2015年2月21日土曜日

あなたの心が喜ぶことをする ~これは人生のキーワードです~

Column 2015 No.21

私は生きていくことを楽しむ。それ以外は何の目的ももたない
~モンテーニュ~

講座でも講演でも私は「あなたの心が喜ぶことをやりましょう。それは人生のすべての答えです」と極論めいたことをよく伝えています。その投げかけに対して“家族や職場の人間関係が山ほどあるのに、楽しむ暇は無いし楽しんでいいのでしょうか”と返ってくることがあります。多くは楽しんでいないか、楽しむことに罪悪感を持っている人たちです。

 以前の自分がそうだったから、その方たちの気持ちはとてもよく理解できます。しかし何はともあれ、私自身が自分の不完全性を認識し受け入れながら、自分の心が喜ぶことを本気で選択して生きてみて、実は沢山のことを学び解ってきたことがあります。

 本当にやりたいことをやって人生を楽しんでいる人たちは、たいてい上機嫌で、余分な雑念がなくシンプルで、ストレスも極端に少なく、家族に起きわく問題も人間関係に起こる問題も、心を病的に悩ませることは決して無く、まっすぐに対処します。そして自分のできる範囲で(他者の領域は決して侵さず)効果的な解決へと真摯に向かいます。

 なぜなら生きることを楽しんでいる人たちは、精神的にもエネルギーがあり、ものの見方考え方に幅があり、人生に悲観的ではないので“何とかなる!”の精神で、ものごとに前向きに対処できるからです。しかも自分を楽しませることができる人だから、他者に対してもとても懐(ふところ)が深いのです。他者の痛みも我がことのように共感でき共有できます。

 先日夜、受講者のMさんから電話があり色々な報告があったあとMさんが言いました。「私はいま独学で栄養学(の或る分野)を学んでいるんです。次々と専門書を買って学んでは自分の体で試してみたりしながら、もう楽しくて楽しくてたまらないんです!」…と。 私は咄嗟に「それはあなたの天職かもね!」と言ってしまいました。本当にそう思ったのです。

 本当にやりたいことが見えてくると、Mさんのように驚くべき集中力を見せてきます。その人にとってそれは理由なく楽しくて、時間が経つのも分からないくらい没頭してしまう…。 全身全霊でそれに打ち込んで学ぶので、徐々に専門性を身に付けていきます。周りから見ると壮絶な努力に見えますが、本人は努力しているというよりも、ただ無心に心が喜ぶことに没頭しているだけなのです。そしてやがて多くは、それを仕事として指導的立場に立っていく。そして周りを大きく照らしていく人になる。そんなプロセスをとっていく人々を私は沢山見てきました。

わくわくの感動があるから私は山に登るのです
~三浦 雄一郎~

失敗なんかしていない。一万回うまくいかない方法を見つけ出しただけだ
~エジソン~

彼らの過酷な登山も、夜を徹して打ち込む研究も、わくわくと、目指す目標にただ一心不乱に向かっている姿なのですね。

 自分の人生に於ける本当の仕事(使命)を見つけるためには、やはり日々、どんなに小さなことであってもあなたの心が動くこと、心が喜ぶことを選択をして、瞬間瞬間を実感して生きていくことからではないでしょうか。そしてそれは、心の底辺にあるあなたの本当の「欲求」(本当にやりたいこと)に辿り着くために、必要で重要な入口なのです。
そしてさらに


  • 自分にとって生きるということはどういうことなのか
  • 何のために生きるのか
  • 本当はどう生きたいのか
  • 自分はどういう形で人類に貢献したいのか(実はこれはマズローが唱える段階説のとても高いレベルですが)……等々、魂レベルで自分に問いかけていく真剣さがいるのです。


 先日、友人と自然の風景や食べ歩きを思い切り楽しみました。一緒したその友人からメールが届きました。「人生を楽しみながら社会に貢献できたら人間として最高の人生よね!」と。
 人生を楽しんでいる人は、平和な明るい波動で周りの人々を照らします。その人の存在、それだけで素晴らしい貢献です!

 また何であれ、自分の好きな分野をわくわくと全うしている人々は、それを自分の使命として認識し、一隅を照らしながら結果的に人類に大きく貢献していくでしょう! 地球がそんな幸せな人々で溢れてきたら、不毛な争いなど瞬時に収束に向かっていくはずです。幸せな人から発せられる愛の波動が、兄弟姉妹としての人類すべての人々に及んでいくからです。いつかのコラムでも取り上げた奥平亜美衣氏のフレーズが思い起こされます。

自分が幸せになるしか世界を変える方法はない!


