2014年5月20日火曜日

期待しないであきらめないで

Column 2014 No.8

期待しないであきらめないで
- 日 木 流 奈 -

 今日は日木流奈君のことを書いてみたいと思います。幼い頃から成熟した知恵者であった彼を“流奈(るな)君”とたやすく呼ぶのは少し戸惑いはあるのですが(笑)・・・・。

 流奈君は極少未熟児で産まれ、生後2週間で三度もの大手術を受けるほどの障害を持って生まれました。手術や薬物投与の結果、脳萎縮という後遺症が残り、それ以後も何度もの危機がありましたが、入退院を繰り返しながらも命をつなぎ、現在彼は24~25歳の青年です。彼の両親は障害を持って産まれた流奈君をそのままに受け入れ、ひとときも彼について諦めなかったといいます。脳萎縮という後遺症が残った彼が、これから生きていくために、“親として何が出来るか”だけを考えたのです。

 そして流奈君が2歳のときグレン・ドーマン博士のドーマン法に出会い、そのプログラムを開始します。彼は重度の障害を持っていますので、手足は勿論自力では動けず、言葉も口頭では全く伝えることは出来ません。しかしドーマン法の運動プログラムや知的プログラムを通して彼の無限の能力が大きく開花していきます。勿論母親の介助は要りますが、文字盤を指すことで、流奈君は、水を得た魚のように自分の気持ちや意志を溢れるように伝え始めたのです! それは人の心を揺さぶるような愛と智慧に溢れた深いメッセージでした。

 彼は言っています。「・・・・医学の進歩により、私の脳の回路がある日突然繋がって、歩けたりしゃべれたりするかもしれません。私はまだ諦めてはいないのです・・・・」と。 決して諦めないという精神はご両親から流奈君にも引き継がれていったようです。

 一方、私たちは自分に対してもわが子に対しても、目標への期待はとても高くて、少しでもそれから逸れてしまうと、簡単に諦めモードに入ってしまいやすいということはないでしょうか。

 親業の勉強に来られたお母さん方が時々こんなことを言われます。「私は子育てに失敗しました」と。お母さんがそれを子どもがいるところで言ったら「おれって失敗作なわけ?!」と切り返してきたそうです。“失敗”だなんて、子どもからしたらとてもショックな発言ですよね・・・・。 

 子どもの人生はまだまだこれからなのに、もう決め付けているのですか…と尋ねましたが、実は諦めていないからこの講座を選択されて来られているんですよね。そこから、これまでの思いの姿勢を正して、学習した新しいコミュニケーションをとっていくことで、ご自分を取り戻され、子どもとの関係も取り戻して、親子双方が自立への道を歩み始められるのです。

“人生、諦めさえしなければ何とかなる!”
これは私の持論でもあります。

今年のソチオリンピックでホットな話題になりましたが、フィギュアスケートの浅田真央さんが前半のショートの競技では予想もしないハプニングで、まさかの16位という成績でしたが、彼女は最後まで決して諦めず、メダルは惜しくも逃しましたが、続くフリーの競技での彼女の美しく優雅で伸びやかな演技は世界の人々にいまもなお深い感動として記憶に残っています。“諦めない!”とても美しい響きですねえ。

 流奈君はこんなことを言っています。
 「・・・・不安や恐れは思いと反対の結果を生み出します。希望を持ち、大丈夫、大丈夫といい続けましょう。自分の出来ること、やるべきことをしさえすれば必ず未来は開けます。諦めないでください・・・・」と。

 流奈君の著書を一冊だけご紹介しておきます
 「自分を完全肯定できますか」(講談社)


*次回のコラムは6月10日前後の予定です

2014年4月30日水曜日

起き湧くものごとをまっすぐに見る

Column 2014 No.7

 もし私たちが周りに起きわいてくる事象を、一切の価値判断を加えず、そのまま事実だけを見、受け取り、そのことだけに対処できたとしたら、人生はどんなにシンプルで軽やかになることでしょう。

 わが子にこんな表現をしてこなかったでしょうか。「ぐずぐずして!本当にぐずなんだから」「あなたは何てだらしないの!」・・・。子どもを思えばこその表現かもしれませんが、これは親のフィルターを通した価値判断であって、事実の行動ではないので、子どもを戸惑わせ、思い込ませ、傷つけてしまいます。

