2017年1月20日金曜日

夢は大きく 失敗は大胆に

夢は大きく 失敗は大胆に
ノーマン・ボーン
Column 2017 No.44

 今年の年賀状のフレーズに取り上げたものです。年齢を重ねてもこのようなフレーズに出逢うと、何だか心がときめきます。でも本音を言えば、私が抱く夢は等身大だし、しかも失敗はやはり好きではありません(笑) だからこそ ”Boys be ambitious” 少年よ大志を抱け!(クラーク博士)のような言葉にわくわくしたり、今回のテーマのような勇ましいフレーズに心がときめくのでしょう。 

 失敗は大嫌いな私であるにも拘らず、本当はこれまでの人生、恥ずかしい失敗を数多く重ねてきた私なのです。いわゆる赤恥レベル級です…。あまり話したことのない忘れられない赤恥のひとつを、時効と判断し披露します(笑) 学生の頃、友達関係だった男友達のひとり、彼は私に対しては恐らく友達以上の感情は全くなかった。実は私の方が好意を持っていたことには私自身全く気付かず、相手が私に対して並々ならぬ恋をしていると勘違いをして勝手にことを起こし、途轍もない傲慢な態度で別れを切り出した!その時の彼の言葉と鳩豆状態の顔が思い出され、今も顔から火を噴きだしそうな恥ずかしさと申し訳なさで一杯です…。

 わたしの“恥歴”は枚挙にいとまがないくらいです。そんなことを感じていると、むかし子どもと一緒に読んだ「ドン・キホーテ」(セルバンテス作少年少女世界名作全集)が急に読みたくなって、まだ健在の書棚から黄色く変色したその一冊を引っ張り出して、お正月の合間合間に引き込まれるように再読したのでした。私と温度差があまりないように思えるドン・キホーテ。妄想癖のあるキホーテが風車を巨人だと思い込み、槍をもって全速力で風車に突撃していった…その断片的な下りだけは鮮明に覚えていたのですが、その他数々の突拍子もない騒動はすっかり忘れていたようで、わくわくと全篇読み通しました

 騎士道物語を読み過ぎて夢と現実の区別がつかなくなったキホーテは、自分がすっかり雄々しい騎士になったつもりになって、老馬にまたがり、家来のサンチョを引き連れて、世の中の不正を正すための旅に出掛けるのですが、まさに奇妙で滑稽極まるトラブル(失敗)の連続! 心打たれるのは年老いてもなお、夢や希  望を決して失わず、正義を胸に遍歴の旅を続けていくその一途さ。周りの人々は彼の常軌を逸する行動に呆れながらも、純心で一生懸命なキホーテを愛さずにはおれないのでした。まさに“夢は大きく失敗は大胆に”を地で行く人物なのでした。

 私とドン・キホーテの違いは、キホーテはどんなにまずいことをしでかしても、彼なりの論理(多くは妄想からの)があって、決してめげず、完璧なプラス思考!一方、私は…と言えば、時に妄想で行動してしまうところは彼と一緒でも、幸か不幸か、必ず正気に戻ってしまうところがつらい所で、赤恥をかいては苦しみ、こけては痛みを感じながら、そこで何かを学び今日まで生きてきたわけです。

失敗がないと人生に失敗する

斎藤茂太氏の言葉ですが、私にとっては救いの言葉です。失敗は確かに心が痛むものです。でも失敗を通してこそ、“真の目”は開かれていくのではないかという気がするのです。だから人は、無意識ですが自分にとって必要な失敗をしているではないか…と。その失敗を通して何かを感じ何かを掴んでいける! 特に以前はうっかり者でそそっかしかった私は(実は今もですが…)多くは失敗から学んできたような気がするのです。

