2017年12月20日水曜日

父親になるのは簡単だが、父親たることはなかなか難しい(その3)

父親になるのは簡単だが、父親たることはなかなか難しい
ヴィルヘルム・ブッシュ
Column 2017 No.55

 前々号より、父親という観点から同じテーマで書いていますが、このシリーズは今回で一応終わりです。前回までに書いたことを少し纏めて今回に入ります。

Ⅰ.どんな形であれ、父親もしっかりと子どもに係わっていくコラムNo53

 思春期に入ると、親が子どもにどうかかわったかの結果が出てきます。しかし思春期に入っていても、成人期に入っていても、そこから子どもに正直に関わっていくことで親子関係は違ってきます。

Ⅱ.“父親の役割”“母親の役割”にこだわらず、ひとりの人間として正直に子どもに接していくコラムNo54

 “ひとり一人の親の中に父性と母性を”…親業が大切にしている視点です。父親だから、母親だから…ではなく、それぞれが一人の人間として、自分の感性を信じて、正直に子どもに接していきます。

Ⅲ.正論は子どもを追い込みますコラムNo54

 正論は子どもの心に届かないばかりか、子どもの心を追い込みます。人間的な正直なお父さんで、本当の気持ちを伝えましょう。それでこそ子どもの心と繋がれるのです。次からが前回の続きです。

Ⅳ.仕事だけが人生ではありません。生きて実感することこそが人生です

仕事だけが人生ではありません。生きて実感することこそが人生です

 ある父親の言葉です。「…自分は会社の仕事でいっぱいいっぱい、エネルギー切れの状態で帰宅します。だから子どもに邪魔されたくない…。だからと言って子どもに寂しい思いをさせている負い目もあって、気になる子供の行動を正面から叱ることもできないです…」と。

 多くの父親は家族のためにという大義名分のもとに過酷なほどに働いています。ほんとうに家族のためなのでしょうか…。仕事の実績で、或はいい地位に就くことで、自分の価値を無意識に認めようとしていることはないでしょうか。また、沢山の仕事を持ち込んでいないと、自分に価値が無いような仕事依存傾向に陥っていることはないでしょうか。

 また子育てや家事に孤軍奮闘している妻の大変さや、夫の不在が多い妻の寂しさ・虚しさ…等々に気づいている夫はどれだけいるでしょうか。たまに在宅していても、夫の仕事延長上にある不機嫌な雰囲気に辟易している妻や子ども…。父親不在であるがゆえに起こる子どもの問題…等々。

 そこまで仕事にのめり込むことが、本当に家族のためと言えるのでしょうか。しかし父親にも言い分があります。“…せっかくの休みでも家族の話題の中に入れない…家の中に自分の位置がないんです…。そのやりきれない孤独感がなおさら仕事に向かわせるのだ…”と。

僕は「家族力」を日々高めていくことを強く認識しています。
家族や一番親しい人との関係を大切にしていくことが、結局
自分の人生に最大の効果をもたらすと信じているからです。
武田 双雲

Ⅴ.父親も人生を楽しむ権利と義務があります

 両親の離婚を経験した21歳(学生)の一文です。「…両親が、父と母である前に、一人の人間として生き方を確立し、人生を楽しむことこそが何よりも子どものためになると思います…」(ある投稿欄より)

 楽しむことの大切さを子ども達は分かっています。楽しむことこそが機嫌のいい父親、機嫌のいい母親になれるためのポイントだということを知っているからだと思います。確かに機嫌のいい両親のもとで育った子供は、精神的にもとても安定し、健康です。ある受講者Nさんのご主人様からずっと以前こんな一文を頂きました。

私のやりたい10項目の実践です(こんな日にしたいトップ10)
 ①だらだらする日 ②よく眠る日 ③映画を観る日
 ④ハワイ気分でのんびりする日 ⑤日曜大工をする日
 ⑥何かたくらむ日 ⑦ドラムをたたく日 ⑧本を読む日
 ⑨皆でわいわい酒を飲む日 ⑩バイクでドスドス走る日

 心が喜ぶことを果敢に実践していらっしゃるからでしょう。本当に機嫌のいいお父様だったのを記憶しています。男性も一人の人間として楽しむ権利があります。それは何よりも、自分の幸せの為であり、その結果まわりの人々、とりわけ子どもを幸せにしていくのだ…という側面からいえば、楽しむことは“義務”である…とも言えないでしょうか。

 仕事の合間のひとときに、心をふっと緩めてみる…。若い頃からやりたかったことを、今からでも思い切ってやってみる…。“そんな時間ないですよ!”という反論が聞こえてきそうです。でも、人生ほんとうにそれで終わってもいいのでしょうか。

Ⅵ.子どもは父親の後姿を見ています

 ある主婦が、投稿欄にこんな一文を寄せていました。
 「大酒のみで頑固者だった父を、小学生の頃の私はとても疎ましく思っていた。五年生の夏休み、母に頼まれて、父の働く鉄工所へ弁当を届けたことがあった。歩いて20分もかかるので、渋々出かけた私は汗だくになってしまった…。簡単な作りの工場に入ると、火のような熱風の中で父は裸で働いていた。日に焼けつくトタン屋根の下、溶鉱炉の前でスコップを持った父は、火と熱風にさらされ、埃と汗にまみれて真っ赤だったのをはっきりと覚えている…。父の働く姿を初めて目にした帰り道、私は少しも暑いとは思わなかった。あんなところで一日中働く父を、とても偉いと思った。酒飲みだろうが、頑固だろうが構わないと思った…」

父は、私に生きるすべを教えはしませんでした。
生きざまを見せてくれたのです
クレランス・バデイトン・ケランド

しかし、今の時代、親の働いている姿を子どもに見せることは、かなり難しい時代になりました。だからこそ綺麗ごとではなく自分の生きざまを、正直に本音で子どもや妻に語っていくことが大切な時代とも言えます。語らずして相手に理解して貰うことは難しいのです。いっぱいいっぱいで帰宅して、不機嫌に家族に接したり、酒やテレビで紛らわせていたら、孤独地獄に陥るしかありません。他者と繋がる為には、やはり本音のコミュニケーションが必要なのです。本音とは、相手のことを語るのではなく、自分の思いを伝えることです。

 コラムNo54で触れましたが、その為にも時には仕事から離れて子どもと遊んだり、やりたいことをやって人生を楽しみ、日々を実感して生きてみることが大切です。すると自分の心の位置が分かり、本当の気持ちが見えてきます。すると自分の本音が自然に語れるようになり、人と繋がれるのです。仕事だけが人生ではありません。生きて実感することこそが人生です。

*次回のコラムは1月20日前後の予定です。

2017年11月20日月曜日

父親になるのは簡単だが、父親たることはなかなか難しい(その2)

父親になるのは簡単だが、父親たることはなかなか難しい
ヴィルヘルム・ブッシュ
Column 2017 No.54

 前回は、私自身が仕事を通して長年感じてきたことを、“父親”という観点から書いてみました。次のⅡからその続きです。

Ⅰ.どんな形であれ、父親もしっかりと子どもに係わっていくコラムNo53

 子どもと係わることで、子どもの心としっかり繋がります。子どもはあっという間に大きくなります。だからこそ、お父さんも、今日の子どもとの係わりを“一期一会”と受け止めて大切に…。

Ⅱ.“父親の役割”“母親の役割”にこだわらず、ひとりの人間として正直に子どもに接していく

 「親業」の理念のひとつですが、一人ひとりの親の中に“父性と母性”の双方を!という捉え方コラムNo34をしています。父親としての役割、母親としての役割(例えば叱る役は父親・守る役は母親)に捉われず、一人ひとりの親の感性を信頼したコミュニケーションを大切にしています。子どもの行動を見て、ここでは“黙って見守ろう(母性)ここでは“きちんと伝えておこう”(父性)というふうに、父親も母親も自分の気持ちに正直にそれぞれが対応していきます。だから片親であっても子どもはちゃんと自立へと導けるのです。

 中1のH君は、学校に行けなくて一日中家にいるのですが、昼夜逆転もあって、このところ父親と殆んど会うことがありません。ある日のこと、廊下を歩いていたら、ばったりお父さんに逢いました。H君に緊張が走りました。近づいてきたお父さんは、H君の両肩に手を置いて、「おっ!Hかあ!久しぶりだな!元気か!」と言ったのです。他には何にも言いませんでした。その日のカウンセリングでH君が言いました。「僕は父に怒られると思っていた。でも父はぼくの肩を強くつかんでそう言っただけでした。僕は嬉しくて、不思議ですが凄い元気が出てきました…」と。お父さんは、学校に行けないでいるH君をせかせることなく、自分の感性を大切にして、包み込む“母性”で自然な行動をされたのです。

Ⅲ.正論は子どもを追い込みます

 ある高校生の男子が言いました。「こっちの言い分は一切聞かないで、父なりの正論を押し付けて教育したつもりでいる。いつもやりきれなさが残る…。いつかし返しをしてやりたい気持ちがあるが、正直言ってもういい!係わりたくない!」…と。父性の「叱る」背景にも、母性の「受容」という裏打ちが無ければ、子どもには伝わらないし、恐れで動くことはあっても、自分から自主的に動くことは難しいのです。つまり自立には向かいにくいのです。

 ずっと以前、世間を震撼とさせるような事件を起こした子どもが言いました。「うちの親は仮面をかぶっていた…」と。おそらく彼の親御さんも“正論”で子どもを教育されたのでしょう。「~すべきだろう!」「それは世間には通らないだろう!」「世の中はこういうもんだ!」正論は一般論を語るだけで、親の本当の気持ちは全く見えません。それを“仮面をかぶっている”と、彼は表現したのです。

 しかも正論は理路整然としているので、子どもからしたら、反論の余地がありません。言われていることはもっともだ…でも…でも…と、子どもは自分のやりきれない感情を吐き出せない…。親の言う通りになるので、親にとってはとても“いい子”ですが、子どもは絶望的な感情を心の中に鬱積していくことになります。その上、頭レベルで生き易く、失敗を恐れ、危険を侵さず、自分の人生を実感して生きることが難しくなります。それは子どもの心の中に、壮絶なストレス・葛藤を起こしやすく、その結果、世間を驚せるような事件に繋がることも多いのです。

 次の一文は、正論の父親と子どもの、典型的なやり取りの一部です(伊藤友宣著「家庭という歪んだ宇宙」より抜粋)

