2014年2月27日木曜日

すべての技(わざ) 学問そして思考・感情さえも すべて訓練のたまもの (その2)


Column 2014 No.4

前回のコラムでは感情や思考さえも訓練次第で変化し、その結果人生も変わり得るのだということを考えてみました。そこで今回は、五日市氏や斉藤氏の勧めるようなメッセージの意図が、すぐに手に入る人となかなか手に入りにくい人がいるのはなぜだろう・・・がテーマです。

例えば、斉藤氏の「ツイてる!ツイてる!と言っていれば必ずツイてきます」というフレーズを聞いての反応の仕方には、二つあります。
“うん!そうかもしれない!”と何の疑いもなくすぐにやってみるタイプの人と、“これまでの人生ツイたためしがない。そんなに簡単に手に入るわけはないだろう!しかしちょっとやってみるか”と疑いながらかかる人の二つのタイプです。

前者の人はある程度自己肯定感があり、自分の心に響く言葉を聞くと、何の反作用もなく受け入れ、行動をする(訓練する)ので、それはやがてその人の潜在意識レベルに届き、望むことを現実化していきます。
一方、後者の人は一般に自己肯定感が低く、潜在意識の中には多くの否定的な思考が重ねられています。例えば

幸せになれます・・・・・・「なれるはずはない。どうせ私は・・・・」
かならず手に入ります・・・・・・「そう簡単に手に入るはずがない」
有難う。感謝します・・・・・・「そらぞらしくて言えない」

といった具合です。このレベルにいる人は、ポジティブな思考に出会うと反射的に反作用がおこり、潜在意識からくる無意識層の馴れ親しんだネガティブな思考の方に多くは舞い戻ってしまうか、途中であきらめてしまうかのどちらかです。本人が訓練の土俵からおりてしまうので手に入りようがありません。

 よく挙げられるこんなたとえがあります。

 「泥水でいっぱいのコップがあります。
  しかしそこに清水を注ぎ続ければ、
  そのコップの水はやがて必ずきれいな清水に変わります」

もしも後者の人が汚水(ネガティブな思考 )でいっぱいの人であったとしても、決してあきらめないで、生きる上で自分が願う思考を、少しずつでも注ぎ続けていくならば、当分の間は“汚水と清水のせめぎ合い”はあるとしても、潜在意識を占領していた自己否定の思考はやがて降伏し、新しい思考に機嫌よく席を譲ってくれるでしょう。どんな思考もみんなあなたを愛している自分の一部だからです。

思考も訓練のたまものです。

「どうせ私は・・・・」の居直り姿勢は、私たちの人生に於いて大きな大きな損失です! 賢者は言っています「あなたの人生はあなたが創造者です。あなたは今も、自分が創造した世界に生きているのですよ」と。

一度しかないこの人生!
ほんとうに生きたい人生をお互いにデザインしていきましょうね。

*次回のコラムの更新は3月20日前後の予定です。

2014年2月7日金曜日

すべての技(わざ) 学問そして思考・感情さえも すべて訓練のたまもの

Column 2014 No.3

私が指導しているセミナーのひとつは「親業訓練講座」という講座名です。ずっと昔、私自身が生徒としてはじめてこの講座を受講したいと思ったとき、実はこの“訓練”という名称に少なからず抵抗を覚えた記憶があります。訓練!?何を叩き込まれるんだろう・・・みたいな一種の緊張を感じたものです。

ところが参加してみたら何も叩き込まれることはなかったし、一切強制されることもなかった・・・。ただ、知らず知らずに子どもの心を傷つけるコミュニケーションをとってきたこれまでの自分に気付き、臨床心理学に由来した新しいコミュニケーションの形を学習し、その方法を練習し実践し身に付けていく。何度も何度も練習をする・・・。ただそれだけで私をはじめ参加したお母さん(お父さん)方が少しずつ力量がついてきて、その結果、周りの人との関係、子どもとの関係が目を見張るように変わっていく。

それはまるで魔法のように思えたものです。“コミュニケーションの訓練”で人間関係が変わりうるのだという事実は、私にとってはとても衝撃的なことでした。だから今、親業のこの“訓練”というネーミングは私にはとてもとても大切に思えるのです。 

