2018年9月20日木曜日

自分への限りない思いやりこそが愛の人になれる鍵です

Column 2018 No.64

 ある動物園の園長さんのお話です。
「…不幸にも母親猿にかまってもらえなかった子猿が母親になったら、自分の子どもにもやはり愛情を示さないんですね…。甘えてくる子猿に危害を加えることもあります。一方、母親に愛されて育った子猿が母親になったら、餌を獲得できるようになるまで、殆ど子どもを手放さずに抱いたりおぶったりし続けます…」

 このお話は、私たち人間の子育てにとっても、大切な示唆があります。次はずっと以前、新聞の投稿欄に掲載されていた一文です。
「…35歳の主婦です。2歳と3歳の子どもがいます。実は私は子どもがちっとも可愛いと思えないのです…。 最近は我が子の泣き声を聞くだけでイライラして、つい手を出してしまいます。すぐに後悔するのですが、またすぐにカッとなって手が出ます。私には母性が欠けているのでしょうか…」

 あるお母さんは泣きながら私にこうおっしゃいました。
「…子どもが苦しんでいるのを見ると、今ここで助けてやらなければ…と分かってはいるのだけれど心が動かないんです。“私だって苦しんできたのよ!あんたはまだましですよ…”と、心のどこかで冷ややかに眺めている自分が居るんです…」

 本当はどのお母さんも愛深いお母さんになりたいと思っているのです。子どもを怒るまい叩くまい…と思っているのに、カッとなると機械的にスイッチが入って、子どもを罵倒したり暴力を振るったり、嫌味を言ったり無視したりしてしまうわけです。どうしようもない自分に心の中ではおいおい泣きながらついやってしまうのです…。

 そんなお母さん方によく伝えます。「…お母さん、あなたが悪いわけではないんですよ‥。あなたが親御さんから愛を学んでこれなかっただけで、仕方ないんですよ…」と。するとご自分の生い立ちを涙ながらに語られます。いかに親に無視され侮辱されてきたかを…。そして“…でもこのままでは子どもは大変なことになる!やめなければ!…と、私どこかでずっと思ってるんです。でもつい…。どうしたらいいのでしょうか…” このように自分を責め、絶望的になっているお母さんは意外にたくさんいらっしゃるのです。

 続いて私はお母さん方に伝えます。「…子どもは見捨てなければ育ちます。怒ったり叩いたりするのはまだ子どもを見捨てていない証拠です。でも怒らない・叩かないが一番いいですよね。しかしこれは一度には、なかなか直すことは出来ないものなんです。多くは体に染みついていますからね。だからついやってしまう自分をどうぞ許してあげてください。やっていい…と言っているわけではありません。やってしまう自分に気付いて、そして許してあげるのです。今は仕方ないんだ…と。自分を責めまくって、いっとき反省しても、なかなかいい方向には向かわないんです。許してあげる方が不思議ですが、徐々に辞められる方向にいきますからね…」

 こういうと、多くのお母さんは号泣されながら「…なんか楽になりました…。難しいけど、そんな自分を責めないでいいんですね…」と、“何だかよくわからないけど…できそう…”という表情をされます。

誰かを愛すること、それは私たちに課せられた最も困難な試練です

 オーストリアの詩人リルケが知人に宛てた手紙の一文に書いています。特に愛を学ばないまま大人を迎えてしまった人にとっては、“愛を学ぶ”ことは、最も難しく、リルケの言葉を借りれば“試練”だと思います。人は長年培ってきたものを簡単に変えることは難しいということです。しかし愛する能力も訓練(練習)で身につくものなのです。日々の自分の思いの傾向に気づき、赦し、そして今できることをひとつやっていく。その日々のひとつの積み重ねが大切なのです。

 やりすぎたな…と思ったらまず心からお詫びを言いましょう。子どもがいけなかったのではないことを…。罪悪感を払拭してあげることはとても大切です(コラムNo61)。一度には子どもの気持ちは晴れないでも、お母さんのことを大好きですから許してくれます。失敗してしまったりやり過ぎてしまった時、居直ったり挫折しないで、気付いたらすぐに気持ちを立て直す…これも大切な訓練です。

 機嫌のいいお母さんになることが子育てには一番大切です。親から愛を受けとれなかったお母さんはとても不機嫌です。なぜなら親に気を遣って生きてきたから、言いたいことを言わず、やりたいことをやってきていないので、幼い心が怒っているのです。

 “子どもを愛してあげられる私になろう…”それはとても大切な目標ですが、とりあえずは、遠くの目標はひとまず置いて、“今、どうしてあげたら私の心が喜ぶんだろう…” “私は今、ほんとうは何がしたいんだろう…”と、感じてみて下さい。今の自分の心を満たしてあげることが、何はともあれ一番に大切です。親からやってもらえなかったことを少しずつ、いま自分にやってあげるのです。

 幼い頃の自分が心の中で声を潜めて泣いているのを感じてあげてください。あなたは子どもの頃、お母さんに言えなかったことは何ですか。お母さんに何をしてほしかったのですか。お母さんと何をして遊びたかったのですか。本当にやりたかったことは何ですか。本当に欲しかったものは何ですか。それを自分に、いま与えてあげてください。周りの人が何と言おうと笑おうと、自分にやってあげてください。そのうち幼かった頃のあなたが少しずつ笑顔を見せ始めますよ…。これが真の癒しです。不思議ですが、気持ちが癒されてくると、いつのまにか他者に、そして我が子に、ずっと優しくなっている自分を感じるはずです。

