2025年9月20日土曜日

分離意識からバランス意識へ

 2025年 講座開講スケジュール

 下村亮子チャンネル『 TRUST YOUR FEELING - あなたの中の答えを信じて 』

Column 2025 No.145

 月と太陽の規則正しい運行。太陽系では太陽を中心に8つの惑星がバランスを保って太陽を公転しています。潮の満ち引きや春夏秋冬の自然界のバランス…。また生態系においても、生物同士や生物と環境が互いに関連し合って、絶妙なバランスをもって維持されています。食物連鎖や大気・水・土壌などの物質が生物や環境の間を絶えず循環し、利用されることで生態系は維持されています。生態系はしかし決して固定されているものではなく、常に変化しながらも全体としてのバランスを保っているのです。

バランスは静止ではない。それは継続的な調整だ
アンジェラ・ダックワース
 
 アンジェラ氏のこの指摘は非常に感慨深いものがあります。周りの環境の変化に絶えずさらされながらも、すべての存在は本来のバランスに戻ろうと調整を怠らないのです。

 私たちは正反対の事象に位置する多くの極性に囲まれて生きています。例えば、昼と夜 夏と冬 呼気と吸気 左脳と右脳 光と闇 主観と客観 外交的と内向的 長所と短所 リラックスと緊張 ポジテイブとネガテイブ 前進と後退 男性性と女性性 仕事と休息 インプットとアウトプット…等々まだまだ沢山の極性が日常的にありますよね。

 磁場にも正と負があるように、呼吸にも呼気と吸気があります。また頑張ることも、気を抜いて遊ぶこともその人のバランスです。仕事と休息のバランス、他者の話をしっかり聴くことと自分の気持ちを明確に伝える自己表現とのバランス。また時には、前進ばかりではなく立ち止まったり後退してみることも、とても大切なバランスです。人それぞれが自分自身の感性で心地よいバランスを取っていき、それが結果的に人間関係のよいバランスに繋がるならば、それは世界の平和にも繋がっていくのではないでしょうか。

 ところが問題となるのは、“良い・悪い” “正しい・間違っている” “ポジテイブ・ネガテイブ”といった、人々の中にある価値判断の基準です。
 この分離した極(きょく)が自分を含め、人類一人ひとりの中にあるために、対極に見えるものを非難・判断し、自分の中のバランスや周りのバランスを崩してしまいます。その結果、様々な人生模様を創りだして、泣いたり笑ったりしながら生きているのが私たちです。
 今、世界の脅威となっている戦争も、もとは宗教や価値観における相違が一つの大きなきっかけであることは間違いありません。実は相反するものもすべてバランスをとることでしか調和は生まれません。また相反するものがあるからこそ、調和を生み出そうとするエネルギーが働き、人類が気づいていくチャンスとも言えるのです。

闇を知らなければ光を理解できません。闇が無ければ光の存在は見えません。
光と闇の両方を経験することによって、より広い深い経験を創りだすのです。
賢者の言葉

 人それぞれの中にある観念・信念・判断・制限…等々の枠組みでもって、自身や他者の価値観を判断し、“私とあなたは違う” というふうに分断していく。これを「分離意識」と言います。この分離意識を超えていくために深い理解が必要ではないかと思われますのは、一人ひとりの価値観に間違いというものはないということ、また今その人がどんなプロセスを生きていても当人にとっては必要なプロセスを踏んでいるのだということです。

 分離意識がある限り、私たちは混迷・苦しみ・痛みの中で生きていくことになります。「あの人の考え方はおかしい」「私には~が無いから価値が無い」「あの人より私の方が正しい」「私は負け組だ」…等々。極(きょく)の世界観がある限り、本当の安らぎ・歓びは無くて、常に誰かと比較し闘い、その結果、不安恐怖の中で生きることになります。

 そろそろ私たちは、対極のどちらにも偏らない生き方、つまり分離意識からバランス意識へと統合していく時代なのではないかと感じます。どっちつかずという安易なものではなくどちらにも偏らない生き方、つまりニュートラル(中庸)な視座に立つ生き方です。

