2015年8月20日木曜日

頑張れば将来が楽になる。さぼれば今が楽になる

Column 2015 No.27

頑張れば将来が楽になる。さぼれば今が楽になる
                                         アーニー・J・ゼリンスキー

 結構不謹慎に響くフレーズですが、これには実は注釈があります。「…これは人生を真面目に狂おしいまでに社会のペースに圧倒されまくっている人への言葉であり、グータラの人のために送る言葉ではありません」(笑)…と。 私はこのユーモラスなフレーズに出逢ったとき、ふっと体の力がいい意味で抜けました。恐らく私も人生、真面目に頑張って生きている人の一人なんだなあ…と気づいて、苦笑したことでした。

 あなたがもし、滅私奉公的に会社や仕事のためにあくせく働き、心も体も消耗させているとしたら、少しスローダウンして仕事と休息のバランスを取った方がいいですよ…というひとつの提案だと思います。そして彼の言う“アクセク症候群”の行く末は 自律神経失調症をはじめとする精神疾患、最終的には心臓発作や各種の癌に繋がることも多いと警告しています。

 “アクセク症候群”の部類に入ると思うのですが「仕事依存症」と呼ばれる症状は日本の男性に多くみられますが、近年では女性にも見られる時代になりました。仕事以外に喜びがなく、絶えず仕事をしていることで自分の存在価値を認めたい。周りに評価されたい…という無意識の心の動き…そう精神分析家は述べています。

 レオ・バスカリア著「自分らしさを愛せますか」の中に、余命幾ばくもないと知った85歳のある老人の手記がありました。

「…もし、もう一度生涯をやり直せるなら、この次はもっとたくさんの過ちを犯したい。完全な人間になろうなどとはすまい。この次、生きるときは私はもっとリラックスしよう。もっとしなやかに生きよう。それほど深刻に受け止めなければならないことはそうそうないということが今の私にはよくわかっている。今度はもっとクレイジーになろう……もっといろんなことに挑戦しよう。もっと旅をし、山に登り川で泳ぎ、もっとたくさんの夕陽を眺めよう。行ったことのない所をもっともっと訪ね、もっとたっぷりアイスクリームを食べよう。豆ばかり食べるのはもうよそう……。もしもう一度生きれるとしたら、思い通りに生きた時間の方をもっと沢山持ちたいと思う。というよりそんな素晴らしい時間以外のほかはもう何もほしくないというのが正直な気持ちである……」と。

 私たちはみんな、無意識かもしれませんが、自分が生きたい人生を選んで生きているんですね。ところがあるきっかけでふっと気づく…。こんな生き方で自分は本当にいいのか、よかったのか…。後悔はないのか…と。 この老人は若い時からどこに行くときも体温計、薬を持ち歩き体の管理も怠らなかった。仕事も人並み以上に励み、自分を高めるために切磋琢磨してきた人のようでした。 しかし「‥‥あんまり面白い人生ではなかったなあ。もしもう一度人生があるとしたら今度はもっと自由でクレイジーな生き方がしたいなあ……」と、自分の人生を閉じる前にふっと、彼に来た気づきだったわけですね。こんな一文に触れると、人間はなんと興味深い存在なんだろう。色々な人生を生きて、体験して、そして模索しながら、無限の進化にひたむきに向かっていこうとしている存在なんだなあ…と感無量になります。

 一方、ゼリンスキーのいう“グータラな人生”を送ってきた人だって勿論、“自分の人生、これで終わっていいのか…”という気づきが、やはり人生のどこかで必ずやって来ると思うのです。それが死の間際に…という人があるかもしれません。いづれにしてもパスカルの言うように“人間は考える葦”であり、生きて、感じて気づいて、仕切り直しをしては、また新しく生き直そうとするたくましい存在なんだと私は感じています。何故なら人間は、必ずや一人残らず「自己実現」に向かって、たゆみなく心の進化を遂げていこうとしている存在だからです。

 さて先達の言葉には色々な表現があります。

自分が好きなことをする以外に本当にあなたを幸せにするものはありません
バーバラ・シェール

 のように人生「欲求充足説」もあれば、片や

忍耐と勤勉…こそが境遇に打ち勝つものなり
国木田独歩

 のように人生「努力・勤勉説」もあります。

 どちらの説も真実であり「いい」「わるい」は全く無いのだと思います。それは一人ひとりが自分が選択した人生を生きて、そこから学びとった姿勢であり哲学であり、学びとったそれぞれの哲学をもってお互いが真摯に生きている素晴らしい存在だと思うからです。

 実はコラムNo21で取り上げたと思うのですが、一見は過酷に見える登山も、研究者が夜を徹して打ち込む研究も、彼らにとっては努力でも忍耐でもなく、ただわくわくと目指す目標に向かっている姿だとしたら、多くの先達たちが提唱する“人生、やりたいことを!”というスタンスと実は同じです。また“果報は寝て待て”という有名な諺があります。「努力・勤勉説」とはまさに対照的に聞こえます。ところが辞書を引いてみると“やるべきことが済んだのなら、あとは慌てず焦らず成り行きに任せるといい結果がやって来る”のような意味合いがあって、やはり勤勉であることと、ゆったりと気を抜くことの大切なバランスを表しています。

