あきらめる一歩先に必ず宝がある
ナポレオン・ヒル
ナポレオン・ヒル
Column 2018 No.56
私たちは、諦めたことで、如何に沢山の宝を見過ごしてきたことでしょう。“あきらめる一歩先”ですから、諦めてしまったら、そのわずか“一歩先の宝”には出逢えないまま…ということになります。トーマス・エジソンもその昔、同じ意味のことを言っています。
「…本気で闘ったらどんな動物をも震え上がらせるほどの力を持った大きな象が、簡単な杭につながれたまま、サーカス場からまた新しいサーカス場へと移動していく姿。何の抵抗もしない。飼いならされたとはいえ、大きな木を根こそぎ引き抜ける力がある筈の象が、どうして逃げようとしないのか…。それは実は子象のときに、子象にとっては太く頑丈な杭に繋がれた。子象は逃げようと、来る日も来る日も、もがいてそしてもがいてみたが、ついに杭を引き抜くことは出来なかった。ある日子象は、逃げることは絶対不可能なんだとすっかり諦めてしまった。その日以来、簡単な杭に繋がれても“杭は絶対引き抜けない…”という観念(思い込み)が刷り込まれてしまって、大人象になっても再び挑戦をしようとはしない…」という物悲しいお話です…。
私たちもこの子象と同じように、幼い頃から、失敗したこと(貴重な失敗体験)に対して、親や周りの人々から“あなたは未熟”“あなたは頭が悪い”“あなたは何をやってもダメ”…こんなニュアンスを含んだ言葉を投げかけられて育ったとしたら、実は事実ではないのに“自分は無力なんだ”…と思い込み、この子象と同じように、自分で自分の足を、頑丈な鎖で縛ってしまうのです。
私たちが容易に諦めてしまうもうひとつの理由は“視野の狭さ”があげられます。今年のお正月は子ども達と共に、九州のハウステンボスで過ごしました。夜、皆んなで、久々に観覧車に乗ってみました。観覧車からは、美しいネオンに輝いたハウステンボス全体の光景を一望のもとに眺めることができました。“私たちが宿泊しているホテルはあそこだ!”“今見てきた所はあそこだね!”…高い所から視野を広げてみると気付かなかったことに気付きます。“あの道の方が早くいけそうだ”“あの道は行き止まりだね”…というふうに。視野が広がるとあの道この道と全体像がつかめるので、例え迷っても、簡単にあきらめる気持ちにならないものです。
1980年代のアメリカ映画「いまを生きる」(邦題)の中で、赴任してきた教師役のロビン・ウイリアムズが、厳格な規則に縛られて、不自由に生きている生徒たちに伝えたメッセージが、とても印象に残っています。「さあみんな、机の上に飛び乗ってみろ!どうだ!机の上に乗るだけで世界は違って見えないか!」…
生徒たちは恐る恐る机の上にあがります。こうして次第に教師の感化を受けていった生徒たちは、窮屈な縛りの生き方から、徐々に自由な見方・生き方…に大きく目覚めていきます。
“君たちは生きたい人生を生きる権利がある。広い視野で、意識をぐっと広げて物ごとを見れば、解決策はひとつではない。諦めるな!本当に生きたい人生を選んで生きていくんだ!”…ということを教えたのです。そして“少し離れた位置から自分を見たら、今いる自分の位置が明確になり、冷静に周りが判断できる。取るべき行動も見えてくる…” つまり自分を客観的に見る…ことの大切さをも、この教師は伝えたかったのだと思います。
“自分を客観的に見る”ということは、自分はこんな事態に陥ると、どんな感情が起こり、どういった行動をとる傾向にあるんだろう…と、価値判断をすることなく、自分の中に起き湧く感情や行動の、事実だけを真っ直ぐに見る姿勢です(コラムNo7)。つまりそれが「自己理解」あるいは「自分を知る」ことに繋がっていきます。 自己理解が深まれば深まるほどに、自然や人間の在り方の摂理が理解でき、世界(選択肢)は無限に広がっていくでしょう。だから客観的に自分を見れる人は物事を簡単には諦めないのです。
しかし、人生には“分かれ道”もあれ“行き止まり”もあります。人間の力ではどうしようもないこともあり得ます。その時、その状況を “人生とはそのようなものである”…と、そのままに受け入れてみる。それが“諦念”であり、単なるあきらめとは違います。諦念…を辞書で引くと「道理を悟る心、また諦めの気持ち」とあります。いかなる時も自分自身の勘を信じて、慌てず決して諦めず…突き進んでいくのか、一端立ち止まるのか、撤退するのか…を選択していく。その撤退は決して“あきらめ”ではなく、諦念であり、それは“道理を悟った”人の、深い智慧から生まれて来るもの…と理解しています。
人生に失敗した人の多くは、あきらめた時に、
自分がどれほど成功に近づいていたか気付かなかった人たちだ
私たちが諦めてしまうのは、一歩先に宝がある…ということを確信できないことに問題があるようですが、確信できない理由の一つは、実感のある“成功体験”が稀薄だったということがあげられると思います。その結果“自分は成功できるはずがない…”という強い“思い込み”が生まれて、うまくいかないと判断すると、すぐに諦めてしまう。その思い込み…とはいったい何でしょうか。こんな逸話(どうやらこのお話は事実らしいです)が記憶に残っています。