 リルケは“愛を学ぶことは試練だ”…と言いましたが、実は、自分への限りない優しさ・思いやりこそが、愛の人になれる鍵(キーポイント)だとしたら、愛を学ぶことは、試練というよりは、‶真の癒し“であり、“自分育て”であり、決して苦しい作業ではありません。それを積み重ねていくことがまた、あなたの自己実現に向かう確かな道でもあります。コラムNo39コラムNo43にも“赦し”や“自分を愛すること”についてのテーマに触れています。

*次回のコラムは10月20日前後の予定です。

 2018年の講座予定を公開中です☆

2018年8月20日月曜日

苦手な人の前でもあなたらしく

Column 2018 No.63

 久々に会った友人のEさんが、「この頃、私ねぇわがままになっちゃったんだと思うの…。相手が自分のことばかりしゃべったり、私の興味がない分野のことを長々と話されると、すごく疲れるのね。以前はそれでも話を合わせられていたんだけど、この頃、何だかうんざりするのね…そう!苦手に感じる人が増えてきた気がするの…。これってわがままよね…歳のせいもあるのかしら」…と呟いていました。

 確かに、一方的に自分の話ばかりする人や、自慢話ばかりする人、不機嫌な人、そして他人の情報ばかりを話す人…の多くは、一般的には、相手に苦手意識を持たせてしまうようです。だから彼女の不安は当たり前と言えるかもしれません。

 私たちは、一人ひとり感情を持っている人間です。だから、誰とでも気が合って、誰とも争わないで生きていくことは不可能です。逆に「私は誰とでもうまくやっていますよ…」という人があるとしたら、自分の気持ちに気づいていないか、自分の本当の気持ちを無意識に誤魔化しているのかもしれません。

 だから誰とでも笑顔で付き合える人が社交上手で、苦手な人とは付き合えませんという人を社交下手と決めつけることは誰も出来ません。こんな経験はありませんか。ちょっと無理して苦手な人と付き合って帰った日など、ぐったり疲れたり、何となく不機嫌になったりしたこと…。 私たちは、相手が苦手な人であればあるほど、本当の自分からずれてしまって、無理に笑顔を作ったり、心にもないお世辞を言ったりして、その場を取り繕ろおうとして頑張ってしまうんですね。

 苦手意識に捉われて罪悪感を持ったり、自分を不自由にすることは辞めたいものです。“苦手な人だわ…”という今の自分の感じ方を大切にしていいのではないでしょうか。しかし“固定観念”はもたないことが大切です。何故なら、好きな人!…と、今、あなたが感じている人を、明日は苦手になるかもしれないし、逆に今、とても苦手な人が、先ではとても付き合いやすい人になるかもしれないのです。人の気持や感情は、自分を含め常に動いていて、変化・成長していくものだからです。

 社会に生きている私たちは、いつも気が合う人ばかりと居るわけにはいきません。苦手な人と仕事をしたり、致しかたなく場を同じくせねばならないこともあるでしょう。その時でも“苦手な人…”と感じている自分に決して“後ろめたさ”を持たないで、ありのままの姿で接すればいいのです。無理な笑顔も要りません。用件が済んだら「それでは…よろしく」と言って、優雅に立ち去ればいいのです。

私は人が笑ってほしい時に笑いません。
自分が笑いたかったら笑います

 イチロー選手の言葉です。頑なまでの正直さを感じますが、その心持ちが野球一筋に集中できた人生になったのでしょう。私たちも自分の気持ちを大切に正直に生きていったら、その相手の人には好かれないかもしれませんが、私たちの人生は充実していくことでしょう。その上、正直な自分が大好きになるはずです。自分を好きになることは、よりよい人間関係の大切な第一歩なのです。

  “投影”という心理学用語があります。「泥棒は誰よりも自分の家の戸締りに気を付ける」…これは“投影”を解かりやすく現している例え文です。つまり私たちは自分の中にあるものを他者に投影して見てしまいやすいということです。

 自分の中にある認めがたい感情や性質を、相手の中に見ると、その人が苦手に思えたり、嫌いになったりする傾向があるというわけです。「あの人は、ずるいからいや!」というけれど、もしかしたら、相手のその許し難い性質が自分の中にもあって、そのことに気付いておらず、感じないふりをしているのかもしれません。相手に腹を立てているようですが、実は自分に怒っているのです。

自分を見るように他者(ひと)をみる。
他者(ひと)をみるように自分を見る

 という故事もあります。私も親からよく言われていた言葉に「人の振り見て、わが振り直せ…」というのがありました。角度はちょっと違いますが、他者の中に学ぶべきことがあるということ…。相手の中に見るその許しがたい性質が、もしかして自分の中にもあるのかもしれないなあ…と感じてみるとき、大きな気付きが生まれます。苦手な人からも、私たちは自分自身を理解していくことが可能であり、学ばせてもらっているのですね。

 私たちはみんな、鏡のようにお互いを映し合いながら気づき、学び合い、お互いに進化・成長しているのだと思います。苦手な人に出逢った時、自分に正直にすっと立ち去るか、自分理解のチャンスと捉えるかは私たちの選択です。正しい・正しくないはありません。好きな人がいて、嫌いな人がいて、付き合いやすい人がいて、苦手な人がいます…というあなたはとても人間的な人なのです。

相手の好みに無理やり合わせていると、いつか心と身体が痩せ細っていきますよ。
私はわたし…と思えるようになる為にはまず嫌なことはしない…
と決めればいい。“Yes” “No” をはっきりする…これは大事です
瀬戸内 寂聴