 例えば、対極にある“闇と光”について考えてみましょう。つまり先ほどの賢者の言葉が示す視座です。闇があって光がより深く感じられる。闇も敵にまわすことなくどちらの極にも偏らず真ん中に立ってみる。それが統合です。闇を見ないということではなく、向き合いつつも怖れたり戦ったりしない。光にもとらわれない・闇にもとらわれない。賢者の言葉だけあって相当深いレベルの話ではありますが、まずは、対極にあるものを静かな心で見つめてみることはバランスを取り戻すためにとても大切な心組みだと思います。

  どちらの状態をも受け入れることによって、葛藤から抜けられます。
  言い換えればポジテイブな考え、ネガテイブな考えの両方を
  どちらが上だとの順番をつけずに受け入れるのです。
  これは愛の行為です。愛はいつでも、如何なる二極性をも超越します。
  愛は決してどちらかに与(くみ)しません。両方の側面を受け入れます。
  ポール・フェリーニ

 “いいバランスとは~です”…それは誰も教えてはくれません。自分の中の価値判断に気づき、頭のレベルで考えることを少しゆるめて、自分の感性に頼るしかありません。知らず知らずに取り込んだ固定観念に気づき、それを解放しながら自分の心のリズム、身体のリズムを大切に生きる。するといつの間にか無意識に呼吸をしていると同じように、自分にとって快適ないいバランスを掴めるようになるのではないでしょうか。そのままでいい、存在しているままでいい…と言った双方を見つめる大らかな愛の視点が、分離意識を卒業し、すべてを解決に向けていける力(ちから)となるのではないでしょうか。

バランスは目には見えないが、感じられる
レオナルド・ダ・ヴィンチ

*次回のコラムは2025年10月20日前後の予定です。

2025年8月20日水曜日

誰をも崇拝しない

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 下村亮子チャンネル『 TRUST YOUR FEELING - あなたの中の答えを信じて 』

Column 2025 No.144

 ノーベル物理学賞(1973)を受賞した江崎玲於奈氏は「ノーベル賞を取る為の何か条件はありますか」というインタビュアからの質問に対して、とても興味深い答えを述べています

師匠は持っても依存しない方がいい。考えは受けてもいいが大先生にのめり込まない

 どんなに偉い先生であっても、のめり込まない。つまり崇拝しない方がいい。いつも自分の頭で考え、自分から来るアイデイアを大切にすることだ…ということを伝えているのだと思います。実は私の祖父も同じことを言っていました。過去コラムにも書きましたが、再び取り上げてみます。次のフレーズです。

本を読み過ぎない。人の話を聴き過ぎない。人を崇拝しない。

 本を読むことは大切だが読み過ぎてはいけない。人の話を聴くことは大切だが聴き過ぎてはいけない。人を尊敬することは当たり前だが、他者を自分の上に置いて崇拝してはいけない…と。 その頃の私には祖父が言っていることがよく理解できませんでした。でも今は解かります。その頃、私は人生に悩んで、宗教にのめり込んだり、お風呂の中にまで本を持ち込むほど本に執着していた私を心配して、伝えてくれたのだと思います。「亮子どんなに周りに答えを求めても亮子にとっての本当の答えは外には無いんだ。答えは亮子のここにあるんだよ」…と言って自分の胸を叩いて教えてくれました。

 本を読むことも人の話を聴くことも大切だが、それらが過ぎると本当の自分自身が解からなくなったり、自分から迷い子になる危険性がある。いつも自分に着地しておくことの大切さを常に語っていました。

 脳科学者の茂木健一郎氏は「…読んだ本の高さだけ、世界が見えるようになる」と言っていましたが、確かにその人の世界観、価値観、人生観は読む本の数だけ広がり深まると思います。祖父も常に本を読んでいました。しかし彼は自分の真実をいつも大切にすることを忘れていなかったのだと思います。

 個性的な芸術家として知られる岡本太郎氏に次のようなフレーズがあります。

 僕にとってのプライドと言うのは絶対感だと思う。
 僕がバカであろうと非力であろうとそれが俺だ。
 そういう自分全体に責任を持って堂々と押し出す。
 それが俺にとってのプライドだ

 彼は他者を崇拝せず、至らないままの自分を受容して、しっかりと自分自身に着地して自分の世界を堂々と表現していった芸術家でした。彼の次のようなフレーズもあります。

 何かこれと思ったら他人の目ばかりでなく
 自分の目も気にしないで委縮せずありのままに生きていけばいい。
 つまりダメなら駄目人間でいいと思って駄目なりに制約を受けないで生きていく。
 そうすれば何か見つけられるチャンスがおのずから開けてくる。
 一日も早く実行してみるといい