 失敗と言えばもう一つの赤恥を思い出しました。もう10数年も前になるかと思います。その頃、“シャンソンを歌う会”に入っていて夢中になっていました。年に1回の発表コンサートがあり、その日はみんな精いっぱいのお洒落をして一人ひとりがステージに立って歌うわけです。いよいよ自分が立つ番になりました。堂々と胸を張って舞台に出ようとした処まではよかったのですが、マイクのコードにヒールが引っかかって、すってんころりん! 観客の方に向けて足が跳ね上がったのできっと見られたざまではなかった…と思う…(クシュン)。

 ところが不思議ですが、その一瞬の情景の中で、スローモーションのように自分の心の動きがはっきりと掴めたのです!“…ああ、私はこうして300人の観客の前でみっともなく転んで赤恥をかいてでも、自分の身に付けた不自由な鎧(よろい)を脱ごうとしているんだなあ…”と。

 そして同時に、観客のエールのような愛の波動を全身いっぱいに感じて、立ち上がった時には体中にエネルギーが返ってきていたのを思い出します。そして“…わたし!素っ裸で今日は街中を歩けそう!”と思うくらい、その時、鎧が脱げている自分を感じたのでした。……しかしいつの間にかまた、無意識に着込んでいる自分も…あるんですよね…。

 私は失敗はとても怖いけれど、失敗することを赦して生きているので、かなり大胆な失敗をよくします。でもその失敗を通して本気で学ぼうとしています。等身大の夢でもいいそれを持ち続けて、真摯に生きていく中での失敗は、学ぶべきことが必ずある筈だと…。きっとこれから歳を重ねても、辛いけれども私にとって必要な失敗は訪れ続けるのでしょう。でもその度ごとに気合いと度胸でもって臨み、学んでいくつもりです。

 夫が生前、ある体験を通して語っていたことをふと思い出しました。「…今日なあ。横断歩道を渡るときにいきなり転んだんだよ!その時ふっと、よっしゃ!思いっきり転んでやろうと思ったんだ…。そう、柔道の受け身だな!そしたらほら!全く怪我がなかったよ…」と。その時はあまり深く考えず、夫らしいな…と笑って聴いていましたが、失態に臨む夫の心意気が今回のテーマに繋がるのを感じました。

失敗を覚悟で 挑み続ける それがアーティストだ
スティーブ・ジョブズ

リスクを取る勇気がなければ 何も達成することがない人生になる
モハメド・アリ


*次回のコラムは2月20日前後の予定です

2016年12月20日火曜日

自分を愛する力量でしか他人(ひと)は愛せない

Column 2016 No.43

 私たちは一人ひとりがみんな幸せにならなければなりません。幸せになることは人類一人ひとりの務めです。一人の人間として他人(ひと)の幸せが喜べないことも、人と人との争いも、国と国との奪い合いや、テロも戦争も、私は同じレベルだと思っています。それはすべて、人類一人ひとりの心の貧困から始まっていると思うのです。

 幸せな母親が子どもを愛さないわけがありません。幸せな人が隣人を大切にしないわけがありません。幸せな国が他の国に戦いを仕掛けるわけがありません。先般テロが多発している地域を取材したドキュメントをTVで観ました。過酷な日々を送っている環境の中で、ひとりのご老人が「若者に仕事がないのです。だから武装勢力が有力な就職先なわけです。生活の保障のない毎日を送っている私たちの国の人々は、戦うしかないのです。空腹が満たされさえすれば、こんな無意味な争いはすぐに止むでしょう…」と。

 本当にその通りだと思いました。人々は満たされない過酷な環境の中で、今日をどう生きていくか…根深い不安や恐れの感情と闘いながら、生きる手立てのために、国や人類のエゴから発した戦争やテロに、仕方なく巻き込まれている現状があるのだということです。テロの首謀者の生い立ちを見てもそこにはまさに過酷な生活環境であったことが伺えます。戦いやテロに巻き込まれた人々に、私たちができることは無力ですが、せめてその人たちのために祈り、決して無関心であってはいけないと思います。