*次回のコラムは9月20日前後の予定です。

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2018年7月20日金曜日

時をわきまえた沈黙は叡知にして、如何なる雄弁より勝る

時をわきまえた沈黙は叡知にして、如何なる雄弁より勝る
プルタコス
Column 2018 No.62

 「沈黙が怖い…」と言う人は結構あります。沈黙が怖い人は、相手の沈黙を破りやすく不自然に饒舌に話したりします。親業では、相手の話すことを“黙って聴いた”り、自分が“黙りたいときには黙る”ことを選択できる…ということをコミュニケーションのひとつの手段としてとても大切に考えています。“語る自由”もあれば“沈黙の自由”もあるということです。

 次は私の講座を受講下さった保育士Hさんの体験です。

「…先日、老人施設にお手伝いに行った。80代半ばの女性が私を呼び“暇になったら来てください”と言う。傍にいき“ご用ですか?”と訊くと “……”(沈黙) “お天気がいいですね!” “……”(沈黙) 何を言っても答えて下さらない。私の話し方が悪いのか…話のネタは…? どうしよう!と、不安でいっぱいになり、その場を立ち去ると、また呼びに来る…。

…“お話しましょうか” “……”(沈黙) 長椅子に一緒に座り、“そうだ…彼女に寄り添ってみよう…。沈黙を守っている彼女のその位置を、親業的に尊重してみよう…”と思い、彼女の手を握り、外の景色を一緒に黙って静かに眺めた。今までの心の動揺・不安から解放され、私の心はゆったりした。彼女を見ると、とても幸せそうだった。15分くらいの沈黙だったと思うが、いい時間が流れた(…と私は思った)

…私は立ち上がって“仕事がありますのでいきますね…”と言うと、“ありがとう”と、にっこりして言われた。こういう接し方もあるんだ…と嬉しくなった。“沈黙”を選ぶ…というコミュニケーション。目から鱗の感じがした…」

 このHさんの体験から、「沈黙」の中には実は、言葉では決して言い現わせないその人の感情や深い想いが湛えられている…ということが伝わってきます。そして私たちが沈黙をするとき(無意識を含めて)、やはり言葉に言い現わせない自分の想いや感情…があり、それを言葉にすると虚しくなってしまいそうな深い想いがあるとき、自然に沈黙を選んでいるような気がします。

 私にも「沈黙」の中に、しみじみと深い愛の力を感じた体験があります。私の二番目の子どもが1歳の誕生日を前に病気で死んでしまいました。青天の霹靂で、私は一生分の涙を流したと思いました。周りの人は色々な慰めの言葉を下さいました。ご愛念はしっかりと伝わってきましたが、何故か心の哀しみには届きませんでした。

 その時の私の父の態度は、他の人々とは全く違っていました。父は無言のまま、私が移動するところに、ただついてくるのです。そして私の傍に何も言わないで、ぴったりとずっと共にいてくれたのです…。その時の、父のその静かな沈黙の中に、ほんものの愛を、私はしっかりと感じとったのです。娘の心の痛みをとうてい言葉では言い現せなかったのでしょう…。普段は我が強く、どちらかと言うと苦手な父ですが、その時の父の温かさは今も決して忘れていません。

 しかし沈黙には色々な顔があるようです。「沈黙」も使い方によっては武器にもなります。言い争いになった時、片方の人が沈黙を行使すると、相手は不安に陥し入れられます。それを沈黙効果と言いますが、このように“作為された沈黙”は、人をコントロールしてしまう危険性があります。

 また「沈黙」はその人を大きく素敵に見せる効果もあります。以前CMに「男は黙ってサッポロビール!」というのがあり、大ヒットしました。“黙ってビールを飲んでいる男性って確かに男の色気を感じるよね!”と言った女性は沢山いました。本当は話すことが無くて自信も無く、黙ってビールを飲んでいたかもしれないのですが…(笑)  やはり沈黙効果のひとつです。

 さて、次はインドのマハトマ・ガンジーに啓蒙され、非暴力運動の先頭に立って、黒人の人種的差別撤廃のために尽力を尽くし、志(こころざし)中半で凶弾に倒れた米国のキング牧師の言葉です。

最大の悲劇は、悪人の圧政や残酷さではなく、善人の沈黙である

 “今、発言すべき問題になっていることに沈黙をすることは、自分たちの命をあきらめてしまうことと同じである…”と。つまり発言しなければならない時には勇気をもって発言すべきである…。“時をわきまえた発信力”の必要性を彼は訴え続けたのです。彼は現実の厳しさを理解しつつも、決してひるまず、言うべきことを果敢に発信し行動していきました。そしてそれは多くの人々の共感を呼び、遂に「公民権法」が制定されたのです。アメリカ建国以来、法の上に施行されてきた人種差別が終わりを告げたのです。結果的には彼は凶弾に倒れました。しかし彼の生きざまと彼のメッセージは後世の人々の魂に力強く生き続けています。

 老人施設でのHさんは “そうだ!沈黙をしてみよう…”と、沈黙を選んで、女性に寄り添ってみられました。その“時をわきまえた沈黙”は、相手の女性にとっていかなる会話よりも、心から安らげるひとときとなりました。

