が使えない。材料の処理の仕方が解らない。レシピが理解できない…等々。その結果、子どもは栄養不良に陥り、筋力の低下・疲れやすい・精神不安定な子どもが目立つ…しかも大人の中高年に発症するような肥満・高血圧・糖尿…等の生活習慣病が児童に増加しつつある…という恐るべき事実が報告されています。

 また子ども達は、メデイアの目覚ましい進化の波に飲み込まれて、たまたま家族そろっての食卓を囲むことがあったとしても、それぞれの子ども達が、テレビを観ながら…スマホを触りながら…と、せっかくのお料理に注目することもなく会話もない…食卓。この寂しい現実をどうしたものやらと、親御さんから相談を受けることも多くなりました。

 私の子ども時代にはまだテレビもありませんでした。もっぱらニュースは新聞とラジオからでした。しかし食事中にはラジオを付けることも禁止されていました。家族みんなが食卓に揃うまで、小さな子どもでも待たされました。(勿論事情があれば別ですが)そしてみんなで声を合わせて「いただきま~す!」と合掌して食事が始まりました。これは我が家が特別ではなく、おそらくどこの家であっても同じだったような気がします。

 今から考えれば食事はとても質素なものでした。でも野菜は豊富に用意されていました。母が料理が得意だったので、質素でも美味しかった…という印象があります。そして現代とは少し違う親の指導がありました。「おしゃべりはしないで静かに食べなさい!」(食事は楽しい会話をしながら食べよう!という今の価値観は素敵ですよね)「残さずに食べなさい!」「よく噛んで食べなさい!」…そのほか“背筋はまっすぐに”“肘をつかない”…等々、結構厳しい食卓だった印象があります。

 中でも驚きは「自分でこぼしたものは拾って食べなさい!と言われていたことです! 現代と比べれば驚きのマナーですね!殆ど風邪もひかない私の並み外れた免疫力はこんな所からもきているのかもしれません(笑) 今も食べ物への敬虔な想いは私の中に根付いていて、レストランでもご飯の米粒ひとつでも残さないように…と心掛けている自分があるのです(笑)幼い頃から育てられた価値観は、人の一生に影響を与えるんですねえ…。

 ちなみに私の祖父が家族みんなによく言っていた食に関する価値観があります。食事に関する祖父の「食事を頂く4原則」です。

“腹八分”“感謝して”“よく噛んで”“美味しい!美味しい!”
と言って食べたら、毒も毒にならないんだよ

 “毒も毒にならない…” 比ゆ的に言っていたのかもしれませんがその文言が印象的に残っています。  「…よく噛むことによって唾液が分泌され、発がん物質に作用し、突然変異能力を弱くすることができる。…。発がんを抑制するにも、噛むことの大切さが再確認された…」と何かに書かれてありましたので、祖父が言っていたことは、まんざら誇大な表現でもなかったようです。
 次は冒頭のフレーズ、帝国ホテル総料理長 田中健一郎氏の言葉です。

一番おいしい料理はお母さんの作る料理だ。美味しいものを
食べさせようという気もちがいっぱい詰まっているから
お母さんの料理が一番おいしい

 今の時代家族そろっての食卓は難しいかもしれません。しかしお母さんが可愛いわが子のために、わくわくと楽しそうにお料理を作る。その愛情のいっぱい詰まったお料理は、例え子どもが一人で食べることがあったとしても、その愛はちゃんと伝わる! お母さんの料理は、いま謳われるこまごまとした栄養バランス・高価な食材・目先の美しいレストランのお料理…等々を、はるかに越えるものだと思います。そのお母さんの料理は、食卓にまで持ち込まれているメデイア依存さへも、解決させていく力を持っているのではないでしょうか。

 カウンセリングの場で時に尋ねることがあります。「お母さん、お料理はお好きですか?」…と。「私は、何の取り柄も無いのですがお料理を作るときは凄く楽しいのです!」そんなお母さんの子どもさんは、今どんなに難しい状態にあっても不思議に立ち直っていけるのです。「食べる」ことは“生きていたい!”と云う人間として一番原点の“生存欲求”です。それが満たされるということは、“あなたを生かしたい!”…と言う親の最高の愛を伝えることができるからだと思います。