 軍備の拡大のために使われる莫大な予算や、兵器の生産のために使われる膨大な費用を、過酷な生活を強いられている國や人々に配分して、人々の“自立の援助”のために使っていけば問題はすぐに解消するはずです…これは子ども達にでも解っている世界平和への速やかな解決へのヒントです。私も子どもの目線と一緒で、心からそう思っています。しかし、確かに世の中のからくりは、そう単純なものではないことも私自身、重々認識はしています。人間のエゴの根深さに、哀しみと共に暗澹とした気持ちになってしまいます。

 一人ひとりの心の位置がそれぞれの国のバイブレーションを創っていきます。つまり一人ひとりの心の位置がその国が向かう方向を創っていきます。だからこそまず私たち一人ひとりの心の位置が大切なのだと思うのです。一人ひとりが平和(幸せ)になれば家族が平和になり、隣人が平和になり…こうして国が安定し、世界の平和が成就する…私はいつもこういうイメージで世界平和の樹立を捉えています。次の諷刺文は出典不詳ですが、心に残っており以前からメモで取っていたものです。ある山伏が神様に願(がん)をかけたお話です。

40歳の誕生日に意を決して神様に願をかけました。「神さま仏さま、世界を平和にしてください」…しかし結果は何も変わらなかった。
50歳の時「神さま仏さま、親戚・知人を平和にしてください」…しかし結果は何も変わらなかった
60歳の時「神さま仏さま、家族を平和にしてください」…やはり結果は何も変わらなかった。
70歳のとき「神さま仏さま、せめて私を平和にしてください」…。すると神様がやっと雲の間から顔を覗かせて、「わかった!叶えてやろう」…と。

 ジョークを含んだ含蓄ある諷刺文です。この一文は、世界の平和を創るのは神様の仕事ではなく人類一人ひとりの責任だということを現しています。そして自分
をなおざりにして、家族を地域を世界を平和に…と願っても、それは無理であるということをも示しています。そして自分を幸せにすることの大切さに気付いた人には、何はさておき援助していくぞ…という大いなる存在の反応に、諷刺文とは言え、私は“まさしく!”と共感したのでした(コラムNo13

 私たち一人ひとりの心の位置が、“世界の平和の原点になっている”…その厳粛さを認識している人はどれだけあるでしょうか。先日の親業講座の中で、受講者のSさんが「子どもの心を傷つけることなく育てていくためには、とにかく私自身が幸せになるしかないということが本気で分かりました!」…と。Sさんは自分自身の成長や、子どもの心を育てることに真摯に向かいあっておられる人だけに、その言葉には説得力があり真剣さが感じられました。自分を愛する力量でしか子どもを愛することはできない…ということをSさんは深い所で理解されていることが伝わってきました。人類の真の平和の原点は、Sさんの気づきの通りで、私たち一人ひとりのその心の位置が決めていく…私もそう信じているのです。

 前回のコラムで「愛とは…」ということを取り上げてみました。私たちが幸せになる為には「親の無条件の愛が必要だった…」ということは解かりました。しかしいつまでも親の愛にしがみついているわけにはいきません。 自分でそれを本気で求め、その愛をまず自分にあげながら自分の人生を豊かにしていくことを決意するしか手立てはありません。

 どんなに見苦しい自分であっても、自分の本当の気持ちから決して意識を逸らさず、それに気付いて、その見苦しい自分をただ赦して、みっともない自分のままで生きていくしかありません(コラムNo22No39) 実はそれが“ありのままに”ということであり、“自分を愛している“…という姿だと私は理解しています。そしてありのままの自分を愛せる力量でしか、私たちはありのままの他者を受け入れ愛することはできないのではないか…と。

自分の汚れている部分を、受け入れ愛することを、
まず学ばなければなりません。私たちの永遠に続く旅路を、
これから一度も間違いを犯さず、一点の曇りもなく続けていく
ことができるなんて本気で考えている人がいるのでしょうか
タデウス・ゴラス

