2016年6月20日月曜日

誰かと共にいても、心は永遠にひとり旅です

Column 2016 No.37

幾山河越えさりゆかば寂しさの果てなん国ぞ今日も旅ゆく
若山 牧水

牧水のこの歌は、私の青年期の頃の心情にぴったりだったのでしょう。よく口ずさんでいたものです。いったい幾つ山や河を越えていったら、私の心の中の寂しさや虚しさが埋められる日が来るんだろう…と思いを巡らせながら。

 これから自分はどう生きていったらいいのだろう…。生きる意味も人生の目標も見つからないまま、本を読み漁って必死で答えを求めたり、誰か偉い人が答えをくれるかもしれないと宗教の門をたたいたり…。しかし、自分が求めている答えはどこにも無いんだなあ…ということが、その年代なりに理解できていました。

 家族や周りの人たちも愛念で色々答えをくれるけれど、私の心は何故か納得しない…。答えが見い出せないまま、自分を追い込んで鬱になったり、自暴自棄になったり…。しかし今も鮮明に記憶に残っているのですが、鬱からぼつぼつ立ち上がる頃、自分の中から、はっきりとしたイメージで“答え”が来たのです(コラムNo19) 今、思い返せば平凡に思える答えだけれど、その時の私の心境にはぴったりの私にとって必要な、思いもしない答えだったのです。その時が、私の本当の「自立」への出発点だったと思います。

 その時から私は“自分の外には答えはない!答えは私の中で私を待っているんだ”ということが、信念に近いものとなったのでした。私の心を本当に解っているのは私自身だけなんだ。誰かと一緒にいても、その人の本当のことは私にも解からない…。しかしまだ青年期にあった私にとって、その信念は、寂しさと哀しみを含んだものでした。“ああ、人生はみんなひとり旅なんだ。誰も人の人生は助けられないんだ。寂しいなあ…”と。

 しかし大人になってそのことが、自分の中でさらに腑に落ちてくると、私の生き方・考え方がとてもシンプルになった気がしました。本を読むときも他者の考えを聴くときも、いつも自分自身の軸が基準で、価値観は柔軟でいたいので参考にはするものの、揺らぐことが無くなり、より自分軸が太くなっていくのを感じるのです。それは私の仕事にも及んでいきました。

 私は今、講座の指導者として多くの受講者の方々とお会いし、ご相談を受けることも多い立場です。またカウンセリングの仕事も再開しました。相手の方に接するとき、その人の人生の問題は、必ずその人の中に答えがある筈…という信念で接しています。ただ日常の問題が複雑に絡んでくると、誰だって混乱します。だから先ず、その人が話したいことに茶々を入れず、ただ真っ直ぐに受け止めて、決して解決策を提示しない。その混乱を、ただ共感をもって傾聴し整理させて頂くだけで、実はその人は、ご自分の解決策に多く自分で辿り着かれる…ということを日常的に体験しています。

 私から見て、時にその解決策は限界があるかも…と思えても、その人から来た解決策は、その人にとって多くは、体験してみる価値があるということも…。
 「道草は自己実現の王道である!(河合隼雄)」 失敗を含めて、その人から来た解決策はその人の人生にとってはいつも万全だということです。

 人生はひとり旅です。親だからといって子どもの人生に介入する権利はありません。どんな子どもも、その子の中からくるハートの声に耳を傾けて、それを生きていく権利があります。その姿勢が子どもに真の自立を促します。親は心配なことがあれば自己表現はできます。しかし命に別条がない限り、権力で子どもにそれを取らせることはできません。ただ、親が子どもの幸せを心から願う気持ちさへあれば、子どもはやがて自分の真実に近づいていけるでしょう。どれだけ“子どもを信頼して待てるか”ということでもあります。

 私が尊敬していた祖父が、よく言っていたことを思い出します。祖父は大いなる存在を認め、お念仏も熱心にする人でしたが「何者をも崇拝してはならない。佛(ほとけ)は自分の“ここにある”んだから…」と、自分の胸を押さえながら真剣な面持ちで私に言ったものです。ある雑誌に鎌倉・円覚寺管長の、横田南嶺氏が書かれているエッセイがあり、とても心に残る一文がありました。

 「…一般に宗教といえば、絶対なる神仏にひれ伏して憑依するもののように思われるが<臨済録>には“仏に逢うては仏を殺し祖に逢うては祖を殺し”という言葉もあるように、いかなる権威も認めることをしない。絶対なるものを否定することによって、銘々自らの尊厳に気づかせようとしているのです。」「…仏や祖師を知りたいと思うならば、決して外に求めてはならない…。心を澄ませて自らのうちに向かって求め続けることが実は座禅であり…」とありました。

