「歎異抄(たんにしょう)」は親鸞聖人が、傍にいた弟子たちに語った教えを、弟子の唯円房が、忠実に後世に残したい…という悲願を以って纏めたもの…と言われています。この書は、鎌倉時代後期に書かれた後、長い期間本願寺の文庫の中に秘められたままで、この書が世間に出たのは江戸末期辺りから…と言われています。
「歎異抄」は一宗派の壁を超えて、多くの人たちに読み継がれている稀な宗教書です。私は以前この書を手にしたとき、随分“難解な仏教書”と思った記憶がありましたが、数年前に到知出版社から出た「歎異抄」(金山秋男語訳)は、かなり解かり易く書かれており、物語を読むように楽しめました。そして改めて読み返してみると、やはり深い感動がありました。よく祖父が口にしていた“罪悪深重の我々凡夫”への深い赦しが魂に届きました。そして以前からこだわりのあった冒頭の一文が改めて心に響いたのです。
「歎異抄」第三章は、タイトルに掲げたこの有名な冒頭の一文から始まっています。このフレーズの意味は、「善人ですら、仏さまによって救い取られて、真実の世界に生まれ変わることができるのだから、ましてや悪人が救われないわけがない…」と言った意味あいです。私が初めてこのフレーズに接したのはいつ頃であったかは忘れましたが “何だこれは!善人と悪人が逆さまなのでは?”…と、実は混乱していたのです。
そして続いて「…しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。」(原文のまま)その訳は 「それなのに世間では、私(親鸞)が言わんとすることとは違って、次のように理解してしまっている。悪人でさえ、救い取られるのに、ましてや善人が救われないわけがない…と。」
まさに私が誤って理解していた通りのことが続いて書かれていたのでした。しかし読み進めていくにつれて、少しづつ理解が深まっていきました。
本書の中にこんな一節があります。「“歎異抄”で言う悪人とは世で言う犯罪者のことではありません。自分のいやしいあり方に気づき、また阿弥陀様からの慈悲を受けながら、なかなかそれに即することができない(自分の中の悪の感情を認めている)人のことをいうのです。善人とはそれと反対に自分の真の姿に気づかず、いい行いができているとうぬぼれている(自分を善人だと思っている)人で、従って阿弥陀様の呼びかけを聞こうともしない自己中心的な人々のことです…」と。
中島氏が云わんとすることは、自分をまっとうな人間の部類に入れて、「善人」ぶっている人。自分はいつも正しくいい人間のつもりでいる人…そう思っている人は、自分の中の負の側面に気づこうともせず、周りをジャッジばかりしている。片や、自分の中の悪を認めて、自分を悪人と自認している人間もいる。真実はどちらなんだろう…と、疑問を投げかけているわけです。
本の題名は失念したのですが、彼の作品の中の登場人物がつぶやいた一節です。悲しいかなこれが人間の正体かもしれません。生きている間には、どうしても避けられない無数の罪を作らなければならない我が身の哀しさを知り、怒ったり、泣いたり、嘘をついたり、人を裏切ったり…そんな悲しい生き方しかできない「悪人」である自分…。親鸞聖人は「歎異抄」の中で、“その醜く愚かで罪深い自分を見よ。そこに還れ。そこからしか道は開けないんだよ”ということを伝えています。それが「歎異抄」の中で「善人なをもて往生をとぐ、言わんや悪人をや」と言わしめたのだと思います。
イエス・キリストも偽善について戒めている有名な聖句があります。
人に見せる為に施しをする。自分がさも真理に叶っている人間であるかのように
ふるまって見せて歩く。そんな偽善者になってはいけない。施しをするときは、右の手がしたことを自身の左手にさえ知らせないようにしなさい。これが神のみ心に沿う陰徳の積み方である…と。 とても厳しい聖句ですが、その頃の時代背景の中での偽善的行為は、おそらく目に余るものがあったのでしょう。
さて今、私が自分の行為を見つめてみた時、それが“善”から出たのか“偽善”なのかと問われると、私にもはっきりわからない気がします。人の心には“光と闇”が混在しているからです(コラムNo35・No36) 私はこれまでの人生、自分の光と闇の感情の中で葛藤しながら自分を見つめ、自分に泣き、絶望し、必死で光を追い求めて生きてきた気がします。だから私の中には純粋な「善」も無いし、絶対なる「偽善」もありません。
あるテレビドラマが発祥のようですが、ひとときよく売れていたキャッチフレーズがあります。