 時を得た“沈黙”そして、時を得た“発信”…しかしその“よき時”は誰も教えてはくれません。それがコミュニケーションの難しさです。その為には、私たちは絶えず自分の心の動き・認識へとチャネルを合わせて生きていくことが、やはり基本的に大切に思います。自分の感情、想いが掴めるに従って、コミュニケーションの感度は増してきます。やがて、自分にとってもそして相手にとっても益になる、適切なコミュニケーションの選択が、より可能になるのではないでしょうか。

ひとは“発言する”ことのみならず、“発言しない”
ということにも責任をもたねばならない   
キング牧師

*次回のコラムは8月20日前後の予定です。

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2018年6月20日水曜日

自分にも非がある…と気付いたら、堂々と自分の方から謝りましょう

Column 2018 No.61

 街中で見知らぬ女性に“ドスン!”とぶっつかりました。私が歩きながらショーウインドウに見とれていた為です。私の行動がまずかったにも拘らず、その女性の方が咄嗟に「あら!ごめんなさい!大丈夫ですか!」と謝って下さったのです。勿論私も非をお詫びしましたが、その時の温かかった気持ちは今も覚えています。

 私たちは、結構お詫びは下手のように思います。特に相手側にも非があると思うときにはなかなか謝れないものですが、私が街中で出会った方は、明らかに私の方に充分な非があるにも拘らず果敢に謝って下さったのです。その時に私が感じたことは、“どちらがいい悪いではない。起き湧いたアクシデントに自分が係わっていたなら、堂々と自分の方から謝ろう!”…と、その時の温かさがそんな気持ちに私を押してくれたのでした。

 しかし、誤解を受けて、“謝るべきはあなた…”という立場に自分が立たされた時の葛藤はなかなか苦しいものです。そこに至ったいきさつを説明すれば、誰かの名前を出さなくてはならなくなったり…言い訳けを聞いてもらいたくなったり、その葛藤は尋常ではありません。そのような事態に陥った時、思い切り腹をくくって、弁解は一切やめ、謝るべきことは誤り、次に向けての建設的な行動を起こせた時は、ひとときは苦しくとも、やがて自分の中にさわやかさが戻ってきます。“今の自分ってなかなかいいな!”と思えるひとときです。

 誤解を解くことはとても難しいことです。思い込んでいる他者の思いを変えることはなかなか出来るものではないと私は観念しています。その誤解を解きたいという気もちが、誰かを守る為なら別ですが、自分を守るための言い訳ならもうやめよう…と心に決めています。誤解を解くことに奔走しない…結構ある種の覚悟が要ります。相田氏の次のフレーズには何か心ひかれました。

柔道の基本は受け身 受け身とは転ぶ練習
負ける練習 人の前で恥をさらす練習
相田みつを

 お話は変わりますが、女性Yさんが、ある体験を話してくださいました。「…私が小学生低学年の頃、学校の帰り、広場で数人の友達と遊んでいました。そこに母がきて“すぐ帰りなさい!”と怖い顔で言うのです。私はもう少し遊びたかったので、ぐずっていたら、いきなり私の顔をぶったのです。お友達の前で叩かれて、私は本当に恥ずかしかった…。あのひとこまは、今思い出してもつらいです。私は今も母を大嫌いだし、あのことも許していません…」

 もしかしたら、その時お母さんの身の上に何か起っていたのかもしれません。困惑するアクシデントとか、何かで深く傷ついてしまっていたとか…。親も人間ですから気持ちのバランスが崩れることはあり得るのです。そんな時、一番甘えられる子どもに、このように感情をぶっつけてしまいやすいのです。…でも決して忘れてはいけない大切なことがあります。

 いきなり叩かれて家に連れ戻されたYさんは、おそらく意気消沈して、ひとりで泣いていたかもしれません。母親を睨み付けていたかもしれません。子どものそのサインを決して見逃してはいけないのです。見逃してしまうと、Yさんのように、心に受けた傷を大人になっても持ち続けてしまうのです。その上彼女の子育てにまで影響が及んでしまうでしょう。大切なことは、親の感情が収まった時でいい、必ず子どもに許しを乞うことです。「…Y子ごめん!お母さんひどいことをしたね…。実は~のことがあってね、お母さん混乱してたんだよ…。でもY子に当たるなんて最低だよね…。本当に悪かった。許してほしい…」のように。

 心からの謝罪をしたら、子どもは、すっと許してくれます。大好きな親ですから謝罪さえあれば許そうと子どもは思っているのです。そのためには親は、自分の過ちを直視し決してごまかさない。誤魔化した結果は、やがて親の方が、それに振り回される結果にもなります。“あの時どうしてすぐに謝らなかったんだろう”…と。いつまでも後悔が私たちの心を苦しめます。その上、親と子の関係も壊れる方向に向かってしまいます。相手が誰であれ、こちらに非があるときには、決して言い訳をせず、率直に謝罪することはとても大切に思います。過去の人であれば、心の中で一度真剣にお詫びをしたら、すべて学びの体験だから、自分を心から許してあげましょう。次は私の受講生の方の事例です。

野球道具の置き場所を決めている。ある日私が帰宅したら、玄関の上り口にそれらが置いてあった。長男M(中1)が図書館から帰ってきた。

 母 「M君!どうしてここに置きっぱなしにしてるの!?
    いつも言ってるでしょう!ちゃんとやってよ!」
 長男「言っとくけどねえ、俺じゃないよ!どうして俺って決めつけるんだよ!」
 母 「だってあなたしか使う人いないでしょ!」
 長男「うるせえなあ!おれじゃないって言ってるだろ!」