 誰かを崇拝してしまうとその人の言葉に支配されて、無意識の制約を受け、自分本来の自由性をどんどん失っていきます。トーベ・ヤンソンが「あんまり誰かを崇拝しすぎるとほんとうの自由は得られないよ」とムーミンに語らせていますがその通りだと思います。人に合わせた不自由な人生ほど堅苦しく面白くない人生はありません。人を崇拝するという背景にある危険性に私たちは気づく必要があります。

 ここで「知識と智慧」について考えてみたいと思います。“知識”は事実や情報を知っている状態を指し、一方で“智慧”は知識を理解しそれを応用して適切に判断・行動できる能力、とも言われます。知識 は知識人の書籍や話を通して、あるいは周りの人々の言動等を通して情報を学ぶことであり、智慧 はその“得た知識を生きること”で得られるものです。その人なりに試行錯誤しながら自身を俯瞰したり内省したりすることで、つまり“知識を生きて熟成していく”ことで智慧となっていきます。その智慧は一人ひとりの中に重ねられていく貴重な魂の歴史とも言えるでしょう。「智慧は知識に勝る」と言われる所以です。

 祖父が伝えてくれた、自分不在のままに本を読み過ぎたり、人の話を聴き過ぎる…等々の危険性。人や周りを崇拝して生きるということは、自分の真実・価値に気づかず、いつまでも知識の積み重ねだけで、その知識が智慧に熟成されることがないままに、“もの知り”の範疇で終わってしまうことにもなるでしょう。

 本を読んで、自分の真実の中で反芻(はんすう)して感じてみる。人の話を聴いて鵜呑みにするのではなく、じっくりと自分の真実の中で感じてみる。すると、その人の心に響いたものは、自然に生活の中に生かされ反映されていくことになります。そうやって感じたり体験することで、その人の知識は智慧となり、ますます円熟した人格となって広がっていくことでしょう。

 自分軸をもってすれば、読書も大切。人の話を聴くことも大切。人を信頼することも大切。学びというそれらすべての経験は、熟成を通して智慧となっていく大切な“素材であり原料となる要素”ですから、学ぶことは基本的に重要なのだということを理解しておくことは大切です。

あなたが目的地なのに なぜ旅を続けるのですか
賢者の言葉

 自身の中の智慧から来た“答え”や“Feeling”はいつも私たちにとって最強の味方であり真実です。私やあなたの人生に関する感度は、私やあなた以上に冴えている人は、どこを探してもこの世には誰ひとりいないのだ、ということをお互いに本気で信頼し始めませんか。

*次回のコラムは2025年9月20日前後の予定です。

2025年7月20日日曜日

「待つ」ということ

 2025年 講座開講スケジュール

 下村亮子チャンネル『 TRUST YOUR FEELING - あなたの中の答えを信じて 』

Column 2025 No.143

 子どもが育っていく上で「待つ」と言う“親の立ち位置”は非常に大切です。以前にもコラム(No.88)で取り上げたことがありますが、今回は少し違う角度からあらためて「待つ」ということを考えてみたいと思います。

「待っているから」

心満たされるまで花と話してくるがいい
大丈夫 父さんはここで待っているから

まぶたが つらくなるまで星を数えてくるがいい
大丈夫 父さんはここで待っているから

いま君にしてやれること 父さんには何もない
ただひとつだけ 君を待っていよう

そんなに急がなくても 走らなくてもいい
大丈夫 父さんはここで待っているから

君には君の歩き方 生き方があるはずだ
大丈夫 父さんはここで待っているから

今君にしてやれること 父さんには何もない
ただひとつだけ君を待っていよう

作者不詳

 我が子への深く広い愛の気持ちがこもった詩ですね。こんなに広い愛の中で育った子どもは決して急かされることなく、ゆったりと自然と語ることが出来、また自分自身と語りながら自分という存在を見つめ、真の自己愛・自己価値感に目覚めていくことでしょう。

 私たち多くの親は、子どもを急かせていることには全く気付かず、子どものことを思えばこそと、特に勉強・宿題等々…結構うるさく関わっていないでしょうか。以前に“勉強に集中できない”という小中高の学生数人に親への思いをインタビューしたことがあります。