 磁場に陰陽があるように、呼吸にも吸気と呼気があります。いわゆるそれで自然界も人間の体も生命が維持でき、バランスを保っているのです。それと同様に、頑張ることも、気を抜いて遊ぶことも自然な姿であり、バランスです。仕事と休息のバランス。人の話をしっかり聞くことと、自分の気持ちを明確に表す自己表現とのバランス。また前進ばかりではなく、時には立ち止まったり撤退してみることも、生きる上ではとても大切なバランスではないでしょうか。

 いいバランスは~です…それは誰も教えてはくれません。過去に捉われたり頭で考えることを少しやめて、自分の今の感性に頼るしかありません。自分が知らず知らずに取り込んだ固定観念に気づき、それを解放しながら、自分の心のリズム、身体のリズムを大切に生きていたら、無意識に呼吸をしていると同じように、自分にとって快適なバランスの接点が掴めるのではないでしょうか。

ものごとは なんでも
バランスであると ぼくは思っています
あの人はいいなあ…と思う人は みんな
バランスがいいです

でも ものすごくいい人というのは
バランス わるいです
ものすごく悪い人も
バランス わるいです

みうら じゅん

*次回のコラムは9月20日前後の予定です。

2015年7月20日月曜日

仕切り直しをしながら生きる

Column 2015 No.26

立ち上がりの前に力士が、土俵の上で立ち合いの身構えを何度も繰り返している姿を見ますが、それはお互いの力士が呼吸を整え、また両力士の息が合うまで“仕切り直し”をしている姿ですね。

 自分の人生が思うように回転しない時、また何をやってもうまくいかないなあと意気消沈しているとき…私はふっと力士のこの立ち合いの身構えをよく思い浮かべます。すると私の今の呼吸が浅いことや、呼吸の乱れに気づきます。そこで深呼吸をしてみたり、両手をあげたり開いてみたりしながら、呼吸に意識を向けていると不思議に少し落ち着いてきます。「呼吸は意識した瞬間から変化する…」とは、あるヨーガ行者が言っていましたが本当だと思います。

 呼吸を取り戻したら、“私流”ですが、お好みのお茶や珈琲を時間をかけてゆっくり入れ、お好みのお菓子を用意して「美味しい!」と独り言を言いながら頂きます。甘いものがいけないなんて思ったことはありません。甘いお菓子はとっても気持ちを安らかにしてくれます。気づいたら自分をしっかり取り戻し、私の中に新しい構えができます。私のひとつの“仕切り直し術”です。

 ところが仕切り直しを何度やっても悲しみが押し寄せ、不安が押し寄せてくることもあります。そんな時は心を決めて“悲しみよこんにちは”“不安よこんにちは”とその感情を丸ごと迎え入れます。感情は生きものですから、しっかり感じてあげたら不思議に落ち着いてきます。「どうしたの?」と聞くと、たいてい答えも返ってきます。その答えに対して、今はどうしてあげることもできないけれど私の気持ちは大きく安定してきます。

人生に迷ったら自分に返る

 これは私の信念であり、生きる道筋で迷い子になってしまったとき、私はいつも“自分に返る”ことを思い出します。人生に迷っているときは、自分の軸からたいてい大きく逸れています。例えばまわりが気になって無意識に他者と較べていたり、他者の呼吸の方に自分の呼吸を合わせている自分に気付きます。そのことに気付いたら自分に問いかけます。

 他者はともあれ、あなたは本当はどうしたいの?
 どうしたら、あなたの心が喜ぶの?

 自分の人生の答えは外にはありません。必ず自分の中にあります。だから必ず答えが来ます。するとブレていた軸が徐々に自分に返ってきます。戻るところは自分しかありません。そして頑張ることを少しやめて、再び自分に優しくしてあげることを思い出します。できるだけ心が喜ぶことをやってあげます。

 これまでの私の人生で、私の気持ちを本当に解ってくれた…と私が思えた人々、真に私を支えてくれた人々には共通した特徴があったような気がします。
 彼(彼女)らは自分の気持ちは率直に述べるけれども、決してそれを私に押し付けることはありませんでした。いつもさり気なくヒントを与え、たださり気なく支えてくれる、そんな人たちでした。私の人生における解決は、私の思考プロセスを通してこそ、真の解決に繋がるのだということを知っている人たちでした。丸ごと受け入れてはくれましたが、決して依存はさせませんでした。

 あなたにとってどんなに崇拝する人であっても、あなたの人生に関する感度は、あなた以上に冴えている人は誰ひとりいないのだということを信じ始めてください。あなたの人生に関して簡単に答えをくれる人は、実はあなたにとって真の援助者ではないかもしれないということも知っておく必要があります。

天は自ら助くるものを助く
~西洋の格言~

 まさに至言です。体験するのも自分。気づくのも自分。仕切り直すのも自分。すると答えはやってくるのです。他者は援助はしてくれますが、決して助けることはできないのです。