 ずっと以前、ある新聞の投稿欄に寄せられた18歳の専門学校生の一文がとても心に残っています。「…10年前、両親は別居し、母が私を引き取った。私はお料理を覚えて、仕事から帰ってきたお母さんに“新作”を作って喜ばせた。…でも本当は“お母さんの作ったご飯が食べたい…”とずっと思っていました…」


*次回のコラムは6月20日前後の予定です

2017年4月19日水曜日

正直な言葉は相手の心にまっすぐ届きます

Column 2017 No.47

 「…断ることが苦手で、本当は行きたくないのに、誘われるとつい行く羽目になったり、買いたくない品を買う羽目になったりして…あとで悔しい思いをすることがたびたびあります…」と言った相談を受けることがあります。

 私たちは断ることが何故こうも苦手なのでしょうか。それはおそらく幼い頃から親子関係の中で“断ることはいけないこと”“断ると嫌われる”…という価値観を色々な形で受け取ってしまったからではないでしょうか。

 お母さんから「お隣に回覧板をもって行ってちょうだい」と言われたとき、あなたが今、観たいTVを観ていたり、模型作りの途中だったりすると、「いやだ!今は駄目!」と言いますよね。するとお母さんは「ほんとに言うことを訊かない子なんだから」とか「役に立たない子ねえ!じゃあお母さんが持っていくわよ!」と不機嫌に応じられることが日常的だったりすると、「ああ、“NO”ということはいけないことなんだ…嫌われるんだ…」と子どもは受け取ってしまい、“NO”ということに罪悪感を覚えるようになっていきます。一方、

 食事のおかずを、「まずい!」と言って子どもが残したが「残念ねえ…」と言って、なぜか母親は受け入れてくれた。
 遊びに夢中になって、親との約束を忘れてしまった子供に、「困ったんだよ…」と親は諭したけれど、許してくれた。
 親にお手伝いを頼まれたが、自分にもやりたいことがあって「いやだ!」と言ったら「そうなの。残念だわ…」といって受け入れてくれた。

 生活万般、いつもそうはいかないにしても、時にこのように機嫌よく“NO”を受け入れてもらった経験のある子どもは、“NO”を言ってもいいんだ…できないことがあってもいいんだ…僕が僕であっていいんだ…と学んで育つので、人間関係に恐れがなく“NO”と言いたいときに率直に言えるのです。

 日本人の多くは、いい子を求められ“NO!ということにはリスクがある”的な教育を受けているので、一般的に自分の本当の想いを表現するのは結構苦手です。その結果“日本人は何を考えているのか分からない”と揶揄(やゆ)されたりし ますが、その原因の多くは、おそらく欧米人と違って、“はっきりNO!と言えない国民性”が、そういった誤解を生んでいるのではないでしょうか。

 でも一度しかない人生です!“NO”が言えない為に、不正直に他人(ひと)さまへの協力だけで、あなたが本当にやりたいことができないままに人生が終わったとしたら、何と悔しいではありませんか。本当に断りたいときに率直に断り、自分の時間を大切にしていくことは、自分の人生に責任をもつ人の、とても素敵で尊い行動なのです。

正直な気持ちはとても大切だ。しかし相手がそれを受け入れ
やすいように準備することは、同じように大切だと思う
おちまさと

おち氏の言っている通りです。自分の想いを表現するとき、自分の想いだけで頭が一杯になっていると、つい押しつけがましくなったり、言い訳がましくなったり…その結果、相手を傷つけたり怒らせたりして、相手との人間関係は壊れる方向に行ってしまいがちです。人間関係はコミュニケーションで成り立っています。よって人間関係が壊れてしまう原因の多くは、コミュニケーションのまずさからきているのです。コミュニケーションを正していけば、人間関係も正されていくのです。

 自分の真実の気持ちを、相手のハートに届けようと思ったら、おち氏のいうように、それなりに周到な準備がいるのです。親業はコミュニケーションの取り方を学びます。自分の本当の想いを大切にして、それがまっすぐに相手に届くように、受け取る側の心情をも大切にしたコミュニケーションの形を学習します(コラムNo11)。そしてそれを相手に伝える前に、さらに周到に訓練していきます。繰り返し訓練していくことで、やがて必ずあなたは、コミュニケーションのベテランになっていけるわけです(コラムNo12)。

