Column 2016 No.43
私たちは一人ひとりがみんな幸せにならなければなりません。幸せになることは人類一人ひとりの務めです。一人の人間として他人(ひと)の幸せが喜べないことも、人と人との争いも、国と国との奪い合いや、テロも戦争も、私は同じレベルだと思っています。それはすべて、人類一人ひとりの心の貧困から始まっていると思うのです。
幸せな母親が子どもを愛さないわけがありません。幸せな人が隣人を大切にしないわけがありません。幸せな国が他の国に戦いを仕掛けるわけがありません。先般テロが多発している地域を取材したドキュメントをTVで観ました。過酷な日々を送っている環境の中で、ひとりのご老人が「若者に仕事がないのです。だから武装勢力が有力な就職先なわけです。生活の保障のない毎日を送っている私たちの国の人々は、戦うしかないのです。空腹が満たされさえすれば、こんな無意味な争いはすぐに止むでしょう…」と。
本当にその通りだと思いました。人々は満たされない過酷な環境の中で、今日をどう生きていくか…根深い不安や恐れの感情と闘いながら、生きる手立てのために、国や人類のエゴから発した戦争やテロに、仕方なく巻き込まれている現状があるのだということです。テロの首謀者の生い立ちを見てもそこにはまさに過酷な生活環境であったことが伺えます。戦いやテロに巻き込まれた人々に、私たちができることは無力ですが、せめてその人たちのために祈り、決して無関心であってはいけないと思います。
軍備の拡大のために使われる莫大な予算や、兵器の生産のために使われる膨大な費用を、過酷な生活を強いられている國や人々に配分して、人々の“自立の援助”のために使っていけば問題はすぐに解消するはずです…これは子ども達にでも解っている世界平和への速やかな解決へのヒントです。私も子どもの目線と一緒で、心からそう思っています。しかし、確かに世の中のからくりは、そう単純なものではないことも私自身、重々認識はしています。人間のエゴの根深さに、哀しみと共に暗澹とした気持ちになってしまいます。
一人ひとりの心の位置がそれぞれの国のバイブレーションを創っていきます。つまり一人ひとりの心の位置がその国が向かう方向を創っていきます。だからこそまず私たち一人ひとりの心の位置が大切なのだと思うのです。一人ひとりが平和(幸せ)になれば家族が平和になり、隣人が平和になり…こうして国が安定し、世界の平和が成就する…私はいつもこういうイメージで世界平和の樹立を捉えています。次の諷刺文は出典不詳ですが、心に残っており以前からメモで取っていたものです。ある山伏が神様に願(がん)をかけたお話です。
40歳の誕生日に意を決して神様に願をかけました。「神さま仏さま、世界を平和にしてください」…しかし結果は何も変わらなかった。
50歳の時「神さま仏さま、親戚・知人を平和にしてください」…しかし結果は何も変わらなかった
60歳の時「神さま仏さま、家族を平和にしてください」…やはり結果は何も変わらなかった。
70歳のとき「神さま仏さま、せめて私を平和にしてください」…。すると神様がやっと雲の間から顔を覗かせて、「わかった!叶えてやろう」…と。
ジョークを含んだ含蓄ある諷刺文です。この一文は、世界の平和を創るのは神様の仕事ではなく人類一人ひとりの責任だということを現しています。そして自分
をなおざりにして、家族を地域を世界を平和に…と願っても、それは無理であるということをも示しています。そして自分を幸せにすることの大切さに気付いた人には、何はさておき援助していくぞ…という大いなる存在の反応に、諷刺文とは言え、私は“まさしく!”と共感したのでした(コラムNo13)
私たち一人ひとりの心の位置が、“世界の平和の原点になっている”…その厳粛さを認識している人はどれだけあるでしょうか。先日の親業講座の中で、受講者のSさんが「子どもの心を傷つけることなく育てていくためには、とにかく私自身が幸せになるしかないということが本気で分かりました!」…と。Sさんは自分自身の成長や、子どもの心を育てることに真摯に向かいあっておられる人だけに、その言葉には説得力があり真剣さが感じられました。自分を愛する力量でしか子どもを愛することはできない…ということをSさんは深い所で理解されていることが伝わってきました。人類の真の平和の原点は、Sさんの気づきの通りで、私たち一人ひとりのその心の位置が決めていく…私もそう信じているのです。
