Column 2017 No.46
私が前回取り上げたテーマを思い出して頂くべく、ずっと以前、受講者Hさんから頂いたお手紙の一文を、了解の上そのまま載せてみたいと思います。次女さんは現在25歳ですが、その次女さんが小学校低学年の頃の体験で、その頃頂いたお母さんからのお手紙です。
「…小学生の次女ですが、先日ふと見ると、ドレッシングの空いた瓶にお茶を入れて、まるで哺乳瓶のようにしてお茶を飲んでいたのです。それを見た時、断乳をした時のことを思い出しました。下の子の断乳の時、熱が出たりして身体の調子が良くなかったので、何の前触れも準備も無くいきなり “はい!お乳バイバイよ!”という感じで、断乳してしまったのです。1才3ヶ月頃のことです…。しかし子どもにしてみればそれはあまりに突然で、しかもまるで拒絶されたかのように感じてしまったかもしれません…。
…それでお茶を飲んでる子に“Eちゃん!Eちゃんは今、お茶をお乳みたいにして飲んでいるけど、お母さんが、お乳バイバイよ!って突然辞めたのがいやだったんじゃない?って訊いてみたんです。そうしたら深くうなずくやいなや、“ウワァ~!”と泣き出してしまい、あとはただただ泣きじゃくるばかりでした。暫くして私がちょっとその場を離れようとしても“だめ~!”と言うので、ずっと抱っこしていましたが、その抱っこも、ただ抱かれているというより、しがみつくという感じでした。やむをえず断乳をしてしまったのですが、子どもにとっては“なぜ!?”と思うばかりだったのかもしれません…。何か私と子どもの間で切れていたものがひとつ繋がったような気がしました…」
“…子育ては本当に難しいですね…”と続いて書かれていましたが、お母さんの体調というそれなりの正当な理由があって対処したことであっても、子どもはやはり傷つくんですね。しかしこのお母さんは、そのことが子どもの心情にいかに混乱や驚きを与えてしまっていたか…ということに気付かれ、見事に対処されています。お母さんの素晴らしい“感度”に敬服したことでした。岡田氏のいう「愛着障害」に繋がるところを防ぎ止められたということですね…。
このように子どもという存在は(我々を含めて)、覚えている筈もない年齢のことでも潜在的にちゃんと覚えていて、何かの縁に触れると、その潜在的な傷を表面化して癒す方向へと持っていくのです。子ども(私たちすべて)は誰ひとりとして自分の人生を諦めてはいないのです。何度も何度も親の愛を確かめたり(親に代わる対象を見つけたり)Hさんのお手紙にあったように、子どもの心に残っているこだわりは勿論無意識ですが、“幼児がえりを”してでも、修復を試みます。小学校5年生のW君(次男)の例もそのひとつです。W君は不登校を機にお母さんの“後追い”(あとおい)をはじめました。母親への後追いが見られるのはエリクソンの発達段階によれば幼児期前期に見られる行動です。お母さんのお話によると丁度その時期、長男の入院で次男の面倒が見られず、実家に一年近く預けていたということでした。
またある女の子Sさん(小学4年生)はトイレに行くのに母親についてくるように執拗に強要し、“パンツ脱がせて!”と要求したり、スプーンを欲しがり赤ちゃんが持つような危なっかしい手つきで食べたり、赤ちゃん言葉で話す…などの行動が現れお母さんは大変混乱されていました。無意識ですが“幼児がえり”をしてでも母親に気付いてもらい、心の空洞の修復を逞しく試みようとする姿です…。そんな“幼児がえり”をする子どもの例は枚挙にいとまがありません。
しかし“幼児がえり”の背景には大条件があり、母親に母性を感じた時に限られるということです。“今のお母さんなら受け入れてくれそう!”子どもはちゃんとそれをキャッチしているのです!どんな形であれ、空洞を埋め直した子どもは本当に幸せです。そして子どもの幼児がえりに驚きつつ、子どもの心に丁寧に愛を埋め直していったお母さんもあっぱれです!“幼児がえり”はその子の心の空洞を埋める大切なチャンスなのです!“幼児がえり”だけではなく、子どもの困った行動の多くは、やはり心の空洞を見せていますので、お母さんの愛で満たしてあげることが大切です。
“幼児がえり”への対処の、大切なポイントがあります。現在子どもがどんなに大きくなっていても、“幼児がえり”をしたその年齢の子どもに合った対応をしてあげることです。「もう赤ちゃんではないのよ!」「お姉ちゃんでしょ!」という類いの言葉を言いやすいのですが、それを言ってしまうと多くは本来の年齢にすぐに返りますが、折角の癒しのチャンスを逃したことになります。だから“抱っこ!”と言えばしっかり抱きしめてあげる。“ついてきて!”と言うならついていってあげる。「一緒にいて!」と言うなら居てあげる…。