自分にバッシングすることをまず辞めたいものです。人生を真剣に生きている人ほど何故か自分に一番厳しいのです。傷ついている自分をさらに傷つけてしまうのです。過ちを犯したとしても、責めることは止めて本気で気付くだけでいいのだと思います。責めてしまっているなら、責めている自分に気付いて、そのまま責めている自分を丸ごと赦してあげることが、自分への本当の愛です。直そうと頑張らなくても、あとは自然がいい方向に必ず導いてくれる…私は心からそう信じて生きています。

 そして他者の不必要な荷物は降ろしませんか。自分の荷物だけでも大変なのです。自分の荷物も時には降ろして、周りの風景を眺めたり、子どものように無邪気に遊んだり、変化を楽しみましょう。自分の心が喜ぶことを一日にひとつでもいいからやってみましょう(コラムNo21No38)すると、生きている実感と喜びが少しずつ感じられてくるでしょう。そして幸せでいるこんな状態のときこそが一番、自分の心が愛に溢れているときだと解ります。そして、子どもや家族や友人に、心からの真心と愛をあげられるひとときだと解ります。

自ら輝いてこそ 周りを照らすことができる
横田 南嶺

この世の事情のいかんを問わず、ただ無条件に幸福であれ!
今、この場で幸福に行動し、幸福に感じ、毎瞬幸福に!
ダン・ミルマン


*次回のコラムは1月20日前後の予定です

2016年11月20日日曜日

「愛する」ということは相手を“ただ無条件に受け入れる”こと

Column 2016 No.42

 数十年も前の記事ですが、読売新聞の投稿欄に18歳の女性の一文が掲載されており、たまたま手元にありました。「…高校三年の女子です。私には大切にできるものがありません。お金もあって友人もいます。両親もいます。…学校の成績は学年で10位には入っています。スタイルは悪くないしブスでもありません。食べ物もあります。部屋はストーブで暖かいし、服や靴もあります。…だけど私には大切にできるものがないのです。心も身体も大切ではありません。明日死んでも未練はありません。…18歳になっていながら大切なものがないのです。悲しく情けないのです…」と言った内容でした。

 この彼女の一文で、幸福とは、成績でもなければお金でも財産でもない。たとえ、容姿に恵まれていても幸福には関係ない…ということを物語っています。そしてこの女性の一文に、物や人々の存在は見えるけれど、「暖かい家庭がある…」のような“人間関係”や“愛”の存在は見えてきません。

 家庭における人間関係が稀薄であったり、愛情を受け取れる環境が無かったら、どんなにものが豊富に与えられたり、勉強ができていい大学に入っても、いい就職をしても、本人の心は満たされないままでしょう。おそらく彼女もその一人で、自分のやりたいことをやることや、言いたいことを表現できる環境がなく、これまでの人生を、親の思う通りに素直でいい子として生きてきたのかもしれません。

 ずっと以前、ある受講者Tさん(母親)から出たある宿題の片隅に書かれていた一文です。了解のもとに載せました。

私は無性に誰かにかまってほしい
私は無性に誰かに否定しないで私の話をうんと聞いてほしい
私は誰かに無条件に受け入れてほしい
私は誰かにぎゅっと抱きしめてほしい
私は誰かの腕の中で思い切り泣かせてほしい
私は誰かに“お前が必要だ”と言ってほしい

 このお二方の例から伝わってくるのは、やはり「愛」への渇望です。しかしこのTさんはご自分の「欲求」がきちんと見えています。欲求が見えている人はそれを満たしやすいのです。だから彼女はそれを周りに求めるだけではなく、自分で自分を満たすべく心が喜ぶことを果敢になさったり、もともと正直な方ですが、自己表現の方法を学んでからは、さらに正直に自分を表現されるようになりました。今はすでに自分を取り戻して生き生きと生きていらっしゃいます。

 思春期挫折、鬱、暴力・いじめ、DV、色々な依存症、歪んだ人間関係…等々。その背景には成育歴の中に、特に多くは親から愛されたという実感がないことがその原因となっています。カウンセリングの場においても、親の愛を幾らかでももらった(…と受け取っている人)は数回のカウンセリングで癒しに向かいますが、もらっていない(…と受け取っている人)の癒しには、膨大な時間を要します。人間の真の進化が問われる今、いったいこの現状をどうすればいいのだろう…と途方に暮れることがあります。