 絶望の淵からそして失意のどん底から再び生きることに“仕切り直し”されたNPO法人フューチャー理事長 野上文代さんのことを書いてみたいと思います。

 野上さんは子どもがなかなか授からなかったのですが、5年間の不妊治療の甲斐あって、一度に3人の子(三つ子)を授かり、最高に嬉しかったそうです。ところがMRI検査の結果、3人の子供のうち2人の子供に脳に異常のある脳性マヒと診断。彼女のショックは並大抵ではありませんでした。障がいを抱えたお子達ですから育児のストレスも尋常ではなく、子育ての疲れと、続く不眠とで野上さんはひどい鬱状態に陥られ、ついには子どもを連れて何処から飛び降りようかと、毎日死ぬことばかり考えていたそうです。

 ところがある日、自分の腕の中で、障がいのある我が子が、酸素ボンベを付けたまま懸命に母乳を吸っている!必死で生きようとしている!その姿に野上さんは大きな衝撃を受けたのです!その瞬間、野上さんの中で音を立てて何かがはじけた。そして心が決まったのです。「よ~し!お母さんはあんたたちをしっかり育てるよ!任せとき!」と。それが野上さんの“仕切り直し”の瞬間でした。

 写真で拝見するお子達の天使のような明るく澄んだ表情に心惹かれます。「特別なことは何もしていないんです。ただ毎日一人ひとりの子供を抱きしめてあげること。そして大好きよ!といってあげること。この二つは絶対に欠かしません…」心が決まったら、人はこんなにも愛に溢れてくるんですね。そしてその愛は確実に子どもに伝わるんですね…。

 この子たちのためなら何でもするぞ!と絶望の淵から雄々しく立ち上がられた野上さんは、やがてご自分の体験を生かして、障がい児のための施設を立ち上げられ現在も社会に大きく貢献していらっしゃいます。

 失意のどん底からでも決して諦めず、“希望に仕切り直し”をして生きる人々の生きざまは、まさに私たちに生きる勇気を与えてくれますね!

こけたら 立ちなはれ!
~松下 幸之助~


*次回のコラムは8月20日前後の予定です。

2015年6月20日土曜日

一度とてもほめられるとそれだけでふた月分気分よく過ごせる

Column 2015 No.25

一度とてもほめられるとそれだけでふた月分気分よく過ごせる
                                                              - マーク・トウエイン-

 「トム・ソーヤーの冒険」の作者の言葉です。マーク・トウエインでさえ、ほめられたら2ヶ月も気分よく過ごせるというのです! 私たちも同じで、ほめ言葉をもらったら“何だか元気でるよねえ”とその日がわくわくと過ごせたり、おまけに“私って素敵なんだあ…”とちょっと自信が湧いてきたりしませんか。

 もっとも自分への“自己価値感”が、ある程度ある人であれば、まわりからのほめ言葉に期待をすることはあまりありませんが、多くの人々は周りの人たちに認めてもらいたいと、ほめられることを少なからず期待しているものです。ところが日本人の多くはほめることは勿論、ほめられることも苦手ですね…。
 「あなたの今日のTシャツすてきね!」
 「いえいえ!安物よ!」…といった具合に(笑)

 本当は嬉しいんですね。でもちょっと照れたり、それが日本人特有の奥ゆかしさだと誤解したり…要はほめられることに慣れていない…。こんな場面で、もし「そう!嬉しい!」と答えることができたとしら、自分への肯定感に大きく繋がるでしょうし、きっとほめた人も心地いいはずです。

 「親業」では、実は“ほめる”という表現は避けています。日本の武士道に“褒めて遣わす”という言葉がありますが、その言葉には、はっきり上下関係が表れています。しかし現在でも“ほめてやってください”とか“ほめてあげる”という言い方をする人は結構多いですね。やはり上下関係の匂いが感じられます。

 ほめてあげるのではありません。相手の行動が自分にとって嬉しいから、幸せな気持ちになったから、その気持ちをその喜びを、相手に対して率直に自己表現していくのです。例えばお手伝いをしてくれた子に「えらかったね!」とほめていくのと…「皿洗いを手伝ってくれてお母さん大助かりだよ!」とお母さんの正直な喜びを伝えるのとでは、子どもの受け取り方には大きな違いがあるのです。

 親は、子どもが親の気に入る行動をとった時、褒美のように「えらいね!」「いい子だね!」と評価的に褒めてしまいます。お手伝いしたら褒めてもらえる…つまり親に気に入ることをしたら愛される…そのように子どもが受け取けとると、子どもの心はとても不安定になるのです。何故なら、親の期待に添えない時の自分に対する親の失望が怖いのです。

 親が子どもに権力(暴力・非難・命令・脅迫…等々)を行使することで、子どもが親に屈して“親にとって都合のいい子”に嵌ってしまう危険性があることは理解できると思います。しかし褒められながら、親の顔色を伺い、いつの間にか“いい子の枠“に嵌っていくこともあり得るということです。いずれにしても“いい子の枠”に嵌った子供は、素朴な冒険や体験をすることに極端に臆病になり、いわゆる子供時代に必要な試行錯誤ができないために、自分軸が育たず、自立を大きく阻まれるのです。

