2014年7月29日火曜日

コミュニケーションの基本「表現力」と「共感力」(その2)  ~“表現力”を身につけて実感のある人生を!~

Column 2014 No.11

 前回は、表現力(発信)と共感力(受信)の“双方コミュニケーション”を使っての「対話力」の大切さを書きました。自己表現と傾聴(共感)についてもう少し詳しく知りたいと言う声がありましたので、これから2回にわたって今回は「自己表現」次回は「傾聴(共感)」について親業が大切にしている心を、さわりだけになるとは思いますがお伝えします。

 日本人は自己表現が苦手な国民だとよく言われます。「和をもって尊しと為す」という精神を大切にしてきた日本の風土には、自己表現はあまり重要視されない歴史があったからでしょうか。

 しかし相手の気持ちを大切にすることは勿論、自分の気持ちをも大切にできたとき、これこそが「和の精神」であると私自身は理解しています。

 日本の子どもたちが海外でホームステイをしたときの様子を耳にしたことがあります。例えばステイ先の友達から「君、何の曲が聴きたいかい?」と聞かれると咄嗟に「何でもいいよ」と答える子が多いと聞きました。食卓に並べてあるドレッシングの中から自分の好きなものが「これが好きです」と選べない子も多いようです。しかしこれは決して子どものせいではなく私たち親が、子どもに考えさせ選択させる機会を奪ってきたことが原因でしょう。

 親業では「自分を感じてください」と絶えず投げかけます。いつも自分の本当の気持ちに気付いていないと、自己表現はとても難しいのです。自己表現できる子どもに育てようとするなら、その子が体験し、感じるチャンスを奪ってはならないし、その子が選択するチャンスをできるだけ沢山与えなくてはならないでしょう。

 自分の気持ちが掴めると、はじめて
 「私は今こう考えています」「私は今とても嬉しいです」「私は困っています」というふうに自分の気持ちを内外一致で表現できるのです。すると相手にあなたの気持ちがまっすぐに伝わるので、本当のあなたのことが解ってもらえるのです。そして自分を語るから、何しろあなた自身が生きている実感がつかめるのです。

 自分の気持ちを掴めない人はどうしても人称が第三者になりやすい。「うちの主人がこう申しています」「Aさんはこんな考えを持っているみたい」このように他の人称で話す人は、多く人間関係のトラブルを引き起こし、孤立する結果になりやすいのです。自分以外の人の気持ちは決して代弁してはならないのです。できるのは自分の内面を内外一致で表現することだけです。

 自分の本当の気持ちに気付いて、それを表現してみてください。自己表現ですから、人称はいつも「わたしは」です。誰でも生きることに息詰まってしまうと、多くは苦悩や怒り、嫉妬などネガティブな感情に圧倒されてしまいます。しかしどんなにみっともないと思う感情であっても、感情は嘘偽りのない真実なのです。だから自分の一部分として抱きかかえてあげるだけの自分への愛、自分への優しさがとても大切なのです。弱さのまんまで、怒り狂ったまんまで正直に自分を語ってみましょう。

   「わたしは凄く傷付いています」
   「わたしはいま怒っています」
   「わたしはほんとうに弱い人間なんです」

カウンセリングに来ていたある青年が以前こんな気付きを話してくれました「・・・・弱さを見せたら、人は自分から立ち去るのではないかと思っていました。でも本当は弱さを出せば出すほど、人は近づいてくれるんだとわかりました・・・・」と。

 私たちは人と親密になりたいと思いながら、本当の自分を語らないために相手との壁が埋まらず、いつも寂しいのです。孤独なのです。何十年も夫婦をやりながら 今でも他人のままという方々を沢山見て来ました。

 でも受講生のTさんからはこんなお便りを頂きました。

 「・・・ある日わたし宛にこんな暑中見舞いの葉書が届きました。
 “暑い日が続きますがいかがお過ごしでしょうか。汗だくになりながらも頑張っておられる姿をいつもまじかに拝見し、陰ながら大変感謝しております。なかなか口に出しては言えないので書面にてお礼を言いたいと思います。前向きな人生と刺激をいつもありがとう!・・・”
 でも差出人の名前がありません。15分位悩みましたが、なんと夫の字だったのです。手作りの葉書に富士山の絵が描いてありました。感動で涙が溢れてしまいました。」

 ご主人の自己表現が、奥様にこんなに感動を与えたのです!