 しかし「愛の定義」は本当に難しいと思います。夫が生前のころ「自分は“愛”という意味がよく解らない…」と言っていました。ハートフルな人ですが表現が苦手な為に、妻の私が、幾らか攻め口調になってそのことを指摘したり、何度か愛について論じようとしたりしていたからでしょう。

 ある日、傍にいた娘(高校生の頃?)に、夫が「…お父さんは“愛”という意味がやっぱり解らんのよ…。お前はどう思うか?…」と娘に問いかけたのです。娘は即座に答えました。「その人がどんな状態であってもそのまんまを受け入れてあげることだと思う…」その辺りを答えたと記憶しています。見事な“愛の定義”だと思いました。「なるほど…」と夫も感慨深そうな表情でした。しかし、“そのままを受け入れる”ということは具体的にはどうすることなのか…私たちにとっては、とても難しい所だし知りたいところでもあると思います。

 親業はコミュニケーションをベースに学びますので、その側面から述べてみたいと思います。“愛”を伝える「肯定のわたしメッセージ」や、また相手が話していることに、一切茶々を入れずにただ耳を傾ける、積極的傾聴法「能動的な聞き方」があります。特にこの傾聴法は、相手が “愛情”として具体的に受け取っていける、実は最高のコミュニケーションなのです。(コラムNo12

相手の話に耳を傾ける。これは“愛”の第一の義務だ
ポール・ネイリッヒ

五年生のA君がある日「お母さん今日テスト返してもらったけど怒らない?」と言ってきました。普通お母さんは「怒らないから見せてごらん」と言っておいて、
“40点”のテストを見た途端に「ゲームばっかりしてるからでしょう!」とつい叱ってしまうケースは多いですよね…。ところが親業の傾聴法は次の通りです。

A 「お母さん今日テスト返してもらったけど怒らない?」
母 「お母さんが怒るかもしれないと思って不安なのね」
A 「うん、でも教えてあげるね。40点だったんだ…」
母 「そう、40点でがっかりしてるのね」
A 「そう、それから社会は60点だった…」
母 「そう、60点だったの」
A 「うん、だけどね、5年生になると理科も社会も難しくなるから仕方ないんだ」
母 「そう、五年生になると学科が難しくなるのね」
A 「そうなんだよ。でも難しいからもっと頑張らなくてはいけないんだよ…」

 途中ですがざっとこんな会話です。親の気持ちは一切出さないで、フィードバックを通して、“あなたの気持ちをただそのまま受け取ってるよ…”ということを伝えているのです。子どもは、自分の思考を邪魔されないので、自分の行くべき方向がこうして見えてくるのです。特に子どもが問題を抱えているときにはとても大切な傾聴法です。(但し、親が問題を抱えた場合は“自己表現”というコミュニケーションを取ることができます…コラムNo10No11参照)

 親業が大切にしているこの傾聴法は、子どもがどんなネガテイヴな感情を出してきても、批判も講義も提案もしないで、ただただ共感をもって聴いていく。すると子どもは、自分は“丸ごと受け入れられている”“自分は自分でいいのだ”“自分の感度で生きていいのだ”…と、親の無条件の愛を感じ取って、自分に自信をもち、真の自立へと向かっていけるのです。それを繰り返し体験することを通して、自分自身をどんどん確立していくのです。それほど私たちは、Tさんが言っているように、自分の想いを否定されないで、誰かに黙って聞いてほしいのです。そして無条件の愛を感じ取って、より自分自身でありたいのです。

 しかし、相手が話すことに、心からの共感で耳を傾けることは、そう簡単なことではありません。相手のネガテイヴな感情を真に受け止めていくには、受けとめる側の心的状況が整っていないと本当はとても難しいのです。私たち親も人間です。ある程度幸せでなければ、子どもや周りの人を真に受け入れることは難しいのです…。 そこで、一人の人間として自分が幸せになる為に出来ることを、次回あらためてご一緒に考えてみたいと思います。