 さて、親業が大切にしている「肯定の感情を表現する自己表現」をもう少し詳しくお伝えしましょう。子どもや周りの人の行動を見て、あなたの心が安らかになったり、嬉しくなったり、幸せな気持ちになった時に、その喜びを正直に相手に自己表現してみましょう。講座の中で、あるお母さんが言いました。「うちの子、いい所なんにもないんです。ほめるところなんか見当たりません…」と。実はいっぱいあるはずなのですが、お母さんが気づかないだけなのです。例えば

 学校に行けない子供が多い時代 毎日学校に通っている
 食が細い子どもが多い時代 毎日食事を美味しそうに食べる
 勉強は今ひとつだが 友達が多く毎日元気に楽しく遊んでいる…等々

 お母さんにとってはそれは当たり前と思っているから格別喜ぶことでもない…と。 いいえ!それをあたりまえと思ってしまっているお母さんの不感症が問題であり、実はそれが子どもにやる気を失わせている大きな原因ともなっているのです。そこに気づいたお母さんは子供に思い切って表現してみました。「K君 お母さんが作ったお料理を美味しそうに食べてくれるじゃない!お母さん作りがいがあって元気でるよ!」…と。

 するとK君は一瞬、“はと豆状態”になりましたが、その日以来、無気力だったK君が、日を追うごとに活気に満ちてきたといいます。勿論、お母さんもこれまで見過ごしてきたK君の行動にしっかり注意を払って表現してみたのです。
 「学校に毎日元気で行ってるK君を見てるとたのもしいよ!」
 「K君の笑顔はお母さんの心を和ませてくれるのよね!」というふうに。

 古(いにしえ)から「長所と短所はうらおもて」ということが言われていますがこれは真実です。例えば“勉強が苦手な子は、スポーツが得意だったり、友達に人気があったり、けっこう機嫌がよかったりします”“無口で内向的な子は、追い込みさえしなければ、じっくりと物事に対処できたり思いやりがあったり、人の心を読み取ることが得意だったりします”このように短所と言われる裏側には必ず輝く長所を持っているものです。

 子どもの個性や輝きに敏感になりたいものですね! その子の輝いているところ、その子の得意な側面を表現したり、勇気づけていくことで、その子の可能性はぐ~んと広がっていくのです。その子の苦手な部分ばかりを指摘していると、輝きまで失いかねません。

 会社を辞めていく人々の大半は、低賃金や重労働が理由ではなく、自分の価値を認めてもらえなかったことを理由に挙げています。もし仲間や上司から「君の援助は大きかったよ!」「助かったよ!」「~してくれて感謝してるよ!」といった肯定の感情表現が日頃からあったら、その人はやる気や生きる元気を失うことはなく、会社の為にも自分の為にも、全力投球できたのではないでしょうか。

 日本の男性は一般に“ほめ下手”な人が多いですね。例えば 家事・子育て・夫の世話・舅、姑の世話・近所や親戚との付き合い・学校関係…等、それらを必死でこなしている妻にどれだけの人が感謝の気持ちを表しているでしょうか。生活費を稼いでやってるんだから当たり前…という気持ちがあるのかもしれませんが、その辺りで夫婦間の関係が壊れていくケースを私は沢山見てきました。

 コラムNo11でご紹介した、奥さまにお手紙で送られたご主人さまの感謝のメッセージをもう一度ご紹介しましょう。メッセージを読まれた奥様は感動で涙が溢れたそうですよ…。奥様の心はどんなに元気になったことでしょう

 「暑い日が続きますがいかがお過ごしでしょうか。汗だくになりながらも頑張っておられる姿をいつもまじかに拝見し、陰ながら大変感謝しております。なかなか口に出しては言えないので書面にてお礼を言いたいと思います。前向きな人生と刺激をいつもありがとう!」

 最後に同じく受講生の方々の<妻から夫への肯定のメッセージ>も紹介してみましょう。

 「私が夜遅く帰ってきたときに“ごくろうさん”といって迎えてくれるでしょう。一度に疲れが取れる気分よ!」

 「私の悩みや愚痴をじっと聴いてくれるでしょう。とてもすっきりしてまた明日も頑張ろうという気持ちなるのよ。感謝よ!」

 「今朝、会場まで送ってくれたでしょう。早めにいい席が取れて、とても楽しめたの。助かったわ!」

 心がほのぼのとしますよね! このように、愛や感謝の気持ちは、心で思っているだけではなくそれは、表現されてはじめて相手に伝わるものなのです。

*次回のコラムは7月20日前後の予定です。

2015年5月20日水曜日

“人間はだんだん歳をとっていくものだ”と始終考えているほど 人間を迅速に老けさせるものはない

Column 2015 No.24

“人間はだんだん歳をとっていくものだ”と始終考えているほど
人間を迅速に老けさせるものはない
                                                              - リヒテンベルク -

 1700年代のドイツの物理学者の名言です。
 コラムNo23で「この世界では肯定的なことも否定的なことも、あなたが真実と信じているとおりに体験するのです」という賢者の言葉を引用しましたが、リヒテンベルクもまさに同じことを伝えようとしています。