*次回のコラムは8月20日前後の予定です。

2014年7月9日水曜日

コミュニケーションの基本は、発信と受信。 それは「表現力」と「共感力」です

Column 2014 No.10

 親業では 自分と相手との間に心地よい人間関係を組んでいくための効果的なコミュニケーションとは何かを学び、練習をして身につけていきます。

 コミュニケーションの基本は 表現力つまり“自己表現”と、相手の話を共感をもって聞く“傾聴”の、「発信と受信」の双方向コミュニケーションです。それを図にしたものが下記のとおりです。
コミュニケーションは大変難しいと言われますが、事実はとてもシンプルなのです。表現力!と共感力!この二つの力を手に入れたら、あなたはコミュニケーションのベテランです。

 それは表現力(わたし大切)と共感力(相手大切)の双方向コミュニケーションであり、それぞれの個人の中でそれが心地よいバランスを持ったときに、双方に、はじめて平和な「対話」の場が生まれます。

 さて、わたし達に身近な国々、アラブ諸国とその周辺ではいくらか民主化が進んできたとはいえ、民族・宗教・領土・資源をめぐって今もなお絶えることのない紛争、小競り合いが続いています。いくら権力や武力で制圧をしても、人の心まで制することは決してできない。人としての尊厳性を無視して、真の解決には決して向かえないということでしょう。

 いま問われる急務は、どんなに時間はかかっても、人と人とが、政党と政党が、民族と民族が、国家と国家が「対話」によってどう歩み寄っていけるか!ではないでしょうか。もっとも対話ですべてが簡単に片づくとは決して思いませんし、並大抵ではありません。それにお互いの過去の過ちや痛みを、許しあえる日が来なければとても難しいでしょう。しかしそれさえも対話なくしては不可能でしょう。

 まず個人レベルから「対話」の力量を養っていくことは、いま私たちに出来る世界への貢献の大きな第一歩ではないでしょうか。もし我々人類一人一人が双方向コミュニケーションをベースにした「対話力」を子ども時代からある程度体得していたら、世界の混乱はもう少し早く治まっていたのではないかと・・・・。

 受講者の方の、ある事例をご紹介します。

 夫が今夜も呑みに出かけるという。今週はもう3回め!私はとても受け入れられない。それで夫に自分の気持ちを正直に表現してみました。 

「あなた、今日は3回めなの。年末になると生活費が嵩むし、私とても不安なの。」 ・・・・・・自己表現
「俺が呑みに行くというとお前はすぐ嫌みをいうね」
「あなたは私から嫌みを言われてるようで、気分悪いのね」・・・・・・共感
「そうだよ!」
「でもね。嫌みで言ったのではないのよ。新年を迎えるのにお金が足りなくなるのではないかと不安なのよ」・・・・・・・自己表現
「そうか、不安なのかあ」・・・・・・・共感
「そう!新しい年を気持ちよく迎えたいのよ」・・・・・・自己表現
「わかった!今夜はやめとくよ。連れが待っているわけではないしな」
「わあ、嬉しい!有難う!コーヒー入れるわね。」・・・・・・自己表現

気付き:
いつもお金のことを言うと、「うるさい!」「しっつこい!」という夫がはじめて「わかった!」と言ってくれたのには驚きました。自己表現って伝わるんですね。

 相手について価値判断したり責めることをしないで、自分の思いや痛みを正直に表現していく。そして相手の言い分(反発)に対しては、反発で返すのではなく、一度きちんとそのままを受け取って共感で返してみる。表現力と共感力がみごとに発揮され、穏やかな「対話」が成立しています。そしてお互いに納得の解決策にたどりついています。