名刀づくり・名器づくり・銘酒作り等々…の達人。 野球・水泳・スケート・ゴルフ等々…の名プレイヤー。 私たちは表舞台での彼らの人智を超えた神わざとも思えるわざに、ただ酔いしれていますが、実はその裏では想像を絶するような地道な修錬(訓練)が重ねられていることは周知の通りです。決して屈しない精神力で、厳しい負荷をかけながらの並々ならぬ訓練が、実は神わざとも思えるような美しい作品、美しい演技、そしてプレイへと昇華しているわけです。“訓練”なくして身に付くものは恐らくこの世には何ひとつ無いでしょう。

ところが思考・感情さえも実は無意識の“訓練の結果”だと理解している人は案外少ないのではないでしょうか。たとえば怒りの感情をすぐに現わす人があります。その人の育ちの背景には実は多くの事情があり、子ども時代から親あるいは周りの人から(勿論色々な形はありますが)多く怒りの感情で接しられています。それは子どもにとって強力なモデリングとなって、怒るという感情の構えが徐々に強固になっていきます。無意識レベルの訓練だからです。その人にとって苦しかった痛み(トラウマ)はやがて大人になると、怒りの感情として周りに発散(昇華)する結果になり、それがまた訓練となって怒りに達するハードルはますます低くなっていきます。 これは逆に、自分にとって好ましい感情も、意識化し練習をすることで身につくという証明でもあります。

“思考”も訓練しだいで変化し、その結果人生も変わってくる
のだということを多くの知識人も唱え始めています。

ひとときブームとなった、五日市 剛さんはこんなことを言っています
「ありがとう!感謝します!という言葉を唱えているとあなたの運命は魔法のように変わってきます」・・・・と。

斉藤一人さんも同じことを言っています
「ツイてる!ツイてる!と言っていれば必ずツイてきます」・・・・と。

この人たちが言っていることは確かに手に入るものだと私も思います。ただすぐに手に入る人と、なかなか手に入らない人とがあるとは思います。

その違いは何なのでしょうか。メッセージが長くなりましたので
この続きは次回のコラムにゆずります。

次回のコラムの更新は2月下旬の予定です

2014年1月24日金曜日

過ちをおかさない人はありません。過ちは修正をもたらしてくれる贈り物です。 あなたには、過ちをおかしそれから学ぶ時間はたっぷりあります。 ~ポール・フェリーニ(牧師)~


Column 2014 No.2

このフレーズは私が今年の年賀状にしたためたものです。
“人は過ちから学べる・・・”“学ぶ時間はたっぷりある・・・”なんと大きく暖かいゆるしのメッセーでしょう。

 私は親業インストラクターになって30年近くを迎えます。しかしその出発は力量も、ひとりの人間としても、まさに未熟なままの出発でした。ボードに平気で間違った文字を書いたり、大切な言葉の言いまわしを間違えたり、高邁なことを言って自分以上に自分を見せようとしたり・・・数え上げれば未熟さには限りがありません。文字や言い回しの間違いは、受講生の方々がその都度まっすぐに私に指摘してくださったものです。

 私にとってはとても恥ずかしいことでした。しかし指摘されたミスは再び繰り返すことはなかったし、ミスに気づかないまま講演や講座を続けていたとしたらその方がずっと恥ずかしい結果になったことでしょう。失敗という修正のチャンスが私に訪れたこと、受講生の方々の率直なご指摘に今も心から感謝しています。

 でも一番見逃しやすいのは“自分にしか解らない過ち”です。ちょっと吐いた小さな嘘、微妙に他人さまを批判した瞬間・・・等々。仕方なかったのよ・・・。あの人が言ってること変だもの・・・と心の中で言い訳たらたら・・・・。本当は自分に向かわなければならない貴重な瞬間なのに微妙にすり抜けようとする。でも自分の感情はとても正直でやはり心地悪いし、自分で自分の評価を下げていきます・・・。しかし有難いことにやがて必ず対峙しないではおれない羽目にも陥ります。

 私はある時から、保身は出来ることならすべてやめて、本当の自分を知りたいと心から思うようになりました。そのためには恐れず“失敗を自分に許そう”と決意したのです。本当に成長したかったのです。しかし、結構それは勇気の要る決断でした。