前回のコラムで「愛とは…」ということを取り上げてみました。私たちが幸せになる為には「親の無条件の愛が必要だった…」ということは解かりました。しかしいつまでも親の愛にしがみついているわけにはいきません。 自分でそれを本気で求め、その愛をまず自分にあげながら自分の人生を豊かにしていくことを決意するしか手立てはありません。
どんなに見苦しい自分であっても、自分の本当の気持ちから決して意識を逸らさず、それに気付いて、その見苦しい自分をただ赦して、みっともない自分のままで生きていくしかありません(コラムNo22・No39) 実はそれが“ありのままに”ということであり、“自分を愛している“…という姿だと私は理解しています。そしてありのままの自分を愛せる力量でしか、私たちはありのままの他者を受け入れ愛することはできないのではないか…と。
自分にバッシングすることをまず辞めたいものです。人生を真剣に生きている人ほど何故か自分に一番厳しいのです。傷ついている自分をさらに傷つけてしまうのです。過ちを犯したとしても、責めることは止めて本気で気付くだけでいいのだと思います。責めてしまっているなら、責めている自分に気付いて、そのまま責めている自分を丸ごと赦してあげることが、自分への本当の愛です。直そうと頑張らなくても、あとは自然がいい方向に必ず導いてくれる…私は心からそう信じて生きています。
そして他者の不必要な荷物は降ろしませんか。自分の荷物だけでも大変なのです。自分の荷物も時には降ろして、周りの風景を眺めたり、子どものように無邪気に遊んだり、変化を楽しみましょう。自分の心が喜ぶことを一日にひとつでもいいからやってみましょう(コラムNo21・No38)すると、生きている実感と喜びが少しずつ感じられてくるでしょう。そして幸せでいるこんな状態のときこそが一番、自分の心が愛に溢れているときだと解ります。そして、子どもや家族や友人に、心からの真心と愛をあげられるひとときだと解ります。
幸せな母親が子どもを愛さないわけがありません。幸せな人が隣人を大切にしないわけがありません。幸せな国が他の国に戦いを仕掛けるわけがありません。先般テロが多発している地域を取材したドキュメントをTVで観ました。過酷な日々を送っている環境の中で、ひとりのご老人が「若者に仕事がないのです。だから武装勢力が有力な就職先なわけです。生活の保障のない毎日を送っている私たちの国の人々は、戦うしかないのです。空腹が満たされさえすれば、こんな無意味な争いはすぐに止むでしょう…」と。
本当にその通りだと思いました。人々は満たされない過酷な環境の中で、今日をどう生きていくか…根深い不安や恐れの感情と闘いながら、生きる手立てのために、国や人類のエゴから発した戦争やテロに、仕方なく巻き込まれている現状があるのだということです。テロの首謀者の生い立ちを見てもそこにはまさに過酷な生活環境であったことが伺えます。戦いやテロに巻き込まれた人々に、私たちができることは無力ですが、せめてその人たちのために祈り、決して無関心であってはいけないと思います。
軍備の拡大のために使われる莫大な予算や、兵器の生産のために使われる膨大な費用を、過酷な生活を強いられている國や人々に配分して、人々の“自立の援助”のために使っていけば問題はすぐに解消するはずです…これは子ども達にでも解っている世界平和への速やかな解決へのヒントです。私も子どもの目線と一緒で、心からそう思っています。しかし、確かに世の中のからくりは、そう単純なものではないことも私自身、重々認識はしています。人間のエゴの根深さに、哀しみと共に暗澹とした気持ちになってしまいます。
一人ひとりの心の位置がそれぞれの国のバイブレーションを創っていきます。つまり一人ひとりの心の位置がその国が向かう方向を創っていきます。だからこそまず私たち一人ひとりの心の位置が大切なのだと思うのです。一人ひとりが平和(幸せ)になれば家族が平和になり、隣人が平和になり…こうして国が安定し、世界の平和が成就する…私はいつもこういうイメージで世界平和の樹立を捉えています。次の諷刺文は出典不詳ですが、心に残っており以前からメモで取っていたものです。ある山伏が神様に願(がん)をかけたお話です。
40歳の誕生日に意を決して神様に願をかけました。「神さま仏さま、世界を平和にしてください」…しかし結果は何も変わらなかった。
50歳の時「神さま仏さま、親戚・知人を平和にしてください」…しかし結果は何も変わらなかった