私(父親)が“夕食を食べろ!”と声をかけたのがきっかけで、息子はごたごた難しいことを言い始め、バトミントンのラケットで壁を叩き、テーブルを叩き始めた。

子「三年間をどうしてくれる!」
父「返せるものなら返してやりたいよ!過ぎた年月がどうしたら返せるのや!お前も、もういい加減に同じことを繰り返すのはやめないか!」
子「三年を返してくれたら言うことをやめる!」
父「ばかなことを言うな!時間は戻らんわい!」
子「返せないで済むと思うのか!」
父「いったいどうしろっていうのや!気のすむようにしてやれることがあるならそうするさ。それを言えよ!」
子「へっ!今さらどうしろって?えっ?ははは!今頃それを尋ねるくらいなら三年前に何で~塾に強制的に行かせたんや!ヤマダ(塾の講師・仮名)の言うことを信じて、我が子の言うことを認めなかったのはお前やないか!親か、それでも!」

 …延々と言い言い争いは続き、さらに最悪のコミュニケーションにまで発展します。もしこの父親に適切な発信能力(父性)と、子どものやりきれない気持ちを理解する受容能力(母性)があったら、おそらくここまで破壊的コミュニケーションには至らなかったでしょう。

 子どもの「三年間を返せ!」の言葉の裏にある、子どもの複雑な気持ちを父親が受けとめられたら、「そうか!この三年間は、本当の自分の道を生きてこれなかったんだなあ…。だから三年間を返せ!と言いたいくらい悲しくて、悔しくて、つらい気持ちなんだなあ…」と言ってやれるでしょう。それでも長年ため込んできた子どもの悔しさ・苛立ちは、そう簡単には治まらず、次々と浮上してくることでしょう。しかしそれをしっかり受け止め続けていけば、やがて子どもの気持ちは必ず落ち着いてくるのです。過去は戻っては来ないことは、子どもは誰よりも分かっている。ただ辛かった気持ちを解かってもらいたいだけなのですから…。

 一方「それでも親か!」と言われて、親の心の中に、無力さや、哀しみが湧いてきたなら、それを正論で挑戦的に反応するのではなく、自分の弱さや惨めさを思い切って本音で語ってみるのです。子どもは親の正論に対しては何処までも挑戦してきますが、親の本当の気持ち・本音に触れると、“もう一枚脱げ”…とは決して言わないのです。仮面を脱いだ親には脱帽するのです。あなたを許す日が必ず来るのです。しかし“本音を語る”ということは父親にとっては、本当はとても難しいことです。だから訓練がいるのです。

 その為には、時には仕事から離れて、子どもと遊んだり、もっともっと自分の心が喜ぶことや、やりたいことをやって人生を楽しみ、日々を実感して生きてみることが大切です。すると自分の心の位置が解り、自分の本当の気持ちが感じられるようになってきます。すると自分の本音が、自然に語れるようになります。そうなった時初めて、子どもと繋がれ、妻と繋がれて、お互いに親密な人間関係が組めるのではないでしょうか。仕事だけが人生ではありません。生きて実感することこそが人生です。


*次回のコラムは12月20日前後の予定です。次回も続いて事例を交えながら父親の生き方を探っていきたいと思います。

2017年10月20日金曜日

父親になるのは簡単だが、父親たることはなかなか難しい(その1)

父親になるのは簡単だが、父親たることはなかなか難しい
ヴィルヘルム・ブッシュ
Column 2017 No.53

 「マックスとモーリッツ」の作品で有名なドイツの諷刺画家のフレーズです。確かに彼が言う、親になるのは簡単でも、子どもにとっての父親になるのは意外に大変なのかもしれませんね。大方の父親は、日中は会社務め、帰宅も子供が寝入ってから…ということもよくあることです。朝出掛けていく父親に対して幼い子どもが「お父さん、また来てね…」と言ったという笑えない実話もあります。

 家族や子どもを養うために身を粉にして働く父親にとって、家庭とは何か、子どもとは何か…が問われます。子どもが思春期ともなると、父親が帰宅するや否や蜘蛛の子を散らすようにそれぞれが自分の部屋に逃げていく…。そこで寂しい食事を終えたあと、父親はひとりで、ぼ~とTVを相手にあとは寝るだけ…。「家の中にも私の居場所はないのです…」と、寂しい心の内を吐露される場面によく遭遇します。

 母親には母親の言い分があって、家事・出産・子育ては勿論、学校関係、夫の両親、親類縁者、近所の人々との付き合い…等々で、いっぱいいっぱいになった時“私の心の危機に夫は気づいてくれなかった…”“私の苦しい心の叫びに適切に対処してくれなかった…”その夫への恨み言い分は、並大抵ではありません。特に近年は母親も仕事を持っている…という事情があります。その上、家事も子育ても手を抜くことは出来ません。それだけに妻の言い分は理解できます。

 しかし夫には夫の、言うに言われぬ事情が山ほどある。しかし、それを言葉にして返すと、必ずと言っていいくらいに、妻との修羅場になる。よって夫は、自分の思いの多くを飲み込んでしまって、それが又妻の苛々を益々増長させてしまう結果になる。精神的に追い込まれた夫は、帰りが徐々に遅くなったり、家では貝のように無口になったり、やがて酒にギャンブルにと自分の苦しみを紛らわせる羽目に陥ることもある。それを、妻からは「どうしようもない人!…」と片付けられ、それが離婚話に繋がっていくことも…。

 夫側の言い分や苦しみを聴くと、妻の苦しみに負けないくらい重いものを感じます。しかし母親は日々子供に係わり、ある面、子どもと共に悪戦苦闘していますので、子どもとの関係が密に保たれているという強みがあります。よって両親の言い争いになると、大抵子どもは母親側につく…。思春期に差し掛かった子供に苦言を呈すれば、「今さら父親ぶった顔をすんなよ!俺のことなんか、な~んにもわかってねえだろ!…」とくる。そうかと言って子どもに迎合した態度をとると「俺の言いなりになる父親なんて要らねえよ!」…父親の苦しみと哀しみ・孤独感・戸惑い…が、切なく伝わってきます。

 今回のコラムは、長年携わってきた“親業”そして“カウンセリング”を通して、“父親”という観点から、私が感じてきたこと、大切に思っていることを、少し書いてみたいと思います。

Ⅰ. どんな形であれ、父親もしっかりと子どもに係わっていく

 お茶の水女子大の牧野カツコ名誉教授は、“母親の育児不安”をテーマに研究した結果「…育児不安の少ない母親の特徴の一つとして、母親が“父親が子育てに参加している”と感じている…」ということを挙げています。確かにどんな形であれ、夫が妻の“子育て”という同じ方向に向いて協力してくれることは、孤軍奮闘してきた妻にとってどんなに心強いことでしょう。

 そして「…父親の育児参加は、母親の精神状態にいいというばかりではなく、父親自身のパーソナリティーを豊かに育てていく…という利点にも繋がる」ということを述べています。つまり子育てにかかわることで、父親の視野が広がったり、忍耐強くなったり、豊かな感性・柔軟性が育まれるというわけです。子どもに如何に係わったか…で子どもとの繋がりは違ってきますし、その上、父親がひとりの人間として、子どもに係わることで、豊かな人生に繋がるとしたら、父親の育児参加は、父親自身にとって深い意味が感じられます。

 私の父のことを思い出しました。“男、厨房に入らず”と言われる時代でした。父親の役割・母親の役割…と、はっきり分けられていた時代でした。男はどんなことがあれ、決して弱音を吐いてはいけない時代でした。しかしそんな環境の中でも私の父は、結構“子育て参加”をしていたなあ…と、ふと思い出したのです。男っぽい大胆な遊び方ですが、よく遊んでくれていました。でも短気で自我の強い父だったので、私をはじめ私の兄弟はみんな、父がけっこう苦手でした。でもどこか魅力的な父だったので、みんな父のことを嫌いではなかったのです。

 忘れられない父との思い出があります。小学校2~3年生頃だったと記憶しています。夏のある夜、近所の人達が「火の玉だあ~!」(火の玉とは“人魂”とも言い、死者の肉体から抜け出て、火の玉となって空中を飛ぶ…という伝説がある)その大騒ぎに、私と父は家から飛び出していきました。丁度、うち所有の山林辺りに、確かに火の玉らしきものが大きく浮遊しているのです! 父は傍にいた私に「亮子!長靴に履きかえてお父さんについてこい!」私は怖いので、ついて行きたくなかった…。でも父に言われるままに長靴に履きかえて、真っ暗な闇の中を、懐中電灯を照らしながら無言のまま、二人で“火の玉”へと向かうのでした…。

 7~8分も歩いたでしょうか…。かなり至近距離に来ましたが、やはり火の玉がしっかり浮遊している! 小さな山小屋の前で「亮子!ここで待っておけ!動くなよ!」父の緊迫した雰囲気が伝わってきます。父はその“火の玉”辺りに、一人でどんどん近づいていきます。私は“父さん大丈夫かなあ…”と不安と恐怖で震えていました。暫く経って「亮子!大丈夫だからここへ来い!」と父の声!父の声を頼りに暗闇を進んでいったら、父は何と!墓所の前に立っていました。

 「これが“火の玉”の正体だ!」父は私にわかるように説明を始めました。墓にお参りした人が、ろうそくの灯をつけたまま帰った。墓石にそのろうそくの灯が当たり、その墓石の灯りが、風に揺らめいている竹藪の木々に反射して、丁度火の玉が飛んでいるように見えたのだ…と。 そして、「…亮子!いいか、よく覚えておけ!人は本当のことを確かめないままに、幽霊が出た…とか火の玉が飛んでいた…とか、とんでもない噂話を流してしまうんだ。確かめるということはだから大切なんだ!…」と。

 ふっとこの体験を思い出しましたが、そう言えば父は、色々な場面で“確かめてみること・体験してみること”の大切さを教えてくれたなあ…と思いました。私は、父のことを恐くて何となく苦手意識で関わってきましたが、こんな素敵な体験をさせてくれて、こんなに大切な価値観を伝えてくれていたんだ…と今さらながら感謝の気持ちでいっぱいになったのでした。

 私の経験からも思うのです。どんな形でもいい お父さん自身が自分も楽しめそうなことで、子どもと一緒に体験をする。それは立派な“育児参加”です。子どもの心に豊かな感性や創造性・社会性が育まれます。お父さんと一緒に遊んだ子どもたちの気持ちを紹介しましょう。

キャンプでお父さんと一緒に夜空を見ながら“さそり座”を捜した。わくわくした。

お父さんと釣りに行って、僕が大きな魚を釣った。お父さんが“やったな!”と言ってくれた。

お父さんも一緒にクリスマスツリーを作った。凄く嬉しかった。

お正月に挙げる凧をお父さんと一緒に作った。お父さんの真剣な顔が面白かった。

 子ども達はお父さんが大好きです。だからお父さんとの体験は新鮮な思い出として深く心に残ります。またお父さんが大切にしている価値観が伝わるし、何しろ子どもの心としっかり繋がれます。お父さんとしっかり係わった子ども達は、思春期になっても、お父さんを避けるような態度は決してとらないでしょう。係わることは子どもの心と繋がることなのです。

