2014年1月24日金曜日

過ちをおかさない人はありません。過ちは修正をもたらしてくれる贈り物です。 あなたには、過ちをおかしそれから学ぶ時間はたっぷりあります。 ~ポール・フェリーニ(牧師)~


Column 2014 No.2

このフレーズは私が今年の年賀状にしたためたものです。
“人は過ちから学べる・・・”“学ぶ時間はたっぷりある・・・”なんと大きく暖かいゆるしのメッセーでしょう。

 私は親業インストラクターになって30年近くを迎えます。しかしその出発は力量も、ひとりの人間としても、まさに未熟なままの出発でした。ボードに平気で間違った文字を書いたり、大切な言葉の言いまわしを間違えたり、高邁なことを言って自分以上に自分を見せようとしたり・・・数え上げれば未熟さには限りがありません。文字や言い回しの間違いは、受講生の方々がその都度まっすぐに私に指摘してくださったものです。

 私にとってはとても恥ずかしいことでした。しかし指摘されたミスは再び繰り返すことはなかったし、ミスに気づかないまま講演や講座を続けていたとしたらその方がずっと恥ずかしい結果になったことでしょう。失敗という修正のチャンスが私に訪れたこと、受講生の方々の率直なご指摘に今も心から感謝しています。

 でも一番見逃しやすいのは“自分にしか解らない過ち”です。ちょっと吐いた小さな嘘、微妙に他人さまを批判した瞬間・・・等々。仕方なかったのよ・・・。あの人が言ってること変だもの・・・と心の中で言い訳たらたら・・・・。本当は自分に向かわなければならない貴重な瞬間なのに微妙にすり抜けようとする。でも自分の感情はとても正直でやはり心地悪いし、自分で自分の評価を下げていきます・・・。しかし有難いことにやがて必ず対峙しないではおれない羽目にも陥ります。

 私はある時から、保身は出来ることならすべてやめて、本当の自分を知りたいと心から思うようになりました。そのためには恐れず“失敗を自分に許そう”と決意したのです。本当に成長したかったのです。しかし、結構それは勇気の要る決断でした。

 なぜなら失敗は、私の中の弱点が明るみに出ることであり、見たくない気付いていない自分の中の闇の部分に、対峙せざるを得ない結果にもなるからです。
 あるときは愛に欠け愛に悖る自分の言動に愕然としたり、自分の今いる位置の不確かさに戸惑ったり・・・でもその都度、決して逃げないでじっと自分の感情と対峙していきました。苦しいけれどその痛みから沢山のことを学んできたと思います。自分の思いの癖や思いの傾向にどんどん気づいていったのです。

 「過ちを改めざる即ちこれを過ちという」孔子の言葉です。

 過ちは決して恥ずかしいことではなく、軌道修正をしてくれるチャンスです!過ちに目をつむり、学ばないまま出来事の後悔ばかりをして、罪悪感という重い鎖を一生引きずって生きている人は案外多いのではないでしょうか。
 後悔は決して美徳ではありません。相手があるなら自分の心の中でその人に心から詫び、過ちの経験から学んだことに心から感謝して、そしてあとは自分を果敢に許し、果敢に手放すこと。学んだらその出来事はすっぱりと“お払い箱”です。

 “自分の中で自分を曝け出す勇気!”
 これからもまだまだ私の自己理解の旅は続きます。

(次回のコラムの更新は2月初旬の予定です)


2014年1月3日金曜日

感じることを意識化する


Column 2014 No.1

私たちは他人(ひと)さまを感じることには慣れてきました。
 「他人のことをもう少しは考えなさい」
 「そんなことをしたら他人さまに笑われますよ」
 「そんなことを言ったら嫌われますよ」
 このような環境の中で育ってきた私たちは、他人の目を気にする生き方、他人に合わせる生き方が大切なんだという価値観を無意識に受け入れてしまいました。

これまでカウンセリングを通して多くの方々にお会いしてきましたが、実はその多くの方々が、幼い頃からあまりにもまわりの感情や言動に合わせて生きてきた為に、自分が誰なのか、自分は何を大切に生きていきたいのか・・・が解らなくなり、自分の軸から大きく逸れてしまい、迷い子になってしまった姿でした。

恐れで他人さまを感じるのではなく「愛の心」で他人さまを感じ、思いやりを示すことは人間としてとても美しく大切なことです。しかしそのためには一切の判断をやめて“ありのままの自分を愛する”こと。ありのままの自分を愛するということは、自分の中のどんなネガテブな感情をも許して感じ切り、そこから学び、そして気付いていくということです。そうしない限り他人さまを愛の心で感じることはとても難しいのです。最近の研究結果でも自己受容と相手を受容する度合には密接な関係があることが証明されています。

お釈迦様は生誕してすぐに数歩歩かれ(真偽はともかくとして)天と地を指差し「天上天下唯我独尊」と唱えられたという逸話は有名です。“天にも地にも一人一人自分ほど尊く大切な存在はないのだよ”と言い切っておられるのです。 “自分を尊重し、愛し、大切にできる人だけが、他人さまを大切にできるのだよ。だから自分を大切に! 自分を愛せる分量でしか他人さまは愛せないんだよ・・・”ということを聖者と呼ばれたお釈迦様は生まれながらに(?)理解していらしたのでしょうか。

自分を愛し、自分を大切にする一番のステップが“自分を感じる”ことです。
 「今、私は傷ついたな」
 「今、私はちょっぴりあの人を羨ましいと思ったな」
 「今、私はすごく怒っている」
 親業では、感情に“いい・悪い”は無いと伝えています。感情は人間である証拠です。どんな感情をも受け入れて感じ切っていくことは癒しであり、自分を知ることであり、自分の軸から逸れない生き方であり、これこそが真の「自己受容」の姿だからです。

しかし、恐れで他人さまを感じることに慣れてしまっている私たちは“自分を感じる”ことは容易ではありません。当分は“ああ、また恐れで他人さまを感じているな”と気づき、おっと!と自分の軸に戻り、今の自分の“本当の感情に意識的に気付いていく訓練“が要るかもしれません。しかしこの訓練は大いにやってみる価値があります。

それは自分の軸が太くなっていく道であり、それが“真の自立”であり、「あなたの自己実現の完成」へと直結しているからです。