 私にとっては、“仏に逢うては仏を殺し”辺りは少々ショッキングな響きがありましたが、それは神仏を疎かにしろということではなく“私たち一人ひとりはみんな神聖な魂を宿した尊い存在なのだ。答えを外に求めるのではなく、自分の神聖に求めよ”…それに気付かせんためのひとつの方便なんですね。実は祖父が私に伝えようとしたことと同じことなんだ…とその一文は、私の心にしっかりと届いたのでした。

常に自分の中に答えを求めなさい。
周りの人や周りの言葉に惑わされてはいけません
アイリーン・キャデイ

私たちを何者かに変えようとする宗教や、イデオロギー、ドグマに振り回される必要は最早ありません。周りの雑音に心を奪われている時間もありません。インターネットをはじめとするテレビ・新聞・雑誌…等々メデイアから間断なく与えられる溢れる情報…。参考にはなりますが、自分軸がなかったら大変なことになります。

 一人ひとりの中に必ずある神聖(感性)に本気で気付き、信頼し、そこから来る真実・叡知・発想を一人ひとりが恐れず発信していく!…。それが真の“世界の平和”を実現していく出発点であり原点ではないでしょうか。“真の答え”は決して周りにはなく、一人ひとりの神聖な心の中にある…。

自分の感度を自分の人生のガイドに!

 あなたに来たフィーリングはあなたにとって行くべき道です。失敗と見える選択も多くは正しい感度のひとつです。誰かと共にいても、心は永遠にひとり旅です。ひとり旅は寂しいどころか、自分を生きる実感ある旅です。自分を信じて胸を張って生きていく道です。

人を信じよ。しかしその100倍も自らを信じよ
手塚 治虫


*次回のコラムは7月20日前後の予定です

4 件のコメント:

  1. そうですよね。自分の感度ですよね。
    だから、感度を磨けと!
    自分を大事にして、自分の心に聞いて、その中に自分のやりたいこと(ぶれない自分の気持ち・考え?)がみつけだされると。

    う~ん。納得しました。ときどき、心がぶれるけど。私の場合は。
    まあこれも、私なんです。

    「感じる心」再認識しました。

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    1. Kiyokoさま

      そうですね。一人の人間として一番大事なことは、自分の人生への感度ですよね。どう生きていきたいのか。何をやりたいのか。何をもって世界に寄与したい自分なのか…

      心の曇りが取れてくるに従って 誰の中にも必ず存在する神聖なる自分に気づき そこから来る答えは 世の中の雑音を超えた真の感度なんですね!心理学者のマズローも言っていることですが 、やがて到達するであろう自己実現の欲求領域に入った私たちの姿です。

      その為には、自分の人生の答えは自分の中にある…という信念を持って、決して雑音に振り回されず Kyokoさんも仰っているように 自分を正直に感じ感度を磨いていく! 少々心がブレても そのブレを感じてあげて許してあげると またちゃんと自分の軸に帰っていける!

      お互いにブレながら揺れながら 、本当の神聖な自分に統合していく日まで 自分に優しく 楽しみながら自分軸を大切に大切に生きていきましょうね!

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  2. 自分の心を本当に解っているのは自分自身。誰かと一緒にいても、お互いの本当のことは各々にしか解からないのですよね。

    永く付き合いのある人たちはここの部分をわかっているような気がします。
    お互いの聞く、話す、の中で自分の答えの参考になる部分を見つることができます。お互いアドバイスをし合うのではなくシンプルに「聞く話す」をしているだけで・・・。


    「あなたに来たフィーリングはあなたにとって行くべき道です。失敗と見える選択も多くは正しい感度のひとつです。誰かと共にいても、心は永遠にひとり旅です。ひとり旅は寂しいどころか、自分を生きる実感ある旅です。自分を信じて胸を張って生きていく道です。」

    これが自分を大切にすることの一つですね。

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    1. MOONさん

      その通りですね。例え 我が子といえども その子の本当の気持ちは その子しか分かりません。「私は分かります…」という親御さんがあったとしたら かなり傲慢な親と言えるかもしれませんよね。

      他者と自分は違うのだという「自他分離感」をもったお友だちと お付き合いが出来るMOONさんはお幸せですね! とても心地よい関係でいれますものね!

      これからも 周りの人と 心地いい関係でお付き合いしたいものですね。ときどき会って、お互いの "ひとり旅の感慨" が 心から共感し合えたら どんなに元気と勇気がでることでしょう。

      これからもひとり旅を わくわくと楽しみましょうね!

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