Column 2019 No.70
これは親業が主宰する「人間関係講座」のキャッチフレーズのひとつです。“あなたの人生の主役はあなた”ですから、あなたは、自分が生きたい人生を生きる権利があるし、生きたい人生を、自分で創造していく権利もあります。勿論、自分が自由になる範囲での権利であり、他者と共有部分の範囲では、話し合ったり、合意点を捜すことが必要となってくるでしょう。
現代はかなり価値観も変容してきてはいますが、「私はいつも夫や子どもが楽しく暮らせるように努めてきました。自分のことなどあまり考えたことがありません…」「自分のことに時間を使ったり自分がしたいことをするのは、利己的なのだと教え込まれました。ですから自分が楽しんでいると、とても後ろめたい気持ちになるのです」…このように 自分の人生を主役で生きることに抵抗を感じている女性は、まだまだ多いと感じています。
表情に、どこか哀しみと不満をたたえた様子のある女性が言いました。「夫は、私がいなければ、自分が着るものがどこにあるかわからないんですよ」 しかし、こう話しているときの彼女の表情は、けっこう誇らしげなのです。“私がいないと、この人(夫)は生きていけないんだ…”と思うことで、自分の価値を保ち、無意識ですが、自分の無価値感のバランスをとっているのかもしれません。一方、ご主人の方も、奥様に依存していることに何も疑問を持っていない…。このような関係を「共依存関係」と言い、双方とも自立を阻まれている関係性です。
自分の人生を自分が主役で生きる…ということは、他者に依存しないで一人でも生きていける力です。自分が自由になる範囲まで、むやみに他者に解決策を求めたり、他者の同意を求めることなく、自分でやりたいことを決定でき、行動できる力です。そして相手の感情は相手のもの、自分の感情は自分のもの…と、自他分離感を持てる力でもあります(コラムNo20) 例えば私たちはよく“~さんに傷つけられた”といった表現をしますが、自立した人は、相手はともあれ“私は傷ついた(傷つくことを選択した)” つまり自分の感情に、はっきり責任をもてる人でもあります。
そして、自分の人生を主役で生きる人…は、自分は人生で何を得たいのか。どう生きていきたいのか…等々、自分の欲求を明確に持っています。そしてそれを充足したければ、果敢に行動し、生きたい人生を手に入れていきます。自分の幸せを周りに期待しないのです。
問題を抱えている方に、私がよく伝えるフレーズがあります。「あなたが本当にやりたいことをする…あなたの心が喜ぶことをする…ことは、人生の答えですよ」…と。すると「子どもが今、~の状態で心配で心配でたまりません。これさえ解決すれば、私はやりたいことができるのですが」…と言われるのです。しかしそういう方の多くは、その問題が解決しても、決して自分の人生を生きようとしないで「実は夫が…」と、必ず次の“心配の材料”を見つけてくるのです。
つまりその人の中で習い性になっている、“心配する感情”に気づき、整理されない限り、不思議ですが、ひとつが解決しても、その人にとって“心配な現実”を次々と創っていくのです。起き湧く事柄に問題があるのではなく、その人が持つ想いの習性が問題なのです。コラムNo23に取り上げた寓話がそのからくりを、とてもうまくあらわしているので、もう一度取り上げてみます。
ある村から新しい村に引っ越してきたA夫人が、その村で一番尊敬されているという長老に尋ねました。
A婦人「長老さま この村の人たちはどんな人たちですか」
長 老「前に住んでいた村の人たちは、どんな人たちでしたか」
A婦人「とても嫌な人ばかりなので、引っ越してきたのです」
長 老「それなら多分ここも同じです」
なかなか示唆に富んだ寓話です。周りの環境を変えても、その人が持っている感情や信念・定義が変わらない限り、同じ環境を創っていくだろう…というわけです。自分の人生を創造できる者は、自分意外に周りには決していないのです。私の人生の創造者はわたし! つまり“私の人生の主役はわたし”なのです。
次は私の「人間関係講座」を数十年前に受講されたM・Hさんが、感想文に書かれていた一文です(原文通りの文体で紹介します)。M・Hさんは“自分の人生自分が主役”をスタンスに、自分軸をとても大切に生きておられます。
「わたしを大切にするわ」
「わたしのわたしらしいところを、いいよ!ってわたしにいうわ」
「わたしがわたしの人生を生きるのよ。主役はわたしよ!」
…と声をだして、わたしにメッセージする。
「自分の人生 自分が主役ですもの!」インストラクターからその言葉を受けた日から、わたしはその言葉を両手に包んでいる。