 事実の表現をすると、
「登校時間が迫っているよ。遊びながら食べていると・・・」が事実の行動であって“ぐずねえ!”は事実の行動ではありません。このように子どもの行動を見つめるときの親の感情にバイヤスがかかると、なぜか“だらしないんだから!”という事実ではない表現になってしまいやすいのです。ところがそのバイヤスを外してみると、必ずひとつの事実の行動が見えてきます。
「ほら、シャツがズボンから出てるよ」
「ご飯粒が口からこぼれているよ」
 このように事実だけを伝えると子どもは理解しやすく、行動を変えるきっかけとなります。

 親業では講座の第一日目に、子どもの行動を一切の価値判断・レッテルを貼らずに、事実の行動を見ていく訓練をします。価値判断で私たちは子どもを無意識に傷つけてきましたし、私たち自身も幼い頃から“頭が悪い子ねえ”“冷たい子ねえ”“器量が悪い子・・・”“気が利かない子・・・”等々。周りからの事実ではない価値判断の表現でどんなに傷つき自信を失ってきたことでしょう。

 そして困ったことに価値判断で育った私たちは、無意識ですが、ついわが子にも同じように価値判断を下して、子どもの自尊心・自己価値感を壊してきました。しかし“事実だけを見ていく”ことは、よほど意識化し、訓練していかないと身につかないものでもあります。それほどに習い性になってしまっているんですね。その面では、私もまだまだ修行中です。
随分昔のことですが心に残っている私の体験があります。

 バスに乗り込んできた二人の若者が、見るからに問題ありそうに見えました(これは大いに私の価値判断)。デンと座席を陣取って(これも私の価値判断)、憮然としています(これも価値判断)。そんな折、近くに座っていらした80前後に見えるご婦人が「ありゃあ、両替せんにゃあいけんのじゃあ。やれやれ・・・」とひとりごと。するとすかさず、例の若者の一人が、「おばあさん、替えてきてあげようか?」と言うのです! 私は瞬間“わあ!大丈夫かしら?”と(凄く失礼な価値判断)その青年を疑ってしまっているのです。その若者は婦人から1000円受け取ると両替器に向かい、両替を済ませると、自分の手の中で金額を確かめて「はい!」と老婦人に渡したのです。しかも“やってあげた”の表情は微塵もなく、まさに自然体!そのものでした。

 私はその時、自分の中の価値判断の根深さに愕然としました。そして心の中でその若者に懺悔しましたよ。心から・・・。その出来ごと以来、みんなみんな素敵な存在なんだなあ・・・。私のなかの混乱が、無意識に若者に価値判断を下し傷つけ、その結果による若者の混乱が、国や社会の混乱につながり、それがまた国家間の対立に及んでいく・・・。

起こっていることはすべて“中立”です

 ある賢者のこの言葉には深い智慧を感じます。必然性をもってただ起こっている事象に対して“正しい・間違っている”“いい・悪い”と色付けをし、しかも異なる価値観が受け入れられず、相手に攻撃を仕掛けていく・・・。これが今、世界のあちこちに起こっている悲しい現実です。

起きわくものごとをまっすぐに見る

何はともあれ、私の心の中で起きわいてくる感情や気持ちに価値判断を加えず、まっすぐに見て、感じて気付いて、そして許して。まず私からそのように生きていこう・・・・。


*次回のコラムは5月20日前後の予定です

2014年4月11日金曜日

面白きことのなき世を面白く (その2)

Column 2014 No.6

面白きことのなき世を面白く
- 高 杉 晋 作 -

 仏門を敬虔に求道していた今は亡き祖父は、こんなことを言っていました。
「人間はなあ。修行のために生まれてきとるんでえ。人間に生まれたら“生(しょう)老(ろう)病死(びょうし)”の苦しみからは誰一人逃れられんのじゃ。生まれくる苦しみ、生きる苦しみ、老いていく苦しみ、病む苦しみそして必ずくる死の苦しみ。しかしこの苦しみがあるけえのお、人間は上っ調子にならず、悩み苦しみながら自分の生き方を反省したり、気付いたり、そうやって魂は成長していくんよのお・・・・」みたいなことを孫の私に時々言って聴かせていました。

 そのころの私には祖父の言っていることがよく解りませんでした。
“そんな苦しみがあるなんていやだなあ。恐いなあ”程度の理解でした。しかし“生(しょう)老(ろう)病死(びょうし)”という言葉は妙に脳裏に焼きついていました。