ひとりの父親は100人の教師に勝る  イギリスの諺


*次回のコラムは11月20日前後の予定です。(その2)として、続いて同じテーマで書いてみたいと思っています。

2017年9月20日水曜日

自分の身体にもっと思いやりを

Column 2017 No.52

 私たちの身体は、物理的には目に見えない精神(心)と物理的に目に見える肉体で出来ています。精神(心)で人生を感じ味わい、肉体で生きている実感を味わい、生を楽しんでいます。私たちの身体は “大海原を航海してくれる船”です。

 そして船の中から、天与の視・聴・触覚でもって人生を味わい楽しんでいます。視覚で海・空・山・星々・森・花々…等の自然を楽しみ、書籍・絵画・映画・舞台等を楽しみ、子ども・伴侶・友人・ペット等の表情を見つめて幸福感に満たされます。聴覚で波の音・鳥の声・風の音・雨の音・音楽…等を聴いて楽しみ味わっています。味覚で食事・美酒・スイーツの美味しさを楽しみ、味覚を生かして美味しいお料理を作ります。嗅覚で海の香・花の香・森の香・食べ物の香…等を楽しんでいます。触覚で自然を体感し、人と繋がり愛を確かめ合います。

 身体に備わった、この五感と精神(心)は、絶妙に融合し協調して、私たちの大海原の航海を見守り、人生をかけて私達を救護し楽しませてくれています。ところが一生をかけてお世話になっているその心と身体を、私たちはどれだけ意識し、大切にし、感謝をしているでしょうか。知らず知らずのうちに無理をしていると“身体を酷使していますよ!”“身体に無関心すぎますよ!”と、身体は症状を示して警告してくれます。 私自身も寝不足が続いたり、ついつい休息することを怠って不養生が続くことがあります。すると頭痛が来たり、不整脈を起こしたりして絶妙にサインが送られてきます。私たちの身体は、私たちが楽しく無事に人生を航海していけるように…と、懸命に見守ってくれているのです。愛に溢れているのです。

身体が発信する“信号”“身体語”を日々正しく受け止めること。
それが養生の第一歩です  五木 寛之

 若い頃に比べると私自身も、ちょっとした段差や、何かの端に躓いて転ぶことも出てきました。こんな時、以前の私は、「ほんとうにつまらんねえ…。こんなことで!」…と、本当に痛くてとてもせつない時に、本当は一番優しさが欲しい時に、自分に対して嫌悪と誹謗で接してしまっていました。不安や恐れの感情で接することはあっても、共感と愛情のまなざしで接してあげられることはあまり無かったような気がします。

 今は少し違ってきました。傷んだ体をさすりながら、「痛かったねえ!痛かったねえ…。ごめんね!今度から気を付けるよ…」と、咄嗟に言えるようになりました。(これも訓練です…)そして不思議なのです。すると身体はちゃんと答えてくれるのです。“大丈夫よ…”と。不思議なほど痛みも和らぎ、重篤な症状にならない…そんな経験を何度もしています。

 医師の長堀 優氏は「…米国の細胞生物学者、ブルース・リプトン博士は“細胞一個一個に感性がある”と言っています。例えば単細胞のミドリムシは餌があれば寄っていくし、毒が来ると逃げていく。単細胞ですから脳みそも神経もないわけですが、そういったことが全部わかる。だから博士は“細胞はそれだけで完璧な生命体である。しかも生きる感性を持っている…ということを言っているんです。そうであれば癌も細胞ですから、生きる感性があるので、当然人間の思いとも関係してくる…」と述べています。

 最近読んだ次の書籍は、そのことを立証するような、驚くような実体験が書かれていました。今回のコラムはその著者である工藤 房美氏のメッセージを中心に、お届けしたいと思います。その頃彼女は、末期の癌で子宮から肺・肝臓・腸骨…と癌は全身に転移し、手の施しようがない状態で、医師からは「広がりすぎて手術は不可能です。抗がん剤治療だけをやります。残念ですが1ヶ月の命です…」とある日宣告されます。彼女には3人の子どもがいるので、“まだ死ねない!”と、その現実を受け入れることができず、打ちひしがれ、絶望状態に陥ります。

 しかし、彼女は、入院中知人から送られてきた 村上 和雄著の「生命の暗号」(サンマーク出版)という書籍に出逢っていました。そして神秘的な遺伝子の働きを知った彼女は、雷に打たれたような衝撃を受けます。“…こんなに自分のために働き続けてくれた細胞に全くの感謝もしないで無理を重ね、癌になってしまうほどに細胞を傷つけてしまった…。身体からの小さなサインの数々を無視し続けた結果、最終手段として細胞は癌という形で主張するしかなかったのだろう…。もっと関心をもって注意深く気持ちを聴いてあげればよかった…。申し訳なかった…”と。

 そして彼女は決意します。“残り少ない命だけれど、これまで支えてくれた60兆個の細胞と遺伝子に心を込めてお礼を言ってから死のう…”と。それからというもの、彼女は寝ても覚めても「細胞さん有難うございます!」と唱え続けます。
 癌細胞には最初は“有難う…”とは言えなかったけれど、健康な細胞に感謝の言葉を言い続けているうちに、とても自然に、癌細胞にもお詫びと感謝の言葉がでるようになった…と述べています。

「…私は癌が治るように“ありがとう!”と唱えたのではないのです。私を支えてくれていた細胞が、癌細胞になってまで自分に気付かせようとしてくれた、その健気さを心から愛おしいと思い、心からごめんなさい。これまでありがとう…という気もちになったのです。…抜け落ちていく一本一本の髪の毛にも“今まで私の髪の毛でいてくれてありがとう”と、感謝しました…」

 そしてこう言っています。「すべての細胞に、無心に“ありがとう!”と感謝していたら、有難いという気持ちが降ってくるようになった…。続いて“ありがとう”と言っていたら、さらに有難い気持ちが降ってきて、まるで雪のように心にふんわりと積もっていき、やがて“感謝”が心いっぱいに降り積もって、溢れだしてきた…そしてこれまでに経験したことのないような幸福感に満たされてきたのです…」と。

 そして自分が癌だということも、残り少ない命だということも、髪の毛が無いということも、そんなことが一切どうでもいい些細なことに思えた…。そしてただ感謝いっぱいで、嬉しくて幸福な気持ちに満たされていた…と言います。それから数か月後ですが、久々に訪れた病院での検査では、何と!肺を覆い尽くしていた水玉模様の癌も、肝臓にあったこぶし大の癌も、跡形もなく消えていた…。癌の告知から約10ヶ月後のことだった…。

 彼女は言います「…毎朝朝日を浴び、生かされていることに感謝し、自分の身体に、ひたすら”ありがとう”を言い続け、金髪のかつらをかぶってお友達に逢いに行き、そうやってわくわく楽しく過ごすなかで、(村上和雄先生の言われる)からだの95%の眠っていた遺伝子が目を覚ましたのでしょう。そして(癌細胞は健康細胞に変わり)本来の仕事である“健康に生きるための活動に”に加わりはじめたのでしょう」と…。そして「“ありがとう”の感謝の言葉は、正確には数えていませんが、優に10万回は超えたと思います…。」

今ある“苦しみ”は、本来の自分からのメッセージであり、
“愛に他ならない”のだと気付き、受け入れたとき、
その時こそ本当に心からの感謝ができるのだと思います
工藤 房美

工藤 房美氏 の書籍を紹介しておきます。
「遺伝子スイッチ・オンの奇跡」(風雲舎)


*次回のコラムは10月20日前後の予定です

2017年8月20日日曜日

一日1回でいい。ほんの僅かな時間でいいから、
一人ひとりの子どもを、心を込めて見つめてあげよう
ジョンソン
Column 2017 No.51

 子どもへの愛情表現はスキンシップだけではありません。コラムNo42でご紹介したコミュニケーションは“無条件の愛”を伝えていく上でとても大切なコミュニケーションの方法です。またコラムNo48でお伝えしましたが食を満たしてあげることも基本的な愛情伝達です。そして冒頭のアメリカの心理学者ジョンソンが“一人ひとりの子どもを心を込めて見つめて…”と言っていますが、愛情のこもった目線を子どもに合わせていくことは、子どもが親の愛情をシンプルに受け取ってくれる大切な愛情伝達のもうひとつの方法です。

 この“一人ひとりの子どもに…”という辺りが実はポイントです。親である私たちは幾らか相性はあるにしても、どの子にも同じように愛情をもっています。ところが子ども達から「お兄ちゃんの方が大切なんでしょう!」とか「妹ばっかり可愛がって!」と、ある日唐突に言われて、全くその気がないだけに、とても衝撃を受けたという体験は無いでしょうか。

 しかし胸に手を当てて考えてみたら、子どもにそう思わせた行動・言動が、もしかしてあったかもしれません。あるお母さまの体験ですが、毎朝二人の兄弟を集団登校の場所まで送って、その二人の兄弟に“いってらっしゃ~い!”と手を振って見送ります。ある日のこと学校から帰宅した兄弟のひとりが「ママ!言っとくけどね!朝バイバイするとき、いつもK(弟)ばっかり見とるよね!」とすごい見幕で言ったそうです。

 お母さんの心に衝撃が走りました。何故なら心当たりがなかったからです。でもよく考えてみたら、お兄ちゃんは集団行動に慣れていて、しっかり行動できるけれど、今年学校に上がった弟はまだ自信なさそうに見えるので、“心配の目で弟の方ばかり見ていたのかもしれません”とお母さんはおっしゃっていました。でも子どもにはそんな理由は通用しません。一人ひとりがみんな親の愛情を必要としているのです。親の目線が今どこに行っているのかをいつも見ているのです。親の目線で愛情を測っているということがあるのです。大切に思っている親が、自分を見つめてくれないのは想像以上に子どもにとっては悲しいことなのです。「注目されたい」という欲求は人間の基本的欲求のひとつで、子ども時代に充分に満たされる必要があるのです。

 学校の授業で、子ども達はみんな、授業の内容に集中しているか…というと、実はそうばかりではないのです。親からの愛情を充分に受け取っていない子供は、教師が話す課題に注目しない…というより“注目できない”で、教師が、いま誰を見ているか、自分にも注目しているか、どんな感情でいるか…等々、“課題よりも教師自身に注目する”傾向がある…と言われています。