いとおしくて、折々にとりだしては、ほおずりする。
わたしのモヤモヤとした思いを明確な言葉でさしだされた。
「わたしは自由」といってみる
「主役はわたし」といってみる。
「わたしが選び、決めていくのよ」と、いってみる。
それを、ごはんを食べるように自然におこないたいと願っている
現代はかなり価値観も変容してきてはいますが、「私はいつも夫や子どもが楽しく暮らせるように努めてきました。自分のことなどあまり考えたことがありません…」「自分のことに時間を使ったり自分がしたいことをするのは、利己的なのだと教え込まれました。ですから自分が楽しんでいると、とても後ろめたい気持ちになるのです」…このように 自分の人生を主役で生きることに抵抗を感じている女性は、まだまだ多いと感じています。
表情に、どこか哀しみと不満をたたえた様子のある女性が言いました。「夫は、私がいなければ、自分が着るものがどこにあるかわからないんですよ」 しかし、こう話しているときの彼女の表情は、けっこう誇らしげなのです。“私がいないと、この人(夫)は生きていけないんだ…”と思うことで、自分の価値を保ち、無意識ですが、自分の無価値感のバランスをとっているのかもしれません。一方、ご主人の方も、奥様に依存していることに何も疑問を持っていない…。このような関係を「共依存関係」と言い、双方とも自立を阻まれている関係性です。
自分の人生を自分が主役で生きる…ということは、他者に依存しないで一人でも生きていける力です。自分が自由になる範囲まで、むやみに他者に解決策を求めたり、他者の同意を求めることなく、自分でやりたいことを決定でき、行動できる力です。そして相手の感情は相手のもの、自分の感情は自分のもの…と、自他分離感を持てる力でもあります(コラムNo20) 例えば私たちはよく“~さんに傷つけられた”といった表現をしますが、自立した人は、相手はともあれ“私は傷ついた(傷つくことを選択した)” つまり自分の感情に、はっきり責任をもてる人でもあります。
そして、自分の人生を主役で生きる人…は、自分は人生で何を得たいのか。どう生きていきたいのか…等々、自分の欲求を明確に持っています。そしてそれを充足したければ、果敢に行動し、生きたい人生を手に入れていきます。自分の幸せを周りに期待しないのです。
幸せや豊かさを外に求めるなら、
あなたは永遠にそれを手に入れることは出来ないでしょう
並木良和
つまりその人の中で習い性になっている、“心配する感情”に気づき、整理されない限り、不思議ですが、ひとつが解決しても、その人にとって“心配な現実”を次々と創っていくのです。起き湧く事柄に問題があるのではなく、その人が持つ想いの習性が問題なのです。コラムNo23に取り上げた寓話がそのからくりを、とてもうまくあらわしているので、もう一度取り上げてみます。
ある村から新しい村に引っ越してきたA夫人が、その村で一番尊敬されているという長老に尋ねました。
A婦人「長老さま この村の人たちはどんな人たちですか」
長 老「前に住んでいた村の人たちは、どんな人たちでしたか」
A婦人「とても嫌な人ばかりなので、引っ越してきたのです」
長 老「それなら多分ここも同じです」
なかなか示唆に富んだ寓話です。周りの環境を変えても、その人が持っている感情や信念・定義が変わらない限り、同じ環境を創っていくだろう…というわけです。自分の人生を創造できる者は、自分意外に周りには決していないのです。私の人生の創造者はわたし! つまり“私の人生の主役はわたし”なのです。
次は私の「人間関係講座」を数十年前に受講されたM・Hさんが、感想文に書かれていた一文です(原文通りの文体で紹介します)。M・Hさんは“自分の人生自分が主役”をスタンスに、自分軸をとても大切に生きておられます。
「わたしを大切にするわ」
「わたしのわたしらしいところを、いいよ!ってわたしにいうわ」
「わたしがわたしの人生を生きるのよ。主役はわたしよ!」
…と声をだして、わたしにメッセージする。
「自分の人生 自分が主役ですもの!」インストラクターからその言葉を受けた日から、わたしはその言葉を両手に包んでいる。
いとおしくて、折々にとりだしては、ほおずりする。
わたしのモヤモヤとした思いを明確な言葉でさしだされた。
「わたしは自由」といってみる
「主役はわたし」といってみる。
「わたしが選び、決めていくのよ」と、いってみる。
それを、ごはんを食べるように自然におこないたいと願っている
私はまだ、自分は自由が欲しいと思っていることに気づく。
返信削除母や夫が居なくなったら、自由が手に入ると思っている私。
だけど、私一人になって本当に自由が手に入るのだろうか?