「…本気で闘ったらどんな動物をも震え上がらせるほどの力を持った大きな象が、簡単な杭につながれたまま、サーカス場からまた新しいサーカス場へと移動していく姿。何の抵抗もしない。飼いならされたとはいえ、大きな木を根こそぎ引き抜ける力がある筈の象が、どうして逃げようとしないのか…。それは実は子象のときに、子象にとっては太く頑丈な杭に繋がれた。子象は逃げようと、来る日も来る日も、もがいてそしてもがいてみたが、ついに杭を引き抜くことは出来なかった。ある日子象は、逃げることは絶対不可能なんだとすっかり諦めてしまった。その日以来、簡単な杭に繋がれても“杭は絶対引き抜けない…”という観念(思い込み)が刷り込まれてしまって、大人象になっても再び挑戦をしようとはしない…」という物悲しいお話です…。
私たちもこの子象と同じように、幼い頃から、失敗したこと(貴重な失敗体験)に対して、親や周りの人々から“あなたは未熟”“あなたは頭が悪い”“あなたは何をやってもダメ”…こんなニュアンスを含んだ言葉を投げかけられて育ったとしたら、実は事実ではないのに“自分は無力なんだ”…と思い込み、この子象と同じように、自分で自分の足を、頑丈な鎖で縛ってしまうのです。
人生において我々が囚われている鎖は、我々が生み出したものに他ならない
チャールズ・ディケンズ
もう十分に心も身体も大きくなったのだから、もう一度踏ん張ってみたら、その鎖を簡単にもぎ取ってしまうことができるはずなのに“私は無力なんだ…”の思い込みが、無意識にブレーキを掛けてしまい、それこそ“宝の一歩手前”で諦めてしまうのです。思い込みは幻想だということに気付かないままに…。
私たちが容易に諦めてしまうもうひとつの理由は“視野の狭さ”があげられます。今年のお正月は子ども達と共に、九州のハウステンボスで過ごしました。夜、皆んなで、久々に観覧車に乗ってみました。観覧車からは、美しいネオンに輝いたハウステンボス全体の光景を一望のもとに眺めることができました。“私たちが宿泊しているホテルはあそこだ!”“今見てきた所はあそこだね!”…高い所から視野を広げてみると気付かなかったことに気付きます。“あの道の方が早くいけそうだ”“あの道は行き止まりだね”…というふうに。視野が広がるとあの道この道と全体像がつかめるので、例え迷っても、簡単にあきらめる気持ちにならないものです。
1980年代のアメリカ映画「いまを生きる」(邦題)の中で、赴任してきた教師役のロビン・ウイリアムズが、厳格な規則に縛られて、不自由に生きている生徒たちに伝えたメッセージが、とても印象に残っています。「さあみんな、机の上に飛び乗ってみろ!どうだ!机の上に乗るだけで世界は違って見えないか!」…
生徒たちは恐る恐る机の上にあがります。こうして次第に教師の感化を受けていった生徒たちは、窮屈な縛りの生き方から、徐々に自由な見方・生き方…に大きく目覚めていきます。
“君たちは生きたい人生を生きる権利がある。広い視野で、意識をぐっと広げて物ごとを見れば、解決策はひとつではない。諦めるな!本当に生きたい人生を選んで生きていくんだ!”…ということを教えたのです。そして“少し離れた位置から自分を見たら、今いる自分の位置が明確になり、冷静に周りが判断できる。取るべき行動も見えてくる…” つまり自分を客観的に見る…ことの大切さをも、この教師は伝えたかったのだと思います。
“自分を客観的に見る”ということは、自分はこんな事態に陥ると、どんな感情が起こり、どういった行動をとる傾向にあるんだろう…と、価値判断をすることなく、自分の中に起き湧く感情や行動の、事実だけを真っ直ぐに見る姿勢です(コラムNo7)。つまりそれが「自己理解」あるいは「自分を知る」ことに繋がっていきます。 自己理解が深まれば深まるほどに、自然や人間の在り方の摂理が理解でき、世界(選択肢)は無限に広がっていくでしょう。だから客観的に自分を見れる人は物事を簡単には諦めないのです。
しかし、人生には“分かれ道”もあれ“行き止まり”もあります。人間の力ではどうしようもないこともあり得ます。その時、その状況を “人生とはそのようなものである”…と、そのままに受け入れてみる。それが“諦念”であり、単なるあきらめとは違います。諦念…を辞書で引くと「道理を悟る心、また諦めの気持ち」とあります。いかなる時も自分自身の勘を信じて、慌てず決して諦めず…突き進んでいくのか、一端立ち止まるのか、撤退するのか…を選択していく。その撤退は決して“あきらめ”ではなく、諦念であり、それは“道理を悟った”人の、深い智慧から生まれて来るもの…と理解しています。
人は常に前だけには進めない。引き潮あり、差し潮がある
ニーチェ
あきらめない! 一歩ずつ…
三浦 雄一郎
「もう十分に心も身体も大きくなったのだから」本当ですね・・・。自分で自分のやりたいことくらいどうにでもなりますね。
返信削除観覧車からの眺めのお話・・・示唆的でとてもよく理解できました。自分からズレている時とズレていない時。いつの間にか地下の道を歩いたりしてるのだろうな・・・・・そして どうして?と色んなことを感じながらいるとそのうちまた地上を歩いてる。
きっと行き止まりの道は選ばないはず!自分を信じて宝にたどり着きます!
MOONさま
削除おっしゃる通りで、周りからのネガティヴな印象で 自分の足を鎖で縛ってしまったとしても、もう心も身体も大きく強くなったのだから もうひと押しすれば、本来のまっさらな、自信に溢れる自分に なれるはず!ですよね。
おっしゃる通り、人間ですから時にはズレますよね …。違う道を迷いながら行くことも…。でもMOONさんは自分軸を持っていらっしゃるかただから、迷った体験を全て滋養にして新しい道を見つけ出していかれる人です。そう!必ず宝に辿り着かれることでしょう。
いつもコメント有難うございます!