…と言って、怒って自分の部屋に駆け込んだ。実は小6の次男が、兄がいない間にそれを使って玄関に放り、そのまま友達と遊びに出掛けたらしい。私は長男に謝りたい…と思い、長男の部屋に行ったが「うるさい!ほっといて!」とけんもほろろ、取り付くしまもない状態。でも私は部屋の外から心を込めて詫びた。

 母 「本当にごめんなさい!お母さん確かめもしないであなたのせいにして!
    気分悪かったよね…。本当に申し訳なかったわ…。許してほしい…」

<気づき> 講座でフォローの大切さを習ったところだったので、本気で詫びた。その時は「あっちへ行って!」と怒りの反応でしたが、「ごはんよ!」と言うと、すっと出てきて、気持ちを取り直してくれているのが解りました。これからも子どもを傷つけてしまった時は、素直に認め、謝っていこうと思いました

*次回のコラムは7月20日前後の予定です。

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2018年5月19日土曜日

大きく深い鈍さをもて!利口であるより愚直であれ!

大きく深い鈍さをもて!利口であるより愚直であれ!
村上 和雄
Column 2018 No.60

 村上氏は「鋭」の方法よりも「鈍」なやり方を積み重ねることで、高血圧の黒幕である酵素「レニン」の遺伝子の解読に成功。世界的な業績として大きな注目を集めました。彼は著書「アホは神の望み」(サンマーク出版)の中で繰り返し述べているのは、こざかしい理屈や常識の枠を超えてしまう器の大きな“愚かさ”の復権でした。

ハングリーであれ、愚かであれ  スティーブ・ジョブズ

 多くの成功者が、自分のことを“…頭の回転が鈍く要領の悪い人間だった。しかしそれが成功へと導いた…”と自分自身を表現しています。そして“その鈍さがあってこそ、難解な問題を諦めることなく、真面目にコツコツと粘り強くやり続けることができた。しかも鋭さに欠けるから、無駄も多く、遠回りで向こう見ずな決断もして、しかしそうこうやっているうちに驚くような発見につながったんだ”…と。

 「愚か」と言うフレーズに出逢って、一番に思い出したのは、トルストイの「イワンの馬鹿」(あすなろ書房)というロシアの民話です。この民話には菊池 寛をはじめ沢山の和訳がありますが、特に北御門二郎氏の訳本は血肉が通っていると思いました。のびのびと愚直に生きるイワンのひととなりがよく現されています。私なりに理解したあらすじをご紹介してみたいと思います。

 「…昔、ある国に一人の裕福な百姓が住んでいました。彼には四人の子どもがいて、息子のイワンは三男でした。イワンには二人の兄がいて長男は権力に憧れ、次男はお金に執着して商いに追われていました。イワンはみんなに馬鹿にされながらも、耳と目が不自由な妹の面倒を見ながら、毎日汗水たらして百姓生活です。イワンは狡猾な兄たちに、たびたび利用されながらも決して争わず、恨むこともなく要求されるものを「いいとも、いいとも」と惜しげもなく差し出します。“また働けば何とかなるから…”と、全くの無抵抗…。彼は骨身を惜しんで働くけれど、お金にも権力にも全く執着がないのです。結果的に兄弟間には争いが起こりません。それを眺めていた小悪魔たちはそれが面白くなく、兄弟三人に取り付いて仲をかき乱そうと謀ります。兄二人は強欲で、私欲を満たすためなら手段を選ばずですから、悪魔の誘惑に簡単に乗ってしまいます。ところがお金にも権力にも全く興味がないイワンですから、悪魔の策略はことごとく失敗に終わります。

 逆にイワンに命乞いをする悪魔から金貨と兵隊が出る便利なからくりを手にします。欲のないイワンですからからくりで手にした金貨も、彼は、遊具・アクセサリーだと思っています。からくりで手にした兵隊は、ただ歌を歌ってくれるものだと理解しています。またまた兄たちに利用されますが、兄たちの振る舞いを見て、金貨も兵隊も人を不幸にすると分かったイワンは金貨づくり・兵隊づくりを兄たちに断ります。(中略)

 偶然な経緯があって、ある国の王様から娘(姫)をイワンの妻に…と望まれます。そこも権力欲のないイワンですから、よく解らないままに王室に婿入りします。王様がお隠れになった日(亡くなられた日)イワンはすぐに自分の王衣を脱ぎ、野良着に着替えて百姓仕事を始めます。妃もイワンに従います。目と耳が不自由な妹も呼び寄せます。しかし国民はイワンが馬鹿だと気付き、賢い人たちはみんなイワンの国から立ち去りました。いわゆる馬鹿な人たちだけが残ったのです。

 そしてお金は誰も持っていません。残った愚直な国民は王様に倣って、一生懸命に働いて自分も食べ、働けない人々にも食べさせます。それからも小悪魔たちの邪魔が入りますが、のれんに腕押しのようなイワン国の人々にお手上げ状態です。イワン国ではお金を貯える習慣がなく、互いに物々交換をしたり、労力でお礼をしたりして生活しています。それで何も困ることはなく充分幸せで満足しているイワン国の人々だから、悪魔が金貨をちらつかせても、何の反応もしません。やがて落ちぶれた二人の兄たちが頼ってきますが、やはりイワンは彼らを養っていきます。「私を養って下さい」と言う人がいれば、誰でもイワンは「よしよし、一緒に暮らしなさい。わしらの所には何でもどっさりあるから」…と受け入れます。ただひとつ、イワン国には習慣があります。手に“たこ”(仕事をすることで擦れる部分に出来た手の傷あと)のある者は食卓についていいが、“たこ”のない者は、人の食べ残しを食べなければならないという…。」