 このように、親からの“愛情の確認”は、その子の将来の“課題への集中力”にも確実に影響を与えていく…ということなのです。この側面から考えても、親は一人ひとりの子どもにきっちりと視点を合わせて、本気で子どもの話を聴いたり、親の愛情を伝えたり…つまり“注目されたい”という基本的欲求を満たしておいてあげることは非常に大切だということが解かります。

 無意識ですが、親は、一番最初に生まれた子どには特に注目する(目線がいく)傾向があります。何故なら親にとって初めての子どもは、何事も初めてなので、いいも悪いも緊張がいつもあります。幼稚園も初めて、学校も初めて、勉強も初めて、ママ友も初めて、受験も初めて…当然に注目がいきます。だから昔から“総領の甚六”という故事があり、一番初めに生まれた子は、多くの目線が集まり、しっかり関わられており、大切に育てられているので、おっとりとして、お人よしが多い…というわけです。結構真実を付いているような気がします。

 しかしその弟妹となると、親にとってはどの子も可愛いことには決して変わりないのですが、幾らか育児のコツもわかり、慣れてきてそれほど手も心も掛けなくなる…。つまり“注目が少なく”なっていくわけです。しかし子どもから見ると、自分に目をかけてくれないということは “自分は居ても居なくてもいい存在なのではないか…”“自分には価値がないから親が大切にしてくれないのだ…”と、受け取っていく場合だってあるのです。

 以下に、私の講座を受講されたあるお母さんの体験の一部を、ご本人了承のもと紹介します。

 8歳のH子さんとお母さんが一緒にお風呂に入っていた時、H子さんが急に泣き出してこう言ったそうです。「あのね…夜ご飯の時、クイズ番組でお兄ちゃんが答えを当てたでしょ。その時ママもパパも“凄いね!”ってお兄ちゃんを褒めてたよね。その前の問題で私が当てた時は、パパもママも“ふう~ん”という感じで全然褒めてくれなかった。私すごく悲しかったよ。お兄ちゃんばっかり!えこひいきだよ!」

 お母さんはそんな気持ちはなかっただけにびっくりされましたが、その時の子どもの気持ちをきちんと受け止めて「そうか…自分の時は褒めてもらえなかった…と寂しい気持ちでいるんだねえ…。ごめんね。悲しかったね…」と心からの共感で受けとめられました。すると「そうよ…。凄く悲しかったんだから。特にママはいつも受験のことでお兄ちゃんのことばかり構ってるよね。私、そういうのもいつも寂しいんだよ」

 お母さんは決して言い訳をせず、そのH子さんの気持ちを、続いてそのまま受け止めていかれました。「そうか…お兄ちゃんは構ってもらっているのに、自分は注目されていないと感じて寂しい気持ちでいるんだね…」と。すると「そうよ…私、一人ぼっちな気持ちになるんだから。受験だから仕方ないとは思うけど、私にもやっぱり構ってほしいよ(泣く)」「もっと構って欲しかったんだね。寂しい思いをさせてごめんね…」

 そのあとのお母さんの感想です。「クイズ番組のことがきっかけではあったが、娘が日頃の思いを打ち明けてくれたのには驚いた。講座に通い始めてからなるべく能動的な聞き方(共感をベースにした聴き方)を心掛けるようになったので、娘も思いのたけをぶつける気持ちになってくれたのかもしれない。息子にばかり構っている積りはなかったのだが(中略)…娘はそのあと、安心したように静かに泣き続け、そのあとは私に甘えてきました…」

 H子さんはお母さんに本音を語ることができ、本当の自分の気持ちをそのまま受け止めてもらって、どんなに癒されたことでしょう…。子どもは、すべて分かっているのです。お母さんの大変な事情も…。だから一生懸命我慢もします。しかしやはり寂しい思いをしているのです。やっぱり見つめてほしいし関わってほしいのです。

 H子さんの言い分・訴えは、誰にも言えず寂しい気持ちを抱いたまま黙って我慢をしている多くの子ども達の気持ちを、明確に代弁してくれています。子どもを育てているお母さん(お父さん)方お一人おひとりに、このH子さんのメッセージを是非お伝えしたいと思いました。

子どもへの最大のプレゼントは 親の積極的関心です
加藤 諦三


*次回のコラムは9月20日前後の予定です

2017年7月20日木曜日

今、この瞬間を幸せでいましょう。それで充分です

今、この瞬間を幸せでいましょう。それで充分です
マザー・テレサ
Column 2017 No.50

 次の一文(作者不詳)は、ずっと以前、受講者のK・Mさんが私に送って下さったものです。

最初 私は高校を卒業し、大学に入ることばかり考えていた
その次には 大学を卒業し、就職することばかり考えていた
その次には 結婚をして、子どもを持つことばかり考えていた
その次には 私が再就職出来るように、早く子どもが大きくなって小学校に上がってくれることばかりを考えていた
その次には退職することばかり考えていた
そしてもうすぐ「死ぬ」という今になって‥‥ふと、“生きる”ということを忘れてきたと気がついた      

 先日、久しぶりに出逢ったこの一文に、私は再び引き込まれました。私自身、今を生きることの大切さを理解し、今に意識を置いて生きようと、心してきたつもりではいたけれど、この作者と同じように、人生の終盤に近づきつつある今、本当に“生きてきただろうか…”と、あらためて自分の人生を振り返ってみる気持ちになるのでした。

 確かに、私は懸命に子どもを育て上げ、また仕事も頑張って一応の成果もあげてはきたけれど、心の一隅に時折よぎる、虚しさや、寂しさ・憂うつ感…はいったい何だろう。機関車のように前だけに向かって懸命に生き抜いてはきたけれど周りの景色をゆったりと眺めてきただろうか…。いつも先々起ってくることを予測して、仕事においても何事においても、用意周到に準備をして臨んできたけれど、自分の成果を楽しんだり、評価してあげてきただろうか…。

 5月の中半、娘と久々に佐伯区の植物公園に行きました。暑くもなく寒くもなく心地いい天候でした。可憐な花、エレガントな花、堂々とした花々たちが、精一杯自分の花を咲かせていました。花々と心を通わせながら丁寧に見ていきました。時折聴こえてくる鳥たちの声にも耳を傾けました。ベンチに腰を下ろしてソフトクリームを食べながら空を眺めると、綿菓子のような雲が浮かんでいました。何という幸せなひとときだろう…。時間が止まっているような感覚がありました。時間に追われるような日々の感覚が、遠くに感じられるようなひとときでした。明日の仕事のことも、今夜の夕食のことも考えていませんでした。そのひとときがただ心地よく、心も身体も平安と喜びに満ちていたのです。久々に今のひとときを楽しんでいる感覚です。

過去に生きることはよそう。今を生きよう。
食べているときには食べ、愛しているときには愛そう。
誰かとおしゃべりをしているときにはしゃべり、
花を見ているときには花を見よう
そして瞬間の美しさをつかみとろう

 以前コラムで取り上げたレオ・バスカリアの詩を思い出しました。そう!躍動している命が感じられるのは、過去でも未来でもない。まさに「今」だけなんだなあ…と、無心に咲く花々や広い空を眺めながら改めて実感したのでした。本当の自分に出逢えたような安堵感…。前だけを見つめて生きることも素敵だけれど、時には周りの景色を眺めたり、こうして心赴くままに降り立って、すべての日常から離れてみる…。こんな機会をもっともっと自分に与えてあげたい…そう思いました。何故なら本当に生きている実感は、こうしてゆったりと自分の心に出逢ってあげているときなんだなあ…と改めて気付いたからです。

 しかし世の中は楽しいことばかりではありません。つまり、晴天もあれば雨天もある…。

誰にだってあるんだよ 人には言えない苦しみが…
誰にだってあるんだよ 人には言えない哀しみが…
ただ黙っているだけなんだよ…    相田 みつを

 心地いい幸福がずっと続くなんて誰も信じてはいないでしょう。その通りです。人生には色々と予期せぬことが起こってきて、希望を失いかけることもあるものです。しかし、本当の自分に出逢うということは、苦しい場面であっても逃げないで、幸せな場面と同じように、そのひとときの住人になることだと思うのです。

ネガテイブな感情も優しく見つめてあげてください。
それを味わうために人として生まれてきたのだから。 日木 流奈

 ネガテイブな感情も私たちの大切な一部です。静かに呼吸を意識しながら、苦しいひとときの自分、哀しいひとときの自分と共にいてあげる。しかし長居をする必要はないのです。感じては見送り、感じては手放す…。あとは気持ちの赴くままに心が喜ぶことをやってあげたらいいのだと思います。何故なら私たちの心は本当はいつも喜んでいたいから…。

 喜びも哀しみも私の人生の大切な伴侶…。「今を生きる」ということは、現在に集中できる能力です。うわの空にならないように、瞬間瞬間を感じて生きていく。

自分を揺すって絶えず目覚めていよう…。
今日を心ゆくまで味わって生きるのだ。 デール・カーネギー

 “自分を揺すって絶えず目覚めて…”というカーネギーのフレーズは、私の心を沸き立たせるものでした。まさに現実は“いま”だけ!そしてそれが本当の自分に出逢っているひととき…。目を覚まして、思い切り感じて、生きていこう。

昨日は去りました。明日はまだ来ていません。
私たちはただ今日あるのみ。さあ始めましょう。 マザー・テレサ


*次回のコラムは8月20日前後の予定です

2017年6月20日火曜日

あなたの感度はあなたの最高の教師です

Column 2017 No.49

 自分からくる感度は、自分にとって最高の教師だ…と思える人は、生きる上で、まさに“最高の感度”を持った人だと思います。今の時代、メデイアによる情報にどっぷりと浸かって自分軸がどんどんブレて、それにつれて生きる上での“感度”が極端に鈍ってしまっている時代に思えます(コラムNo16)とても憂慮すべきことに思われます。

 本来は一人ひとりの中に、いわば感度を基本とした自動制御装置のようなものが備わっており、今は息を抜くとき…いまは頑張るとき…それは誰にも分からないけれど、無意識にそれに従って健康に気をつけたり、休息を取ったり、頑張ったりしていけるわけです。ところが今の時代、会社では一日中パソコンに向かい合い、乗り物に乗ればスマホでのゲームに余念がない人々…。いつ自分の気持ちや自分の身体を感じるひとときを持つのでしょう…。感度はどんどん鈍っていくことでしょう。