*次回のコラムは3月20日前後の予定です。

2015年1月30日金曜日

他者の感情・思考には責任を持たない

Column 2015 No.20

 喜びの感情も憎しみの感情も、その感情を感じているその人が、無意識ですが選んだ感情です。その人以外の誰の感情でもありません。だから私たちは自分の感情・思考には責任をもたなければなりません。一方、相手の人がもつ感情・思考は、尊重し大切にはするけれど、責任をもつ必要はないのです。

 もし相手があなたの言動に対して「お前が俺を怒らせた」と言ってきたとしても、それはあなたが怒らせたのではなく、実は相手が怒ることを選択したのです。一方、あなたは「あの人が私を傷つけた」とよく言いますが、実はあなたが傷ついたのです。つまりあなたが傷つくことを選択したのです。これはコミュニケーションを心地よくとっていく上で「親業」が大切にしている自他分離の考え方です。

 コミュニケーションの基本は 発信(表現力)と受信(傾聴力・共感力)です。≪コラムNo10参照

 「自己表現」は自分の気持ちや感情を自分が責任をもって表現していく
 「傾聴・共感」は相手の気持ちや感情を相手の責任において受けとめる   

 この責任領域を明確にすることは、コミュニケーションを混乱させない為の大切なポイントです。つまり「伝えること」(自分の責任)と「聴くこと」(他者の責任)という位置づけを保っていくことで、はじめてシンプルで心地よいコミュニケーションが成立するのです。

 ご主人があなたに「君はいつもイライラしている!」例えそのように言ったとしても、そう感じているのはご主人であってまた事実とは限りません。しかし多くは相手の感情・思考に責任をもってしまい、自信を失って落ち込んだり、相手の感情に影響を受けて「あなたはそうやって私を平気で傷つけるよね!」のように応酬し、次には相手があなたの感情に影響を受けて「だってそうだろうが!」ときて、コミュニケーションは混乱し、それを発端に夫婦の破綻が訪れるということはよくあることです。

 こんな会話だったら如何でしょう。

 「君はいつもイライラしている!」
 「あなたは私がいつもイライラしているように思えるんですね」
 「そうだろうが!」
 「そうかあ…でもね。“いつも”っていうふうに言われると、とても傷つくわ。私なりに頑張っているの…」
 「そうか“いつも”っていう言い方に傷ついたのか…」

 この会話例は自己表現と、傾聴・共感(能動的な聞き方)を大切にしたコミュニケーションです。妻は自他分離感をきちんともって「あなたは~と思うんですね」と相手の責任として返しています。そして続いて「…でも~のように言われると傷つくわ」と自分の責任において表現しています。そして最後のご主人も「傷ついた君なんだなあ」と感情の責任を奥様に見事に返しています。

 このように自他分離感を保ったコミュニケーションはお互い混乱することなく、責任領域を意識化でき、双方がいい関係を保ちながら自立していけるコミュニケーションなのです。

 自分にも気持ちの波があるように、相手にも波があります。自分の感情・思考は自分の責任、相手の感情・思考は相手の責任である…という自他分離感をもつと、相手の考えを変えさせようと躍起になったり、相手の不機嫌の理由を詮索して振り回されたり、相手の不機嫌が自分に原因があるのではと卑屈になることも起こりません。相手の感情・思考はあくまでも相手のものです。もちろん他者の表現による自分の中の気づきを含めて、自分の感情・思考だけに責任をもちましょう。

 しかし振り回されそうであれば「あなたが何か元気がなく不機嫌だと私が何かあなたにいけないことをしたのでは…と気になってしまうのよ」と自己表現もできます。すべて感情の責任の在りかを大切にしたコミュニケーションにしてみましょう。 自分も相手も混乱しないで成長できます。

 親にとってとても大切なことがあります。それはわが子との間に自他分離感を構築することです。子供の責任領域を奪ってしまうと、子どもは大きく自立を阻まれます。子どもの責任領域は子供に返していくコミュニケーション(親業では能動的な聞き方つまり共感コラムNo12参照≫)をとっていくことで子どもの自己理解が進み、自分の行くべき道が子どもに見えてきます。親の自他分離感は子どもの自立を大きく促していきます。


 「自他分離感」をとても明快に表現している散文があります

わたしはわたしのことをして、あなたはあなたのことをする
私はあなたの期待に応えるためにこの世にいるわけではない
あなたは私の期待に応えるためにこの世にいるわけではない
あなたはあなた、わたしはわたし‥‥(以下略)
~フレデリック・パールズ~


