2017年6月20日火曜日

あなたの感度はあなたの最高の教師です

Column 2017 No.49

 自分からくる感度は、自分にとって最高の教師だ…と思える人は、生きる上で、まさに“最高の感度”を持った人だと思います。今の時代、メデイアによる情報にどっぷりと浸かって自分軸がどんどんブレて、それにつれて生きる上での“感度”が極端に鈍ってしまっている時代に思えます(コラムNo16)とても憂慮すべきことに思われます。

 本来は一人ひとりの中に、いわば感度を基本とした自動制御装置のようなものが備わっており、今は息を抜くとき…いまは頑張るとき…それは誰にも分からないけれど、無意識にそれに従って健康に気をつけたり、休息を取ったり、頑張ったりしていけるわけです。ところが今の時代、会社では一日中パソコンに向かい合い、乗り物に乗ればスマホでのゲームに余念がない人々…。いつ自分の気持ちや自分の身体を感じるひとときを持つのでしょう…。感度はどんどん鈍っていくことでしょう。

 特に子どもにとってはあらゆる瞬間が大切です。一人でぼんやりしたり、砂いじりしたり、パパと釣りをしたり、水族館に行ったり、星空を見たり、ママとお菓子作りをしたり、本を読んだり、冒険をしてわくわくしたり、度が過ぎて叱られたり…どの瞬間も子どもの感度を育て、自分軸を強くします。ところが今の時代メデイアに押されたり、また勉強に時間にとられて、自分を感じる時間は殆どありません。

 子どもは自分軸が弱体化してくると、無意識ですが危機を感じ、いわゆる不登校をしてみたり鬱をやったり、逆に家庭内暴力に出たり暴走したり…社会や大人とのせめぎ合いをしながらでも、自分軸を取り戻すために果敢に戦います。わからなくなった自分を探し求めている状態です。愛のある指導は大切ですが、焦らずじっくりと、今のその体験を味あわせてあげることも大切です。

人間の目は 失敗してはじめて開くものだ
チエーホフ

子どもたちは勿論、人は間違いを侵しながら学ぶ権利があるのです。悩む権利も、迷う権利も、落ち込む権利もあるのです。そんな痛みの中で人は哲学をし、鋭敏な感度・自分軸を育てていくのだと思います。間断なく与えられる外からの刺激(メデイアからの溢れる情報・親からの支配や怒声・説教…等々)によって子ども達は(私たち大人も)自分自身にゆったりと対峙するチャンスが奪われ、大切なエナルギーをすり減らし、自分自身をどんどん見失っていくのです。その結果が今の子ども達や人々の心の混乱であり、憂慮すべき社会情勢なのです。

 受講者Uさんの体験です。「…食事のとき家族みんなでテレビを見ているとき、父がニュースの内容について“あいつはいい・悪い”とか、“けしからん”とか自分の考えを大声でずっとしゃべり続けるので、私は私なりの考えを感じるゆとりがなかった。いつも父親の意見を聞かされてきました。だから、何処か借り物の人生を送ってきたような気がするのです…。」

 Uさんはその痛みがどこから来たのかに気付かれ、乗り越えていかれました。自己理解は大切です。しっかり自分を感じて、この違和感はどこから来るのだろう…このしんどさはどこから…と自分を感じてみることはとても大切なのです。その多くの答えは社会情勢や家庭の中で“自分を生きてこれなかった環境があった”ということです。

 人の数ほど生き方のスタイルはあるのです。正しい・正しくないは無いのです。自分のスタイルを大事にして、自分の感度を大切にして、他者と較べず、自分の道を堂々と生きていけるような環境を、子ども達にも私たちにも与えてあげたいものです。

人は人 吾は吾なり とにかくに 吾行く道に 吾は行くなり
西田 幾太郎

 「親業」が基本にしている考え方は「自分軸」がものさしです。例えば、一般論に“子どもが人を叩いたら、怒る(叩く)べきです”…があったとします。その価値観を100%信頼して、あなたがあなたの子どもにいつもそれをあてはめるとしたら、子どもはつぶれます。「親業」では決して世間のものさしで判断をしません。

 以前のことですがある街なかで、父親が前を歩き、2人の兄弟がその後ろを歩いていました。弟が盛んに兄の方にちょっかいを出しています。兄の方は初めは無視をしたり、かわしたりしていましたが、とうとう切れた様子で弟を蹴って泣かせてしまいました。すると父親がいきなり振り返り、兄の方の頭をげんこつで殴りました。兄は何の抵抗もしないで、虚しそうな表情で歩いていきました…。こんなことが続いたとしたら、この兄の方の救いはありません。いつか潰れてしまうでしょう。父親は子どもの様子は一切見ていないで、無意識ですが、世間の物差しや先入観で反応したのでしょう。

