2014年4月30日水曜日

起き湧くものごとをまっすぐに見る

Column 2014 No.7

 もし私たちが周りに起きわいてくる事象を、一切の価値判断を加えず、そのまま事実だけを見、受け取り、そのことだけに対処できたとしたら、人生はどんなにシンプルで軽やかになることでしょう。

 わが子にこんな表現をしてこなかったでしょうか。「ぐずぐずして!本当にぐずなんだから」「あなたは何てだらしないの!」・・・。子どもを思えばこその表現かもしれませんが、これは親のフィルターを通した価値判断であって、事実の行動ではないので、子どもを戸惑わせ、思い込ませ、傷つけてしまいます。

 事実の表現をすると、
「登校時間が迫っているよ。遊びながら食べていると・・・」が事実の行動であって“ぐずねえ!”は事実の行動ではありません。このように子どもの行動を見つめるときの親の感情にバイヤスがかかると、なぜか“だらしないんだから!”という事実ではない表現になってしまいやすいのです。ところがそのバイヤスを外してみると、必ずひとつの事実の行動が見えてきます。
「ほら、シャツがズボンから出てるよ」
「ご飯粒が口からこぼれているよ」
 このように事実だけを伝えると子どもは理解しやすく、行動を変えるきっかけとなります。

 親業では講座の第一日目に、子どもの行動を一切の価値判断・レッテルを貼らずに、事実の行動を見ていく訓練をします。価値判断で私たちは子どもを無意識に傷つけてきましたし、私たち自身も幼い頃から“頭が悪い子ねえ”“冷たい子ねえ”“器量が悪い子・・・”“気が利かない子・・・”等々。周りからの事実ではない価値判断の表現でどんなに傷つき自信を失ってきたことでしょう。

 そして困ったことに価値判断で育った私たちは、無意識ですが、ついわが子にも同じように価値判断を下して、子どもの自尊心・自己価値感を壊してきました。しかし“事実だけを見ていく”ことは、よほど意識化し、訓練していかないと身につかないものでもあります。それほどに習い性になってしまっているんですね。その面では、私もまだまだ修行中です。
随分昔のことですが心に残っている私の体験があります。

 バスに乗り込んできた二人の若者が、見るからに問題ありそうに見えました(これは大いに私の価値判断)。デンと座席を陣取って(これも私の価値判断)、憮然としています(これも価値判断)。そんな折、近くに座っていらした80前後に見えるご婦人が「ありゃあ、両替せんにゃあいけんのじゃあ。やれやれ・・・」とひとりごと。するとすかさず、例の若者の一人が、「おばあさん、替えてきてあげようか?」と言うのです! 私は瞬間“わあ!大丈夫かしら?”と(凄く失礼な価値判断)その青年を疑ってしまっているのです。その若者は婦人から1000円受け取ると両替器に向かい、両替を済ませると、自分の手の中で金額を確かめて「はい!」と老婦人に渡したのです。しかも“やってあげた”の表情は微塵もなく、まさに自然体!そのものでした。

 私はその時、自分の中の価値判断の根深さに愕然としました。そして心の中でその若者に懺悔しましたよ。心から・・・。その出来ごと以来、みんなみんな素敵な存在なんだなあ・・・。私のなかの混乱が、無意識に若者に価値判断を下し傷つけ、その結果による若者の混乱が、国や社会の混乱につながり、それがまた国家間の対立に及んでいく・・・。

起こっていることはすべて“中立”です

 ある賢者のこの言葉には深い智慧を感じます。必然性をもってただ起こっている事象に対して“正しい・間違っている”“いい・悪い”と色付けをし、しかも異なる価値観が受け入れられず、相手に攻撃を仕掛けていく・・・。これが今、世界のあちこちに起こっている悲しい現実です。

起きわくものごとをまっすぐに見る

何はともあれ、私の心の中で起きわいてくる感情や気持ちに価値判断を加えず、まっすぐに見て、感じて気付いて、そして許して。まず私からそのように生きていこう・・・・。


*次回のコラムは5月20日前後の予定です

2014年4月11日金曜日

面白きことのなき世を面白く (その2)