 この作品はロシアのトルストイによって書かれました。トルストイは伯爵家の四男として生まれ、何不自由のない生活でしたが、“人は何のために生きるのか”彼の中に深い迷いが生じてきます。周りの人々の貧しい環境を知るに従い、自分自身の豊かさに疑問と羞恥心を感じ始める。彼はその苦しみに対する答えを、自然科学や哲学の中に真剣に捜し求めました…が、何処にもその答えを見つけることはできませんでした。やがて彼は、真の安らぎは「神への信仰」の中にこそあることを悟ります。そしてそれは無学で貧しい素朴な、額に汗して働く農民や労働者の信仰の中にこそあることに気付き、自身も野に出て田畑を耕し農業に心を傾け、所有地に学校を開くなど、農民の子どもの教育にも力を注ぎ始めます(石田昭義氏のトルストイ略年譜を参照) 

 そんな環境の中でこの「イワンの馬鹿」は生まれたのでした。このイワンの生き方こそがトルストイの理想郷だったのでしょう。訳者の北御門二郎氏も「イワンの馬鹿」の生き方に心酔し、「…わたしはこの世に生がある限り、人類の理想郷である“イワンの馬鹿”のような村の実現に一歩でも近づくよう皆さんと一緒に歩んでいくつもりです…」と語っています。(北御門氏2004年死去)

 今回のコラムは、「イワンの馬鹿」の解説文のようになりましたが、作者であるトルストイ自身がイワンを理想としていた…という実像に触れ、私の中で、文学・哲学の神様的存在であった彼が、急に身近に感じられたことでした。私はこれまで、イワンのような愚直な生き方に心服している多くの賢者・識者がいることに、とても不可思議な気持ちをもっていましたが、彼らは未来を見通していたのだと思います。つまり長い歴史の中で人類は「権力とお金」に惑わされて奔走し、結果的に戦争・テロ・人種差別…等々を生み出してきた…。人類の真の幸せは権力でもなくお金でもない…。イワンのような無欲で無抵抗な生き方が示唆しているその魂と精神こそが、これからの人類に必要なのだ…ということを。

 「頭脳への理詰めなアプローチの結果としての智恵などは、イワンの智恵には、とても及びつかない…」と町田宗鳳氏も語っています。村上氏がいう「アホ」もトルストイが言う「馬鹿」も、学問は無いけれどその愚者の生き方の中にこそ真実があるのだ…と、最高の敬意と賛辞の気持ちをその語句で表現したかったのでしょう。そしてまだ足元にも及びませんが、私もしっかりと自分を生きながら、イワンのようなまっすぐな、愛に溢れる精神性を決して忘れまいと思いました。

 雨ニモマケズ 風ニモマケズ
 雪ニモ 夏ノ暑サニモマケヌ

 丈夫ナカラダヲモチ
 慾ハナク 決シテイカラズ イツモシズカニワラッテイル
 一日玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタべ(中略)

 東二病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
 西二ツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ
 南二死二サウナ人アレバ 行ッテコワガラナクテモイイトイヒ
 北二ケンカヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ

 ヒデリノトキハ ナミダヲナガシ
 サムサノナツハ オロオロアルキ

 ミンナニデクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ クニモサレズ
 サウイウモノ二 ワタシハナリタイ
  
 宮沢 賢治

*次回のコラムは6月20日前後の予定です。

✨ 人間関係上級講座@広島 開催!(2018年6・7月 日曜)
 ・・二年に1回の講座です。ご参加お待ちしています。

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2018年4月20日金曜日

対人関係のポイントは聞く力にある

対人関係のポイントは聞く力にある
ピーター・ドラッカー
Column 2018 No.59

 ピーター・ドラッカーは、オーストリア出身の現代経営学の基礎を築いた人物で、“マネジメントの父”とも呼ばれており、ビジネスの世界に生きている人々でその名を知らない人はまずいないでしょう。没後10年以上たった今も、その理論は多くの経営者の模範とされています。彼がマネジメントの上で大切にしていたことは、社会・組織の中での「人間」という観点でした。特に人間関係に於けるコミュニケーションを大切にしており、次のように語っています。

話し上手だから人との関係は得意だと多くの人が思っている。
対人関係のポイントは「聞く力」にあることを知らない

過去のリーダーの仕事は「命じること」だが、
未来のリーダーの仕事は「聞くこと」が重要である

 書籍の中では「聞く」と訳されていますが、日本には「聴く」という漢字の語彙があります。彼の言いたい意味は、“聞く”というより、実は「傾聴」という姿勢に近いのではないか…と思います。「聴」と言う文字には、耳と目と心が合わさっています。それはまさに相手(顧客・来談者)のお話を聴くために非常に大切な三つの姿勢です。カウンセリングの場で私も大切にしている姿勢です。

 真摯な目線(まなざし)で相手の気持ちの動きを感じとり、相手が言わんとする事実をで正確に受けとり、私心を脇において、をいっぱいに開いて聴いていく…。すると不思議ですが相手は、徐々に自分の心をオープンにして、本当の気持ちを話してくださいます。…というよりも、相手が語りたい本当の気持ちが流れてくる…と言った方が近いかもしれません。

一般的に「きく」と言う姿勢には幾らか違う意味があります。
・聞く……相手が話している事実の内容を聞きとる
・訊く……相手のことに関して尋ねる 
・聴く……耳だけでなく、心とアイコンタクトを大切にしてハートで聴き取る