中1女子「うちの親は成績をすぐに友達と比べたり、平均点を気にしてしっつこい」
中3男子「こんな点取ってたら高校は無理よ…と嫌味を言う」
小5女子「今度成績が下がったらおこずかいを下げると卑怯なことを言う」
高1男子「いい会社に入りたかったら、もっと気合いを入れて勉強して、いい大学に入らなきゃあ無理よ…と偉そうに言う。大きなお世話だ!」
中2男子「宿題は済んだの!とか、試験は近いんでしょ!とか毎日毎日しつこく言う。早く家を出たい!」

 子ども達の切ない心情がひしひしと伝わってきたものです。この中の誰かが言っていました「勉強しようというエネルギーが無くなる瞬間です」…と。

指導の基本は 本人が気づくための時期を待つことです
羽生 善治

 子どもが自信をもって社会を生きていく為には色々な力が必要になります。自立心・自律力・判断力・選択力・やる気…等々。実は子どもは、自分の人生には責任を持って生まれてきていますし、責任を取れる力を持っています。だから子育てには「待つ」と言う親の姿勢が大切なのです。先ほどご紹介した子ども達の哀しい心情を育ててしまう親御さんは、熱心なあまり、過剰に子どもの人生に係わり干渉しています。結果的に、子どもは自分の人生に責任が持てなくなります。

 子どもの心が独り立ちするまでには散漫・逃避傾向など…親から見れば、いわゆる“いい加減さ”を見せる時期があります。その多くは、本当の自分が分からなくなって、自分から迷い子になってしまった時の逃げ場でもあり、自分自身を見つめ直すための時間でもあります。親にとっては、そこを静観して待てるか否かの正念場でもあります。

 子どもは、そのいい加減さを親からある程度認められながら、自分なりに心の積み木を積み重ねていく存在です。あるK君は思春期、かなりの迷路にはまって親御さんは大変な思いをしておられました。その子が言いました。「うちの母さんはあの時よく俺を見捨てなかったと思う」…と。自分のやっていることは親に迷惑をかけ、心配をかけていることを解かっているのは、誰よりも当の本人なのです。

 子どもは本来、無意識かもしれませんが、自分の成長にとって必要なやりたいことをやって、そこで気づいて成長していきたいという、「自己教育力」「自己管理能力」を持っているのです。待っていれば自ず(おのず)と、子どもはやりたいことをやって幅を広げ、生まれもった本来の力を発揮してくるのです。そう!子どもは見捨てなければ育つのです。

待つ 信じる 許すことが出来る監督
山下 智茂(高校野球指導者)

 彼の言う“監督が持つべき資質”は、親の資質としても同じことが言えると思います。しかし親も人間です。子どもを見守りじっと待ってみる…その姿勢は一朝一夕にはいきません。子どもに望む態度が、実は親の私たちにまず出来ているか否かです。あなた自身が“自分の親にとって都合のいい子”に育っているかもしれません。すると知らず知らずに子供を支配してしまうのです。

 自分の成育歴を一度眺めてみましょう。そして一度真っ直ぐに見つめることが出来たらOKです。あとは優しく自分を赦して、焦らず、急がず真の自立を目指しましょう。自立とは自分の頭で考え自分の足で歩む力です。自身がぐらぐらして周りの評価を気にしたり、他者と比べたりしていると、我が子のためと言いながら、他者の目から見て評価のいい子を育てようとしてしまいます。親が出来ないことは子どもに望むことはできません。

 親だって挫折はあっていいのです。起ることすべて体験です。体験から学びながら、魂を深く強くしていきましょう。自分の心が喜ぶことを子どものように無邪気にやってみてください。幼い頃からやりたくてやり損ねてきたことはありませんか。誰に笑われてもいいのです。心が幸せに感じることをやり始めて下さい。親自身が幸せになることは子育てのポイントであり、答えでもあります。心に余裕が出来ると、子どもを俯瞰できるようになります。待てるようになります。親のあなたが、ジクソーパズルの一番初めに置くべき「ピース」なのです。

*次回のコラムは2025年8月20日前後の予定です。

2025年6月20日金曜日

“言いわけ” をしない生き方

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 下村亮子チャンネル『 TRUST YOUR FEELING - あなたの中の答えを信じて 』 チャンネル投稿も再開いたしました☆