あなたの感性がものさしです

この父子の親子の場面でも、親は自分の“今の感度”を信頼していくのです。ある時は2人の子どもの言い分をきちんと聴いていく。ある時は言って聞かせる。ある時は蹴らずにおれなかった兄の心の痛みに共感していく。或は黙って見守る…。それを決めるのは、お父さんお母さん一人ひとりの感性であり、それを信頼していくのです。またその感性を訓練していく場でもあります。

 自分の感性や感度を、より信頼していくためには、自分の感じ方を尊重していくことから出発です。私たちは育った環境の中で、“あなたの考え方は未熟だ…。あなたの感じ方はおかしい…。あなたは間違っている…。”私たちはそう受け止めてしまった為に、自分の感じ方に自信が持てないのです。感情には間違いというものはないのです!自分に来た感情は、自分にとってはいつも真実なのです!その自信を取り戻していくことからです。また自分の気持ち感情の真実を、どう表現していくかは、勿論大切ですし訓練も必要です。

 外からの情報に頼り過ぎないで、自分からくる情報を信頼して生きてみる。“こんな時あなたはどうしたい?”“今あなたはどう感じてる?”と自分に問いかける練習も必要です。やがて必ず答えが、自分の中からやってきます。自分を信頼すればするほどやってきます。直観力も冴えてきます。社会の、ある種のイデオロギーに流されたり、宗派のドグマや価値観を鵜呑みにすることもなくなり、ひとり一人の中にある感度(制御装置)が正常に起動し始める!それこそが、私たちの悲願である“人類の平和”への強力な流れを作っていくのでは…と私は信じているのです。人類一人ひとりの魂の中にこそ真実が存在していると思うからです。祖父のことをたびたび出して恐縮ですが、名言だと思うので書いておきます。

  本を読み過ぎない(しかし本を読むことは大切と常々言っていました)
  価値観を鵜呑みにしない
  誰であれ他者を崇拝しすぎない

 “何事も過ぎたるは及ばざるが如し…だよ。自分を信じ、自分からくる答えを信頼して生きていきなさい…” それは、彼が常に言いたかったことでした。その影響からか、私は、私に来たフイーリングは、私にとって行くべき道…そう信じて今日も生きています。自分の中にある力を信じない限り、人は“孤独や惨めさ”からは、決して解放されないと思うのです。そして真の平和…も。


*次回のコラムは7月20日前後の予定です

6 件のコメント:

  1. 「自分軸」が、揺れている私です。
    近所のお寺の宗教行事に参加したくない私なのですが、周りの人たちが「私たちは、やってきたのに、どうしてあなたはやらないの!!」と言っています。
    「私は、やりません。」といったのですが、「なぜやらないの?やらないならその理由が知りたいよね!!」と。

    その理由は、宗教を信じていないからです。が、言葉では簡単に言えるのですが、田舎なので、様々なお寺の行事が日常に組み込まれていて、それに参加しないわけにはいけない状態です。

    結局、今年は何とか免れましたが、来年回ってきそうです。これをどうやって回避するか、あるいは、自分を少し抑えて来年やってみるか。

    田舎に住んでいる限り、このシガラミから逃れられないのか。逃げる方法もあると思っては見たり・・・

    悩んでいます。
    ちなみに母は、この地域で大活躍。なにかと比べられて、娘だからできて当たり前という感じで見られています。

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    1. Kiyokoさま

      「自分軸」は なかなかしっかりと 立ち上がっては くれないものです。しかし自分からやって来る答を信頼して 生きていれば やがて 立ち上がってくれるものだと思います。

      なるほど…お寺の宗教行事の役が回ってきそうで 悩んでいらっしゃるのですねえ…。これは一言でいえば お寺を介する地域の方々とのお付き合いで kiyokoさんが何が嫌で逃げたいのか 本当は何を大切にしたいのか…が決められることが実は「自分軸」です。ただ頑固に自分を押し通すこととは違います。

      価値判断を超える。そして自分の中の真の欲求が分かると 何事も思うほど大変ではないし、むしろ楽しめるかもしれません。kiyokoさんのおっしゃりたいことと違ったかもしれません。またお話できたらと思います。