*次回のコラムは2月20日前後の予定です。

2015年1月10日土曜日

あなたの言葉があなたの人生を創る

Column 2015 No.19

あなたが何気なく自分にかけている言葉が、あなたの人生を創っているとしたら……。

心で呼ばないものが 自分に近づいてくるはずがない
- 稲盛和夫 -

“私なんか何をやってもだめなんです”“私の人生は負け組みです”“人生は苦労の連続です”“人は信用できない”……よく耳にする言葉ですよね。

 もしもあなたが、例えば「人は信用できない」という言葉を(内面的な言葉を含めて)自分にいつも投げかけている人だとしたら、恐らくあなたの周りにはあなたにとって信用できない人々が多く引き寄せられているかもしれません。そしてあなたの、周りへのその過度の警戒心や猜疑心は自分で自分の人生を結果的に不自由にし、あなたにとって、とても生きづらい人生を創っていくことになるでしょう。

 あなたの人生の主役はあなたです これは親業の人間関係講座のキャッチフレーズですが、私たちは一人ひとり、肯定的にも否定的にも自分の人生を創造する力があるということを示しています。

 次のような実験を聞かれたことがありますか?
 同じ条件で育てた三つの花の苗を、それぞれの植木鉢に植えます。養分も水も同じ条件で与えます。しかし三つの花のうち、一つには、毎日「かわいいね!きれいだね!ありがとう!」と肯定的な言葉をかけます。もう一つの花には「なんて醜いの!最悪!」みたいなネガティヴな言葉がけをします。残る一つは毎日完全に無視をします。さて結果はどうなったでしょう?

 不思議ですが、これをご飯粒でやっても、果物でやっても結果は同じになったといいます。三つの花の中でも一番無残な結果となったのは意外ですが、無視を続けられた花。続いてはネガティヴな言葉がけをした花で、これもかなりひどい結果だった。しかし、毎日肯定的な言葉がけをされた花だけは、色鮮やかに美しさを保っていたそうです。
 まだ今のアカデミズムから正式に認められた実験ではないものの、“言葉”がもつ不思議を考える上での示唆はあるのではないかと思っています。
 
 私自身の体験も話してみます。
 私は、幼いころから大家族の中で育ちました。その大家族の「衣食」をまかなっていくために私の母は、朝は四時に起きて家族の食事の準備、夜は一番遅く床に就く毎日で、いつも物悲しい表情で孤軍奮闘していました。そんな母を見て育った私は、“人生は苦労が多いものなんだな”という定義(信念)をしっかりと身につけたようです。

 母があまり幸せそうではないので“私は幸せになってはいけない。幸せにはなれない”その感覚に近いものを子供心にすでに持っていたと思います。それでも子供時代は無邪気に楽しく遊んだ記憶は沢山あります。しかしやりたいことを思い切りやれる思春期には……その“振り”はできても心からは楽しめず、孤独で本ばかり読んでいました。おまけに思春期後半にはとても苦しい鬱状態が一年近く続きました。不幸そうな母をじっと見つめてきた為に、色々な感情を抑圧してきたことが原因ではありますが、“幸せになれない、なってはいけない”私のその定義通りの人生を呼び寄せたことでもあります。

 ところがその鬱状態から、いよいよ立ち上がれる日が到来したとき、本当に不思議な感覚なのですが、私の中から力強い言葉が湧き上がってきたのを今もはっきり覚えています。
 「私はもう母の犠牲にはなるまい!(影響をうけまい!)」
 「本当にやりたいことをやって私の人生を取り戻そう!」と。
 私はそのとき一人の人間として立ち上がったのです!無意識ですが生き方の定義を創り直していたのです。

 「私は幸せになる!」「人生は苦労ばかりではなくもっとシンプルで面白いものかもしれない!」という新定義に! そして私は誰ともつるまないで、気持ちの赴くままにひとりで美術館に、映画館にショッピングに……と足を運びました。恐る恐るでしたが自分を取り戻すために! 