 自己表現には色々な形がありますが、今回は、気の進まない誘いなど、“お断りしたいな…”とあなたが思うとき、相手に不愉快な思いを与えずに断る方法を少しご紹介しましょう。親業訓練協会主宰の「人間関係講座」が提供しているスキルのひとつです。断る「理由」と「意思」を相手に明確に伝えることがポイントです。例えば「今日は家で片づけをしたいので(理由)行かないことにします(意思)」 “意思”とはあなたの本当の気持ちです。

 “行けません”とか“できません”は意思ではないので、誘った人は「~してあげますので行きましょう」とか「あなたなら出来ますよ」のように乗っかってこられやすいのですが、“行かないことにします”と意思が伝わると、あなたの固い決意が伝わるので、“なるほどわかりました“と相手に理解頂けるのです。大切な人間関係であれば、“理由”は忘れずに付けて下さいね。「いま病人を抱えていますので(理由)今年の役員は引き受けたくないのです(意思)」のように…。

 しかし人間関係を続ける必要のない場合は、「貴金属は買うつもりはありません(意思)」「新聞は要りません(意思)」と意思だけで伝える方が、はっきりと断れます。この場合、理由を付けたりすると、逆にそこに乗っかってこられやすいのです。

 受講者Sさんの体験です。「…大切な友人なので、誘われても今までは断り切れず、少し無理をして付き合っていました。しかし学習してからは、行きたくない時には思い切って断ることにしました。拍子抜けするほどBさんはあっさり解って下さるのです。それからはBさんも、都合の悪い時は率直に断って下さるようになりました。より親密になれたような気がします…」

 案ずるより産むが易し…です。率直で正直な自己表現は、相手に安心感を与え信頼を得ることになるのです。もっとも、いつも“NO”を発信するだけでは、人間関係は成り立ちません。自分に正直でいるなら、心から“YES”と言いたいこともある筈です。 “自分への思いやり”と“相手への思いやり”が、自分の中で快適なバランスを持つこと…。これがコミュニケーションの基本です。

 自分を大切にするということは、自分に正直になることです。あなたが今、心や身体のどこかに苦しみや痛みを感じているとしたら、それは自分にもっと正直になりなさいというサインかもしれません。誰よりも自分に優しく自分を大切に生きてください。

あなたの人生はあなたのものです


*次回のコラムは5月20日前後の予定です

2017年3月19日日曜日

人の癒しは人生をかけて成し遂げられます

Column 2017 No.46

 私が前回取り上げたテーマを思い出して頂くべく、ずっと以前、受講者Hさんから頂いたお手紙の一文を、了解の上そのまま載せてみたいと思います。次女さんは現在25歳ですが、その次女さんが小学校低学年の頃の体験で、その頃頂いたお母さんからのお手紙です。

「…小学生の次女ですが、先日ふと見ると、ドレッシングの空いた瓶にお茶を入れて、まるで哺乳瓶のようにしてお茶を飲んでいたのです。それを見た時、断乳をした時のことを思い出しました。下の子の断乳の時、熱が出たりして身体の調子が良くなかったので、何の前触れも準備も無くいきなり “はい!お乳バイバイよ!”という感じで、断乳してしまったのです。1才3ヶ月頃のことです…。しかし子どもにしてみればそれはあまりに突然で、しかもまるで拒絶されたかのように感じてしまったかもしれません…。

…それでお茶を飲んでる子に“Eちゃん!Eちゃんは今、お茶をお乳みたいにして飲んでいるけど、お母さんが、お乳バイバイよ!って突然辞めたのがいやだったんじゃない?って訊いてみたんです。そうしたら深くうなずくやいなや、“ウワァ~!”と泣き出してしまい、あとはただただ泣きじゃくるばかりでした。暫くして私がちょっとその場を離れようとしても“だめ~!”と言うので、ずっと抱っこしていましたが、その抱っこも、ただ抱かれているというより、しがみつくという感じでした。やむをえず断乳をしてしまったのですが、子どもにとっては“なぜ!?”と思うばかりだったのかもしれません…。何か私と子どもの間で切れていたものがひとつ繋がったような気がしました…」