*次回のコラムは12月20日前後の予定です

2016年10月19日水曜日

あらゆる経験はひとつの目的のために起きています。

Column 2016 No.41

あらゆる経験はひとつの目的のために起きています。
その目的とはあなたの気づきを拡大するということです
ポール・フェリーニ

 数日前に、とても奇妙な夢を見ました。ひとことで言えば、とても後味の悪い夢でした。後先のことはあまり覚えていないのですが、とにかくネバネバとした強力な蜘蛛の巣に私自身が絡まれた…まさに不愉快極まる夢でした。実際、我が家の庭にも木々が幾らか植わっているので、この時期は蜘蛛が巣を張っていて、出かけるときに、よくそれに引っかかってとても不愉快な思いをしますが、でも夢の中の蜘蛛の糸のような強力な巣に絡まれたのは初めてでした(笑)

 夢から覚めてすぐに直観的に思ったことは、自分で創った蜘蛛の糸で、自分を縛っているんだなあ…ということでした。今秋の、何と目まぐるしく忙しかったことか! 確かに、秋は仕事が集中することは多いのですが、今秋は特に連日、息つく暇もないくらいの日常だったのです。まだ少し続いています。

 私は少々“仕事依存的傾向”があるようです。本当は、仕事のほかにもやりたいことがあって、自由に生きたい、もう少しスローライフを楽しみたい…といつも願いながら、ついつい仕事の方を優先してしまいがちなのです。その結果、このところ本もじっくり読めなかったなあ…。観たい映画も沢山見過ごしてしまったなあ…。会いたい友人にも会えなかったなあ…。好きな海も見に行けなかったなあ…。楽しい英会話もずっと休んでしまったなあ…。猫の額ほどの小さな庭の草も取れずに、ぼうぼうに生えてるなあ…。

 余談ですが、先日、東京に住む娘から久々に電話があり、「お父さんの夢を見たよ!」と言ってきたので、嬉しくて「わあっ!どんな夢だったの?」と訊いたら「お父さん、庭の草を抜いてたよ!」…と。 ははは!驚きましたねえ。あの世からも、ぼうぼうの庭の草が気になってる?!… そういえば生前から庭の草はコツコツと取ってくれていて助かっていました。それを聞いてからは、何はともあれ少しずつ頑張っています(笑)

 こんなことを書いていると段々と自由で楽しい気持ちが甦ってきました。自分で創った蜘蛛の糸で自分を縛ってしまうほどに、私はこの所、とても不自由に生きていたんだ…ということをあらためて夢はしっかりと教えてくれたようです。タイトルのフェリーニが言っているように、“何かに気付きなさい…”と潜在的な自分がその夢を引き寄せたのでしょう。

 自分が侵してしまった過ちも、不愉快な出来事や、例えそれが不愉快な夢であっても、やはりそこには気付くべき意味があって引き寄せた現象なのだと私は理解しています。そして、それから逃げないでしっかりと対峙することによって、気づきは深まり、気付きが深まるに従って、その人の意識は拡大し、その意識の広がりは徐々に、本当の“愛”や、真の“生きる意味”に繋がり、やがて私たちが、最終的に求めんとしている「自己実現」の道へと、辿り着くのだろうと確信しています。

 “気づき”は私が指導している講座でも大変大切に考えています。私はどんなネガテイヴな感情からも、そして出来事からも、決して逃げないように出来るだけ気を付けています。 そして自分なりに気づいたら、あとは起きたことを心から赦して、果敢にそれを手放していきます。 「逃げない。はればれと立ち向かう。それが僕のモットーだ!」 私は岡本太郎氏のこのメッセージにいつも勇気づけられています。