 しかし“楽しいなあ”と思う反面“私ひとりがこんなに楽しんでばかりいてはいけない”と、どこかで習性的に母を想い、旧定義に逆戻りしてしまいそうな自分があるわけです。その度ごとに私は確認をしました。母の人生を創造しているのは母なのだ!…と。私はもうハンドルを旧定義に戻そうとは決して思わなかった。まだまだ充分ではありませんでしたが、徐々に私の人生は変わっていきました。

視点(定義)が変わると人生は変わる

 これは私の確信ある価値観です。もしもあなたの人生があなたにとって満足いくものでないとしたら、新しい定義(視点・意味づけ)に創りなおしてみてください。人生の軸はその方向に必ず動いていくでしょう。

 しかし人生はいつも思い通りにはいきません。山あり谷ありです!よく祖父が言っていました。「人間は煩悩や挫折があるからこそ成長するんだ。魂の奥深い生き方ができるんだ……」と。 一瞬一瞬まわりに起きわいてくる事象に、私たちがそれをどう定義づけ、意味づけ、どう方向づけていくのかで各々の人生は違った形で創造されていく。

 自分の本当の感情に注意を払いながら、それを受け入れ、気づき、手放したり、定義しなおしたりしながら、お互いに生きたい人生を創造していきましょう。自分自身を愛せるような理由をできるだけたくさん見つけて、自分の魂が喜ぶような言葉をかけてあげましょう!

 私たちは自分の人生の創造者なのです! あなたに代わって、あなたの人生を創造できる人は誰ひとりいないのです。


*次回のコラムは1月30日前後の予定です。

2014年12月21日日曜日

感情抑圧は諸悪の原因です ~ 自分の本当の気持ちに気付いてあげることは愛に溢れる行為です ~

Column 2014 No.18

 ずっと以前のことですが、ある集いに参加した折、人間の感情についての話題になったとき、ある女性が「私はこれまでの人生で一度も怒ったことがありません・・・・」といった意味合いのことを言われたので、私はとても驚いて咄嗟に「Aさん、病気をなさいませんか」とつい聞いてしまいました。その方は即座に「はい、突然倒れたりして時々救急車で運ばれることがあります」と答えられ、そうだろうなあ・・・・と合点したことでした。

 人間をやっている以上、怒りを感じない腹を立てない人間はまずいないのです。怒りを抑え、腹立ちを抑える人間がいるだけです。そして感情の中でも特に強い感情である“怒り”とか“恐怖心”の感情を抑え続けてしまうと、必ずといっていいくらい色々な障害を生みます。これは心理学者、精神科医も証明しているところです。

 ある外国の精神科医による興味深いレポートを読んだことがあります。

 大地震、ブレーキが利かなくなったバス、ハイジャックされた飛行機・・・・など異常事態が発生したとき、そのトラブルにたまたま遭遇した人々(勿論、遭遇はしたけれど一命を取り留めた人々を対象に)心理的な追跡調査した結果の報告です。トラブルに遭遇した人々は一応に、心理的な大きなダメージを受けるので、その心理的外傷を癒す為に精神科医がそのフォローに当たります。その癒しのプロセスの興味深い臨床結果を報告したものでした。

 それによると、一番厄介だったのは、衝撃的なトラブルに遭ったにも拘らず、そのトラブルに平然と対処した人々のグループだったと報告しています。一方トラブルに遭遇したとき、取り乱したり泣き喚いたりした人々のグループは、興味深い結果ですが、最も立ち直りが早かった。それは恐怖の感情をその場で正直に感情表出したことが益となった。一方トラブルに冷静に対処し、下乗後も堂々とインタビューに応じたような人々は、数日後或いは数週間後に不眠を訴えたり、夜驚や徘徊行動などの異常な心理的反応を多く示したといいます。しかもアフターケアの長さは、トラブル後、不眠・夜驚・徘徊・・・等に伴う感情表出に至るまでの期間の長さに比例したと報告しています。

 この臨床結果からも、人は感情表出によって精神(心)の状態のバランスをとっているということがよく理解できます。自分の感情に正直に対峙せず、感じない振りをしたりごまかしたりすると、感情は昇華されないまま抑圧され、結果的にその人の身体的なものに、或いは生き方に微妙に悪影響を及ぼしていくのです。

 尤も人間は実に絶妙にできていて、抑圧したネガテイブな感情を無意識ですがさまざまな形でバランスをとっていきます。健康上のトラブルで抑圧感情を表出していくことは勿論ですが、不機嫌・短気・逆上・・・など別の感情でバランスをとったり、癇癪・人を責める・DV・物に当たる・・・のように攻撃的傾向で表出している人もあります。過食・拒食・アルコール依存・薬物依存・恋愛依存・・・等々の依存的傾向でバランスをとる人もあります。またかげ口・悪口・噂話など正当化でのバランスもあります。