60歳の時「神さま仏さま、家族を平和にしてください」…やはり結果は何も変わらなかった。
70歳のとき「神さま仏さま、せめて私を平和にしてください」…。すると神様がやっと雲の間から顔を覗かせて、「わかった!叶えてやろう」…と。
ジョークを含んだ含蓄ある諷刺文です。この一文は、世界の平和を創るのは神様の仕事ではなく人類一人ひとりの責任だということを現しています。そして自分
をなおざりにして、家族を地域を世界を平和に…と願っても、それは無理であるということをも示しています。そして自分を幸せにすることの大切さに気付いた人には、何はさておき援助していくぞ…という大いなる存在の反応に、諷刺文とは言え、私は“まさしく!”と共感したのでした(コラムNo13)
私たち一人ひとりの心の位置が、“世界の平和の原点になっている”…その厳粛さを認識している人はどれだけあるでしょうか。先日の親業講座の中で、受講者のSさんが「子どもの心を傷つけることなく育てていくためには、とにかく私自身が幸せになるしかないということが本気で分かりました!」…と。Sさんは自分自身の成長や、子どもの心を育てることに真摯に向かいあっておられる人だけに、その言葉には説得力があり真剣さが感じられました。自分を愛する力量でしか子どもを愛することはできない…ということをSさんは深い所で理解されていることが伝わってきました。人類の真の平和の原点は、Sさんの気づきの通りで、私たち一人ひとりのその心の位置が決めていく…私もそう信じているのです。
前回のコラムで「愛とは…」ということを取り上げてみました。私たちが幸せになる為には「親の無条件の愛が必要だった…」ということは解かりました。しかしいつまでも親の愛にしがみついているわけにはいきません。 自分でそれを本気で求め、その愛をまず自分にあげながら自分の人生を豊かにしていくことを決意するしか手立てはありません。
どんなに見苦しい自分であっても、自分の本当の気持ちから決して意識を逸らさず、それに気付いて、その見苦しい自分をただ赦して、みっともない自分のままで生きていくしかありません(コラムNo22・No39) 実はそれが“ありのままに”ということであり、“自分を愛している“…という姿だと私は理解しています。そしてありのままの自分を愛せる力量でしか、私たちはありのままの他者を受け入れ愛することはできないのではないか…と。
自分の汚れている部分を、受け入れ愛することを、
まず学ばなければなりません。私たちの永遠に続く旅路を、
これから一度も間違いを犯さず、一点の曇りもなく続けていく
ことができるなんて本気で考えている人がいるのでしょうか
まず学ばなければなりません。私たちの永遠に続く旅路を、
これから一度も間違いを犯さず、一点の曇りもなく続けていく
ことができるなんて本気で考えている人がいるのでしょうか
タデウス・ゴラス
そして他者の不必要な荷物は降ろしませんか。自分の荷物だけでも大変なのです。自分の荷物も時には降ろして、周りの風景を眺めたり、子どものように無邪気に遊んだり、変化を楽しみましょう。自分の心が喜ぶことを一日にひとつでもいいからやってみましょう(コラムNo21・No38)すると、生きている実感と喜びが少しずつ感じられてくるでしょう。そして幸せでいるこんな状態のときこそが一番、自分の心が愛に溢れているときだと解ります。そして、子どもや家族や友人に、心からの真心と愛をあげられるひとときだと解ります。
自ら輝いてこそ 周りを照らすことができる
横田 南嶺
この世の事情のいかんを問わず、ただ無条件に幸福であれ!
今、この場で幸福に行動し、幸福に感じ、毎瞬幸福に!
ダン・ミルマン
自分が幸せになる=聖人になる と思っていた時期がありました。
返信削除私の思う聖人はどんな人も受け入れる、話を聞く、マイナスの感情は持たない というものでした。
この人間らしくない人間を目指していた時期はすごくモヤモヤしていて全くスッキリしていませんでした。
幸せになることは聖人になることではないと気づいてからスッキリしてきました。が、気づいてからも気をつけていないとこの感覚はたびたび私を襲って来ていました。
今は自分のことがもっともっと大好きになれますようにと願をかけているところです。
MOONさま
削除いつも有難うございます。
「自分のことをもっともっと大好きになれますように!」と願を掛けていらっしゃるんですね (笑) そのような願いは神様は大好きだから、必ず聞き入れてくださると思いますよ!