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  2. 全く!全く同感です。自分軸が無い時は周りの価値観に合わせてみたり、本を読んだり、様々な事をして自分軸を探してきました。
    自分を見失い、過剰に適応したり、反応したり、自分の意見を言うのを怖がったり。
    それはこの複雑な社会を上手くすり抜けていく手段かもしれませんが、自分の人生を歩んでいるとは思えません。

    お兄ちゃんが弟のいたずらに切れてし返しをする。親がお兄ちゃんをしかる。
    このような構図はどこにでもあります。全てを客観的に見ている人は神様くらいでしょうか。お兄ちゃんの話をきちんと聞くことはとても大事だと思います。
    世間でいえば犯罪を犯してしまう人がいます。犯罪はいけないことですが、その人が犯罪を犯すまでの心模様は誰が理解できるでしょうか。ほんの出来心であったとすると、それを抑えられなかったのは何故でしょうか。

    私たちは生まれた時の時代や家庭環境、学校の先生や色々なところから影響を受け、価値観を与えられ、持ってきました。あれはいい、これはいけない等・・・。
    その時代、その環境だからの適応であり、今、この状況でその価値観が当てはまるかどうかはわかりません。
    だけれども、その価値観や常識、情報に囚われてしまう事は沢山あると思うのです。

    何か心がざわざわした時、自分の軸をたてて、自分を感じてみる。どうしたい?どう感じる?と聞いてみる。 そして、それを何故そうしたい?何故そう感じるの?と自己理解した後、相手がいる場合(例えばこの場合子供)、思いやりと愛情を持って相手の話も聞いてみる余裕があればいいなぁと思います。

    自分軸をたてて私はこう思う!と自己宣言したところで自己満足に終わってしまうこともありました(笑)
    自分がどんな価値観やこだわりをもっていて、どんな固定観念を持っているかは、誰か違う価値観、固定観念を持った人とぶつかって問題をもってみて初めて分かるものかもしれません。
    問題を持った時こそ、自分を理解する絶好のチャンスだと、そして他者を理解した時、平和につながるのだと思います。

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    1. あきこさま

      あきこさんは 自分軸を求めて 真摯に心の旅を していらしたんですねえ。

      自分軸を大切に生きると 愛に基づく客観視もでき 例に挙げていらっしゃるように 犯罪を犯す人ですらも 世間の物差しとは違う「自分軸」の物差しで その人に対しても まったく違う判断をするかもしれませんね。

      私たちは育った社会や家庭環境から その時代の価値観や価値判断を身につけ 時にそれが 無意識の障壁となって 自分の人生をとても生きづらくさせてしまいます。仰っている心のざわざわ感はそれらのサインかもしれませんね。

      だから固定観念からの脱却はとても大切だと思います。それはあきこさんも仰っているように 他者の価値観をしっかり受け止めて 自分の価値観を洗い直していく作業が大切です。しかし 自分軸がブレるほどにはやらない! 何はともあれ 答えはみんな 自分の中にもっているのだから!

      一人ひとりがブレない自分軸を持っていれば 他者の自分軸をも信頼していけるはずですよね。それこそが 人類の平和への強力な流れをつくっていくのではないでしょうか。

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  3. 「感情には間違いというものはないのです!自分に来た感情は、自分にとってはいつも真実なのです!その自信を取り戻していくことからです」「やがて必ず答えが、自分の中からやってきます。自分を信頼すればするほどやってきます。直観力も冴えてきます」
    時々、自分の決断に揺れ少し自分とずれた選択をした時・・・結果的にやはり自分の決断通りにすればよかった・・・と思う出来事が起こります。

    私ってよく考えて決断していたんだわ・・自分を信じればよかった。私ってなかなかいい感じのこと感じて考えていたんだ・・・・というパターンなのです。

    あともう一歩で自分を完全に信頼できるところにいるように感じています。あともう一歩で自分を100%、大切にできるところに。

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    1. MOONさま

      心が広がるようなコメントでした。そうです。自分から来た答えは 自分にとって最高の教師なのです。仰っているように、"あの時やっぱり自分の感度の方が合ってた!頭のレベルで方向を決めたけれど 本当の心は そっちじゃなくこっちへ行こうよ…と言ってくれてたよね…"ということよくありますよねえ。

      しかし そういった思い違いを含めて 今の瞬間の自分を感じて生きていれば 自分の感度への信頼は自然に高まっていくのだと思います。MOONさんの「自分軸」が さらに柔軟性を持った強固な軸に変容されていくイメージを感じましたよ!

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