Column 2025 No.142

 “言いわけ”をしない生き方をする。私がこの考え方をもって生きてきたことには深い背景があります。“言いわけ”という意味もよく解からない頃から、私が何か不味(まず)いことをしたとき、私が自分を守るようなことを言うと、父から「言いわけはするな!」という言葉をよく投げかけられていました。「言いわけはやめるんだ!言い訳をしたって現実は何も変わらないだろ!あっさり非を認めて“どうしたらいいか”だけを考えろ!」ときつく叱られていました。

一生懸命だと智慧が出る。
中途半端だと愚痴が出る。
いい加減だと“言いわけ”がでる
武田 信玄

 もうひとつ心に残っている思い出があります。その時代、私の親たちは大きな瓶(かめ)に、梅とかラッキョを漬け込んでいました。中のものを頂いた後、消毒のためにその瓶(かめ)を母が庭に出して太陽に当てていました。その頃小学生だった弟が何かの拍子にその瓶(かめ)にぶつかって倒してしまい、その瓶は、庭をころころと転がり、最後に小さな溝に落ちて「ガシャン!」と大きな音を立てて壊れてしまったのです。

 さすがの弟も顔面蒼白。どんなに父に怒られるだろうと覚悟していたと思います。その時代にはきっと貴重な品だったと思うのです。状況をみた父の表情も驚きに満ちていました。弟は即座に「お父さんごめんなさい!壊してしまった!」と謝ったのです。すると父は「そうか。解かった!」と言っただけで、弟のあやまちを全く責めずに赦したのです。弟は勿論、私も父のその態度にびっくりしました。父の言動の意味がその頃にはよく解りませんでした。でも今ならよく解かります。父は言いわけが大嫌いな人だったので、弟の動転した表情と、言いわけなしの率直な謝り方が、父を納得させたのです。

 確かに言い訳は自分の至らなさを正当化したいという心理から生まれます。カクカクしかじか…こんな事情があったから自分はこんなことをしなければならない羽目に陥ったのだ。本来は自分には責任はない…ということを“言いわけ”をすることで証明しようとしている訳です。

 過去、私は大切な友人に誤解を受けて、辛い立場に立たされたことがありました。何とか本当のことを述べて理解をしてほしい…と気持ちが混乱しました。しかしその時は、第三者が関係していて、私の弁明でその人の立場が悪くなる状態でした。しかし、今自分が置かれた状況を何とか説明して自分を救いたい!…壮烈なジレンマと闘いながらも、ふと私は父の言葉「起こったことは言いわけしても何も変わらないだろ!どうしたらいいかだけを考えるんだ!」を思い出したのです。すると不思議ですが勇気が出てきて、弁明することを踏みとどまり、自身の責任として謝罪しました。結局十分には解決はしませんでしたが、その時の私の行動は今思い出しても「うん!あれでよし!」と、その時の自分の勇気を褒めてあげることが出来ています。

 プロの選手の「言いわけ」に関する考え方を紹介してみます。

プロはいかなる時でも言いわけをしない
千代の富士

準備と言うものは、言いわけの材料となりうるものを排除していく
イチロー

上達最大の敵、それは言いわけをすることである
バイロン・ネルソン

 スポーツなど、勝負の世界にいる人たちはミスをするたびに、言い訳をしたい気持ちと闘う場面は多いだろうと思います。しかし一流のプロは何があろうと、自分の負けは自分の責任において受け入れ、決して他者のせいにはしないんですね。

 こうして書いてきましたが、言いわけは結構気づかずにしていることも多いものです。特に女性の集まりでは“姑が大変、息子のクラスの先生が問題、夫のこの行動が…だから私が大変なのです。解りますか…”と言いたいわけですね。男性の集まりでも多く飲み会の席で“上司が悪い”“会社が問題”…無意識ですが他者の責任にして自分を守ろうとする愚痴(言いわけ)が漏れ聞こえてきます。

 私の仲間内で集まったときにも私を含め、これを気付かずにやっています。特に年齢を重ねてきた同じ年代の仲間たちと逢うと、決まったように「目が悪いから新聞が読めない」「耳が悪いから人に逢うのが億劫になった」「足腰が悪いので夫の食事を作るのが大変になった」…等々、卑下自慢大会のようです。