 特に子どもにとってはあらゆる瞬間が大切です。一人でぼんやりしたり、砂いじりしたり、パパと釣りをしたり、水族館に行ったり、星空を見たり、ママとお菓子作りをしたり、本を読んだり、冒険をしてわくわくしたり、度が過ぎて叱られたり…どの瞬間も子どもの感度を育て、自分軸を強くします。ところが今の時代メデイアに押されたり、また勉強に時間にとられて、自分を感じる時間は殆どありません。

 子どもは自分軸が弱体化してくると、無意識ですが危機を感じ、いわゆる不登校をしてみたり鬱をやったり、逆に家庭内暴力に出たり暴走したり…社会や大人とのせめぎ合いをしながらでも、自分軸を取り戻すために果敢に戦います。わからなくなった自分を探し求めている状態です。愛のある指導は大切ですが、焦らずじっくりと、今のその体験を味あわせてあげることも大切です。

人間の目は 失敗してはじめて開くものだ
チエーホフ

子どもたちは勿論、人は間違いを侵しながら学ぶ権利があるのです。悩む権利も、迷う権利も、落ち込む権利もあるのです。そんな痛みの中で人は哲学をし、鋭敏な感度・自分軸を育てていくのだと思います。間断なく与えられる外からの刺激(メデイアからの溢れる情報・親からの支配や怒声・説教…等々)によって子ども達は(私たち大人も)自分自身にゆったりと対峙するチャンスが奪われ、大切なエナルギーをすり減らし、自分自身をどんどん見失っていくのです。その結果が今の子ども達や人々の心の混乱であり、憂慮すべき社会情勢なのです。

 受講者Uさんの体験です。「…食事のとき家族みんなでテレビを見ているとき、父がニュースの内容について“あいつはいい・悪い”とか、“けしからん”とか自分の考えを大声でずっとしゃべり続けるので、私は私なりの考えを感じるゆとりがなかった。いつも父親の意見を聞かされてきました。だから、何処か借り物の人生を送ってきたような気がするのです…。」

 Uさんはその痛みがどこから来たのかに気付かれ、乗り越えていかれました。自己理解は大切です。しっかり自分を感じて、この違和感はどこから来るのだろう…このしんどさはどこから…と自分を感じてみることはとても大切なのです。その多くの答えは社会情勢や家庭の中で“自分を生きてこれなかった環境があった”ということです。

 人の数ほど生き方のスタイルはあるのです。正しい・正しくないは無いのです。自分のスタイルを大事にして、自分の感度を大切にして、他者と較べず、自分の道を堂々と生きていけるような環境を、子ども達にも私たちにも与えてあげたいものです。

人は人 吾は吾なり とにかくに 吾行く道に 吾は行くなり
西田 幾太郎

 「親業」が基本にしている考え方は「自分軸」がものさしです。例えば、一般論に“子どもが人を叩いたら、怒る(叩く)べきです”…があったとします。その価値観を100%信頼して、あなたがあなたの子どもにいつもそれをあてはめるとしたら、子どもはつぶれます。「親業」では決して世間のものさしで判断をしません。

 以前のことですがある街なかで、父親が前を歩き、2人の兄弟がその後ろを歩いていました。弟が盛んに兄の方にちょっかいを出しています。兄の方は初めは無視をしたり、かわしたりしていましたが、とうとう切れた様子で弟を蹴って泣かせてしまいました。すると父親がいきなり振り返り、兄の方の頭をげんこつで殴りました。兄は何の抵抗もしないで、虚しそうな表情で歩いていきました…。こんなことが続いたとしたら、この兄の方の救いはありません。いつか潰れてしまうでしょう。父親は子どもの様子は一切見ていないで、無意識ですが、世間の物差しや先入観で反応したのでしょう。

あなたの感性がものさしです

この父子の親子の場面でも、親は自分の“今の感度”を信頼していくのです。ある時は2人の子どもの言い分をきちんと聴いていく。ある時は言って聞かせる。ある時は蹴らずにおれなかった兄の心の痛みに共感していく。或は黙って見守る…。それを決めるのは、お父さんお母さん一人ひとりの感性であり、それを信頼していくのです。またその感性を訓練していく場でもあります。

 自分の感性や感度を、より信頼していくためには、自分の感じ方を尊重していくことから出発です。私たちは育った環境の中で、“あなたの考え方は未熟だ…。あなたの感じ方はおかしい…。あなたは間違っている…。”私たちはそう受け止めてしまった為に、自分の感じ方に自信が持てないのです。感情には間違いというものはないのです!自分に来た感情は、自分にとってはいつも真実なのです!その自信を取り戻していくことからです。また自分の気持ち感情の真実を、どう表現していくかは、勿論大切ですし訓練も必要です。

 外からの情報に頼り過ぎないで、自分からくる情報を信頼して生きてみる。“こんな時あなたはどうしたい?”“今あなたはどう感じてる?”と自分に問いかける練習も必要です。やがて必ず答えが、自分の中からやってきます。自分を信頼すればするほどやってきます。直観力も冴えてきます。社会の、ある種のイデオロギーに流されたり、宗派のドグマや価値観を鵜呑みにすることもなくなり、ひとり一人の中にある感度(制御装置)が正常に起動し始める!それこそが、私たちの悲願である“人類の平和”への強力な流れを作っていくのでは…と私は信じているのです。人類一人ひとりの魂の中にこそ真実が存在していると思うからです。祖父のことをたびたび出して恐縮ですが、名言だと思うので書いておきます。

  本を読み過ぎない(しかし本を読むことは大切と常々言っていました)
  価値観を鵜呑みにしない
  誰であれ他者を崇拝しすぎない

 “何事も過ぎたるは及ばざるが如し…だよ。自分を信じ、自分からくる答えを信頼して生きていきなさい…” それは、彼が常に言いたかったことでした。その影響からか、私は、私に来たフイーリングは、私にとって行くべき道…そう信じて今日も生きています。自分の中にある力を信じない限り、人は“孤独や惨めさ”からは、決して解放されないと思うのです。そして真の平和…も。


*次回のコラムは7月20日前後の予定です

2017年5月20日土曜日

一番おいしい料理はお母さんの作る料理だ

一番おいしい料理はお母さんの作る料理だ
田中 健一郎
Column 2017 No.48

 「食べる」ことは、人間の最も基本的な欲求である…と心理学者のマズローも言っています。生命を維持したい…という“生存欲求”に繋がっているからです。確かに「食」は人間の生存に係わる最も基本的な分野です。しかし飽食と言われているこの時代ですが、人々の「食」に対する心の置き方考え方は今なお発展途上にある気が致します。

 厚生労働省が提示している “食を通じて子どもの健全育成のあり方に関する検討会”に関する報告書の中に次のような一文がありました。

「…近年子どもの食をめぐっては、発育・発達の重要な時期にありながら、栄養素摂取の偏り、朝食の欠食、小児期における肥満の増加、思春期における痩せの増加…など問題は多様化・深刻化し、生涯に亘る健康への影響が懸念されている。また親の世代に於いても、食事づくりに関する必要な知識や技術を十分有していない…との報告が見られ、親子のコミュニケーションの場となる食卓において家族そろって食事をする機会も減少している状態にある…(以下略)」

 確かに私個人の仕事を通してもその実態を知ることになります。
 母親が精神的な不安定で朝起きることができず、よって朝食の用意ができない。お弁当も作れない。また現在多く問題になっているのが、共働きや自営で両親が忙しくまた子ども側にもお稽古や塾などの事情もあって、食事の時間がまちまちで家族そろっての食事ができにくく、子どもが一人で食事をする日が多い。また親が日常的に忙しく、店で作られた食品・加工食品・ファーストフード・レトルト食品…等々で賄っていることが多い。当然、栄養が問題になっているケースも目立ちます。

 さらに厚生労働省が指摘しているように、親自身が“食事が如何に子供の身体・精神に影響を与えているか”という知識を学んでいない。また料理を作る為の技術を習得していない…例えば包丁が使えない。材料の処理の仕方が解らない。レシピが理解できない…等々。その結果、子どもは栄養不良に陥り、筋力の低下・疲れやすい・精神不安定な子どもが目立つ…しかも大人の中高年に発症するような肥満・高血圧・糖尿…等の生活習慣病が児童に増加しつつある…という恐るべき事実が報告されています。

 また子ども達は、メデイアの目覚ましい進化の波に飲み込まれて、たまたま家族そろっての食卓を囲むことがあったとしても、それぞれの子ども達が、テレビを観ながら…スマホを触りながら…と、せっかくのお料理に注目することもなく会話もない…食卓。この寂しい現実をどうしたものやらと、親御さんから相談を受けることも多くなりました。

 私の子ども時代にはまだテレビもありませんでした。もっぱらニュースは新聞とラジオからでした。しかし食事中にはラジオを付けることも禁止されていました。家族みんなが食卓に揃うまで、小さな子どもでも待たされました。(勿論事情があれば別ですが)そしてみんなで声を合わせて「いただきま~す!」と合掌して食事が始まりました。これは我が家が特別ではなく、おそらくどこの家であっても同じだったような気がします。

 今から考えれば食事はとても質素なものでした。でも野菜は豊富に用意されていました。母が料理が得意だったので、質素でも美味しかった…という印象があります。そして現代とは少し違う親の指導がありました。「おしゃべりはしないで静かに食べなさい!」(食事は楽しい会話をしながら食べよう!という今の価値観は素敵ですよね)「残さずに食べなさい!」「よく噛んで食べなさい!」…そのほか“背筋はまっすぐに”“肘をつかない”…等々、結構厳しい食卓だった印象があります。

 中でも驚きは「自分でこぼしたものは拾って食べなさい!と言われていたことです! 現代と比べれば驚きのマナーですね!殆ど風邪もひかない私の並み外れた免疫力はこんな所からもきているのかもしれません(笑) 今も食べ物への敬虔な想いは私の中に根付いていて、レストランでもご飯の米粒ひとつでも残さないように…と心掛けている自分があるのです(笑)幼い頃から育てられた価値観は、人の一生に影響を与えるんですねえ…。

 ちなみに私の祖父が家族みんなによく言っていた食に関する価値観があります。食事に関する祖父の「食事を頂く4原則」です。

“腹八分”“感謝して”“よく噛んで”“美味しい!美味しい!”
と言って食べたら、毒も毒にならないんだよ

 “毒も毒にならない…” 比ゆ的に言っていたのかもしれませんがその文言が印象的に残っています。  「…よく噛むことによって唾液が分泌され、発がん物質に作用し、突然変異能力を弱くすることができる。…。発がんを抑制するにも、噛むことの大切さが再確認された…」と何かに書かれてありましたので、祖父が言っていたことは、まんざら誇大な表現でもなかったようです。
 次は冒頭のフレーズ、帝国ホテル総料理長 田中健一郎氏の言葉です。