言い過ぎもせず 言い残しもなく 自分の心を
きちんと表現できたら その日は幸せな一日
                 - サインズ -

*次回のコラムは7月30日前後の予定です。

2014年6月10日火曜日

今の瞬間を感じて生きる

Column 2014 No.9

過去に生きるのはよそう。今を生きよう。
食べているときには食べ、愛しているときには愛そう。
誰かとおしゃべりをしているときにはしゃべり、
花を見ているときには花を見よう。
そしてその瞬間の美しさをつかみとろう。
- レオ・バスカリア -

 今を生きることの美しさをみごとに表現していますね! 確かに過去はすでに去っていった人生。未来はいまだ来ぬ人生・・・・。そう考えると、まさに「今」だけが現実であり、躍動している命が感じられる瞬間です。そしてこの瞬間こそが輝きの瞬間であり、変容の鍵でもあるのか・・・と。

今だけに視点をすえて生きる

 しかし簡単なようで、なかなか簡単ではありませんよね。もう過去は手放したいと思っているのにジグジグと引きずったり、その上、まだ来てもいない未来を、まるで現実に起こっているかのように、不安と恐怖でしっかりとイメージして怯えて待っている。私たちは自分の人生の創造者ですから、無意識ですが、結果的にはイメージ通りの望まぬ人生を創造していくことになる・・・・。

 私はいま“この瞬間を生き切ることの実感”を得たいと本気で挑戦している者のひとりです。どうもこのあたりに、生きる意味の本当の答えがありそうだと! しかし、ネガテイブな感情を手放すところでちょっと手間取ったり、特に過去の思いの癖(習い性)を手放すことはなかなか容易ではありません。

 以前にも書きましたが、私の祖父は仏道を真摯に求道していた人でした。
彼は常住坐臥「南無阿弥陀仏・・・」とお念仏を唱えていました。あるとき私は、その理由を祖父に尋ねたのです。祖父の答えから私なりに理解したことは、お念仏を唱えることで、祖父は日常のさまざまな想念や捉われを解放していたのでは・・・と。

 つまりお念仏は祖父にとっての想念を放つためのひとつのツールのようなものだったのではないか…と。(祖父にとっては本当は感謝とかもっと深い意味があったと思いますが)“思考も訓練のたまものです”と以前のコラムにも書きましたが、確かに祖父は捉われのない人で、価値観にも幅があり、そして機嫌のいい人でした。

 前回のコラムから再び日木流奈君のメッセージを・・・・
 「・・・・不安や恐れは思いと反対の結果を生み出します。希望を持ち、大丈夫、大丈夫といい続けましょう・・・・」

 “大丈夫、大丈夫!”は流奈君お勧めの強力なツールです。
 きっとネガテイブな感情を手放すことには、それだけの意気込みが要るのですね。

 私は“有難うございます!”を多くツールにしています。“ツイている!ツイている!”でも“必ずよくなる!”でも自分に馴染むものならなんでもOK!だと思います。ツールに万全の思いを託して、ネガテイブな感情を本気で手放したつもりになる!“そのつもりになる”・・・がポイントです。

 ある脳学者の書いた本の中にこういう表現がありましたよ。
 「・・・・実は脳はだまされやすいのです」と。ネガテイブなものであろうとポジテイブなものであろうと、あなたが思考したとおりに、脳は判断しないで受けとり現実化していきます・・・・と。 こわいですねえ・・・。

 そのためにも自分が“生きたい人生を、持ちたい感情を脳に信じ込んでもらう”日まで(笑)思考の訓練を重ねて、バスカリアのいう“今の瞬間の美しさ”をつかみとれる自分になりたいものと心から切望しています。

 これからもきっと何度も訪れてくるであろうネガテイブな感情を、しっかりと感じ受けとめ、そしてツールの力を借りながら優しく、しかし毅然と手放していきたいと思っています。

きのうはヒストリー あしたはミステリー きょうはプレゼント
- 作者不詳 -

 まさに現実は今だけ! 今を生きる真の醍醐味に目覚めたいものです!         