Column 2014 No.6

面白きことのなき世を面白く
- 高 杉 晋 作 -

 仏門を敬虔に求道していた今は亡き祖父は、こんなことを言っていました。
「人間はなあ。修行のために生まれてきとるんでえ。人間に生まれたら“生(しょう)老(ろう)病死(びょうし)”の苦しみからは誰一人逃れられんのじゃ。生まれくる苦しみ、生きる苦しみ、老いていく苦しみ、病む苦しみそして必ずくる死の苦しみ。しかしこの苦しみがあるけえのお、人間は上っ調子にならず、悩み苦しみながら自分の生き方を反省したり、気付いたり、そうやって魂は成長していくんよのお・・・・」みたいなことを孫の私に時々言って聴かせていました。

 そのころの私には祖父の言っていることがよく解りませんでした。
“そんな苦しみがあるなんていやだなあ。恐いなあ”程度の理解でした。しかし“生(しょう)老(ろう)病死(びょうし)”という言葉は妙に脳裏に焼きついていました。

 そして年齢を重ね、自分の体験も重ねていくに従って、“なるほど!生きるということは“生老病死”に縁のない人は一人もいないんだなあ・・・。生きるということはまさに修行なのかもしれない。人間て何といとおしい存在なんだろう・・・”と祖父の言っていたことが身にしみ腑に落ちる年齢になりました。

 そして思うのです。だからこそ高杉晋作のいう「面白きことのなき世を面白く」生きていくことの大切さがあるのではないかと。すべきことだけをして人生しかめ面をして“生老病死”に翻弄されながら一生を生きていくのか。あるいは小さな晴れ間を大切に、心が喜ぶことを本気でやり、笑い、喜び、楽しんで、緊張したエネルギーを発散し、生きるエネルギーを蓄えながら“生老病死”をも受け入れて、心強く生きていくのか!

 私は後者の生き方を選びたいと思いました(*前回コラム)。それまでの私は心が喜んでいないから慢性的に不機嫌で、子どもに対しても些細なことで腹を立て、すべきことを要求したり神経質に勉強させたり躾けたり・・・。子どもは本当に苦しかったことでしょう。しかしこれこそが親の愛だと確信していたわけですから始末が悪い・・・。

 しかし私自身が心が喜ぶことを選択し、自分の世界を築いていくに従って、これまで確信していたそれは本当の愛ではなかった、申し訳ないことだったと心から気付いたのでした。

 こうして私自身の心の縛りがほどけてくるに従って、なんと!時を得たように長男が不良(*差別言葉であればお許しください)の仲間と付き合いを始め、タバコは吸う、ヘアスタイルはツンツン、勉強とは全く無縁の人となりました。成績は目も当てられない状態。しかし私の心は全く騒がない。“これでよし!これでよし!”と不思議なくらい心の底から思えるのでした。

 親に嵌められた足かせを思い切って外さなければならない“善き時”をただ迎えただけなのです。この子はここを通らなければ次のステップには決して向えないことを私は確信していましたし、彼の無意識層もそれをわかっていたのだと思います。荒れた生活になったわが子を、不動心で見つめ守れたことは、真面目で不機嫌だった以前の自分からは想像できないことでした。ちなみに長男は拍子抜けするほどに素敵な紳士に今は変身しています(笑)。このホームページを立ち上げてくれたのも実は彼です。

 コラムのNo.1で書きましたお釈迦様の“自分ほど尊く大切な存在はない・・・” まず自分を愛せよ・・・この言葉の深い意味を、まだ入り口ではありますが体験した感じがしました。

 “世の中が良くなれば、みんな幸せになる!”その信念で、自分の出来ることで真摯に社会へ貢献している人々が沢山あります。まさに尊敬に値する方々であり、頭がさがります。

 一方、世の中がいかなる状態であろうとも心揺るがさず、一人一人が自分の存在に責任を持ち、生きたい人生を創造し、それを心から楽しみ、自身の心の平和を保っている。そんな愛に満ちた人から“発信される信念・情報”は、自ずからまわりに人々を引き寄せて感化し、その場は光の場と化すことでしょう。

 そう! 一隅を照らせるそんな人々の“光の場”が、あちこちに増えていくに従って、やがて地球世界は一瞬にして進化を遂げる日がくる!
 そう思えてならないのです


 もと外科医師であった帯津良一氏は、現役時代「死を恐れない人はどんな人ですか・・」の質問に次のように答えています。

“自分の人生において、やりたいと思ったことをほぼやったという実感を持っている人の多くは、死を恐れず静かに穏やかに移行されますね・・・“


*次回のコラムは4月30日前後の予定です