“何もしないくらいなら 何かをして偽善者と呼ばれた方がましだ!”…くらいの勢いで喝破したセリフでしょう。多くの人の心を捉えた名セリフですが、私も“なるほど!”と、ある意味共感した者のひとりです。誰かのために行なった行為が、清らかな気持ちでやったのか、無意識に下心をもってやったのかは、私にも分かりません。残念ながらそれを図る尺度も、相手の中にはなく自分の中にしか無いのです。 善か悪かを判断して“やらねば”と思ってやったのではなく、それが善であろうと偽善であろうと“自分がやりたいからやった”…これだけが私にとっての尺度であり真実です。
「歎異抄」は一宗派の壁を超えて、多くの人たちに読み継がれている稀な宗教書です。私は以前この書を手にしたとき、随分“難解な仏教書”と思った記憶がありましたが、数年前に到知出版社から出た「歎異抄」(金山秋男語訳)は、かなり解かり易く書かれており、物語を読むように楽しめました。そして改めて読み返してみると、やはり深い感動がありました。よく祖父が口にしていた“罪悪深重の我々凡夫”への深い赦しが魂に届きました。そして以前からこだわりのあった冒頭の一文が改めて心に響いたのです。
「歎異抄」第三章は、タイトルに掲げたこの有名な冒頭の一文から始まっています。このフレーズの意味は、「善人ですら、仏さまによって救い取られて、真実の世界に生まれ変わることができるのだから、ましてや悪人が救われないわけがない…」と言った意味あいです。私が初めてこのフレーズに接したのはいつ頃であったかは忘れましたが “何だこれは!善人と悪人が逆さまなのでは?”…と、実は混乱していたのです。
そして続いて「…しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。」(原文のまま)その訳は 「それなのに世間では、私(親鸞)が言わんとすることとは違って、次のように理解してしまっている。悪人でさえ、救い取られるのに、ましてや善人が救われないわけがない…と。」
まさに私が誤って理解していた通りのことが続いて書かれていたのでした。しかし読み進めていくにつれて、少しづつ理解が深まっていきました。
本書の中にこんな一節があります。「“歎異抄”で言う悪人とは世で言う犯罪者のことではありません。自分のいやしいあり方に気づき、また阿弥陀様からの慈悲を受けながら、なかなかそれに即することができない(自分の中の悪の感情を認めている)人のことをいうのです。善人とはそれと反対に自分の真の姿に気づかず、いい行いができているとうぬぼれている(自分を善人だと思っている)人で、従って阿弥陀様の呼びかけを聞こうともしない自己中心的な人々のことです…」と。
あらゆるスリや泥棒や詐欺師は、少なくとも自分が悪いと自覚しているが、
ただ口先で世の中おかしいと言っているだけの人間は善悪の自覚さへない
中島 義道
中島氏が云わんとすることは、自分をまっとうな人間の部類に入れて、「善人」ぶっている人。自分はいつも正しくいい人間のつもりでいる人…そう思っている人は、自分の中の負の側面に気づこうともせず、周りをジャッジばかりしている。片や、自分の中の悪を認めて、自分を悪人と自認している人間もいる。真実はどちらなんだろう…と、疑問を投げかけているわけです。
私は、何か善を行おうとする希望を持ちそこに悦びを感じることもできる。
だが同時に悪を行いたいと思いそこにも悦びを覚えることができる
ドストエフスキー
本の題名は失念したのですが、彼の作品の中の登場人物がつぶやいた一節です。悲しいかなこれが人間の正体かもしれません。生きている間には、どうしても避けられない無数の罪を作らなければならない我が身の哀しさを知り、怒ったり、泣いたり、嘘をついたり、人を裏切ったり…そんな悲しい生き方しかできない「悪人」である自分…。親鸞聖人は「歎異抄」の中で、“その醜く愚かで罪深い自分を見よ。そこに還れ。そこからしか道は開けないんだよ”ということを伝えています。それが「歎異抄」の中で「善人なをもて往生をとぐ、言わんや悪人をや」と言わしめたのだと思います。
イエス・キリストも偽善について戒めている有名な聖句があります。
…偽善者が人に崇められんとて、会堂や街にて為すごとく、
己が前にラッパを鳴らすな、誠に汝らに告ぐ。
彼らは既にその報を得たり汝は施しをなすとき右の手の為すことを左の手に知らすな…
マタイ伝 第六章1~8
人に見せる為に施しをする。自分がさも真理に叶っている人間であるかのように
ふるまって見せて歩く。そんな偽善者になってはいけない。施しをするときは、右の手がしたことを自身の左手にさえ知らせないようにしなさい。これが神のみ心に沿う陰徳の積み方である…と。 とても厳しい聖句ですが、その頃の時代背景の中での偽善的行為は、おそらく目に余るものがあったのでしょう。