…きちんと満たしてあげるなら後退の状態は長くは続かないものです。長く続くようなら、それだけ深く傷ついているということがあるかもしれません。しかし諦めないで付き合い続けたお母さんは、それを機に子どもとしっかりとした絆で結ばれていきます。絆さえできればこれからの人生どんなことが起ころうと、子どもは逞しく乗り越えていけるのです。母親がその子の“心の基地”になれば、人生という大海原に子どもは安心して大きく羽ばたいていけるのです。
子どもの“心の基地”になってあげられる親は、やはりある程度の心の整理、つまり自立という条件が要ります。しかしいま親をやっている私たちも、育ててくれた親を持っています。必ずしも愛に溢れた親に育てられたわけではありません。多かれ少なかれ岡田氏のいう「愛着障害」と闘いながら我が子を育てているわけで、悲しいかな気付けば自分が育てられたように我が子を育てているわけです。でもそれが人間の性(さが)でありその性と闘いながら懸命に生きているのが私たちであり本当に愛おしい存在です。
次は受講者E.Tさんの体験です。
「…夫と話していて途中からいつもやり切れなくなって涙が出始めるんです…。夫は“お前はいつもすぐに泣く!言いたいことがあるんならちゃんと言え!” 実は話の内容で悲しいのではない…。ちょうどその頃、講座の中で自分と親の関係を見つめている期間だった。そこでハッと気付いたのです。夫の話し方が父の話し方にそっくりなことに…。自分は幼い頃から父の話し方にいつも威圧感を感じて怖かった…。夫に初めてそのことが伝えられたのです。夫は“そうか…父親に問い詰められているような気がしたのか…。ごめんな…” 胸の中がスーッとして、夫も許せる気がしました…」
大人になった今でも、E.Tさんの体験のように、ふとした縁に触れて、過去の傷が浮上することがあります。つらいですがやはり癒しのチャンスです!浮上したときこそその傷が消えていくチャンスなのです。大切なのは、その都度それにどう向き合っていくかということです。
私自身も過去の想念が浮上して辛い時期がありました。その頃すでに両親はいませんでしたし、誰かに聴いて頂くことも結構苦手な方なので、私のやり方ですが、浮上してくる過去の想念や出来事からは決して逃げないで、ありのままに日記のようにどんどん書き留めていきました。しかしただの日記ではなく、実はその出来事に係わった人に宛てた手紙です。そしてその時に抑え込んだ感情を必ず付け加えるのです。「お父さん、あなたはお母さんに対して~と言いましたね。その時傷ついたであろうお母さんを感じて、私もやり切れない気持ちでした。わたしも凄く傷つきました…」というふうに…。そして必ず自分自身に共感をしてあげます。「辛かったね…」「傷ついたね…」「やり切れなかったね…」のように。「過去感情日記」と私なりのネーミングをして、カウンセリングの場で、今もクライアントの方にお勧めしてかなり効果的です。
本気で人生を楽しむことも大切です。心が喜ぶことを果敢にやることです。さて以前のコラムにも書きましたが、よく挙げられる例えです。「泥水で一杯のコップでも、そこに綺麗な水を注ぎ続ければ、そのコップの水はやがて必ず清水に変わる…」と。 親子関係で、今も親を憎み許せない気持ちいっぱいのあなたでも、理由があるのだから、決してそれを消そうなんて思わないで、感じたら手放して、手放せなかったらそっとそのままにして、一方人生を楽しむというわくわくとした清水をコップに注ぎ続けていると、いつの間にかその水は、“親への捉われ”と入れ替わって、あなたはやがてエネルギーに満ちてくるのです。
また、人間の気持ちの動きにはバイオリズムがあると言われます。そのバイオリズムが下がっているときには整理していたつもりでも、残っている澱(おり)のようなものが浮上してくることがあります。そんな時も私はやはり泥水の入り混じったコップの水をイメージします。そして自分なりのツールで「大丈夫!大丈夫!」「赦します!」「愛します!」「ありがとう!」…その時その時に思い浮かぶ私なりのポジティブなツールを、例のコップに注ぎながら、更にどんどん綺麗な水になっていくイメージで見つめていきます。
何でもいいのです。自分にとって分かりやすい具体的で象徴的な形(シンボル)を創って、ポジティブなツールの言葉で自分の中の澱(おり)をどんどん解放していくのです。ある脳学者が書いていました。私たちの脳は実にシンプルで、私たちの想いをそのまま真直ぐに受け取っていくらしいのです。シンボルがとても効果的なのは、シンプルなので脳が受け取ってくれやすい形なのだと思います。
「…腹が立つ!許せない!愛せない!…でも私を赦します!愛します!大丈夫!何とかなる!…」と、ネガティブな思いは感じて赦して“そのままに”新しいポジティブな想念をどんどん上書きし続けるのです。これは私が絶えずやり続けている訓練です。やがて潜在意識を占領していた自己否定や他者否定の想念が、新しいポジティブな想念に機嫌よく席を譲ってくれる日が必ず来ます。
思考も訓練のたまものなのです