 もっともこれらの多くはカウンセリングの場面で接したケースで、生育歴に端を発している場合が多く、皆“いい人”をやってきた人達です。耐えて我慢して、他者の人生のために自分の人生を犠牲にしてきた人達です。怒りの感情も不安の感情も感じないふりをしないとやってこれなかった。程度の差はありますが、幼い頃から喜怒哀楽の感情を抑えることが日常的だったのです。

 しかしカウンセリングの場で、自分を語ることを通して、ご本人が自分の生い立ちを理解し、そして許し、徐々に自分の今の感情にきちんと対峙できるようになるに従って、健康になっていかれるケースを沢山見てきました。

 怒りの感情も恐怖の感情も、正当な感情です。親業ではネガテイブな感情もポジテイブな感情も同じ位置で大切に考えています。本当に怖いとき、怖がる自分を許し「怖い!」という感情を受けとめてあげるから情緒が安定するのです。また不安や恐怖心があるから、あなたは危険な場所や猛獣に近づかないのです。実はネガテイブな感情はあなたを守ってくれているのです。

 ただ、あなたを圧倒するほどの不安・恐怖は減らしてあげないと、生きづらくなりますよね。そこで親業では人間関係を壊さない形で怒りの感情を表現する方法を学びます(コラムNo11No12参照)しっかり感じてあげて気付いてあげて、表現したいと思うことは表現し、心の中で整理できるものは整理して、そしてあとは果敢に手放していく・・・・。感情もエネルギーですから感じてあげたらあとは流してあげる方がいいのです。

 このプロセスこそが真の癒しなのです。感情は生きています!あなたの子どもです。愛して大切にしてあげてください(コラムNo1No9参照)

ネガテイブな感情も優しく見つめてあげて下さい。
それを味わうために人として生まれてきたのだから
日木流奈

“しかし感じることは難しいですよね”と多くの人が言います。「アミ 小さな宇宙人」という本の中で、宇宙人のアミはこう言っています。

頭で何かを考えることを少しやめて、
胸に注意をするようにしてごらん。
そうすれば多分感じることができるよ!


*次回のコラムは1月10日前後の予定です。

2014年12月1日月曜日

チャンスはピンチの顔をして近づいてくる

Column 2014 No.17

チャンスはピンチの顔をして近づいてくる
                                        - 武田双雲 -

 「チャンス」という言葉を聞くと私たちの多くは“よい機会”いわゆる“好機”と捉えて理解していますよね。諺にも「チャンスは前髪をつかめ!」というよく知られたフレーズがあります。「チャンスが来たぞ!と思ったら迷わずに、手を伸ばしてその前髪を掴みなさい!チャンスには後ろ髪がないから見過ごしたら、もはや掴むことはできないよ」という意味であり、要は“好機は逃すな”という警告でもあります。何だかユーモラスですよねえ・・・。

 ところが双雲氏は「・・・自分の前に、壁が立ちはだかって、“もう駄目だ”と思ってしまうとき、僕はチャンスだと思うようにしています・・・」と述べています。

 この種類のチャンスは、私を含めて多くは、掴むどころか恐らく逃げ出したくなるのが本音でしょう(笑)しかし年齢を重ねるに従って、彼が言わんとする「ピンチこそチャンス」の意味が真実だと理解できるのです。
 あのピンチがあったからこそ今の自分があるんだなあ・・・・と。

 しかし、双雲氏の言う“ピンチの顔をしてやってくるできごと”に、“これはチャンス!だ”なんてすぐにはとても思えないし、多くはそのできごとに圧倒されて、焦り・不安・自信喪失のなかで、この環境を制する(逃れる)ためにできることを必死で思い巡らし、戦いもがき、逃げたり隠れたり・・・(笑)

 しかし、その苦しいできごとからどのように逃げても隠れても何の解決にもならず、対峙せざるをえない破目にやがては陥ります。そして自分の中にあった底知れぬ 恐怖心や弱さ、愛の不毛、罪悪感、小賢しさ・・・・に、はからずも出逢うことになるわけです。しかし色々な感情に翻弄されながらも本気で対峙し始めたときから、問題は徐々に解決に向かい始め、さまざまな感情も徐々に“諦念”の域に達し、自分をあるがままに許していくプロセスに気付くことで、再び小康状態が訪れる・・・。