 なぜなら失敗は、私の中の弱点が明るみに出ることであり、見たくない気付いていない自分の中の闇の部分に、対峙せざるを得ない結果にもなるからです。
 あるときは愛に欠け愛に悖る自分の言動に愕然としたり、自分の今いる位置の不確かさに戸惑ったり・・・でもその都度、決して逃げないでじっと自分の感情と対峙していきました。苦しいけれどその痛みから沢山のことを学んできたと思います。自分の思いの癖や思いの傾向にどんどん気づいていったのです。

 「過ちを改めざる即ちこれを過ちという」孔子の言葉です。

 過ちは決して恥ずかしいことではなく、軌道修正をしてくれるチャンスです!過ちに目をつむり、学ばないまま出来事の後悔ばかりをして、罪悪感という重い鎖を一生引きずって生きている人は案外多いのではないでしょうか。
 後悔は決して美徳ではありません。相手があるなら自分の心の中でその人に心から詫び、過ちの経験から学んだことに心から感謝して、そしてあとは自分を果敢に許し、果敢に手放すこと。学んだらその出来事はすっぱりと“お払い箱”です。

 “自分の中で自分を曝け出す勇気!”
 これからもまだまだ私の自己理解の旅は続きます。

(次回のコラムの更新は2月初旬の予定です)


2014年1月3日金曜日

感じることを意識化する


Column 2014 No.1

私たちは他人(ひと)さまを感じることには慣れてきました。
 「他人のことをもう少しは考えなさい」
 「そんなことをしたら他人さまに笑われますよ」
 「そんなことを言ったら嫌われますよ」
 このような環境の中で育ってきた私たちは、他人の目を気にする生き方、他人に合わせる生き方が大切なんだという価値観を無意識に受け入れてしまいました。

これまでカウンセリングを通して多くの方々にお会いしてきましたが、実はその多くの方々が、幼い頃からあまりにもまわりの感情や言動に合わせて生きてきた為に、自分が誰なのか、自分は何を大切に生きていきたいのか・・・が解らなくなり、自分の軸から大きく逸れてしまい、迷い子になってしまった姿でした。

恐れで他人さまを感じるのではなく「愛の心」で他人さまを感じ、思いやりを示すことは人間としてとても美しく大切なことです。しかしそのためには一切の判断をやめて“ありのままの自分を愛する”こと。ありのままの自分を愛するということは、自分の中のどんなネガテブな感情をも許して感じ切り、そこから学び、そして気付いていくということです。そうしない限り他人さまを愛の心で感じることはとても難しいのです。最近の研究結果でも自己受容と相手を受容する度合には密接な関係があることが証明されています。

お釈迦様は生誕してすぐに数歩歩かれ(真偽はともかくとして)天と地を指差し「天上天下唯我独尊」と唱えられたという逸話は有名です。“天にも地にも一人一人自分ほど尊く大切な存在はないのだよ”と言い切っておられるのです。 “自分を尊重し、愛し、大切にできる人だけが、他人さまを大切にできるのだよ。だから自分を大切に! 自分を愛せる分量でしか他人さまは愛せないんだよ・・・”ということを聖者と呼ばれたお釈迦様は生まれながらに(?)理解していらしたのでしょうか。

自分を愛し、自分を大切にする一番のステップが“自分を感じる”ことです。
 「今、私は傷ついたな」
 「今、私はちょっぴりあの人を羨ましいと思ったな」
 「今、私はすごく怒っている」
 親業では、感情に“いい・悪い”は無いと伝えています。感情は人間である証拠です。どんな感情をも受け入れて感じ切っていくことは癒しであり、自分を知ることであり、自分の軸から逸れない生き方であり、これこそが真の「自己受容」の姿だからです。

しかし、恐れで他人さまを感じることに慣れてしまっている私たちは“自分を感じる”ことは容易ではありません。当分は“ああ、また恐れで他人さまを感じているな”と気づき、おっと!と自分の軸に戻り、今の自分の“本当の感情に意識的に気付いていく訓練“が要るかもしれません。しかしこの訓練は大いにやってみる価値があります。

それは自分の軸が太くなっていく道であり、それが“真の自立”であり、「あなたの自己実現の完成」へと直結しているからです。