一番おいしい料理はお母さんの作る料理だ。美味しいものを
食べさせようという気もちがいっぱい詰まっているから
お母さんの料理が一番おいしい

 今の時代家族そろっての食卓は難しいかもしれません。しかしお母さんが可愛いわが子のために、わくわくと楽しそうにお料理を作る。その愛情のいっぱい詰まったお料理は、例え子どもが一人で食べることがあったとしても、その愛はちゃんと伝わる! お母さんの料理は、いま謳われるこまごまとした栄養バランス・高価な食材・目先の美しいレストランのお料理…等々を、はるかに越えるものだと思います。そのお母さんの料理は、食卓にまで持ち込まれているメデイア依存さへも、解決させていく力を持っているのではないでしょうか。

 カウンセリングの場で時に尋ねることがあります。「お母さん、お料理はお好きですか?」…と。「私は、何の取り柄も無いのですがお料理を作るときは凄く楽しいのです!」そんなお母さんの子どもさんは、今どんなに難しい状態にあっても不思議に立ち直っていけるのです。「食べる」ことは“生きていたい!”と云う人間として一番原点の“生存欲求”です。それが満たされるということは、“あなたを生かしたい!”…と言う親の最高の愛を伝えることができるからだと思います。

 ずっと以前、ある新聞の投稿欄に寄せられた18歳の専門学校生の一文がとても心に残っています。「…10年前、両親は別居し、母が私を引き取った。私はお料理を覚えて、仕事から帰ってきたお母さんに“新作”を作って喜ばせた。…でも本当は“お母さんの作ったご飯が食べたい…”とずっと思っていました…」


*次回のコラムは6月20日前後の予定です

2017年4月19日水曜日

正直な言葉は相手の心にまっすぐ届きます

Column 2017 No.47

 「…断ることが苦手で、本当は行きたくないのに、誘われるとつい行く羽目になったり、買いたくない品を買う羽目になったりして…あとで悔しい思いをすることがたびたびあります…」と言った相談を受けることがあります。

 私たちは断ることが何故こうも苦手なのでしょうか。それはおそらく幼い頃から親子関係の中で“断ることはいけないこと”“断ると嫌われる”…という価値観を色々な形で受け取ってしまったからではないでしょうか。

 お母さんから「お隣に回覧板をもって行ってちょうだい」と言われたとき、あなたが今、観たいTVを観ていたり、模型作りの途中だったりすると、「いやだ!今は駄目!」と言いますよね。するとお母さんは「ほんとに言うことを訊かない子なんだから」とか「役に立たない子ねえ!じゃあお母さんが持っていくわよ!」と不機嫌に応じられることが日常的だったりすると、「ああ、“NO”ということはいけないことなんだ…嫌われるんだ…」と子どもは受け取ってしまい、“NO”ということに罪悪感を覚えるようになっていきます。一方、

 食事のおかずを、「まずい!」と言って子どもが残したが「残念ねえ…」と言って、なぜか母親は受け入れてくれた。
 遊びに夢中になって、親との約束を忘れてしまった子供に、「困ったんだよ…」と親は諭したけれど、許してくれた。
 親にお手伝いを頼まれたが、自分にもやりたいことがあって「いやだ!」と言ったら「そうなの。残念だわ…」といって受け入れてくれた。

 生活万般、いつもそうはいかないにしても、時にこのように機嫌よく“NO”を受け入れてもらった経験のある子どもは、“NO”を言ってもいいんだ…できないことがあってもいいんだ…僕が僕であっていいんだ…と学んで育つので、人間関係に恐れがなく“NO”と言いたいときに率直に言えるのです。

 日本人の多くは、いい子を求められ“NO!ということにはリスクがある”的な教育を受けているので、一般的に自分の本当の想いを表現するのは結構苦手です。その結果“日本人は何を考えているのか分からない”と揶揄(やゆ)されたりし ますが、その原因の多くは、おそらく欧米人と違って、“はっきりNO!と言えない国民性”が、そういった誤解を生んでいるのではないでしょうか。

 でも一度しかない人生です!“NO”が言えない為に、不正直に他人(ひと)さまへの協力だけで、あなたが本当にやりたいことができないままに人生が終わったとしたら、何と悔しいではありませんか。本当に断りたいときに率直に断り、自分の時間を大切にしていくことは、自分の人生に責任をもつ人の、とても素敵で尊い行動なのです。

正直な気持ちはとても大切だ。しかし相手がそれを受け入れ
やすいように準備することは、同じように大切だと思う
おちまさと

おち氏の言っている通りです。自分の想いを表現するとき、自分の想いだけで頭が一杯になっていると、つい押しつけがましくなったり、言い訳がましくなったり…その結果、相手を傷つけたり怒らせたりして、相手との人間関係は壊れる方向に行ってしまいがちです。人間関係はコミュニケーションで成り立っています。よって人間関係が壊れてしまう原因の多くは、コミュニケーションのまずさからきているのです。コミュニケーションを正していけば、人間関係も正されていくのです。

 自分の真実の気持ちを、相手のハートに届けようと思ったら、おち氏のいうように、それなりに周到な準備がいるのです。親業はコミュニケーションの取り方を学びます。自分の本当の想いを大切にして、それがまっすぐに相手に届くように、受け取る側の心情をも大切にしたコミュニケーションの形を学習します(コラムNo11)。そしてそれを相手に伝える前に、さらに周到に訓練していきます。繰り返し訓練していくことで、やがて必ずあなたは、コミュニケーションのベテランになっていけるわけです(コラムNo12)。

 自己表現には色々な形がありますが、今回は、気の進まない誘いなど、“お断りしたいな…”とあなたが思うとき、相手に不愉快な思いを与えずに断る方法を少しご紹介しましょう。親業訓練協会主宰の「人間関係講座」が提供しているスキルのひとつです。断る「理由」と「意思」を相手に明確に伝えることがポイントです。例えば「今日は家で片づけをしたいので(理由)行かないことにします(意思)」 “意思”とはあなたの本当の気持ちです。

 “行けません”とか“できません”は意思ではないので、誘った人は「~してあげますので行きましょう」とか「あなたなら出来ますよ」のように乗っかってこられやすいのですが、“行かないことにします”と意思が伝わると、あなたの固い決意が伝わるので、“なるほどわかりました“と相手に理解頂けるのです。大切な人間関係であれば、“理由”は忘れずに付けて下さいね。「いま病人を抱えていますので(理由)今年の役員は引き受けたくないのです(意思)」のように…。

 しかし人間関係を続ける必要のない場合は、「貴金属は買うつもりはありません(意思)」「新聞は要りません(意思)」と意思だけで伝える方が、はっきりと断れます。この場合、理由を付けたりすると、逆にそこに乗っかってこられやすいのです。

 受講者Sさんの体験です。「…大切な友人なので、誘われても今までは断り切れず、少し無理をして付き合っていました。しかし学習してからは、行きたくない時には思い切って断ることにしました。拍子抜けするほどBさんはあっさり解って下さるのです。それからはBさんも、都合の悪い時は率直に断って下さるようになりました。より親密になれたような気がします…」

 案ずるより産むが易し…です。率直で正直な自己表現は、相手に安心感を与え信頼を得ることになるのです。もっとも、いつも“NO”を発信するだけでは、人間関係は成り立ちません。自分に正直でいるなら、心から“YES”と言いたいこともある筈です。 “自分への思いやり”と“相手への思いやり”が、自分の中で快適なバランスを持つこと…。これがコミュニケーションの基本です。

 自分を大切にするということは、自分に正直になることです。あなたが今、心や身体のどこかに苦しみや痛みを感じているとしたら、それは自分にもっと正直になりなさいというサインかもしれません。誰よりも自分に優しく自分を大切に生きてください。

あなたの人生はあなたのものです


*次回のコラムは5月20日前後の予定です

2017年3月19日日曜日

人の癒しは人生をかけて成し遂げられます

Column 2017 No.46

 私が前回取り上げたテーマを思い出して頂くべく、ずっと以前、受講者Hさんから頂いたお手紙の一文を、了解の上そのまま載せてみたいと思います。次女さんは現在25歳ですが、その次女さんが小学校低学年の頃の体験で、その頃頂いたお母さんからのお手紙です。

「…小学生の次女ですが、先日ふと見ると、ドレッシングの空いた瓶にお茶を入れて、まるで哺乳瓶のようにしてお茶を飲んでいたのです。それを見た時、断乳をした時のことを思い出しました。下の子の断乳の時、熱が出たりして身体の調子が良くなかったので、何の前触れも準備も無くいきなり “はい!お乳バイバイよ!”という感じで、断乳してしまったのです。1才3ヶ月頃のことです…。しかし子どもにしてみればそれはあまりに突然で、しかもまるで拒絶されたかのように感じてしまったかもしれません…。

…それでお茶を飲んでる子に“Eちゃん!Eちゃんは今、お茶をお乳みたいにして飲んでいるけど、お母さんが、お乳バイバイよ!って突然辞めたのがいやだったんじゃない?って訊いてみたんです。そうしたら深くうなずくやいなや、“ウワァ~!”と泣き出してしまい、あとはただただ泣きじゃくるばかりでした。暫くして私がちょっとその場を離れようとしても“だめ~!”と言うので、ずっと抱っこしていましたが、その抱っこも、ただ抱かれているというより、しがみつくという感じでした。やむをえず断乳をしてしまったのですが、子どもにとっては“なぜ!?”と思うばかりだったのかもしれません…。何か私と子どもの間で切れていたものがひとつ繋がったような気がしました…」

  “…子育ては本当に難しいですね…”と続いて書かれていましたが、お母さんの体調というそれなりの正当な理由があって対処したことであっても、子どもはやはり傷つくんですね。しかしこのお母さんは、そのことが子どもの心情にいかに混乱や驚きを与えてしまっていたか…ということに気付かれ、見事に対処されています。お母さんの素晴らしい“感度”に敬服したことでした。岡田氏のいう「愛着障害」に繋がるところを防ぎ止められたということですね…。

 このように子どもという存在は(我々を含めて)、覚えている筈もない年齢のことでも潜在的にちゃんと覚えていて、何かの縁に触れると、その潜在的な傷を表面化して癒す方向へと持っていくのです。子ども(私たちすべて)は誰ひとりとして自分の人生を諦めてはいないのです。何度も何度も親の愛を確かめたり(親に代わる対象を見つけたり)Hさんのお手紙にあったように、子どもの心に残っているこだわりは勿論無意識ですが、“幼児がえりを”してでも、修復を試みます。小学校5年生のW君(次男)の例もそのひとつです。W君は不登校を機にお母さんの“後追い”(あとおい)をはじめました。母親への後追いが見られるのはエリクソンの発達段階によれば幼児期前期に見られる行動です。お母さんのお話によると丁度その時期、長男の入院で次男の面倒が見られず、実家に一年近く預けていたということでした。