  “…子育ては本当に難しいですね…”と続いて書かれていましたが、お母さんの体調というそれなりの正当な理由があって対処したことであっても、子どもはやはり傷つくんですね。しかしこのお母さんは、そのことが子どもの心情にいかに混乱や驚きを与えてしまっていたか…ということに気付かれ、見事に対処されています。お母さんの素晴らしい“感度”に敬服したことでした。岡田氏のいう「愛着障害」に繋がるところを防ぎ止められたということですね…。

 このように子どもという存在は(我々を含めて)、覚えている筈もない年齢のことでも潜在的にちゃんと覚えていて、何かの縁に触れると、その潜在的な傷を表面化して癒す方向へと持っていくのです。子ども(私たちすべて)は誰ひとりとして自分の人生を諦めてはいないのです。何度も何度も親の愛を確かめたり(親に代わる対象を見つけたり)Hさんのお手紙にあったように、子どもの心に残っているこだわりは勿論無意識ですが、“幼児がえりを”してでも、修復を試みます。小学校5年生のW君(次男)の例もそのひとつです。W君は不登校を機にお母さんの“後追い”(あとおい)をはじめました。母親への後追いが見られるのはエリクソンの発達段階によれば幼児期前期に見られる行動です。お母さんのお話によると丁度その時期、長男の入院で次男の面倒が見られず、実家に一年近く預けていたということでした。

 またある女の子Sさん(小学4年生)はトイレに行くのに母親についてくるように執拗に強要し、“パンツ脱がせて!”と要求したり、スプーンを欲しがり赤ちゃんが持つような危なっかしい手つきで食べたり、赤ちゃん言葉で話す…などの行動が現れお母さんは大変混乱されていました。無意識ですが“幼児がえり”をしてでも母親に気付いてもらい、心の空洞の修復を逞しく試みようとする姿です…。そんな“幼児がえり”をする子どもの例は枚挙にいとまがありません。

 しかし“幼児がえり”の背景には大条件があり、母親に母性を感じた時に限られるということです。“今のお母さんなら受け入れてくれそう!”子どもはちゃんとそれをキャッチしているのです!どんな形であれ、空洞を埋め直した子どもは本当に幸せです。そして子どもの幼児がえりに驚きつつ、子どもの心に丁寧に愛を埋め直していったお母さんもあっぱれです!“幼児がえり”はその子の心の空洞を埋める大切なチャンスなのです!“幼児がえり”だけではなく、子どもの困った行動の多くは、やはり心の空洞を見せていますので、お母さんの愛で満たしてあげることが大切です。

 “幼児がえり”への対処の、大切なポイントがあります。現在子どもがどんなに大きくなっていても、“幼児がえり”をしたその年齢の子どもに合った対応をしてあげることです。「もう赤ちゃんではないのよ!」「お姉ちゃんでしょ!」という類いの言葉を言いやすいのですが、それを言ってしまうと多くは本来の年齢にすぐに返りますが、折角の癒しのチャンスを逃したことになります。だから“抱っこ!”と言えばしっかり抱きしめてあげる。“ついてきて!”と言うならついていってあげる。「一緒にいて!」と言うなら居てあげる…。

 …きちんと満たしてあげるなら後退の状態は長くは続かないものです。長く続くようなら、それだけ深く傷ついているということがあるかもしれません。しかし諦めないで付き合い続けたお母さんは、それを機に子どもとしっかりとした絆で結ばれていきます。絆さえできればこれからの人生どんなことが起ころうと、子どもは逞しく乗り越えていけるのです。母親がその子の“心の基地”になれば、人生という大海原に子どもは安心して大きく羽ばたいていけるのです。

 子どもの“心の基地”になってあげられる親は、やはりある程度の心の整理、つまり自立という条件が要ります。しかしいま親をやっている私たちも、育ててくれた親を持っています。必ずしも愛に溢れた親に育てられたわけではありません。多かれ少なかれ岡田氏のいう「愛着障害」と闘いながら我が子を育てているわけで、悲しいかな気付けば自分が育てられたように我が子を育てているわけです。でもそれが人間の性(さが)でありその性と闘いながら懸命に生きているのが私たちであり本当に愛おしい存在です。