*次回のコラムは7月10日前後の予定です。

2014年5月20日火曜日

期待しないであきらめないで

Column 2014 No.8

期待しないであきらめないで
- 日 木 流 奈 -

 今日は日木流奈君のことを書いてみたいと思います。幼い頃から成熟した知恵者であった彼を“流奈(るな)君”とたやすく呼ぶのは少し戸惑いはあるのですが(笑)・・・・。

 流奈君は極少未熟児で産まれ、生後2週間で三度もの大手術を受けるほどの障害を持って生まれました。手術や薬物投与の結果、脳萎縮という後遺症が残り、それ以後も何度もの危機がありましたが、入退院を繰り返しながらも命をつなぎ、現在彼は24~25歳の青年です。彼の両親は障害を持って産まれた流奈君をそのままに受け入れ、ひとときも彼について諦めなかったといいます。脳萎縮という後遺症が残った彼が、これから生きていくために、“親として何が出来るか”だけを考えたのです。

 そして流奈君が2歳のときグレン・ドーマン博士のドーマン法に出会い、そのプログラムを開始します。彼は重度の障害を持っていますので、手足は勿論自力では動けず、言葉も口頭では全く伝えることは出来ません。しかしドーマン法の運動プログラムや知的プログラムを通して彼の無限の能力が大きく開花していきます。勿論母親の介助は要りますが、文字盤を指すことで、流奈君は、水を得た魚のように自分の気持ちや意志を溢れるように伝え始めたのです! それは人の心を揺さぶるような愛と智慧に溢れた深いメッセージでした。

 彼は言っています。「・・・・医学の進歩により、私の脳の回路がある日突然繋がって、歩けたりしゃべれたりするかもしれません。私はまだ諦めてはいないのです・・・・」と。 決して諦めないという精神はご両親から流奈君にも引き継がれていったようです。

 一方、私たちは自分に対してもわが子に対しても、目標への期待はとても高くて、少しでもそれから逸れてしまうと、簡単に諦めモードに入ってしまいやすいということはないでしょうか。

 親業の勉強に来られたお母さん方が時々こんなことを言われます。「私は子育てに失敗しました」と。お母さんがそれを子どもがいるところで言ったら「おれって失敗作なわけ?!」と切り返してきたそうです。“失敗”だなんて、子どもからしたらとてもショックな発言ですよね・・・・。 

 子どもの人生はまだまだこれからなのに、もう決め付けているのですか…と尋ねましたが、実は諦めていないからこの講座を選択されて来られているんですよね。そこから、これまでの思いの姿勢を正して、学習した新しいコミュニケーションをとっていくことで、ご自分を取り戻され、子どもとの関係も取り戻して、親子双方が自立への道を歩み始められるのです。

“人生、諦めさえしなければ何とかなる!”
これは私の持論でもあります。

今年のソチオリンピックでホットな話題になりましたが、フィギュアスケートの浅田真央さんが前半のショートの競技では予想もしないハプニングで、まさかの16位という成績でしたが、彼女は最後まで決して諦めず、メダルは惜しくも逃しましたが、続くフリーの競技での彼女の美しく優雅で伸びやかな演技は世界の人々にいまもなお深い感動として記憶に残っています。“諦めない!”とても美しい響きですねえ。

 流奈君はこんなことを言っています。
 「・・・・不安や恐れは思いと反対の結果を生み出します。希望を持ち、大丈夫、大丈夫といい続けましょう。自分の出来ること、やるべきことをしさえすれば必ず未来は開けます。諦めないでください・・・・」と。

 流奈君の著書を一冊だけご紹介しておきます
 「自分を完全肯定できますか」(講談社)


*次回のコラムは6月10日前後の予定です

2014年4月30日水曜日

起き湧くものごとをまっすぐに見る

Column 2014 No.7

 もし私たちが周りに起きわいてくる事象を、一切の価値判断を加えず、そのまま事実だけを見、受け取り、そのことだけに対処できたとしたら、人生はどんなにシンプルで軽やかになることでしょう。

 わが子にこんな表現をしてこなかったでしょうか。「ぐずぐずして!本当にぐずなんだから」「あなたは何てだらしないの!」・・・。子どもを思えばこその表現かもしれませんが、これは親のフィルターを通した価値判断であって、事実の行動ではないので、子どもを戸惑わせ、思い込ませ、傷つけてしまいます。