 年齢というと思い出すひとこまがあります。日曜日のある日、近くのスーパーに買い物に行く途中、横道から三輪車に乗った利発そうな女の子がいきなり出てきて、私の前でピタッと止まり「私は伊藤咲子(仮名)です!おとしは5歳です!」と私の顔をじっと見上げて言うのです。そして「おばちゃんのなまえは?」と聞くので「しもむらりょうこで~す!」と答えたら「おとしは?」と続いて聞いてくるので、おどけて「ナ~イショ!」と答えたら「わかった!バイバ~イ!」と言って通り過ぎていきました。

 何だか天使に逢ったような、清々しい不思議な感覚でした。咲子ちゃんはおばちゃんの年齢を知りたかったということはあまりなかったと思いますが、年齢を教えてあげなかったのはなんだろう…と私の心の中にちょっとした問題意識として残っていました。

 それ以後も周りの人たちに「お歳は?」と訊かれることはたまにあります。その都度、私はにっこり笑って「It's a secret!」と大抵答えるのです(笑) しかし敵もさるもの「干支は?」とくる!「猫なんよ~」と、こちらも負けずに煙に巻く…。 その場はゲーム感覚で楽しんでいるわけで、実は周りにはバレバレなのです(笑) ただ自分から年齢を前に出さなくなったのは、相手はともあれ、私自身が“年齢を意識しないで生きてみたい”というただ単純な動機からなのだと今は気付いています。

 人間の最後には「死」というプロセスがあることだけは確かです。しかし50歳代で、すでに老年を感じさせる人もあれば、90歳を超えてなお、若者のようなエネルギーに溢れている人も多く見られるようになりました。この違いはいったい何がその人に働いた結果なのでしょうか。

 年齢の不思議さをずっと考えていたからかもしれません。朝に近い時間だったと思います。夢の中である語りかけがありました。「なぜ人間は歳を取る(老いる)のかわかりますか…。それはすべての人間がもっている集合意識からの影響を受けているからです…」と。とても鮮明にその言葉は残っていました。それはマズローのいう私の奥の意識(コラムNo15)からきた私への答えだったのかもしれません。目が醒めて「なるほど!」と膝を打つ感じがありました。私の中での疑問が、明快に解けたのです。

 「集合意識」については、心理学者のカール・ユングも述べています。人間の心の中には誰でも深層心理として「集合的無意識」と「個人的無意識」が存在している…と。 集合的無意識…とは、人類発生以来脈々と受け継がれてきた人類共通の信念・価値観・恐れ・不安…などを、一人残らず潜在的にもっている。 我々人間は、個人的無意識の影響は勿論、それら集合無意識層の影響をも確実に受けながら今の人生を創っているのだと。つまり我々の「顕在(表面)意識」は、それら潜在意識と、時には苦しい折合いをつけながら、懸命に生きている存在なのだというわけです。

 さて私の夢の中で語られた「集合意識」といえば、例えば“歳は確実にとって老いに向かうものだ”という社会的通念(集合意識)があります。 60歳になったら老年期に入り、体も徐々に弱ってくる…。70代にもなれば、目もかすみ耳も遠くなり物忘れも多くなる…。80代にもなれば腰も曲がり認知も……というふうに。

 この年齢になるとこうなる…実は誰も決めてはいない筈なのに、我々人類共通の集合意識にある“年齢への恐れ・思い込み”を無意識の間に取り込んでしまい、妥当な年齢以上に確実に歳をとってしまっている現実があるのだ…と。そこで“自分はもうこの歳だしガタがきて当然だ…”と集合意識の恐れ・思い込みに嵌ったまま生きていくのか、あるいは年齢に捉われず集合意識に影響を受けることなく、今のこの瞬間を燃焼して生きていくのか…で老いのプロセスははっきり違ってくる。実は年齢が人を老いさせるのではないのだ……と。

 実は「年齢」ばかりではなく、集合意識(潜在的・顕在的)には沢山の落とし穴があります。それに嵌らないためには、人類ひとりひとりが真の自立を果たしてしていくことしかないのでは…と思うのです。自立した人間は、大衆の価値観や思想に安易に流されることはなく、自分の感性を信じてすべてを選択していく。しかも決して頑な(かたくな)ではなく、他者の感性も尊重できる。これが真の自立をした人間の資質です。

 多くの人類が真の自立を迎えたとき、つまりそれがある程度の人類の「集合意識」となった時、恐らく不毛な争いなどはたちまち収束に向かうであろうし、地球を危機に陥れることなども決してないのでしょう。万一危機が訪れたとしても、決して絶望したり、誤った判断に同調しないで、人類は必ずや賢明に対処していくことでしょう。

 リヒテンベルクのフレーズに通じる、含蓄ある賢者の言葉を引用して今回のコラムを閉じたいと思います。

「あなたが歳をとるという恐れがなくなったら、体は信じがたいほどの重荷から解放されます。体の全システムが今までの恐れの害から解放され、調和を保つようになります…。逆に恐れはまさにあなたの恐れているようなものに変えてしまいます…」