 まさに「聴く」という姿勢こそが、本気で聴く姿勢であり、他者を大切にした姿勢なのです。親業講座ではコミュニケーション能力を磨くために「聴き方」や「伝え方」の双方向コミュニケーション(コラムNo10)の方法・理論をお伝えし、訓練(練習)をしていきます。今回のテーマである「聴く」と言う側面は、双方向コミュニケーションのうち“相手を大切にする” 側面です。

私たちは聴く方法を教えられていないが故に聴くことが下手なのだ

 …と、「対話と説得の技術」の著者、ラルフ・G・ニコルス博士は語っていますが、真実だと思います。しかし…「私ね!話し方教室に行っているのよ」と言うことはよく聞きますが、「私ね!聴き上手になる勉強をしているのよ」…はあまり聞いたことがありません。ちなみにアメリカのある土地で「聞き方教室」という公開講座を開いたところ、時間になったが一人の出席者もなかった…という報告を耳にしたことがあります。今の社会では“人の話をよりよく聴けるようになる”…と言うことにはまだあまり価値を置かれていないようです。

 ずっと昔に読んだ、三國一朗氏の「話術~会話と対話~」という本の中に、興味深い一文がありました。「…女の人達が話しているのを聞いていると、小鳥たちが木の枝にとまってさえずりあっている、それと同じで、お互いに好き勝手に口を動かし声を出し合っている。その間に多少の情報のやり取りはあっても、要するに声の出しっこに過ぎません。相手の話を聞いているようには見えますが、本当は、相手の話が一段落するのを、今や遅しと待ち構えているに過ぎない。相手が一秒でも半秒でも話しやめたら、すぐさましゃしゃり出てしゃべり始める。そういう姿勢の連続ですから一見賑やかで楽しそうに見えても、決して会話と言うものではなく、小鳥たちと50歩100歩のさえずりくらべなのです…」

 …思わず笑ってしまいましたが、それぞれが勝手におしゃべりしていて聴く人が全くいない女性の集まり…私もよく出会う場面です。ドラッカー氏も言っているように、未来は“他者の話が本気で聴ける人”つまり“人を大切にし人を生かす能力のある人”が、仕事のパイオニアとなり真のリーダーになっていくのでしょう。また、家庭にあっては、子どもが話すことを親がしゃしゃり出て邪魔することなく、子どもが考えていることを、耳と目とハートで本気で聴きとっていく。それは子どもが自分の生き方に自信を持ち、真の自立に向かえる一番大切な姿勢なのです。

 親業の聴き方 (コラムNo12) を改めてご紹介しましょう。私の講座を受講下さったHさんの事例です。

思春期に入り、少し太っていることをとても気にしている長女。気分が不安定になると叫んで訴えてくる。

長女「あ~ん!すごい太っていやじゃ~!」
母 「太るのがいやなんじゃねえ…」
長女「もうこのおなかいやなんよ~!」(泣きながら…)
母 「いやなんよねえ…」
長女「もういやよ!私ばっかり太っとるけん!」(わ~ん!ベッドで伏せて泣く)
 ~母 沈黙…1~2分~ 長女、がばっと起き上がり
長女「腹筋するけん 足もって!」
母 「いいよ」

<気づき>
聴き方を学んだことで、沈黙することの大切さも知りました。何か言ってやらなければ…といつも言葉を捜していたことが、不自然だったり、余計なお世話に繋がっていたことに気付きました。子ども自身で解決する力があることを信じ、待つ姿勢を大切にしていきたいと思います。

 Hさんがおっしゃってる通りです。子どもは、自分の人生に関することは自分で考える力を持っています。考えを与えすぎると混乱してしまいます。子どもが感じていることを、ただそのまま受け取ってあげて、子どもが自分の人生から脱線しないように、聴くことで援助していくのです。勿論、自己表現(コラムNo11)も大切です。特にお母さん自身が自分の人生を充実していく為にはとても大切なコミュニケーションです。しかし子どもの真の自立は、親が本気で「聴く姿勢」なしには望めないのです。

あなたはいつも原因を訊いても、私の気持ちは聴かない
~邦画「幼な子われらに生まれ」の中の前妻のセリフ~

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と
答える人のいるあたたかさ
俵 万智

*次回のコラムは5月20日前後の予定です。

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2018年3月20日火曜日

その子なりの歩みを許された子どもは、輝いて自分の道を生きていきます

Column 2018 No.58

 ある精神科にお勤めの看護士さんがそっと呟いていらっしゃいました。「…病院に入っている殆んどの人が、子どもの頃からとっても真面目で、きちんと生きてきた人なんですよね…。悪ガキや若い頃に不良をやったというような人は、ひとりも入院をしていませんよ…」と。

 子どもは本来、天真爛漫でなかなか親の思うようにはなりません。そのように自由でのびのび生きていた子ども達が、なぜ委縮していってしまったのでしょうか…。ずっと以前になりますが、不登校をしていたS子さん(小5)にお母さんが訊きました。「どうして行けないの?」と。するとS子さんは答えたそうです。「私、もういい子でいたくないから!いい子をしておくのがとってもしんどいから…」と。S子さんは自分の苦しさに気づいて自分から不登校を選んだのです。