 事実の表現をすると、
「登校時間が迫っているよ。遊びながら食べていると・・・」が事実の行動であって“ぐずねえ!”は事実の行動ではありません。このように子どもの行動を見つめるときの親の感情にバイヤスがかかると、なぜか“だらしないんだから!”という事実ではない表現になってしまいやすいのです。ところがそのバイヤスを外してみると、必ずひとつの事実の行動が見えてきます。
「ほら、シャツがズボンから出てるよ」
「ご飯粒が口からこぼれているよ」
 このように事実だけを伝えると子どもは理解しやすく、行動を変えるきっかけとなります。

 親業では講座の第一日目に、子どもの行動を一切の価値判断・レッテルを貼らずに、事実の行動を見ていく訓練をします。価値判断で私たちは子どもを無意識に傷つけてきましたし、私たち自身も幼い頃から“頭が悪い子ねえ”“冷たい子ねえ”“器量が悪い子・・・”“気が利かない子・・・”等々。周りからの事実ではない価値判断の表現でどんなに傷つき自信を失ってきたことでしょう。

 そして困ったことに価値判断で育った私たちは、無意識ですが、ついわが子にも同じように価値判断を下して、子どもの自尊心・自己価値感を壊してきました。しかし“事実だけを見ていく”ことは、よほど意識化し、訓練していかないと身につかないものでもあります。それほどに習い性になってしまっているんですね。その面では、私もまだまだ修行中です。
随分昔のことですが心に残っている私の体験があります。

 バスに乗り込んできた二人の若者が、見るからに問題ありそうに見えました(これは大いに私の価値判断)。デンと座席を陣取って(これも私の価値判断)、憮然としています(これも価値判断)。そんな折、近くに座っていらした80前後に見えるご婦人が「ありゃあ、両替せんにゃあいけんのじゃあ。やれやれ・・・」とひとりごと。するとすかさず、例の若者の一人が、「おばあさん、替えてきてあげようか?」と言うのです! 私は瞬間“わあ!大丈夫かしら?”と(凄く失礼な価値判断)その青年を疑ってしまっているのです。その若者は婦人から1000円受け取ると両替器に向かい、両替を済ませると、自分の手の中で金額を確かめて「はい!」と老婦人に渡したのです。しかも“やってあげた”の表情は微塵もなく、まさに自然体!そのものでした。

 私はその時、自分の中の価値判断の根深さに愕然としました。そして心の中でその若者に懺悔しましたよ。心から・・・。その出来ごと以来、みんなみんな素敵な存在なんだなあ・・・。私のなかの混乱が、無意識に若者に価値判断を下し傷つけ、その結果による若者の混乱が、国や社会の混乱につながり、それがまた国家間の対立に及んでいく・・・。

起こっていることはすべて“中立”です

 ある賢者のこの言葉には深い智慧を感じます。必然性をもってただ起こっている事象に対して“正しい・間違っている”“いい・悪い”と色付けをし、しかも異なる価値観が受け入れられず、相手に攻撃を仕掛けていく・・・。これが今、世界のあちこちに起こっている悲しい現実です。

起きわくものごとをまっすぐに見る

何はともあれ、私の心の中で起きわいてくる感情や気持ちに価値判断を加えず、まっすぐに見て、感じて気付いて、そして許して。まず私からそのように生きていこう・・・・。


*次回のコラムは5月20日前後の予定です

2014年4月11日金曜日

面白きことのなき世を面白く (その2)

Column 2014 No.6

面白きことのなき世を面白く
- 高 杉 晋 作 -

 仏門を敬虔に求道していた今は亡き祖父は、こんなことを言っていました。
「人間はなあ。修行のために生まれてきとるんでえ。人間に生まれたら“生(しょう)老(ろう)病死(びょうし)”の苦しみからは誰一人逃れられんのじゃ。生まれくる苦しみ、生きる苦しみ、老いていく苦しみ、病む苦しみそして必ずくる死の苦しみ。しかしこの苦しみがあるけえのお、人間は上っ調子にならず、悩み苦しみながら自分の生き方を反省したり、気付いたり、そうやって魂は成長していくんよのお・・・・」みたいなことを孫の私に時々言って聴かせていました。