「人が対決する相手は老化ではありません。真の相手は恐れです。老化は恐れを蓄えるひとつの場所なのです…」

*次回のコラムは6月20日前後の予定です。

2015年4月23日木曜日

人生の最大の障害は、周りが自分を不幸にしているという信念です

Column 2015 No.23

メーテルリンクの「青い鳥」の童話(本来は戯曲)は幼い頃から何故か心惹かれる物語でした。兄のチルチルと妹ミチルは魔法使いの老婆に促されて“幸福の青い鳥”を探す旅に出ます。思い出の国 夜の宮殿 未来の王国…へと。どこの国にも美しい青い鳥はいましたが、鳥籠に入れるとすぐに色が変わったり、死んでしまったり‥‥。疲れ果てた二人はついに諦めて家に帰り「とうとう見つけられなかったね…」とがっかりしていました。ところがふと見ると、何と!家で飼っていたキジバトが美しい羽毛をもった「青い鳥」だったことに初めて気づくのでした。

 魔法使いの老婆は「幸せはねえ。ごく身近にあるんだよ。ただそれに気がつかないだけなんだ。幸福は近くの身の回りにいっぱい潜んでいるんだよ」ということを教えてくれたという物語です。何と大切なことを教えてくれているお話でしょう!

 しかし大人になった今、私は思うのです。幸福の青い鳥はもしかしたら周りにいるのではなく“心の中”にしかいないのではないかと。心の中に幸福の青い鳥がいるから、周りに潜んでいる幸せが見つけられるのではないか…と。幸せな場所を必死に求めても、自分の心の中にしあわせや喜びを感じれるハートがなかったら、そばに幸せがあっても気づかないし、それを幸せだと感じることもできないでしょう。おそらく何処に行っても幸福は見つからないでしょう。

 またこんな寓話に出逢ったことがあります。ある村から新しい村に越してきたA婦人が、その村で一番尊敬されているという長老に尋ねました。

A婦人「長老さま この村の人たちはどんな人たちですか?」
長老 「前に住んでいた村の人たちは、どんな人たちでしたか?」
A婦人「とても嫌な人ばかりなので、引っ越してきたのです。」
長老 「それなら多分ここも同じです。」
~出典不詳~

 なかなか示唆に富んだ寓話ですよね。私たちもA婦人と似たような思考をもち、似たような行動をとっていないでしょうか。自分が気分が悪いのはあの人のせいだ…私が今不自由なのは周りの環境が悪いからだ…と。そして何とか相手を変えようとしたり、うまくいかなければそこから逃げようとしたり…。人のせいにしてそして逃げて、ひとときは“うん!うまくいったぞ!”と思えるのだけれど、暫くすると、やっぱり以前と同じ状況が再び展開する…。

 長老はそこを見抜いて婦人に告げます。「それなら多分ここも同じです」…と。周りの環境がその人に影響を与えているのではなく、その人が持っている、自分や周りに対する信念・定義(コラムNo19)がその人の環境を創っていくのだ…と。“A婦人よ!あなたの人生の創造者は周りにはいないんだよ。あなたなんだよ!”…と長老は伝えたかったのでしょう。

見るべき場所はただひとつ 自分自身の内側だけだ!
~イハレアカラ・ヒューレン~

 耳に痛い至言ですよねえ…。しかしやはり自分の人生の主役は自分自身であり、自分の人生の責任は自分が持つしかないのだと!つまり私たちは自分の人生を創造する力があるんだ‥‥ということを忘れないでいたいものです。ところが自分の人生を主役で生きる上での最大の障害は、A婦人のように、周りが自分をみじめにするという私たちの信念です。

 たとえ他者がどんなにあなたのことをけなしたりおとしめようと、本当は全く関係ないのです。自分が自分のことをどう思っているかだけで、実は私たちの人生は起動するのです。恐れるものは周りには何もないのです。ただひとつ恐いのは、私たちの自分に与える評価だけです。つまり無意識に自分に与えているネガティブな信念だけが問題なのです。

この世界では肯定的なことも否定的なことも、
あなたが真実と信じているとおりに体験するのです
~賢者のことば~

*次回のコラムは5月20日前後の予定です。

2015年3月21日土曜日

情けない自分で生きることを自分に許してあげましょう

Column 2015 No.22

情けない自分で生きることを自分に許してあげましょう
町田宗鳳

ウオルト・デイズニーのミュージカルアニメ「アナと雪の女王」が空前の大ヒットブームを巻き起こしました。興味深いのは小さな子どもから大人までこのアニメの魅力に引き込まれたといいます。美容院のスタッフの人が言っていました「ひとり雪山に逃げ込んだエルサが、“ありのままに…”を絶唱する場面に来ると、母親と一緒に来ている子どもたちがどの子も食い入るように画面を見つめるんですよ!」と。

 「…ありのままの姿を見せるのよ! ありのままの自分になるの!これでいいの。自分を好きになって…。これでいいの…」子どもたちがこのあたりの歌詞をしっかり覚えて誇らしそうに唄っているのを耳にすると、分かって歌っているのかも…と不思議な気持ちになります。

 「ありのままの自分で生きたい!」という願望は、確かに今の時代多くの人の心に燃えはじめているような気がします。しかし

 ありのままにってな~に?
 ありのままに生きるってどんなに生きること?
 どうしたらありのままになれるの?

