Column 2014 No.7
もし私たちが周りに起きわいてくる事象を、一切の価値判断を加えず、そのまま事実だけを見、受け取り、そのことだけに対処できたとしたら、人生はどんなにシンプルで軽やかになることでしょう。
わが子にこんな表現をしてこなかったでしょうか。「ぐずぐずして!本当にぐずなんだから」「あなたは何てだらしないの!」・・・。子どもを思えばこその表現かもしれませんが、これは親のフィルターを通した価値判断であって、事実の行動ではないので、子どもを戸惑わせ、思い込ませ、傷つけてしまいます。
事実の表現をすると、
「登校時間が迫っているよ。遊びながら食べていると・・・」が事実の行動であって“ぐずねえ!”は事実の行動ではありません。このように子どもの行動を見つめるときの親の感情にバイヤスがかかると、なぜか“だらしないんだから!”という事実ではない表現になってしまいやすいのです。ところがそのバイヤスを外してみると、必ずひとつの事実の行動が見えてきます。
「ほら、シャツがズボンから出てるよ」
「ご飯粒が口からこぼれているよ」
このように事実だけを伝えると子どもは理解しやすく、行動を変えるきっかけとなります。
親業では講座の第一日目に、子どもの行動を一切の価値判断・レッテルを貼らずに、事実の行動を見ていく訓練をします。価値判断で私たちは子どもを無意識に傷つけてきましたし、私たち自身も幼い頃から“頭が悪い子ねえ”“冷たい子ねえ”“器量が悪い子・・・”“気が利かない子・・・”等々。周りからの事実ではない価値判断の表現でどんなに傷つき自信を失ってきたことでしょう。
そして困ったことに価値判断で育った私たちは、無意識ですが、ついわが子にも同じように価値判断を下して、子どもの自尊心・自己価値感を壊してきました。しかし“事実だけを見ていく”ことは、よほど意識化し、訓練していかないと身につかないものでもあります。それほどに習い性になってしまっているんですね。その面では、私もまだまだ修行中です。
随分昔のことですが心に残っている私の体験があります。
バスに乗り込んできた二人の若者が、見るからに問題ありそうに見えました(これは大いに私の価値判断)。デンと座席を陣取って(これも私の価値判断)、憮然としています(これも価値判断)。そんな折、近くに座っていらした80前後に見えるご婦人が「ありゃあ、両替せんにゃあいけんのじゃあ。やれやれ・・・」とひとりごと。するとすかさず、例の若者の一人が、「おばあさん、替えてきてあげようか?」と言うのです! 私は瞬間“わあ!大丈夫かしら?”と(凄く失礼な価値判断)その青年を疑ってしまっているのです。その若者は婦人から1000円受け取ると両替器に向かい、両替を済ませると、自分の手の中で金額を確かめて「はい!」と老婦人に渡したのです。しかも“やってあげた”の表情は微塵もなく、まさに自然体!そのものでした。
私はその時、自分の中の価値判断の根深さに愕然としました。そして心の中でその若者に懺悔しましたよ。心から・・・。その出来ごと以来、みんなみんな素敵な存在なんだなあ・・・。私のなかの混乱が、無意識に若者に価値判断を下し傷つけ、その結果による若者の混乱が、国や社会の混乱につながり、それがまた国家間の対立に及んでいく・・・。
起こっていることはすべて“中立”です
ある賢者のこの言葉には深い智慧を感じます。必然性をもってただ起こっている事象に対して“正しい・間違っている”“いい・悪い”と色付けをし、しかも異なる価値観が受け入れられず、相手に攻撃を仕掛けていく・・・。これが今、世界のあちこちに起こっている悲しい現実です。
起きわくものごとをまっすぐに見る
何はともあれ、私の心の中で起きわいてくる感情や気持ちに価値判断を加えず、まっすぐに見て、感じて気付いて、そして許して。まず私からそのように生きていこう・・・・。
*次回のコラムは5月20日前後の予定です