 そして年齢を重ね、自分の体験も重ねていくに従って、“なるほど!生きるということは“生老病死”に縁のない人は一人もいないんだなあ・・・。生きるということはまさに修行なのかもしれない。人間て何といとおしい存在なんだろう・・・”と祖父の言っていたことが身にしみ腑に落ちる年齢になりました。

 そして思うのです。だからこそ高杉晋作のいう「面白きことのなき世を面白く」生きていくことの大切さがあるのではないかと。すべきことだけをして人生しかめ面をして“生老病死”に翻弄されながら一生を生きていくのか。あるいは小さな晴れ間を大切に、心が喜ぶことを本気でやり、笑い、喜び、楽しんで、緊張したエネルギーを発散し、生きるエネルギーを蓄えながら“生老病死”をも受け入れて、心強く生きていくのか!

 私は後者の生き方を選びたいと思いました(*前回コラム)。それまでの私は心が喜んでいないから慢性的に不機嫌で、子どもに対しても些細なことで腹を立て、すべきことを要求したり神経質に勉強させたり躾けたり・・・。子どもは本当に苦しかったことでしょう。しかしこれこそが親の愛だと確信していたわけですから始末が悪い・・・。

 しかし私自身が心が喜ぶことを選択し、自分の世界を築いていくに従って、これまで確信していたそれは本当の愛ではなかった、申し訳ないことだったと心から気付いたのでした。

 こうして私自身の心の縛りがほどけてくるに従って、なんと!時を得たように長男が不良(*差別言葉であればお許しください)の仲間と付き合いを始め、タバコは吸う、ヘアスタイルはツンツン、勉強とは全く無縁の人となりました。成績は目も当てられない状態。しかし私の心は全く騒がない。“これでよし!これでよし!”と不思議なくらい心の底から思えるのでした。

 親に嵌められた足かせを思い切って外さなければならない“善き時”をただ迎えただけなのです。この子はここを通らなければ次のステップには決して向えないことを私は確信していましたし、彼の無意識層もそれをわかっていたのだと思います。荒れた生活になったわが子を、不動心で見つめ守れたことは、真面目で不機嫌だった以前の自分からは想像できないことでした。ちなみに長男は拍子抜けするほどに素敵な紳士に今は変身しています(笑)。このホームページを立ち上げてくれたのも実は彼です。

 コラムのNo.1で書きましたお釈迦様の“自分ほど尊く大切な存在はない・・・” まず自分を愛せよ・・・この言葉の深い意味を、まだ入り口ではありますが体験した感じがしました。

 “世の中が良くなれば、みんな幸せになる!”その信念で、自分の出来ることで真摯に社会へ貢献している人々が沢山あります。まさに尊敬に値する方々であり、頭がさがります。

 一方、世の中がいかなる状態であろうとも心揺るがさず、一人一人が自分の存在に責任を持ち、生きたい人生を創造し、それを心から楽しみ、自身の心の平和を保っている。そんな愛に満ちた人から“発信される信念・情報”は、自ずからまわりに人々を引き寄せて感化し、その場は光の場と化すことでしょう。

 そう! 一隅を照らせるそんな人々の“光の場”が、あちこちに増えていくに従って、やがて地球世界は一瞬にして進化を遂げる日がくる!
 そう思えてならないのです


 もと外科医師であった帯津良一氏は、現役時代「死を恐れない人はどんな人ですか・・」の質問に次のように答えています。

“自分の人生において、やりたいと思ったことをほぼやったという実感を持っている人の多くは、死を恐れず静かに穏やかに移行されますね・・・“


*次回のコラムは4月30日前後の予定です

2014年3月20日木曜日

面白きことのなき世を面白く (その1)

Column 2014 No.5

面白きことのなき世を面白く
- 高 杉 晋 作 -

 幕末の志士、高杉晋作のこの呟きには何か膝を打つ感じがありました。
 幕末から時代も大きく経過し、文明文化も目覚しく進化した現代ですが、果たして面白い世の中になっているのでしょうか。

 国際情勢、政治情勢、経済の行方・・・等々。真剣に見つめ感じるほどに、どの側面を見ても喜びどころか、底知れぬ不安や焦りの心情が多くの人々の心を占めてしまいます。そして人の心もすさび病んできています。欝、心身症、暴力、いじめ、自殺願望、薬物依存・・・等々。

