2015年9月20日日曜日

とらわれの気持ちを解放したら本当の自由が見えてくる

Column 2015 No.28

昨夜は、ある勉強会の仲間での飲み会に参加しました。帰りは車で来ていた人に便乗させて頂いて、かなり機嫌よく帰途につきました。ところが玄関で自分が手に持っているものを見たら、何と!自分のバックは勿論、後席にあったらしいその方のバックも一緒に、二つのバックを手にしているのです!まさかの現実に、酔いが一度に醒め、顔面蒼白! 比較的新しいお知り合い、ということもあって、まだ名前以外に情報のやりとりもしていない…。パニクッた私は、彼女のバックを開けて手がかりを見つけることしかできない! 遂には彼女の財布もあける羽目になり、やっと電話番号を見つけ、連絡が取れて一件落着! また車で取りに来て頂くという大変な迷惑をおかけしたわけです。

 まだ酔いもあってか、またいつものいい加減さも手伝って、“…まずいことしちゃったけど、まあ連絡できてよかったよかった!まあ人生こんなこともあるよね…”といった調子で、すぐに深い眠りに…。ところが三時半あたりにハッと目が醒めた私は “…お酒を飲みすぎたにせよ、年甲斐もなく何とそそっかしく、恥ずかしい失態を侵してしまったのだろう…人のお財布まで開ける羽目になったことは詫びたにせよ、相手の方はさぞ気分が悪かっただろうなあ…。ああ…わたし…なんとおっちょこちょいで、駄目な人…。” 闇の時間は出来事の真相を途方もなく増幅するようで、押し寄せる妄想と闘いながらふと気づくと、白々と夜が明けてきたのでした。

 自己批判と他者への思惑(おもわく)にとらわれて、“あのときどうして気を付けなかったの!?” “あの人は私を疑われたのでは?…” “きっと軽蔑されたに違いない…” ぐるぐると妄想がらみに圧倒されているその間は“呪縛の牢獄”からは決して抜けられないいんだなあ…ということを、昨夜の一連の出来事から身をもって体験したのでした。

 …仕出かしたことは仕方ない! ここで学ぶしかない…と心に決め、いま学ぶべきは何か…にしっかり気づいて、自分のその失態を自分で認め赦した途端に、とらわれからすっと解放され、ずっしりとした荷物が急に軽くなって、不思議なことに、これまでよりも世界がぐ~んと広がって、澄んで見えてくるのでした!

 こんな寓話を思い出しました。

「…その昔、浅瀬に架かっていた小さな橋が壊れてしまっていて、この川をどうやって渡ったらいいものやら…と岸辺で思案していたひとりの女がありました。ちょうどそこに、ある師匠とお弟子たちが通りかかりました。するとそのお師匠さまは、さっと川の中に入るなり“どうぞ!”と言ったかと思うと、その女を背負って川を渡り、対岸の岸に下ろしました。それを見ていたお弟子さんたちは口々に「お師匠!女を背負うとは!」と非難したそうです。するとお師匠さん曰く“わしは対岸に着いたら女を下ろしたぞ。お前たちはまだ女を背負っているのか?”…」       ~出典不詳~

 さすがに師匠ですねえ…。 困っている人が、たとえ女であろうと誰であろうと、彼はとらわれることなく助けたことでしょう。彼はドグマ(宗教・宗派が信奉する独特の教義・教理)を超越し、いつも“今ここ”にいて、自分が、“今為すべきこと”だけをただ淡々とやっただけ…。

 とらわれと格闘しているときに、私はよく思い出す寓話です。ドグマにとらわれている弟子たちのように、済んでしまっていることなのに、固定観念や見栄にとらわれ ああでもないこうでもない…と。 とらわれはまさに双肩に掛った重い荷物です。しかもその重い荷物は誰が掛けたものでもなく、すべて自分が背負った荷物です。