 でもこれも自分が動けない動きたくないの気持ちの中に潜んでいる、周りの責任にしたい「言いわけ」だと理解しています。目が悪い人でも読書をあきらめないで、拡大鏡を求めて読んでいる人もいれば、耳が悪くても仲間と逢って楽しんでいる知人もいます。やがて補聴器を求めて会話が楽しくなったと伝えてきた友人もいます。食事作りは大変だけど、運動がてら自分の為にと思って頑張っている人も沢山います。

何かをしたい者は手段を見つけ、したくない者は言いわけを見つける
アラビアのことわざ

 愚痴や言いわけは、自分の人生を自分で無意識に限定してしまいます。本当は私たちの人生は見方によれば無限であり、夢に溢れているのです。言いわけに現(うつつ)を抜かしていると、自分の夢を見失うことだって起こります。価値観に“いい・悪い”はありません。他者にどう評価されようと謝罪すべきことは謝罪し、自分の人生に言いわけをすることを辞めてみる。自分から来る答えを信頼して、自分が描いた人生を堂々と生きていきたいものです。

“今後、絶対に言いわけをしない”と決めることは、
人生をコントロールする力を自分の手に取り戻す“自由独立宣言”
本田 健

*次回のコラムは2025年7月20日前後の予定です。

2025年5月20日火曜日

マインドフルネスに生きる

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 下村亮子チャンネル『 TRUST YOUR FEELING - あなたの中の答えを信じて 』 チャンネル投稿も再開いたしました☆

Column 2024 No.141

 「マインドフルネス」とは、もともとはインドに伝わる仏教的な瞑想に由来しています。40年くらい前に、マサチューセッツ大学医学部のジョン・カバット・ジン博士が、宗教色を排除し「マインドフルネス瞑想」として体系化し、その後、欧米の多数の研究機関で医学的、科学的に幅広く効果が実証されました。そしてこの“瞑想メソッド”は、各業界にも大いに取り入れられて一躍世界中に広まり、グーグル、アップル…等世界をリードする多くの企業が導入しました(以上、Wikipedia参照)

「マインドフルネス」とは一言で言えば“今ここ”にいるための瞑想方法です。“いまここ”の現実にリアルタイムにかつ客観的に気づいていることです。つまり思考というバーチャルな世界を離れて“いまここ”に集中する生き方です
藤井 英雄(精神科医)

 自分自身に対峙するひとときを持つことはとても重要だと私は感じています。自分自身をまず理解することが全ての出発点だからです。それでは「マインドフルネス」とはどのような瞑想方法か、またそれをやることによってどんな効果があるのかなどについて、私が学んだ範囲で書いてみたいと思います。マインドフルネス瞑想の普及の為に活動を続けているアンディ・プディコムは、自著「頭を空っぽにするレッスン」(辰巳出版)の中で次のように述べています。

自分の心の中に常に静かで澄みわたった場所が
あるのを想像してみて下さい

 それぞれの人々の中に存在する“常に静かで澄み渡った場所”があることに私たちは気づかず、騒々しい環境や複雑な人間関係といった喧騒の中に常に身をおいています。つまり自分に対峙していないが為に、もめごと、いざこざ、トラブル…等々に巻き込まれてしまい、葛藤との狭間(はざま)で苦悩しながら日々を過ごしているのが私たちです。「マインドフルネス」は、それらの喧騒からそっと離れて、自分自身の中にある静かで澄み切った場所に戻ってみる行為でもあります。

 「マインドフルネス」は、これまでの瞑想と同じく座って目を閉じ、ただ自分の内面に向かう…と言うスタイルもそのひとつですが、普段の生活の中で、掃除をしたり、食事をしているとき、他者と共に居るとき、瞬間瞬間自分の心の位置に気づき続けることを大切にしています。考えで思考が寄り道をしていているときは、寄り道をしている今の自分の思考のプロセスに気づいている…つまり100%今の自分の思考の動きに気づき続けることを重要視しています。

 精神科医の藤井英雄氏は著書「一日10秒マインドフルネス」(大和書房)の中で、わずか10秒、何かをしながらの “ながらマインドフルネス瞑想” を勧めています。その時その時の一瞬の自分の感情を客観視して、“リアルタイムに本当の自分の感情に気づいていく”ことの重要性を提唱しています。