 心配な状況を挙げれば枚挙にいとまがありません。
 このような不確かな世の中にあって、自分を見失わず、凛として生きていくためにいったい私たちは、何が出来るのでしょうか。

 世界情勢の混乱も、不安定な政治・経済情勢も、実は私たち一人一人の責任回避の結果でもあります。人の心を侵す病も、我々が無関心の結果作り上げてしまった病的な社会環境・自然環境、そして我々一人一人の病んだ心の反映でもあると思うのです。もうその責任からは逃れられない大切な時期に来ていると思います。

 しかし一方、その不安な流れにただ同調したり、心を痛めるばかりでは状況の改善は決して望めないでしょう。こんな世の中にあって「・・・だからこそ面白く生きていこう」という高杉晋作の提案はとても興味深く、意味があることに私には思えたのです。

 待っていても世界は面白い生き方を見せてはくれないでしょうし、また人に依存しても永続的な幸せは決して与えてはくれないでしょう。としたら自分の喜びは自分で見つけ、創っていく以外にないのではないでしょうか。

幸福だから笑うのではない
笑うから幸福なのだ

アランという人の名言です。幸せは自分で創っていくものだということを教えてくれているような気がします。あなたの心が笑えるようなことをやってみませんか・・・と。

 実はこの考え方を親業ではとても大切にしています。
 「すべきことよりやりたいことを!」これは人間関係講座のキャッチフレーズのひとつでもあります。一度しかない貴重な人生、あなたの心が本当に喜ぶことをやってみませんかという問いかけです。

 私の子どもがまだ小・中の学齢期にあったころでした。私はこの問いかけを大切にしてみようと心に決めました。夫や子どもを送り出したあと、まず自分に尋ねたものです。「今何がしたい?」と。午後友人に会えるなどの楽しみがある日は「お掃除に洗濯ね!」“すべきこと”もわくわく出来るんですよね。

 ところが多くは「う~ん!コーヒーが飲みたいな」「本が読みたい!」「眠りたい」心も体も疲れている時代には、多く“思い切り眠りたい”が私から来る答えでした(笑) そこで“すべきこと”は後回しにして、改めて布団を敷きなおし数時間眠ったものです。主婦が朝っぱらから昼寝なんて・・・と当分は罪悪感との共歩きでした。でもやりたいことを正直に果敢にやってみたのです。自分だけのために楽しんだ経験があまりなかった私は、こんな辺りからの出発だったのです。

 無性に海が見たい日があって、身支度をして一人で海を見に行ったことも何度かあります。メリーゴーランドに乗りたいと思い始めたので、あちこちの遊園地を求めて飛び歩いたひと時もあります。新幹線に乗って行ったこともありますよ。大きな大人が何で? 笑えますよね!

 でも、人が何を言おうと笑おうと、自分にしか解らない心が喜ぶことを優先順位の一番においてみたのです。 敢えて、意識的に!

 すると子ども時代に遣り残したことや、満たしてこなかった欲求が見え隠れしました。会いたい人に会ってみる。食べたいものを食べてみる。行きたいところにいってみる・・・私の心はどんどん満たされていきました。
 “今を生きている”実感があり、わくわくしました。

 “面白きことのなき世“もまんざらではなく思えてきました。そして自分の心の中に大きな変化が訪れたのです。

夢中で書いていたらこんなに長いコラムになってしまいました。
続きは次回のコラムに譲ります。


*次回のコラムは4月10日前後の予定です

2014年2月27日木曜日

すべての技(わざ) 学問そして思考・感情さえも すべて訓練のたまもの (その2)


Column 2014 No.4

前回のコラムでは感情や思考さえも訓練次第で変化し、その結果人生も変わり得るのだということを考えてみました。そこで今回は、五日市氏や斉藤氏の勧めるようなメッセージの意図が、すぐに手に入る人となかなか手に入りにくい人がいるのはなぜだろう・・・がテーマです。

例えば、斉藤氏の「ツイてる!ツイてる!と言っていれば必ずツイてきます」というフレーズを聞いての反応の仕方には、二つあります。
“うん!そうかもしれない!”と何の疑いもなくすぐにやってみるタイプの人と、“これまでの人生ツイたためしがない。そんなに簡単に手に入るわけはないだろう!しかしちょっとやってみるか”と疑いながらかかる人の二つのタイプです。