 解るようで解らない、この“ありのままに…”というイメージを求めて、私自身もどれだけ試行錯誤を重ねてきたことでしょう…。周りの人たちにも「あなたがありのままでいれるってどんなとき?」などと質問を続けたこともあります。こんな答えが来ました。

 やりたいことに夢中になっているとき
 他人(ひと)は人、自分は自分と思えてるとき
 おしゃれなども決めて今日の自分は完璧だと思えるとき(笑)…等々

 答えは様々ですが、どの人の答えも一理あってとても興味深いものでした。しかし例えひとときはそう思えたとしても永続性はなく、そう思えない日はやっぱり自分のままでは駄目なんだと、自信のない自分に舞い戻ってしまう…と多くの人は語っていました。しかし本気でそれを念じている人は、かなり手に入っているとも話していました。

 そんなとき町田氏の「情けない自分のままで生きることを自分に許して…」というフレーズは妙に私の心にしっくりと届いたのでした。実は仏教を熱心に求道していた私の祖父が煩悩即菩提という仏教用語を私に示してその意味を語ってくれていたこととすっと繋がったからです。「…人の心はなかなか度(ど)し難いもんだ。しかし仏さんは罪悪深重の凡夫の我々をそのまんま許して下さっている。仏さんを胸に抱いて生きていさへすれば、煩悩を抱えた凡夫のまんまで平安な世界へと導いて下さるんだ。それが煩悩即菩提という意味なんだよ…」と語ってくれていました。まさに他力本願を旨とする浄土真宗ならではの祖父の法話でした。

 祖父が言っていたことをそのままに受け取れば、神さまは煩悩を抱えた私たちをそのまま許して下さっているというのに、私たちは何故、かくも厳しく自分を罰したり深い罪悪感でがんじがらめにしてしまうのでしょうか。 町田氏の言うように、もうそろそろ“情けない自分のままで生きる”ことを自分に許してあげてもいいのではないでしょうか。私たちはもう充分に苦しんできました…。充分に自分を正す努力もしてきました…。

 親業では自分にも他者にも価値判断を一切加えないで次のように事実だけを見ていこうと勧めています(コラムNo7参照

 私はこんなときこういうふうに怒ってしまうんだなあ
 私はこんな場面で疎外感を感じてしまうんだなあ
 私はこんなとき自分以上に自分を見せたがるんだなあ
 私はこんなとき簡単に自信を失ってしまうんだなあ……のように

 決して自分を苛めたりその感情と闘ったりしないで、自分の行動を真っ直ぐに見ていく訓練を重ねていくうちに、自分の思いの癖や想いの傾向にどんどん気づいていきます。そのうち私の中に、情けない自分への愛おしさのような感情も湧いてくるのでした。不安におののく自分、罪悪感に苦しむ自分…を“いい・悪い”の判断をしないでそのまま見つめていく。

 愛せない自分をそのまんま丸ごと愛してあげる! 今、私は自分の中のすべてを“赦してそして赦して”生きていきたいと思っています。そして町田氏のいう“情けない自分のままで生きる”ことを心から受け入れてあげたいと思っています。

困難や自分の欠点と四つに組んで闘わなくても、
ただ気づいているだけでそこを通り抜けられる
~井辻朱美~

その通りだと思います! ネガテイブな感情とどんなに戦っても克服は出来ません。そのまま事実を見て、感じて(気づいて)愛をもって果敢に手放していく! 感情は私たちが生んだ子どもです。幼い子供と同じで、愛し受容してあげたら、安心して感情の方からすっと離れていきます。

 情けない自分そのままで生きていくんだ!という気合いだけでも多分難しいでしょう。一瞬一瞬、自分の感情にきちんと気づいて、情けない自分をその都度その都度許していく。その絶え間ない自分自身への無条件の赦しの愛が、いま私たちにとても重要なのではないでしょうか。また私たち一人ひとりの自分への赦しと心の平安こそが今、人類の平和への偉大な貢献へと繋がるのではないかと…。

 「アナと雪の女王」に戻りますが、王家の姉妹エルサとアナ。姉のエルサは自分の“禁断の力”をどのように制御したらよいかわからず、はからずも王国を凍り付いた冬にしてしまう。追い込まれた姉エルサを想い、危険を冒しながらもその解決に向かって共に歩もうとした妹アナの無条件の愛と勇気には心揺さぶられるものがありましたた。

 そしてクライマックスは姉のエルサを守ろうとして氷になってしまった妹アナを、エルサが心からの深い悲しみと心からの愛で包んだとき、アナを覆っていた氷は徐々に解け始めた。傍で見つめていた雪だるまのオラフが「…真実の愛が氷を溶かしたんだあ!…」とつぶやくと「そう!愛よ!」と、そこでエルサは「愛」こそが自分が持つ“禁断の力”を支配できる源だったのだと初めて気づくのでした。自分の中の真実の愛に目覚めた女王エルサは、自分が持つその“禁断の力”を愛の力でみごとに支配できるようになったのです。そしてその神秘的な力を活かし、国民を平安に導いていったというストーリーです。