 ここに至ったときにあらためて、致命的だと思っていたそのできごとが、私のそれからの人生の可能性にギア・シフトしてくれたかけがえのないチャンスだったんだなあ・・・とやっと確信できる。苦しみもだえ、自分の中の弱さや醜さに出逢い、その痛々しい体験を通して自分の中に新しい視点が生まれてくる! 言葉にするにはとても難しいのですが、魂の皮がひとつ“くるっ”と剥けたような感覚・・・・。自分への視点が変わり、同時に他者への視点も変わる・・・・。ひとことで言えば愛の感覚がちょっぴり深まったような・・・。

 そうかといってやはりピンチは怖いし、できることなら引き寄せたくはないけれど、しかし「人生は即ち学び」だとしたら、自分の成長にとって必要なら、無意識を含めて私の魂はピンチを引き寄せてまでも、学ぼうと覚悟をしているのかもしれない・・・・。
 ある賢者のことばが、今の私にはしみじみと理解できます

たましいを脅かすようなできごとは、何ひとつあなたの人生には
起こりません。ほんとうに、人生のすべての体験は目覚めをうな
がしてくれます。たましいの成長に役立たないものは
何ひとつありません

最近受講者のAさんから頂いた手紙の一節をご紹介します。彼女の上に、ある大変苦しい出来事が起こり、もがき戦って・・・・そして得られた彼女の今の心境です。「・・・・人生には一点の無駄もないんですね。あのときの私の選択を、あとであれは間違っていた・・・と言ったり思ったりしたけれど、まさに適切な最高の選択だったのだと、今は思うのです。他者を傷つけたり、他者に傷つけられたことを含めて・・・・。私はそこから学んだのだ。気付いたのだ! だから罪悪感は一切要らない! 罪悪感を持っていると前に進むことができませんものね・・・・。」

 この方も、ピンチをチャンスに大きく生かした人です。こんなに深い気付きは、多分幸せの中からは生まれてこなかったでしょう。逃げず隠れず、ピンチにきちんと対峙して、戦ってもがいたあかつきに得られた深い気付きです!この気付きは彼女のこれからの人生を大きく変容させていくことでしょう。

 彼女は、自分を大切に、自分に正直に人生を楽しんで生きている人なので、こんなピンチからも逃げず、まっすぐに対峙でき、そしてそこから学べる人なのです。楽しめる時には人生思い切り楽しんで、エネルギーを絶えず蓄えておくことは、自分への大きな愛だと思います。私も学ばせていただきました。


*次回のコラムは12月20日前後の予定です。

2014年11月11日火曜日

すべきことよりやりたいことを! ~人間関係講座(親業)~

Column 2014 No.16

 ある日レストランで食事をしていたひととき、かなり年配の女子会風のグループがあって、賑やかに会話が弾んでいました。何か興味深い話が飛び交っている様子なので、つい耳を傾けてしまいました。

A婦人
「女の人生って哀しいと思わん? 夫に尽くして、子どもを育てて、子育てがやっと済んだと思うたら、夫の両親の面倒を看んといけんじゃない。夫に尽くして子どもに尽くして、姑の面倒を看て・・・・気付いたらもう58歳よ! あ~あこんなに哀しいことってある? 今になって凄い悔しい気持ち! 10年が100万円で取り戻せるんだったら買い戻したい気持ちよ!・・・・」 

B婦人
「でもねえAさん! 10年後には68歳じゃろう。また同じことを言うんじゃないの?悔しい!10年を100万で買い戻したい・・・・言うて」

A婦人
「そうかもねえ・・・・。ほんと・・・。おんなじことを言うんじゃろうねえ。ほんとじゃわあ! 何とか今を充実して生きていかんといけんねえ・・・」

 こんなやり取りを聴いていて、同じ女性としてとても深い共感がありました。A婦人の哀しみがしみじみと伝わってくるような思いでした。そしてB婦人のメッセージ(助言)がA婦人に深い気付きをもたらした様子に、女子会パワーの威力を感じたひとときでもありました。

 家庭と言う狭い社会の中で、夫や子どもの世話・・・・。掃除・洗濯・買い物・食事作り・親戚や学校関係・近所との付き合い・・・・等々。それらを毎日必死でこなして生きてきたのがこれまでの多くの女性でした。現在は女性も多く社会に進出して、状況はかなり違っては来ましたが、しかし家庭における諸々の負担は、まだまだ女性に懸っているのが現状です。
 家庭を守り子どもを育て上げたあかつきに、ふっと我れに返ったとき、A婦人のように、充実感よりもぽっかりと開いた心の空洞を感じている女性は意外に多いのではないでしょうか。