 次は受講者E.Tさんの体験です。

「…夫と話していて途中からいつもやり切れなくなって涙が出始めるんです…。夫は“お前はいつもすぐに泣く!言いたいことがあるんならちゃんと言え!” 実は話の内容で悲しいのではない…。ちょうどその頃、講座の中で自分と親の関係を見つめている期間だった。そこでハッと気付いたのです。夫の話し方が父の話し方にそっくりなことに…。自分は幼い頃から父の話し方にいつも威圧感を感じて怖かった…。夫に初めてそのことが伝えられたのです。夫は“そうか…父親に問い詰められているような気がしたのか…。ごめんな…” 胸の中がスーッとして、夫も許せる気がしました…」

 大人になった今でも、E.Tさんの体験のように、ふとした縁に触れて、過去の傷が浮上することがあります。つらいですがやはり癒しのチャンスです!浮上したときこそその傷が消えていくチャンスなのです。大切なのは、その都度それにどう向き合っていくかということです。

 私自身も過去の想念が浮上して辛い時期がありました。その頃すでに両親はいませんでしたし、誰かに聴いて頂くことも結構苦手な方なので、私のやり方ですが、浮上してくる過去の想念や出来事からは決して逃げないで、ありのままに日記のようにどんどん書き留めていきました。しかしただの日記ではなく、実はその出来事に係わった人に宛てた手紙です。そしてその時に抑え込んだ感情を必ず付け加えるのです。「お父さん、あなたはお母さんに対して~と言いましたね。その時傷ついたであろうお母さんを感じて、私もやり切れない気持ちでした。わたしも凄く傷つきました…」というふうに…。そして必ず自分自身に共感をしてあげます。「辛かったね…」「傷ついたね…」「やり切れなかったね…」のように。「過去感情日記」と私なりのネーミングをして、カウンセリングの場で、今もクライアントの方にお勧めしてかなり効果的です。

 本気で人生を楽しむことも大切です。心が喜ぶことを果敢にやることです。さて以前のコラムにも書きましたが、よく挙げられる例えです。「泥水で一杯のコップでも、そこに綺麗な水を注ぎ続ければ、そのコップの水はやがて必ず清水に変わる…」と。 親子関係で、今も親を憎み許せない気持ちいっぱいのあなたでも、理由があるのだから、決してそれを消そうなんて思わないで、感じたら手放して、手放せなかったらそっとそのままにして、一方人生を楽しむというわくわくとした清水をコップに注ぎ続けていると、いつの間にかその水は、“親への捉われ”と入れ替わって、あなたはやがてエネルギーに満ちてくるのです。

 また、人間の気持ちの動きにはバイオリズムがあると言われます。そのバイオリズムが下がっているときには整理していたつもりでも、残っている澱(おり)のようなものが浮上してくることがあります。そんな時も私はやはり泥水の入り混じったコップの水をイメージします。そして自分なりのツールで「大丈夫!大丈夫!」「赦します!」「愛します!」「ありがとう!」…その時その時に思い浮かぶ私なりのポジティブなツールを、例のコップに注ぎながら、更にどんどん綺麗な水になっていくイメージで見つめていきます。

 何でもいいのです。自分にとって分かりやすい具体的で象徴的な形(シンボル)を創って、ポジティブなツールの言葉で自分の中の澱(おり)をどんどん解放していくのです。ある脳学者が書いていました。私たちの脳は実にシンプルで、私たちの想いをそのまま真直ぐに受け取っていくらしいのです。シンボルがとても効果的なのは、シンプルなので脳が受け取ってくれやすい形なのだと思います。

 「…腹が立つ!許せない!愛せない!…でも私を赦します!愛します!大丈夫!何とかなる!…」と、ネガティブな思いは感じて赦して“そのままに”新しいポジティブな想念をどんどん上書きし続けるのです。これは私が絶えずやり続けている訓練です。やがて潜在意識を占領していた自己否定や他者否定の想念が、新しいポジティブな想念に機嫌よく席を譲ってくれる日が必ず来ます。

思考も訓練のたまものなのです

*次回のコラムは4月20日前後の予定です