 例えば向かいの人が電話で話す声を意識している仕事中の自分だとします。自分が“ある感情を持ちながら、仕事を離れてその人の声を聞いている今の自分に気づき確認していく”のです。藤井氏は、折々の自分の気持ちに気づき続けるには、その都度自分の中でその状況を実況中継してみるといいと言っています。例えば、“話が長いなと思ってイライラしながら仕事から気持ちが離れている自分だな” のように。つまり、“今ここ”にいつもフォーカスしている状態が「マインドフルネス」の要(かなめ)なのです。

 これは実は「親業」が大切にしている、自分自身に“能動的なきき方”(共感的傾聴法)をしていくことと同じです(コラムNo140)つまり自分の今の感情にのめり込むのではなく、一歩引いた視点に立ち、今の自分の現実をただ俯瞰して客観的に見ている感覚です。

もしあなたが一日自分を見失ったら人生の一部を失います。しかしもしあなたが一日中自分に気づいていればあなたは永遠に生きることができます。何故ならあなたは「今」にフォーカスしているからです
賢者の言葉

 一日中その時その時の自分の位置・感情に気づき続けることが、賢者のいう一日中自分に気づいていることであり、「今」にフォーカスしている状態です。他者に対してイライラしてしまったり怒りを感じた自分を責めている自分に気づく…など、いつも心地よい体験とは限りません。しかし、過去でもない未来でもない「今」を体験している自分の感情をそのまま、評価なくただ俯瞰し客観視するからその感情が手放せるのです。

「マインドフルネス」は基本的に心と身体が長い間背負ってきた荷物から解放されていくことだと覚えておいてください。愉快な体験ではないとしても荷物を解き放つプロセスであり解き放つことで人生が軽くなっていくからです
アンディ・プディコム

 その他「マインドフルネス」の効果として、メンタルが改善され自律神経のバランスが整って様々な身体状況が整ってくる。心を今この瞬間に戻す訓練によって、ストレスの源を断ち切る力が向上して気持ちや情緒を安定させる。自己肯定感や自己受容能力を高める。仕事上においても、集中力・記憶力が向上することで、仕事上のマイナス要素が軽減され、コミュニケーション能力も向上する…等々、多数の研究機関によって医学的・科学的な効果が実証されています。

 私がこの「マインドフルネス」を身近に感じたのは、藤井英雄氏のフレーズの「瞑想の目的は、例えば食事をしているとき、食事に心を置いて味わって食べることが目的です。しかしその時出てくる雑念を消すことではありません。その雑念に気づき、一端棚上げをする(俯瞰して見る)ことで、食事をしている今の自分に再び戻っていけるのです」の考え方です。

 しかし藤井氏はこうも述べています。「振り払っても、棚上げしてみても、何度も戻ってくる不安感、悲しみ、怒りなどの感情があるとしたら、それら感情には対処してみる必要があります」…と。それは潜在意識にあるトラウマなど、自分にとってスルー出来ない意味があるのだと思います。よって、これに向かうことは、さらに深い「自己理解」に繋がっていくチャンスにもなります。

 「マインドフルネス」と、潜在意識に横たわる自分にとって避けては通れないネガティブな感情に向き合い続けることにより、自分自身がより鮮明になっていくのではないでしょうか。そして健全で心地良い「今ここ」を生きることが、さらに可能になることでしょう。

*次回のコラムは2025年6月20日前後の予定です。

2025年4月20日日曜日

《お知らせ》5/20よりコラム再開いたします。

コラムご覧の皆さま、こんにちは。

圧迫骨折のためしばらくの安静とリフレッシュ期間に充てておりましたが、
おかげさまで体の方も大変自由になってきまして、次回5/20よりコラム再開させて頂きます。どうぞ宜しくお願いします☆

2025年2月20日木曜日

《お知らせ》今回のコラムはお休みいたします。

コラムご覧の皆さま、こんにちは。

実はちょっとした所作で圧迫骨折とやらを起こし、しばらくの安静にて原稿準備が難しいため、ここは無理せず、今回(或いはここ数回)お休みとさせて頂きたいと思います。

身体は安静ですが、心は元気でいますのでご安心ください。

いつもありがとうございます。

また復帰コラムでお目にかかれるのを楽しみにしております☆

(…以上、息子に文章入力をお願いしました。)