前者の人はある程度自己肯定感があり、自分の心に響く言葉を聞くと、何の反作用もなく受け入れ、行動をする(訓練する)ので、それはやがてその人の潜在意識レベルに届き、望むことを現実化していきます。
一方、後者の人は一般に自己肯定感が低く、潜在意識の中には多くの否定的な思考が重ねられています。例えば

幸せになれます・・・・・・「なれるはずはない。どうせ私は・・・・」
かならず手に入ります・・・・・・「そう簡単に手に入るはずがない」
有難う。感謝します・・・・・・「そらぞらしくて言えない」

といった具合です。このレベルにいる人は、ポジティブな思考に出会うと反射的に反作用がおこり、潜在意識からくる無意識層の馴れ親しんだネガティブな思考の方に多くは舞い戻ってしまうか、途中であきらめてしまうかのどちらかです。本人が訓練の土俵からおりてしまうので手に入りようがありません。

 よく挙げられるこんなたとえがあります。

 「泥水でいっぱいのコップがあります。
  しかしそこに清水を注ぎ続ければ、
  そのコップの水はやがて必ずきれいな清水に変わります」

もしも後者の人が汚水(ネガティブな思考 )でいっぱいの人であったとしても、決してあきらめないで、生きる上で自分が願う思考を、少しずつでも注ぎ続けていくならば、当分の間は“汚水と清水のせめぎ合い”はあるとしても、潜在意識を占領していた自己否定の思考はやがて降伏し、新しい思考に機嫌よく席を譲ってくれるでしょう。どんな思考もみんなあなたを愛している自分の一部だからです。

思考も訓練のたまものです。

「どうせ私は・・・・」の居直り姿勢は、私たちの人生に於いて大きな大きな損失です! 賢者は言っています「あなたの人生はあなたが創造者です。あなたは今も、自分が創造した世界に生きているのですよ」と。

一度しかないこの人生!
ほんとうに生きたい人生をお互いにデザインしていきましょうね。

*次回のコラムの更新は3月20日前後の予定です。

2014年2月7日金曜日

すべての技(わざ) 学問そして思考・感情さえも すべて訓練のたまもの

Column 2014 No.3

私が指導しているセミナーのひとつは「親業訓練講座」という講座名です。ずっと昔、私自身が生徒としてはじめてこの講座を受講したいと思ったとき、実はこの“訓練”という名称に少なからず抵抗を覚えた記憶があります。訓練!?何を叩き込まれるんだろう・・・みたいな一種の緊張を感じたものです。

ところが参加してみたら何も叩き込まれることはなかったし、一切強制されることもなかった・・・。ただ、知らず知らずに子どもの心を傷つけるコミュニケーションをとってきたこれまでの自分に気付き、臨床心理学に由来した新しいコミュニケーションの形を学習し、その方法を練習し実践し身に付けていく。何度も何度も練習をする・・・。ただそれだけで私をはじめ参加したお母さん(お父さん)方が少しずつ力量がついてきて、その結果、周りの人との関係、子どもとの関係が目を見張るように変わっていく。

それはまるで魔法のように思えたものです。“コミュニケーションの訓練”で人間関係が変わりうるのだという事実は、私にとってはとても衝撃的なことでした。だから今、親業のこの“訓練”というネーミングは私にはとてもとても大切に思えるのです。 

名刀づくり・名器づくり・銘酒作り等々…の達人。 野球・水泳・スケート・ゴルフ等々…の名プレイヤー。 私たちは表舞台での彼らの人智を超えた神わざとも思えるわざに、ただ酔いしれていますが、実はその裏では想像を絶するような地道な修錬(訓練)が重ねられていることは周知の通りです。決して屈しない精神力で、厳しい負荷をかけながらの並々ならぬ訓練が、実は神わざとも思えるような美しい作品、美しい演技、そしてプレイへと昇華しているわけです。“訓練”なくして身に付くものは恐らくこの世には何ひとつ無いでしょう。

ところが思考・感情さえも実は無意識の“訓練の結果”だと理解している人は案外少ないのではないでしょうか。たとえば怒りの感情をすぐに現わす人があります。その人の育ちの背景には実は多くの事情があり、子ども時代から親あるいは周りの人から(勿論色々な形はありますが)多く怒りの感情で接しられています。それは子どもにとって強力なモデリングとなって、怒るという感情の構えが徐々に強固になっていきます。無意識レベルの訓練だからです。その人にとって苦しかった痛み(トラウマ)はやがて大人になると、怒りの感情として周りに発散(昇華)する結果になり、それがまた訓練となって怒りに達するハードルはますます低くなっていきます。 これは逆に、自分にとって好ましい感情も、意識化し練習をすることで身につくという証明でもあります。