 いつかのコラムにも書いたと思いますが、感情もそして起き湧いてくるすべての出来事にも「いい・悪い」「正しい・間違い」は決して無いということ。それを決めてしまっているのはその人であり、それが“罠”となってその人の人生を不自由にしていきます。 ただ“悲しい”“つらい”“寂しい”“不愉快”…等々、私たちの持つ「感情」は、私たちにとっては唯一の真実です。起き湧くすべての出来事を前にして、真実であるその感情だけを尺度にして、自分はどうしたいかの態度を決めていく…。これが私の指導している親業のスタンスです。

 蜘蛛の巣に絡まれたあの不愉快な夢も、確かに私にとっては、気付くべき意味のある夢だったと思います。私のライフワークでもある今の仕事を、さらに充実していくためにも、蜘蛛の糸で私を縛るのではなく、“自分の糸”で、本当に生きたい人生を楽しみながら、心を込めて紡ぎ、織り上げていかなければならないのです! さらにそう思えてきたのでした…。 それに蜘蛛には八本もの沢山の足があることにも改めて気付きました! ひとつの道にこだわらず、蜘蛛の足の如く、可能性の幅は沢山あることに、いや無限にあることに気づいたのでした。視野をもっともっと大きく広げて生きてみよう!  

 後味の悪かった夢も、こうして様々な角度から見ていくと、こんなに可能性の広がりがあるんですねえ! 興味深いですねえ! 私は、自分が見た夢を“縛り”の定義から“可能性”の幅のある定義に創り直したようです。私はこの新しい視点でこれからを生きていくのです。肯定的にも否定的にも私たちは、自分の定めた定義(視点)によって自分の人生を創造していくのですから。(コラムNo19

 視点が変われば人生は変わります。仏陀も「心がすべてである。あなたは自分が考えたものになる」…と言っています。私たちには、自分の人生を創造する力があるということを忘れてはならないのです。一度しかない人生(もしかしたら来世があるかも…)でも、決して先送りにはしたくない。やはり今を納得して輝いて生きていきたい…。私は心からそう願っています。

嫌なことに出逢ったときは、この状況をいかに
ポジテイブに使えるかを学ぶチャンスです
賢者のことば


*次回のコラムは11月20日前後の予定です

2016年9月20日火曜日

私は、私にできることをしているだけ ~“ハチドリのひとしずく”より~

Column 2016 No.40

森が燃えていました

森の生きものたちは われ先にと逃げていきました
でも クリキンディという名のハチドリだけは 
いったりきたり、くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは
火の上に落としていきます

動物たちがそれを見て「そんなことをして、いったい何になるんだ」
といって笑います。クリキンディは、こう答えました

「私は わたしにできることをしているだけ」

~アンデス地方の民話 “ハチドリのひとしずく”~


 文化人類学者で環境運動家の、辻 信一氏が南米のアンデス地方を訪れたとき、その土地に語り継がれているというこのハチドリの物語を、先住民族のひとりから聞いたというのが始まりのようです。本も出版されています。(「ハチドリのひとしずく」辻 信一監修 光文社)

 このクリキンディの民話は多くの人の心をとらえ「ハチドリ計画」というネットワークもできたようです。無関心な動物たちにクリキンディの「私はわたしにできることをしているだけ」と毅然として伝えたそのひとことが、どうやら多くの人々の心を魅了したようです。私も感動を覚えたその一人です。無力なハチドリが自分の身の危険も顧みず、“できることをしているだけ”という無心の行動が心に沁みたのです。そして私自身、自分にできる“ひとしずく”は何だろう…とあらためて感じ始めたのでした。

 もしかしたら、この民話を聴いた多くの人々は「考えてもごらんよ!あの大きな山火事に一羽のハチドリの水運びが、いったいどれだけの役に立つんだ?」…と周りの動物たちと同じことを思った人は多いのではないでしょうか。そしてそんな馬鹿な真似は絶対にしない!…と。 確かにハチドリは火事をどうすることもできなかったでしょう。自分の命を落とすことになったかもしれません。