 そのころの私には祖父の言っていることがよく解りませんでした。
“そんな苦しみがあるなんていやだなあ。恐いなあ”程度の理解でした。しかし“生(しょう)老(ろう)病死(びょうし)”という言葉は妙に脳裏に焼きついていました。

 そして年齢を重ね、自分の体験も重ねていくに従って、“なるほど!生きるということは“生老病死”に縁のない人は一人もいないんだなあ・・・。生きるということはまさに修行なのかもしれない。人間て何といとおしい存在なんだろう・・・”と祖父の言っていたことが身にしみ腑に落ちる年齢になりました。

 そして思うのです。だからこそ高杉晋作のいう「面白きことのなき世を面白く」生きていくことの大切さがあるのではないかと。すべきことだけをして人生しかめ面をして“生老病死”に翻弄されながら一生を生きていくのか。あるいは小さな晴れ間を大切に、心が喜ぶことを本気でやり、笑い、喜び、楽しんで、緊張したエネルギーを発散し、生きるエネルギーを蓄えながら“生老病死”をも受け入れて、心強く生きていくのか!

 私は後者の生き方を選びたいと思いました(*前回コラム)。それまでの私は心が喜んでいないから慢性的に不機嫌で、子どもに対しても些細なことで腹を立て、すべきことを要求したり神経質に勉強させたり躾けたり・・・。子どもは本当に苦しかったことでしょう。しかしこれこそが親の愛だと確信していたわけですから始末が悪い・・・。

 しかし私自身が心が喜ぶことを選択し、自分の世界を築いていくに従って、これまで確信していたそれは本当の愛ではなかった、申し訳ないことだったと心から気付いたのでした。

 こうして私自身の心の縛りがほどけてくるに従って、なんと!時を得たように長男が不良(*差別言葉であればお許しください)の仲間と付き合いを始め、タバコは吸う、ヘアスタイルはツンツン、勉強とは全く無縁の人となりました。成績は目も当てられない状態。しかし私の心は全く騒がない。“これでよし!これでよし!”と不思議なくらい心の底から思えるのでした。

 親に嵌められた足かせを思い切って外さなければならない“善き時”をただ迎えただけなのです。この子はここを通らなければ次のステップには決して向えないことを私は確信していましたし、彼の無意識層もそれをわかっていたのだと思います。荒れた生活になったわが子を、不動心で見つめ守れたことは、真面目で不機嫌だった以前の自分からは想像できないことでした。ちなみに長男は拍子抜けするほどに素敵な紳士に今は変身しています(笑)。このホームページを立ち上げてくれたのも実は彼です。

 コラムのNo.1で書きましたお釈迦様の“自分ほど尊く大切な存在はない・・・” まず自分を愛せよ・・・この言葉の深い意味を、まだ入り口ではありますが体験した感じがしました。

 “世の中が良くなれば、みんな幸せになる!”その信念で、自分の出来ることで真摯に社会へ貢献している人々が沢山あります。まさに尊敬に値する方々であり、頭がさがります。

 一方、世の中がいかなる状態であろうとも心揺るがさず、一人一人が自分の存在に責任を持ち、生きたい人生を創造し、それを心から楽しみ、自身の心の平和を保っている。そんな愛に満ちた人から“発信される信念・情報”は、自ずからまわりに人々を引き寄せて感化し、その場は光の場と化すことでしょう。

 そう! 一隅を照らせるそんな人々の“光の場”が、あちこちに増えていくに従って、やがて地球世界は一瞬にして進化を遂げる日がくる!
 そう思えてならないのです


 もと外科医師であった帯津良一氏は、現役時代「死を恐れない人はどんな人ですか・・」の質問に次のように答えています。

“自分の人生において、やりたいと思ったことをほぼやったという実感を持っている人の多くは、死を恐れず静かに穏やかに移行されますね・・・“


*次回のコラムは4月30日前後の予定です

2014年3月20日木曜日

面白きことのなき世を面白く (その1)