“思考”も訓練しだいで変化し、その結果人生も変わってくる
のだということを多くの知識人も唱え始めています。

ひとときブームとなった、五日市 剛さんはこんなことを言っています
「ありがとう!感謝します!という言葉を唱えているとあなたの運命は魔法のように変わってきます」・・・・と。

斉藤一人さんも同じことを言っています
「ツイてる!ツイてる!と言っていれば必ずツイてきます」・・・・と。

この人たちが言っていることは確かに手に入るものだと私も思います。ただすぐに手に入る人と、なかなか手に入らない人とがあるとは思います。

その違いは何なのでしょうか。メッセージが長くなりましたので
この続きは次回のコラムにゆずります。

次回のコラムの更新は2月下旬の予定です

2014年1月24日金曜日

過ちをおかさない人はありません。過ちは修正をもたらしてくれる贈り物です。 あなたには、過ちをおかしそれから学ぶ時間はたっぷりあります。 ~ポール・フェリーニ(牧師)~


Column 2014 No.2

このフレーズは私が今年の年賀状にしたためたものです。
“人は過ちから学べる・・・”“学ぶ時間はたっぷりある・・・”なんと大きく暖かいゆるしのメッセーでしょう。

 私は親業インストラクターになって30年近くを迎えます。しかしその出発は力量も、ひとりの人間としても、まさに未熟なままの出発でした。ボードに平気で間違った文字を書いたり、大切な言葉の言いまわしを間違えたり、高邁なことを言って自分以上に自分を見せようとしたり・・・数え上げれば未熟さには限りがありません。文字や言い回しの間違いは、受講生の方々がその都度まっすぐに私に指摘してくださったものです。

 私にとってはとても恥ずかしいことでした。しかし指摘されたミスは再び繰り返すことはなかったし、ミスに気づかないまま講演や講座を続けていたとしたらその方がずっと恥ずかしい結果になったことでしょう。失敗という修正のチャンスが私に訪れたこと、受講生の方々の率直なご指摘に今も心から感謝しています。

 でも一番見逃しやすいのは“自分にしか解らない過ち”です。ちょっと吐いた小さな嘘、微妙に他人さまを批判した瞬間・・・等々。仕方なかったのよ・・・。あの人が言ってること変だもの・・・と心の中で言い訳たらたら・・・・。本当は自分に向かわなければならない貴重な瞬間なのに微妙にすり抜けようとする。でも自分の感情はとても正直でやはり心地悪いし、自分で自分の評価を下げていきます・・・。しかし有難いことにやがて必ず対峙しないではおれない羽目にも陥ります。

 私はある時から、保身は出来ることならすべてやめて、本当の自分を知りたいと心から思うようになりました。そのためには恐れず“失敗を自分に許そう”と決意したのです。本当に成長したかったのです。しかし、結構それは勇気の要る決断でした。

 なぜなら失敗は、私の中の弱点が明るみに出ることであり、見たくない気付いていない自分の中の闇の部分に、対峙せざるを得ない結果にもなるからです。
 あるときは愛に欠け愛に悖る自分の言動に愕然としたり、自分の今いる位置の不確かさに戸惑ったり・・・でもその都度、決して逃げないでじっと自分の感情と対峙していきました。苦しいけれどその痛みから沢山のことを学んできたと思います。自分の思いの癖や思いの傾向にどんどん気づいていったのです。

 「過ちを改めざる即ちこれを過ちという」孔子の言葉です。

 過ちは決して恥ずかしいことではなく、軌道修正をしてくれるチャンスです!過ちに目をつむり、学ばないまま出来事の後悔ばかりをして、罪悪感という重い鎖を一生引きずって生きている人は案外多いのではないでしょうか。
 後悔は決して美徳ではありません。相手があるなら自分の心の中でその人に心から詫び、過ちの経験から学んだことに心から感謝して、そしてあとは自分を果敢に許し、果敢に手放すこと。学んだらその出来事はすっぱりと“お払い箱”です。

 “自分の中で自分を曝け出す勇気!”
 これからもまだまだ私の自己理解の旅は続きます。

(次回のコラムの更新は2月初旬の予定です)