ところで MOONさんは 幸せになる=聖人になる…ことだと思っていらしたんですねえ。だったら幸せになることは凄く難しい! 人間ってそんなに上等には生きられない存在です。私をはじめ無力でみっともない存在です。 でも未熟さそのまんまが受け入れられ愛せるようになったら とてもホットで幸せだと思いませんか! 今のMOONさんは既に気づいていらっしゃいます。
聖人を目指したら自分の無力さが許せない。いつも不安ですよね。自分の未熟さを真に受け入れているからこそ、我が子や他者の未熟さが愛おしく 愛することが出来るのではないでしょうか。そして自分の気持ちにいつも気づいていて、心が喜ぶことや心が向かうことを正直にやっていくうちに 自然に欲求が満たされていき それにつれて 自分と他者への愛もどんどん深まっていきます。そしてやがて必ず自己実現へと向かうのです。自己実現を果たしたのちは おそらく聖人でしょう。自己受容と他者受容が完璧なバランスを持った状態です。
お互いに自分の「今いる位置」から出発するしかありません。またそれが自分を愛している状態ですから。長くなってしまいました…。
冒頭を読みながら ふと 浮かんできました
返信削除自分が幸せな分だけ他人を幸せにできる
私たちは誰かが喜ぶ笑顔を見ると嬉しくなったり、
悲しむ顔を見ると心配になったり、それによって自分の心の位置が
変わったり、周りの空気を読むような時代に育ってきました。
だから 誰かが喜んでくれるようなことをすると自分は幸せ。と思い
ボランティアをしてみたり、人が喜ぶような事をしてそれが自分の幸せだと
思う事は多々あると思います。
だけれども、本当の幸せはどこにあるのでしょうか。
親の無条件の愛がなかったら幸せになれないのでしょうか。
本当に親の無条件の愛は無かったのでしょうか。
どんな親でも一人の子供であり、一人の人間です。
どんな見苦しい自分であっても、
その全てを知っているのは自分しかいないのですよね。
どんな価値観で自分をバッシングして、親をバッシングするのでしょうか。
その価値観はどこからきたのでしょうか。
なぜそこにこだわりをもってバッシングし続けてしまうのでしょうか。
その不要な荷物を下ろしたときに
生きている実感と幸せでいるその一瞬が感じられる様な気がします。
瞬間 瞬間 背負ってはまた下ろし、
何度もやってるうちに軽くなるのかなと。
幸せになりたい 幸せになりたい と他人様を笑顔にするために
様々な物を背負い込むよりは 自分を笑顔にするために
荷(こだわり)を下ろす。
そして自分も他人も同じ位置で感じられることが
自分も他人も幸せでいられるという事なのかなぁと感じました。
今年も沢山 自分を愛して 同じだけ他人を愛せたかなと思います。
また 来年もっと自分を愛して 他人も愛することが出来ますように。
あきこさま
削除返信が遅れました。
あきこさんの冒頭に「自分が幸せな分だけ他人を幸せにできる」とありましたが、ちょっとしたニュアンスの違いだと思いますが、どんなに自分が幸せになっても "相手を幸せに出来る" とは限りません。幸せを選ぶかどうかは相手の領域だからです。しかし 自分が自分を愛し許せるようになった分だけは 相手を愛し赦せるようになれる…ということは言えると思います。
そして他者の悲しむ姿が心配だったり、他者の幸せな笑顔によって 自分の気持が幸せに思える…ということは 自分を愛している人であれば当然起こりうることでしょう。ただ自分の中の無意識層にある罪悪感や 優越感のレベルでボランティアをしている人も無いわけではありません。しかしただ他人に喜んでもらう為に ボランティアをしている人があったとしても 可笑しいとは決して思いません。
しかし心からの愛で 生涯 他の人のために働いた人は確かにいます。他の人の幸せが自分の幸せと同じ様に思える人です。マザーテレサはまさにそういう人でした。彼女こそは自己実現を果たした聖人のレベルの人だったと思います。自分を愛するレベルを完全に満たした人でもあります。彼女の残しているメッセージに「誰も私から幸福を奪うことはできません。後悔したり不幸だと思ったことは一度もありません」彼女は大変な状況の中で無償で働き それでも自分は幸せだと言い切れるほど自分を愛した人だったのです。
私たち一人ひとりはテレサのレベルに行ける可能性はあるはずです。しかし自分の未熟性を受け入れ 愛し、今いる位置から出発するしかありません。あきこさんの一文に「不要な荷物を降ろした時に 生きている実感と幸せでいるその一瞬が感じられる…」とありました。そう!その瞬間をお互いに大切にしましょう。幸せになることに後ろめたさは微塵も要らないのです。それこそが世界平和の原点なのですから!
「また来年 もっと自分を愛して 他人も愛することができますように」というあきこさんのメッセージに 私も心を同じくしています。
あけましておめでとうございます。
返信削除年賀状で初めて知ったこのコラム。
素敵な年明けになりました。
ぼちぼちとさかのぼって読ませていただきます。
かさかさになってしまいそうな心にあったかくしみこんでくれそうです。
コラムを通じて繋がっている安心も嬉しいですね。
匿名さま
削除明けましておめでとうございます。
コラムに気付いてくださって有難うございます。コラムがお役に立てるように心を込めて書いていきたいと思います。有難うございました。