人がとるべき責任ある行動は、ただひとつ。自分が心から
したいことをすることである。それが人生で最も責任ある
行動であり、その人が負う最高の責任である。
~マイク・マクマナス~

親業は「自分業」とも言っています。マクマナスが言っていることは親業の大切にしている精神でもあります。それは決して家事や育児を放棄することではなく、主体性をもって家事をし、主体性をもって子育てをし、主体性をもって人間関係を組む! 主体性をもって生きると言うことは環境や人間関係に流されるのではなく、自分を大切に、自分の気もちに正直に日々を重ねていくということです。つまり「自分軸」を失わないで家事をし、子育てをしていくことです。

 例えば、日々の流れの中に、自分だけの時間をどこかに盛り込んでみる・・・・。ときには家事の手をちょっと抜いて、自分の心が喜ぶことを思い切ってやってみる・・・・。行きたい所に行ってみる 体が喜ぶものを食べに行く 会いたい人に会ってみる 自然に触れてみる 思い切り無邪気に遊んでみる・・・・等々。それは子育て真っ最中であっても「自分軸」さえあれば不可能ではありません。

 「自分軸」を育てることは急務です。なぜならメディアを通しての情報が氾濫している今の環境の中で、自分軸がなかったら、気付かぬ間にメディアのロボットと化し、本当の自分が掴めないままに一生魂の放浪をすることになりかねません。特に今の子どもたちは心配です・・・・。間断なく与えられる外からの刺激は成長期にある子どもは勿論、私たち大人も知らず知らずにエネルギーを消耗し、自分を見失い、精神状態に不安と混乱を招きかねません。

 また価値観もとても多様化しています。
 例えば「朝食は抜いてはいけない・ぬいた方がいい」「玄米は体に非常に良い・玄米は胃に負担をかける」「水は一日2リットル飲むといい・水は過ぎると水毒になる」「泡洗顔は皮膚に一番負担がない・泡洗顔をやめるだけで綺麗になれる」・・・・等々。
 実は情報の中にも単に奇をてらうだけの発信がけっこう氾濫しているように私には思えてなりません。自分を理解し、自分の欲求を探り、自分の感度を信じて情報の選択をしていかない限り、情報に流されて自分を見失い、本当にやりたいことがいつまでも見えて来ない危険性もあります。

 もちろん私自身もネットで情報を探したり買い物をすることはあります。しかし私は基本的にある信念をもっています。それは「すべて自分に必要な答えは自分が持っている。探し回らないでも、自分に必要な情報は、内からも外からも必ずやってくる・・・・」と・・・・。それはふっとしたひらめきでやってきたり、人々との出会いや、ときにはわが子らのひと言から。あるいはふと見開いた書籍の一文から・・・・等々。

 もっとも、「自分軸」をもって生きている私のまわりの人たちの多くは、過度なメデイア依存はなく、適度な節度をもっています。それでもやはり、時々はネットサーフィンの手をちょっと中断して、脳を少し休めて、自然の中で、あるいはお好みのカフェで・・・・ひとりになって、ゆったりと「自分サーフィン」をしてみることは素敵だと思います! 不思議ですがそんな場面で、本当は何をやりたい自分なのか・・・の答えがふっとやってきたりします。

自分を感じ、自分と語れる人こそが、
心理的に本当に健康な人です。
~トマス・ゴードン(親業創始者)~

それは「自分軸」をさらに力強いものにしていくポイントであり、本当にやりたいものが見え、確実に自己実現へのステージに繋がっていくつまり秘法でもあるわけです。


*次回のコラムは11月30日前後の予定です。

2014年10月20日月曜日

道草は自己実現の王道である

Column 2014 No.15

道草は自己実現の王道である
                        - 河合隼雄 -

 「道草」とは名のとおり、道に生えている雑草のことですね。
 子供時代、登校するとき玄関で母が「道草しないで帰るんですよ!」とよく言ったものです。よって“道草をする”ということは家にまっすぐに帰らず、途中で友達の家に寄って遊ぶとか、公園で缶蹴りをしたりかくれんぼしたり、虫を追って山に入るとか、基地のような秘密の場所で過ごすとか・・・・。

 私たちの幼い頃の「道草」はハラハラどきどきと冒険に満ち満ちたものだったのです。夕日が落ちる頃になって我が家にたどり着くと「どこで道草を食ってたの!」と母から大いに叱られるはめになるわけです。“道草を食う”。昔から慣用的に日常の会話の中にしばしば使われていました。何だか詩的で情緒あふれる表現だと思いませんか!