 悩み癖(捉われ癖)の傾向がある人のご相談にのっていると気付くことがあります。重い荷物を背負うことがご自分の使命だと、どこかで思い込んでいるかのように、ひとつの問題が解消すると、必ずまた次の問題をしょってくるのです。過去のしがらみから立ち直りにくい人もその傾向があります。このとらわれから放たれたら、世界の本当の広さが見えるのに…。本当の自由がつかめるのに…と思うのですが、そんな方々はなかなか手放さないのです。その意味では手ごわいほど頑固です。そして結果的に周りをも、とても不自由にしてしまう。

 人類が一人ひとり、その“とらわれ”から自由になったら‥‥
国内での小競り合いも、テロも、国々の戦争も必要ではなくなるでしょう。やられた…という怨念にとらわれた結果、必ずやり返す…。また我が宗派のドグマにとらわれて、それを守り通すための戦いこそ“平和への道”だという、強い信念(とらわれ)のもとに繰り返される残酷な殺戮…。真の神々は涙を流されているであろうに…。それら片寄った信念(とらわれ)こそがまさに人類の重大な病根です。

 簡単なことではありませんが、人類の一人ひとりが、真に自立し、幸せになることしか平和への道はないのではないでしょうか。まず自分から幸せになるのです。自立するのです。自分の傷みの原因を他者のせいにしないで、喜びも悲しみも自分の責任において感じ切れる人に…。自分の幸せは自分で創れる人に…。

 さて、フランスの思想家ヴォルテールの、心に響く言葉があります。

僕は君の意見には反対だ。
しかし君がその意見を主張する自由は
僕は命を懸けて守る

 自立を果たした人は、相手を認め「対話」ができる人です。対話を通して、相手は今、何を考えているのか。今、相手が必要としているものは何か。その人を闘いにそして病へと駆り立てている本当の原因は何か…。戦いをやめさせることは出来なくても、個人レベルからなら、私たちにできることは何かある筈です。

 自立を果たし、“自分の本当の価値”に目覚め、気づいた人々は現に、自分の周りに発信をはじめています。そしていまだ多くの人の中に根強く眠っている“自分には価値がないのだ”という固定観念(とらわれ)から解放されていない人々を、対話を大切にしながら、相手が自分の真の価値に気づいていけるように勇気づけ、支えていく人たちが、徐々に増えてきています。つまり一隅を照らす人々です!

 そんな人々が存在する限り、人類はおそらく近い将来、一人ひとりの中に内在している無条件の愛と、真の自由性と、本来の創造性をどんどん取り戻していくことでしょう。ひとりからの変容(自立・幸せ)こそが、世界を変えていけるワンステップだと私は確信しています。真の平和実現は、想像以上にシンプルなものだと思っています。

一人の目覚めは百人に及び、百人の目覚めは千人に及び
千人の目覚めは社会全体に及ぶ
松下幸之助


*次回のコラムは10月20日前後の予定です。

2 件のコメント:

  1. 先生、どきどきの夜を過ごされたのですね・・・。

    「妄想がらみに圧倒されているその間は“呪縛の牢獄”からは決して抜けられない」これが自分の体験からすごく伝わりました。

    寓話の師匠さんは肩書きではなく一人の人間として瞬間、瞬間を生きることの大切さを教えてくださるのですね・・・。
    “とらわれ”はなかなかやっかいな自分の中にあるモノです。“とらわれ”にさよならしたくて最後の“とらわれ”にこだわる それは圧倒されているのではなく自分で選んだモノならなんとかなりそうでさよならできそうで・・・と感じる今日この頃です。

    いい意味でのまずは自分の心配から・・・続けて行きます!

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    1. MOONさま

      ドキドキのきもち(笑)を分かってくださって有難うございます!

      寓話のお師匠さまが弟子たちに言われているように、とらわれを一つひとつ さっぱりと降ろしていけると、どんなに毎日が安らかに過ごせることでしょう。そして "今" という瞬間を生き切ることが出来るでしょう。

      MOONさんの "先ずは自分の心配から…" とありましたが、同感です! まわりの人々を心配し幸せに…と考える前に、まずは自分が幸せになること! 本当に幸せになった人だけが 周りの人々を幸せに導けるんですよね! いつも 有難うございます。



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