自分が自分を束縛しているのではないか?
『人生、私が主役』と思えてないかも?でも、結構自分で決めていることが沢山あるけど…
自分が主役で、自分で決めて行動する。その時自分で納得して決めていくことがいい事かも。ほとんどそうしているとは思うが、まだ、自由が欲しいと思っている私は、納得して決めていないのかもね。
「私の自由」「人生の主役」について考え直すキッカケをもらえて、良かったです。
ありがとうございました。
Kiyokoさま
削除おっしゃる通りです。私たちはみんな本当に「自由」が欲しいんですよね。周りの環境が自分の自由を奪っているような気がする…。だから自由を奪っていると思える存在が無くなれば、その自由が手に入るような気がする…。
ところが「 自由感」の要素は周りにあるのではなく 実は私たちの内面の "想いの習性人生に対する信念・定義"… つまり、いつも自分を後回しにしてしまう習性とか、こうあらねば…と無意識に自分を縛ってしまう習性など…が、実は不自由という人生を創ってきたんだな…ということに気づき、その想いの習性が変わらない限り やはり同じ環境を創っていくだろう…と。コラムの例文で長老がA夫人に語っている意味ですね。
Kiyokoさんは高齢の母上の面倒をみるなど 不自由な中でも、自由になる範囲では 自分の気持ちを大切にして 自分で決定して 楽しんでいらっしゃいます。だからこれからどんな環境に展開しても「自分の人生、自分が主役」で生きていかれることでしょう。今の環境がどうであれ「私の人生の創造者はわたし!」のスタンスを、お互いに忘れないで生きていきましょうね。
「自分が自由になる範囲まで自分でやりたいことを決定でき、行動できる力」
返信削除この力が欲しくて問題を抱えながら自分のやりたいこと、心の喜ぶことを少しずつやり始めました。すると問題解決につながるようなヒントがパッとひらめくようになったのを覚えています。ひらめきは物理的なことだったり自分の視点の見方を変えることだったり・・・自分の中で自分でできることばかりでした。
あれからずいぶん経ちますが今は不思議とタイムリーな情報が入ってきたり、状況が望んでいた方向に進んだりしています。
それはあの時私にも「あなたが本当にやりたいことをする…あなたの心が喜ぶことをするのですよ」と先生が言ってくださったことを実践し続けているからなんだと確信しています。
集団意識に足を引っ張られしんどくなってる時は「あなた自分自身からずれてない?それ自分の本心?ちゃんと確認しろ!」って気づけるようになり、また、その引っ張られていることに気づくまでの時間が短くなっているように思います。
「私の人生の主役はわたし」を再確認できました。有り難うございました。
MOONさま
削除MOONさんは ご自分の自由になる範囲で 果敢に欲求充足を果たしていかれたのですね。その結果 ひらめきがやってきたり 視点が変わることで 自分の周りや環境が変わったり!…。まさに自分の中から答えが来るようになられた。強力な自分軸ができてきたのですね!
そうそう、集合意識は怖いですね! ぼ〜としていると 私たちはすぐに集合意識に影響されて 自分軸からずれていきます。でもMOONさんは ご自分でそれに気付かれ " 自分からずれてない? 自分の本心?… " と自分に確かめていらっしゃるのですね! 実にみごとです!
自分軸のできた人は安心ですね。自分の中に "自動制御装置" が出来上がったわけですから! お互いにさらに自分軸を太くして 揺るぎない自分を創造し 自己実現を目指していきたいものですね。