 またある女の子Sさん(小学4年生)はトイレに行くのに母親についてくるように執拗に強要し、“パンツ脱がせて!”と要求したり、スプーンを欲しがり赤ちゃんが持つような危なっかしい手つきで食べたり、赤ちゃん言葉で話す…などの行動が現れお母さんは大変混乱されていました。無意識ですが“幼児がえり”をしてでも母親に気付いてもらい、心の空洞の修復を逞しく試みようとする姿です…。そんな“幼児がえり”をする子どもの例は枚挙にいとまがありません。

 しかし“幼児がえり”の背景には大条件があり、母親に母性を感じた時に限られるということです。“今のお母さんなら受け入れてくれそう!”子どもはちゃんとそれをキャッチしているのです!どんな形であれ、空洞を埋め直した子どもは本当に幸せです。そして子どもの幼児がえりに驚きつつ、子どもの心に丁寧に愛を埋め直していったお母さんもあっぱれです!“幼児がえり”はその子の心の空洞を埋める大切なチャンスなのです!“幼児がえり”だけではなく、子どもの困った行動の多くは、やはり心の空洞を見せていますので、お母さんの愛で満たしてあげることが大切です。

 “幼児がえり”への対処の、大切なポイントがあります。現在子どもがどんなに大きくなっていても、“幼児がえり”をしたその年齢の子どもに合った対応をしてあげることです。「もう赤ちゃんではないのよ!」「お姉ちゃんでしょ!」という類いの言葉を言いやすいのですが、それを言ってしまうと多くは本来の年齢にすぐに返りますが、折角の癒しのチャンスを逃したことになります。だから“抱っこ!”と言えばしっかり抱きしめてあげる。“ついてきて!”と言うならついていってあげる。「一緒にいて!」と言うなら居てあげる…。

 …きちんと満たしてあげるなら後退の状態は長くは続かないものです。長く続くようなら、それだけ深く傷ついているということがあるかもしれません。しかし諦めないで付き合い続けたお母さんは、それを機に子どもとしっかりとした絆で結ばれていきます。絆さえできればこれからの人生どんなことが起ころうと、子どもは逞しく乗り越えていけるのです。母親がその子の“心の基地”になれば、人生という大海原に子どもは安心して大きく羽ばたいていけるのです。

 子どもの“心の基地”になってあげられる親は、やはりある程度の心の整理、つまり自立という条件が要ります。しかしいま親をやっている私たちも、育ててくれた親を持っています。必ずしも愛に溢れた親に育てられたわけではありません。多かれ少なかれ岡田氏のいう「愛着障害」と闘いながら我が子を育てているわけで、悲しいかな気付けば自分が育てられたように我が子を育てているわけです。でもそれが人間の性(さが)でありその性と闘いながら懸命に生きているのが私たちであり本当に愛おしい存在です。

 次は受講者E.Tさんの体験です。

「…夫と話していて途中からいつもやり切れなくなって涙が出始めるんです…。夫は“お前はいつもすぐに泣く!言いたいことがあるんならちゃんと言え!” 実は話の内容で悲しいのではない…。ちょうどその頃、講座の中で自分と親の関係を見つめている期間だった。そこでハッと気付いたのです。夫の話し方が父の話し方にそっくりなことに…。自分は幼い頃から父の話し方にいつも威圧感を感じて怖かった…。夫に初めてそのことが伝えられたのです。夫は“そうか…父親に問い詰められているような気がしたのか…。ごめんな…” 胸の中がスーッとして、夫も許せる気がしました…」

 大人になった今でも、E.Tさんの体験のように、ふとした縁に触れて、過去の傷が浮上することがあります。つらいですがやはり癒しのチャンスです!浮上したときこそその傷が消えていくチャンスなのです。大切なのは、その都度それにどう向き合っていくかということです。

 私自身も過去の想念が浮上して辛い時期がありました。その頃すでに両親はいませんでしたし、誰かに聴いて頂くことも結構苦手な方なので、私のやり方ですが、浮上してくる過去の想念や出来事からは決して逃げないで、ありのままに日記のようにどんどん書き留めていきました。しかしただの日記ではなく、実はその出来事に係わった人に宛てた手紙です。そしてその時に抑え込んだ感情を必ず付け加えるのです。「お父さん、あなたはお母さんに対して~と言いましたね。その時傷ついたであろうお母さんを感じて、私もやり切れない気持ちでした。わたしも凄く傷つきました…」というふうに…。そして必ず自分自身に共感をしてあげます。「辛かったね…」「傷ついたね…」「やり切れなかったね…」のように。「過去感情日記」と私なりのネーミングをして、カウンセリングの場で、今もクライアントの方にお勧めしてかなり効果的です。

 本気で人生を楽しむことも大切です。心が喜ぶことを果敢にやることです。さて以前のコラムにも書きましたが、よく挙げられる例えです。「泥水で一杯のコップでも、そこに綺麗な水を注ぎ続ければ、そのコップの水はやがて必ず清水に変わる…」と。 親子関係で、今も親を憎み許せない気持ちいっぱいのあなたでも、理由があるのだから、決してそれを消そうなんて思わないで、感じたら手放して、手放せなかったらそっとそのままにして、一方人生を楽しむというわくわくとした清水をコップに注ぎ続けていると、いつの間にかその水は、“親への捉われ”と入れ替わって、あなたはやがてエネルギーに満ちてくるのです。

 また、人間の気持ちの動きにはバイオリズムがあると言われます。そのバイオリズムが下がっているときには整理していたつもりでも、残っている澱(おり)のようなものが浮上してくることがあります。そんな時も私はやはり泥水の入り混じったコップの水をイメージします。そして自分なりのツールで「大丈夫!大丈夫!」「赦します!」「愛します!」「ありがとう!」…その時その時に思い浮かぶ私なりのポジティブなツールを、例のコップに注ぎながら、更にどんどん綺麗な水になっていくイメージで見つめていきます。

 何でもいいのです。自分にとって分かりやすい具体的で象徴的な形(シンボル)を創って、ポジティブなツールの言葉で自分の中の澱(おり)をどんどん解放していくのです。ある脳学者が書いていました。私たちの脳は実にシンプルで、私たちの想いをそのまま真直ぐに受け取っていくらしいのです。シンボルがとても効果的なのは、シンプルなので脳が受け取ってくれやすい形なのだと思います。

 「…腹が立つ!許せない!愛せない!…でも私を赦します!愛します!大丈夫!何とかなる!…」と、ネガティブな思いは感じて赦して“そのままに”新しいポジティブな想念をどんどん上書きし続けるのです。これは私が絶えずやり続けている訓練です。やがて潜在意識を占領していた自己否定や他者否定の想念が、新しいポジティブな想念に機嫌よく席を譲ってくれる日が必ず来ます。

思考も訓練のたまものなのです

*次回のコラムは4月20日前後の予定です

2017年2月19日日曜日

子どもは母親の愛情を求める本性をもって生まれてきます

子どもは母親の愛情を求める本性をもって生まれてきます
岡田 尊司
Column 2017 No.45

 内閣府が取り纏めた「平成27年版子ども・若者白書」が発表されました(昨年6月)。その資料の中で私が特に目に留まったのは、小・中学生とその保護者を対象に行った「子どもの中の幸せ感・不安悩みに関する意識調査」でした(回収率:子ども70.2% 保護者93.1%)。それによると

 “家庭や学校での生活が楽しいですか”の設問に対して、“まあ楽しい”を含めて“楽しい”と回答した子どもが、
・家庭:99.0%(平成26年)/97.4%(平成18年)
・学校:80.6%(平成26年)/71.8%(平成18年)

 続く意識調査(一部抜粋)では、“どちらかと言うとそう思う”を含めて、
・人の役に立つ人間のなりたい:そう思う97.5%(平成26年)/55.9%(平成18年)
・自分の気持ちに正直に生きている:そう思う87.0%(平成26年)/74.5%(平成18年)
・将来のために今頑張りたい:そう思う94.7%(平成26年)/87.8%(平成18年)

 次に続く意識調査(一部抜粋)では、“どちらかと言うとそう思わない”を含めて、
・人は信用できないと思う:そう思わない81.8%(平成26年)/77.4%(平成18年)
・人と居ると疲れる:そう思わない87.4%(平成26年)/87.1%(平成18年)

 この集計結果を見る限りでは日本の子どもは決して不幸にはなっていない。保護者の意識調査でも子どもの自主性を尊重しつつ子どもに関心をもって臨んでいる保護者が増えていることが今回の意識調査からもはっきりと伺えます。報道機関から流れてくるものはネガティブなニュースにポイントが置かれているので“世の中どうなっていくんだろう…”と多くの人々は不安を抱える結果になっています。明るい報道にも力を入れてもらえると、これらの不安は払拭され、人々の希望が更に世界を明るくしていくと思うのですが…。

 もっとも、一部の子どもたちの上で起こっている相対的貧困、児童虐待、ネグレクト…等々の問題は上昇が続いています。私たちはこれらに目をつむるわけにはいきません。子どもをここまで追い込んでしまっている背景に一体何が起こっているのでしょうか…。この辺りを探っていく上でとても参考になった書籍があります。親が子どもを愛せない背景に何が起こっているのか…。この辺りを臨床的に研究し調査し、実際に治療にもあたって書かれた、精神科医で作家でもある岡田尊司(たかし)氏の「愛着障害」(光文社)は、私にとって想像以上に深い共感がありました。

 知人のS.Iさんが紹介下さった時、すぐに手が出なかったのは、“愛着障害”というネーミングに少し抵抗を感じたことと、そのテーマからは、彼が言わんとするところが掴めなかったのです。しかし縁あって求め、読み終わったとき、私が一番大切に思っていることを、興味深い沢山の事例を挙げながら克明に、しかも大変理解しやすく述べられていることに驚嘆し溜飲が下がるような感覚がありました。学生時代、私が心理学を学んだ頃は“愛着”は“アタッチメント”とか“マザリング”とかに訳されていました。それで少し抵抗を感じたのだと思います。母親が子どもにこのアタッチメントを軽視した結果、岡田氏のいう「愛着障害」が深刻な形で出てくる訳です。