Column 2014 No.5

面白きことのなき世を面白く
- 高 杉 晋 作 -

 幕末の志士、高杉晋作のこの呟きには何か膝を打つ感じがありました。
 幕末から時代も大きく経過し、文明文化も目覚しく進化した現代ですが、果たして面白い世の中になっているのでしょうか。

 国際情勢、政治情勢、経済の行方・・・等々。真剣に見つめ感じるほどに、どの側面を見ても喜びどころか、底知れぬ不安や焦りの心情が多くの人々の心を占めてしまいます。そして人の心もすさび病んできています。欝、心身症、暴力、いじめ、自殺願望、薬物依存・・・等々。

 心配な状況を挙げれば枚挙にいとまがありません。
 このような不確かな世の中にあって、自分を見失わず、凛として生きていくためにいったい私たちは、何が出来るのでしょうか。

 世界情勢の混乱も、不安定な政治・経済情勢も、実は私たち一人一人の責任回避の結果でもあります。人の心を侵す病も、我々が無関心の結果作り上げてしまった病的な社会環境・自然環境、そして我々一人一人の病んだ心の反映でもあると思うのです。もうその責任からは逃れられない大切な時期に来ていると思います。

 しかし一方、その不安な流れにただ同調したり、心を痛めるばかりでは状況の改善は決して望めないでしょう。こんな世の中にあって「・・・だからこそ面白く生きていこう」という高杉晋作の提案はとても興味深く、意味があることに私には思えたのです。

 待っていても世界は面白い生き方を見せてはくれないでしょうし、また人に依存しても永続的な幸せは決して与えてはくれないでしょう。としたら自分の喜びは自分で見つけ、創っていく以外にないのではないでしょうか。

幸福だから笑うのではない
笑うから幸福なのだ

アランという人の名言です。幸せは自分で創っていくものだということを教えてくれているような気がします。あなたの心が笑えるようなことをやってみませんか・・・と。

 実はこの考え方を親業ではとても大切にしています。
 「すべきことよりやりたいことを!」これは人間関係講座のキャッチフレーズのひとつでもあります。一度しかない貴重な人生、あなたの心が本当に喜ぶことをやってみませんかという問いかけです。

 私の子どもがまだ小・中の学齢期にあったころでした。私はこの問いかけを大切にしてみようと心に決めました。夫や子どもを送り出したあと、まず自分に尋ねたものです。「今何がしたい?」と。午後友人に会えるなどの楽しみがある日は「お掃除に洗濯ね!」“すべきこと”もわくわく出来るんですよね。

 ところが多くは「う~ん!コーヒーが飲みたいな」「本が読みたい!」「眠りたい」心も体も疲れている時代には、多く“思い切り眠りたい”が私から来る答えでした(笑) そこで“すべきこと”は後回しにして、改めて布団を敷きなおし数時間眠ったものです。主婦が朝っぱらから昼寝なんて・・・と当分は罪悪感との共歩きでした。でもやりたいことを正直に果敢にやってみたのです。自分だけのために楽しんだ経験があまりなかった私は、こんな辺りからの出発だったのです。

 無性に海が見たい日があって、身支度をして一人で海を見に行ったことも何度かあります。メリーゴーランドに乗りたいと思い始めたので、あちこちの遊園地を求めて飛び歩いたひと時もあります。新幹線に乗って行ったこともありますよ。大きな大人が何で? 笑えますよね!

 でも、人が何を言おうと笑おうと、自分にしか解らない心が喜ぶことを優先順位の一番においてみたのです。 敢えて、意識的に!

 すると子ども時代に遣り残したことや、満たしてこなかった欲求が見え隠れしました。会いたい人に会ってみる。食べたいものを食べてみる。行きたいところにいってみる・・・私の心はどんどん満たされていきました。
 “今を生きている”実感があり、わくわくしました。

 “面白きことのなき世“もまんざらではなく思えてきました。そして自分の心の中に大きな変化が訪れたのです。

夢中で書いていたらこんなに長いコラムになってしまいました。
続きは次回のコラムに譲ります。


*次回のコラムは4月10日前後の予定です