 私たちも、もしかして「情けない自分自身への無条件の赦しの愛」を心に抱いて生きればそれが、私達の固く凍り付いた心の扉を溶かし、やがてその扉の奥にある、真実の自分、マズローの言う高次の自分に出逢える日が、必ず訪れてくるのではないか…アニメを観ながらしみじみと思ったことでした。「自分への無条件の赦しの愛」こそがその答えではないかと…。


*次回のコラムは4月20日前後の予定です。

2015年2月21日土曜日

あなたの心が喜ぶことをする ~これは人生のキーワードです~

Column 2015 No.21

私は生きていくことを楽しむ。それ以外は何の目的ももたない
~モンテーニュ~

講座でも講演でも私は「あなたの心が喜ぶことをやりましょう。それは人生のすべての答えです」と極論めいたことをよく伝えています。その投げかけに対して“家族や職場の人間関係が山ほどあるのに、楽しむ暇は無いし楽しんでいいのでしょうか”と返ってくることがあります。多くは楽しんでいないか、楽しむことに罪悪感を持っている人たちです。

 以前の自分がそうだったから、その方たちの気持ちはとてもよく理解できます。しかし何はともあれ、私自身が自分の不完全性を認識し受け入れながら、自分の心が喜ぶことを本気で選択して生きてみて、実は沢山のことを学び解ってきたことがあります。

 本当にやりたいことをやって人生を楽しんでいる人たちは、たいてい上機嫌で、余分な雑念がなくシンプルで、ストレスも極端に少なく、家族に起きわく問題も人間関係に起こる問題も、心を病的に悩ませることは決して無く、まっすぐに対処します。そして自分のできる範囲で(他者の領域は決して侵さず)効果的な解決へと真摯に向かいます。

 なぜなら生きることを楽しんでいる人たちは、精神的にもエネルギーがあり、ものの見方考え方に幅があり、人生に悲観的ではないので“何とかなる!”の精神で、ものごとに前向きに対処できるからです。しかも自分を楽しませることができる人だから、他者に対してもとても懐(ふところ)が深いのです。他者の痛みも我がことのように共感でき共有できます。

 先日夜、受講者のMさんから電話があり色々な報告があったあとMさんが言いました。「私はいま独学で栄養学(の或る分野)を学んでいるんです。次々と専門書を買って学んでは自分の体で試してみたりしながら、もう楽しくて楽しくてたまらないんです!」…と。 私は咄嗟に「それはあなたの天職かもね!」と言ってしまいました。本当にそう思ったのです。

 本当にやりたいことが見えてくると、Mさんのように驚くべき集中力を見せてきます。その人にとってそれは理由なく楽しくて、時間が経つのも分からないくらい没頭してしまう…。 全身全霊でそれに打ち込んで学ぶので、徐々に専門性を身に付けていきます。周りから見ると壮絶な努力に見えますが、本人は努力しているというよりも、ただ無心に心が喜ぶことに没頭しているだけなのです。そしてやがて多くは、それを仕事として指導的立場に立っていく。そして周りを大きく照らしていく人になる。そんなプロセスをとっていく人々を私は沢山見てきました。

わくわくの感動があるから私は山に登るのです
~三浦 雄一郎~

失敗なんかしていない。一万回うまくいかない方法を見つけ出しただけだ
~エジソン~

彼らの過酷な登山も、夜を徹して打ち込む研究も、わくわくと、目指す目標にただ一心不乱に向かっている姿なのですね。

 自分の人生に於ける本当の仕事(使命)を見つけるためには、やはり日々、どんなに小さなことであってもあなたの心が動くこと、心が喜ぶことを選択をして、瞬間瞬間を実感して生きていくことからではないでしょうか。そしてそれは、心の底辺にあるあなたの本当の「欲求」(本当にやりたいこと)に辿り着くために、必要で重要な入口なのです。
そしてさらに


  • 自分にとって生きるということはどういうことなのか
  • 何のために生きるのか
  • 本当はどう生きたいのか
  • 自分はどういう形で人類に貢献したいのか(実はこれはマズローが唱える段階説のとても高いレベルですが)……等々、魂レベルで自分に問いかけていく真剣さがいるのです。


 先日、友人と自然の風景や食べ歩きを思い切り楽しみました。一緒したその友人からメールが届きました。「人生を楽しみながら社会に貢献できたら人間として最高の人生よね!」と。
 人生を楽しんでいる人は、平和な明るい波動で周りの人々を照らします。その人の存在、それだけで素晴らしい貢献です!

 また何であれ、自分の好きな分野をわくわくと全うしている人々は、それを自分の使命として認識し、一隅を照らしながら結果的に人類に大きく貢献していくでしょう! 地球がそんな幸せな人々で溢れてきたら、不毛な争いなど瞬時に収束に向かっていくはずです。幸せな人から発せられる愛の波動が、兄弟姉妹としての人類すべての人々に及んでいくからです。いつかのコラムでも取り上げた奥平亜美衣氏のフレーズが思い起こされます。

自分が幸せになるしか世界を変える方法はない!


*次回のコラムは3月20日前後の予定です。