 いわゆる、いい子と言われる多くの子どもは、自分の人生を生きることから脱線してしまった子どもたちです。つまり、周りの人たち(親・家族・先生・友達…)の欲求を満たすことばかりを考えて生きてきたので、自分の人生の喜びや、わくわく感、つまり人生の体験・実感が極端に少なく、周りからは「いい子いい子…」と評価されながらも、S子さんのように、心の中に“何か違う!私じゃない!”と言ったような、もやもや感をもったまま思春期を迎えます。

 そして傷ついた子ども達は、自分軸を取り戻すために、思春期に、多くは問題行動を起こして周りと闘い、心のバランスを取り戻そうとします。いわゆる「反抗期」と言われる、とても大切な癒しの時代を迎えるわけです。反抗の噴出の出方には、外向型と内向型があります。外向型はいわゆる暴言暴力・怠学・夜間徘徊・家出・異性交遊…等々のいわゆる逸脱した不良傾向として表現してきます。内向型は不登校・過食拒食・心身症・鬱…等々、自分に籠る(内に向かう)という傾向で現わしてきます。表現は真反対ですが、いずれも育ちの上での心の痛みを癒さんとする、その子なりの心のバランスのとり方です。

 教師も私たち親も、実は“いい子”が大好きです。「人生は、おまえが考えてるような甘いもんじゃないぞ!」「遊んでばっかり、本でも読んだらどうなんだ!」「それはわがままと云うもんだよ!」「少しは人のことを考えたらどうだ!」…のような正論で、“いい子”の枠組みに嵌めていこうとします。それが強ければ強いほど子どもは、まんまとはまっていきます。教師や親が望む“いい子”像をあげてみましょう。

1. 素直で優しい子
2. 明るくて活発な子
3. 誰とも仲良くつきあえる子
4. 学校の成績がいい子(すべての科目が)
5. 何事にも積極的でしっかりした子
6. スポーツも得意な子‥‥‥‥‥‥‥等々

 こんな神様のような子供が果たしているでしょうか。でもいい子の罠にはまってしまった子は、必死でそのいい子の枠組みに入らなければ…とますます強迫的に思ってしまうのです。子どもの頃から決してこのような完成品は無いのです。子どもは色々な過ちを犯しながら、感じたり気付いたりしながら、ゆっくりと自分軸を育てていきます。自分が本当にやりたいことをやって、自分の欲求を適切に満たしながら、自己実現コラムNo15)に向かって徐々に成熟していくプロセスを、ひとり残らず取っていくのです。

道草は自己実現の王道である  河合 隼雄

何度も取りあげるフレーズですがまさに真実です。母親が「クラスの先生からお宅のお子さんは申し分ありません。忘れ物は一切しないし、勉強も友達関係も問題ありませんし、教師に反抗的な態度を取ることもまずありません。そして素直で優しくクラスのみんなに好かれています…と言われました!」と大満足をしているのですが、私はよく言います。「お母さん、子どもは完成品ではないのです。お子さんはかなり緊張した日々を送っていると思いますよ。出来るだけやりたいことをやらせ、言いたいことを言わせてください」…と。

 いわゆる“いい子”の枠にはまってしまっている子どもは、何でも完全にできなくては自分は駄目なんだ…と受け取っています。しかも失敗を恐れて、臆病・冒険をしない・試行錯誤をしない…といった特徴があります。いつも安全領域で生きています。よって、いつも周りを伺い評価を気にして、相手に合わせて生きることしかできません。つまり自分軸がとても脆弱です。大変ストレスフルな状態で生きています。…それが見かけのいい子の実像です。大人にとって“都合のいい子”を、私たちは無意識に“いい子”と定義づけてしまっているのです。

☆ 20世紀最大の物理学者、アルベルト・アインシュタインは5歳までしゃべれなかった。文字が読めるようになったのは7歳の時。学校はアインシュタインにとってはとても窮屈で、義務教育時代はずっと劣等生だった。

☆ 発明王と称えられたトーマス・エジソンは教師から「こんなに頭の悪い子は初めてだ!学校ではお引き受けできません」と言われ、中途退学を余儀なくされた。

出典:偉人物語(主婦と生活社)

 偉人といわれた人の中には幼少期は結構問題があった…という人は少なくないようです。それは学校や社会という枠組みの中で、本来の彼らの伸びやかな生命力や創造力が、押し付けられる常識や正論にはまり切れず、閉塞状態になり、いわゆる“いい子”の枠組みからはみ出した人々です。そしてその枠組みからすっかり抜け出た後に、彼らの本来の能力が輝き始めたのです。彼らは周りから急がされることなく、ゆっくりゆっくりと自分本来の使命を見つけていったのです。次はアインシュタインのフレーズです。

私の学習を妨げた唯一のものは私が受けた教育である

何かを学ぶ為には自分で体験する以上にいい方法はない

子どもはゆっくりと子どもをやる権利があります。本当にやりたいことをやって魂の喜びを感じる権利があります。試行錯誤し、失敗を侵す権利も、失敗をして落ち込む権利もあります。落ち込みを続ける権利も、這い上がる権利もあります。怒る権利も泣き叫ぶ権利もあります。それがその子どもの人生の体感であり、生きる実感です。

 しかし親は、なかなかそれが信頼できません。“いい子”をやってくれていると安心なのです。私も親ですからそれがよく解ります。親の描いた青写真からどんなに子どもが外れていようと、どれだけ子どもを信頼して待っておれるか…は子どもを育てる上での、親の一番の修行なのかもしれません。

ひきつった顔で最後に母は言う。あなたのためよ。
あなたのためなのよ。俺のためなら黙ってくれ
中2男生徒の川柳

*次回のコラムは4月20日前後の予定です。

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