 つまり子どもは生誕時から無意識に母親からのアタッチメント(肌によるふれあい・愛情に基づいた様々な関わり合い…等々)を求めており、それを通して、その子の人生の基本的な構え、つまりこれから生きていく周りの世界を、その子がどういう視点で捉えていく傾向になるか…の基本的姿勢が出来上がるのです。これを岡田氏は「第二の天性」と呼んでいます。更に彼はこのように述べています。「母親を主たる愛着対象、安全基地として確保しながら同時に活動拠点を広げ始めるのである。これは大人に於いても…安定した愛着によって安心感・安全感が守られている人は、仕事でも対人関係でも積極的に取り組むことができる‥‥」

 発達心理学者で知られるE・H・エリクソンは、人の一生を、乳児期・幼児期・児童期・青年期・成人期・壮年期・老年期‥‥に分類してそれぞれの発達課題を設けており、それぞれの時代の課題(特に初期の段階)をクリアしていくことで、人間は健康なアイデンティティを構築できるのだ…と。よってその中でとりわけ重要なのが、乳児への母親の密なアタッチメント(スキンシップ・無条件の受容・子どもからの働きかけにまめに答える・話しかけ…等々)で、これこそがその子の一生を左右する基本的安心感・安全感が培われるのだ…と彼も述べています。   

 一方、アタッチメントがうまく起動しないと、人間不信頼・母子分離不安・情緒障害・人格障害…等々に至ることもある…と述べています。岡田氏のいう「愛着」の度合いによって人生の構え(視点)が違ってくるのですね。心理的外傷(愛着障害)を抱えた人々の多くは、思春期・青年期になっても自己像が低く、心の中に強い劣等感を抱き、自信もありません。特に理由のない空虚感や孤独感に悩まされたりしています。
 「愛着障害の人は原点のおいて他者に受け入れられるということがうまくいかなかったのであり、同時に自分を受け入れるということにも躓いたのである」岡田氏の言葉です。

 非行を研究している研究者が次のように述べています。

母親の温かいイメージが子どもの心の中のベースになって
いれば、思春期以降によく起る問題行動(非行・暴力・いじめ・
不登校・鬱・心身症…等々)はまず起らないであろう…

以前、TVの放映だったか…ある動物園の園長のお話はとても印象的でした。「…不幸にも母親猿に構ってもらえなかった子猿が母親になったら、やはり自分の子どもに愛情を示さないのです。母乳を与えることを拒んだり、子猿が母猿に触れようとすると腹を立てて危害を加えることさえもあります。一方、母親に愛されて育った子猿が母親になったら、自分の子どもが餌を獲得できるようになるまで、殆ど手放さないで、抱いたりおぶったりし続けます…」と報告していました。

 岡田氏は愛着障害を抱えた人々がその障害をどう乗り越えていったのかを、世界に大きく貢献した人々を含めて、丹念に調べ、納得できる理論でみごとに解説しています。彼らは愛着障害に苦しみながら、そしてそれと闘いつつ自分を癒しながら、徐々に社会に適応していきました。そしてその苦しみから「哲学」が生まれ、共感を呼ぶ「文学」が生まれ、素晴らしい「芸術」となって人々を魅了していったのです。ある人は得意な「ビジネス」の世界で社会に貢献していきました。

 “世に大きく貢献していく人々の半生は、苛酷な修行があるもんなんだよ…”と、祖父がよく言っていましたが、岡田氏の著書で、“なるほど…”と大いに合点し、感慨深い気持ちになったことでした。私たちも多かれ少なかれ、岡田氏のいう「愛着障害」を抱えて、時には苦しく辛い課題と格闘しながら生きています。翻訳家の山川紘矢氏は「人生は魂を磨く場所」と表現していますが、私たちは、魂を磨かん為に辛い修行にもひたむきに励んでいけるのでしょうか…。

 我が子に“アタッチメント”を充分に与えないできた為に子どもが今も苦しんでいる…。その上母親自身が、親からそれを充分貰えなかった為に、今も理由の解らない空虚感や不安感で、重苦しい気持ちで過ごしている…そんな辛い中にいる親御さんに沢山会ってきました。しかし「愛着障害」は必ず乗り越えられると私は信じています。それに無関心でいるとその人の中で「障害」は起動してしまいますが、自分の中の障害に気付いた人は、それにきちんと対峙できるのでそこから癒しに向かいます! 現に克服し自分を取り戻していった方々は沢山います。気付いた人にとっては、解決しない問題は無いのです。

 岡田氏の著書「母という病」(ポプラ社)も紹介しておきましょう。この本の中にも“愛着障害”を克服すべく具体的な解決策が沢山提供されています。私も親業やカウンセリングを通して今感じていること、大切に思っていることを次回のコラムで続いて書いてみたいと思っています。

*次回のコラムは3月20日前後の予定です

2017年1月20日金曜日

夢は大きく 失敗は大胆に

夢は大きく 失敗は大胆に
ノーマン・ボーン
Column 2017 No.44

 今年の年賀状のフレーズに取り上げたものです。年齢を重ねてもこのようなフレーズに出逢うと、何だか心がときめきます。でも本音を言えば、私が抱く夢は等身大だし、しかも失敗はやはり好きではありません(笑) だからこそ ”Boys be ambitious” 少年よ大志を抱け!(クラーク博士)のような言葉にわくわくしたり、今回のテーマのような勇ましいフレーズに心がときめくのでしょう。 

 失敗は大嫌いな私であるにも拘らず、本当はこれまでの人生、恥ずかしい失敗を数多く重ねてきた私なのです。いわゆる赤恥レベル級です…。あまり話したことのない忘れられない赤恥のひとつを、時効と判断し披露します(笑) 学生の頃、友達関係だった男友達のひとり、彼は私に対しては恐らく友達以上の感情は全くなかった。実は私の方が好意を持っていたことには私自身全く気付かず、相手が私に対して並々ならぬ恋をしていると勘違いをして勝手にことを起こし、途轍もない傲慢な態度で別れを切り出した!その時の彼の言葉と鳩豆状態の顔が思い出され、今も顔から火を噴きだしそうな恥ずかしさと申し訳なさで一杯です…。

 わたしの“恥歴”は枚挙にいとまがないくらいです。そんなことを感じていると、むかし子どもと一緒に読んだ「ドン・キホーテ」(セルバンテス作少年少女世界名作全集)が急に読みたくなって、まだ健在の書棚から黄色く変色したその一冊を引っ張り出して、お正月の合間合間に引き込まれるように再読したのでした。私と温度差があまりないように思えるドン・キホーテ。妄想癖のあるキホーテが風車を巨人だと思い込み、槍をもって全速力で風車に突撃していった…その断片的な下りだけは鮮明に覚えていたのですが、その他数々の突拍子もない騒動はすっかり忘れていたようで、わくわくと全篇読み通しました

 騎士道物語を読み過ぎて夢と現実の区別がつかなくなったキホーテは、自分がすっかり雄々しい騎士になったつもりになって、老馬にまたがり、家来のサンチョを引き連れて、世の中の不正を正すための旅に出掛けるのですが、まさに奇妙で滑稽極まるトラブル(失敗)の連続! 心打たれるのは年老いてもなお、夢や希  望を決して失わず、正義を胸に遍歴の旅を続けていくその一途さ。周りの人々は彼の常軌を逸する行動に呆れながらも、純心で一生懸命なキホーテを愛さずにはおれないのでした。まさに“夢は大きく失敗は大胆に”を地で行く人物なのでした。

 私とドン・キホーテの違いは、キホーテはどんなにまずいことをしでかしても、彼なりの論理(多くは妄想からの)があって、決してめげず、完璧なプラス思考!一方、私は…と言えば、時に妄想で行動してしまうところは彼と一緒でも、幸か不幸か、必ず正気に戻ってしまうところがつらい所で、赤恥をかいては苦しみ、こけては痛みを感じながら、そこで何かを学び今日まで生きてきたわけです。

失敗がないと人生に失敗する

斎藤茂太氏の言葉ですが、私にとっては救いの言葉です。失敗は確かに心が痛むものです。でも失敗を通してこそ、“真の目”は開かれていくのではないかという気がするのです。だから人は、無意識ですが自分にとって必要な失敗をしているではないか…と。その失敗を通して何かを感じ何かを掴んでいける! 特に以前はうっかり者でそそっかしかった私は(実は今もですが…)多くは失敗から学んできたような気がするのです。

 失敗と言えばもう一つの赤恥を思い出しました。もう10数年も前になるかと思います。その頃、“シャンソンを歌う会”に入っていて夢中になっていました。年に1回の発表コンサートがあり、その日はみんな精いっぱいのお洒落をして一人ひとりがステージに立って歌うわけです。いよいよ自分が立つ番になりました。堂々と胸を張って舞台に出ようとした処まではよかったのですが、マイクのコードにヒールが引っかかって、すってんころりん! 観客の方に向けて足が跳ね上がったのできっと見られたざまではなかった…と思う…(クシュン)。

 ところが不思議ですが、その一瞬の情景の中で、スローモーションのように自分の心の動きがはっきりと掴めたのです!“…ああ、私はこうして300人の観客の前でみっともなく転んで赤恥をかいてでも、自分の身に付けた不自由な鎧(よろい)を脱ごうとしているんだなあ…”と。

 そして同時に、観客のエールのような愛の波動を全身いっぱいに感じて、立ち上がった時には体中にエネルギーが返ってきていたのを思い出します。そして“…わたし!素っ裸で今日は街中を歩けそう!”と思うくらい、その時、鎧が脱げている自分を感じたのでした。……しかしいつの間にかまた、無意識に着込んでいる自分も…あるんですよね…。

 私は失敗はとても怖いけれど、失敗することを赦して生きているので、かなり大胆な失敗をよくします。でもその失敗を通して本気で学ぼうとしています。等身大の夢でもいいそれを持ち続けて、真摯に生きていく中での失敗は、学ぶべきことが必ずある筈だと…。きっとこれから歳を重ねても、辛いけれども私にとって必要な失敗は訪れ続けるのでしょう。でもその度ごとに気合いと度胸でもって臨み、学んでいくつもりです。

 夫が生前、ある体験を通して語っていたことをふと思い出しました。「…今日なあ。横断歩道を渡るときにいきなり転んだんだよ!その時ふっと、よっしゃ!思いっきり転んでやろうと思ったんだ…。そう、柔道の受け身だな!そしたらほら!全く怪我がなかったよ…」と。その時はあまり深く考えず、夫らしいな…と笑って聴いていましたが、失態に臨む夫の心意気が今回のテーマに繋がるのを感じました。

失敗を覚悟で 挑み続ける それがアーティストだ
スティーブ・ジョブズ

リスクを取る勇気がなければ 何も達成することがない人生になる
モハメド・アリ


*次回のコラムは2月20日前後の予定です