 さて河合隼雄氏(ユング研究の権威)のこのフレーズは、“道草をすることは、人が「自己実現」に至る為に必要な秘法つまり錬金術である”という意味合いになります。

 子供が、何もしないでぼんやりしているひとときや、親からみれば意味のないことに没頭していたり、学校に行けないで家に籠もっていたり、無気力だったり、反抗したり、心配な友達とつきあったり遊びまくったり・・・・・これも立派な道草です。自分を見つける為に道草をくっている、まさに自己実現への秘法・錬金術を生きていると言うわけです。

 「自己実現」という表現はアブラハム・マズロー(米国の心理学者1908~1970)の造語で、潜在的なものを含めて、人はすべて愛に溢れた高次の自分に統合したいという自己実現の欲求を持っていて、それに向かって生きていると述べ、「欲求の五段階説」というオリジナルな提唱をして心理学会に大きな影響を与えました

 彼が言う「欲求の五段階説」というのは、人は誰でも基本的欲求つまり、生存欲求(第一段階)/安心・安全欲求(第二段階)/愛情希求と所属の欲求(第三段階)/達成の欲求(第四段階)/を持っていて、低次の欲求から段階的に正直に満たしていくことで、最終的に高次の「自己実現への欲求」(第五段階)へと向かっていく存在であると述べているわけです。

 つまり人は誰一人洩れることなく、自分自身に挑戦して自己実現に向かうべく、なれる可能性にあるものになろうとして命を懸けて精一杯生きている存在なのだとマズローは言うわけです。第四段階は自分の目標を達成したいというかなり高次の欲求ですが、その段階に進む準備がまだ出来ていない場合には、例えばその前段階の愛情希求の欲求を果敢に満たそうとします。そして社会人として社会や人々と繋がりたいという欲求へと続きます。

 社会に順応できにくかったり、人とうまく繋がれないと、とりあえず撤退して家に籠もる状態をやることもあり、また夜な夜な出ていって、とりあえず気持ちを発散する状態をやっている子どももいます。また“毎日が生きづらい”“友達とどう付き合っていいのか分からない”“勉強に本気で向かえない”“クラブ活動の人間関係が苦しい”“入試に本気で臨めない”“何がやりたいのか分からない”・・・・・等々。達成の欲求段階に向かう前準備に手こずっている若者は沢山います。多くの親御さんはこの状態に焦り、何とかしようと、うるさく言う、つまりプッシュすることで子どもの問題の解決を試みますが、効果はないはずです。

 もしかしたら第三段階の前の、第二段階の安心・安全の欲求が満たされていないのかもしれません。ご両親が仲良くなられることだけで心が安定し、動き始める子どももいます。「家庭内環境」も自己実現への道程に無関係ではないのです。

 カウンセリングでご縁のあった子どもですが、「不登校」という道草を4~5年やってやがて精神科医になる夢を果たしたというケースがあります。不登校という選択をし、時間をかけて道草を食べながら、満たし切れなかった第二段階・三段階の欲求を果敢に満たし、第4段階に向かうべくエネルギーと栄養をしっかり蓄えたのです。

 子どもの今の状態が、親にとってはとても心配だったり苛々したり悩みますが、子どもは自分にとって必要なプロセスを本能的に知っていて、色々な形でそれを満たしていこうとします。実は人生を通して何ひとつ無駄はないのだなあ・・・・と思えてなりません。親ができることは「マズローの法則」に当てはめて考えるなら、子どもが無意識に行動しているその背景にあるその子の充足したい欲求を、できる範囲でうまく満たしてあげることがとても大切に思います。

 しかしそれができる為には親自身が、ある程度満たされているか否かが大きく影響します。親自身も、満たせてこなかった基本的欲求を果敢に満たすべく、人生をかけて体験・冒険(道草)をしていくことはとても大切です。“もう歳だから・・・・”はやめてしっかり道草を食べていきませんか! “歳だから失敗はできない・・・”なんていう弱腰もやめましょう! 冒険には失敗はつきものです。前コラムに取り上げた曻地三郎氏に私は生きる元気をさらに頂きました。生きている限り夢を見失うまいと・・・・!

もっと遠く飛ぶための後退!
- ユング -

冒険に伴う失敗も挫折も、自己実現に向かうための尊い布石!
時にはしっかり後退して助走をつけ、恐れず何度も跳んでみませんか! 
お互いに!


*次回のコラムは11月10日前後の予定です。