さて今、私が自分の行為を見つめてみた時、それが“善”から出たのか“偽善”なのかと問われると、私にもはっきりわからない気がします。人の心には“光と闇”が混在しているからです(コラムNo35・No36) 私はこれまでの人生、自分の光と闇の感情の中で葛藤しながら自分を見つめ、自分に泣き、絶望し、必死で光を追い求めて生きてきた気がします。だから私の中には純粋な「善」も無いし、絶対なる「偽善」もありません。
あるテレビドラマが発祥のようですが、ひとときよく売れていたキャッチフレーズがあります。
偽善で結構! やらない善よりやる偽善
“何もしないくらいなら 何かをして偽善者と呼ばれた方がましだ!”…くらいの勢いで喝破したセリフでしょう。多くの人の心を捉えた名セリフですが、私も“なるほど!”と、ある意味共感した者のひとりです。誰かのために行なった行為が、清らかな気持ちでやったのか、無意識に下心をもってやったのかは、私にも分かりません。残念ながらそれを図る尺度も、相手の中にはなく自分の中にしか無いのです。 善か悪かを判断して“やらねば”と思ってやったのではなく、それが善であろうと偽善であろうと“自分がやりたいからやった”…これだけが私にとっての尺度であり真実です。
何らかの善を心の裏に持たない悪人はなく、
何らかの悪を心の裏に持たない善人もいない
ジョゼフ・アディソン
今回のコラムは私には少し難しく幾度か読み返しました。
返信削除親子関係で育てた側、育った側それぞれにフィフティ・フィフティの責任があるというのを思い出しました。
最初にこの半分の責任を聞いた時は納得出来なかったのですが今は納得できています。
そこから
「自分自身の行動には100%の責任を持つ。過去の行動も自分の選択肢なのだ。その時の自分が選択したのではないか。」と。
私が親業に惹かれたのは善人になるスキルではなく、自分自身になるスキルだったからだ と改めて感じました。
MOONさま
削除親と子どもとの関係は フィフティフィフティの関係です.....と、確かにお伝えしたと思います。それは一見、不平等のように感じられますが、親も子どもをも尊重した見方です。
確かに育てたのは親ですが、親の元で育っていく上で 子ども側にも行動の自由、表現の自由があり、無意識を含めて選択をして来た結果だからです。
自分とご自分の親御さんとの関係の中でMOONさんは 親の責任ではないか....と、いった責任転嫁は今はしない。何故なら自分の行動も表現も実は自身が選択をしてきた結果であった....と理解できるからですね。
それらを含めて MOONさんが親業に惹かれたのは いい人(善人)になるためのスキルではなく、自分の人生に責任が持てるつまり「自分自身」になっていく為のスキルだったからなのですね!
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コラムをとても興味深くよませていただきました。
返信削除自分の目の前に起こる出来事をいいか悪いか、廻りの目線を気にして、どちらに決めなければと思い
随分自分を苦しめてきていた自分にきづかせていただきました。
自分を苦しめたのは自分が善人であらねば、よき母 妻 娘であろうとがんばりすぎてきたからかもしれないなあと感じました。
それは同時に周囲の人に対しても自分の思考がそのようにさせていたと思うのです。そんな風の思えるとなんだかとても心が軽くなれました。
時には悪人のもなり 善人にもなり 自分の中の揺れ動く思考を大切に感じ、、自分正直に生きたいと思いました。
お盆を前に鎌倉時代の親鸞聖人の教え感じられて人間の奥深さと自分の可能性を感じれられました。ありがとうございます。
ももこさま
削除今回のコラム興味深く読んでくださった由、有難うございました。
これまで ももこさんが何だか生きにくく感じていらしたのは 誰の上にもあり得ますが いい人(善人)でありたい、いい人に思われたいが為に 母として妻として娘として訳もわからずお互いに頑張ってきましたよね.....。つらい上に 相手さまの行動すらも、もしかして束縛していたかもしれない....深い気づきですね。
善悪混交の自分を受け入れることは 最高の気づきです。おっしゃっているように 時には悪人にもなり 善人にもなっていく私たち人間を 優しく見つめ 感じて赦して 正直に生きていく....お互いにさらに楽になりましたよね。
お盆を前に親鸞聖人の「歎異抄」の一部に触れて下さって、人間の奥深さと自身の可能性を感じた....と伝えて下さり、とても嬉しかったです。