 しかしその小さなハチドリの勇気が、もしかしたら周りの鳥たちや動物たちに、加勢の気持ちを呼び起こしたかもしれません。もっとも、これはあくまでもひとつの物語です。しかしクリキンディの民話に多くの人たちが魅了されたのは、何かのために無心に勇敢に戦う姿を、やはり美しいと感じるハートが、私たちの中にあるからではないでしょうか。マザー・テレサの残した有名な言葉があります。

愛の反対は憎しみではなく無関心です

 無関心は一見無害のように思われますが、世界のどこかで何かがあっても“われ関せず”で、多くは“対岸の火事”なのです。私をはじめ陥りやすい行動ですが、やはり無関心は「愛」の対極にあるとしか思えません…。しかし“私にいま何ができるだろう…”と考える人は果たしてどれだけあるでしょう

この国をよくするのは、財務大臣でもなければ、総理大臣でもありません。
国民一人ひとりの、ほんのちょっとした生き方にかかっています

 株式会社「イエローハット」創業者の鍵山秀三郎氏の言葉です。鍵山氏の生きざまは、まさに“ハチドリのひとしずく”を思い起こします。彼が若い頃、初めて入社した自動車会社は、従業員は粗野で職場は乱雑極まる状態でした。そこで彼は毎朝、誰よりも早く出勤をして、真っ先に取り掛かったのがトイレの掃除でした。何故なら、とても汚れていて誰もが一番嫌がる場所だったからです。

 彼は汚れた職場やトイレを見て、少なくとも無関心ではいられなかったのです。同僚たちからは「余計なことはやめておけ!」と言われたり、嫌がらせも受けたりしたけれど、彼はその信念を決して曲げなかったのでした。まさにクリキンディの「私はわたしのできることをしているだけ」の強い信念だったのです。

 やがて職場から店まで綺麗にしていくうちに、不思議なことに従業員のモラルも上がってきて、客層も違ってきたというのです。「私は少しでも会社をよくしたいと始めたのが、掃除という小さな行動でした。掃除をすると心が澄んでくるんです」…と。彼は会社のトイレの掃除だけではなく、公共施設のトイレ・街頭の溝掃除まで徐々に広げていったのです。たった一人で…。周りが何と思おうと、まさに“ハチドリのひとしずく”を、信念をもって貫いていったのでした。

 周りの人は彼のその行為を見て“ここだけが綺麗になったってねえ…”とか“すぐにまた汚れるのに…”とか森の動物たちと同じように傍観(無関心)していたかもしれません。しかし「ひとつでもふたつでもごみを拾えば、それだけ世の中が綺麗になります…」と。それが彼の信念だったのです。やがてそれに共鳴する人々が徐々に増え、今や日本全国120ヶ所に大きくその波は広がり「掃除に学ぶ会」として、鍵山氏の信念を受け継いだ人々が、無心に掃除という活動を続けているのです。クリキンディのささやかな“ひとしずく”が、社会を変えていったのです! 

 その気になって周りを見渡してみると、ハチドリの働きをしている人は、あちらこちらにいないでしょうか。先日、本通りを歩いていたら、若い女性とたまたま目が合いました。するとその女性が輝くような笑顔を返してくれたのです。知った人ではなさそうだったので、ちょっとびっくりしました。私も思わず思い切りの笑顔で返しました。そしてその日の私の心は、何だか幸せ感でいっぱいでした。それから私はひとりで笑顔の練習をしたりしているのでした(笑) 心からの笑顔が、こんなにも人の心を幸せにするのなら、私も頑張ってみようと思ったのです。ハチドリのひとしずくの感動は、こうして波紋を広げていくんだな…とあらためて感じたことでした。

 赤ちゃんの無心な笑顔
 若者のはじけるような笑い声
 「あなたは素敵よ!」と励ましをくれる友人のメッセージ
 無心に履物を揃えている幼い子ども
 「天災ですから受け入れるしかありません」とご老人の肝の座った柔軟さ
 被災地を訪れ、懸命に復興の援助に携わっている人々
 家族の料理を一生懸命に作っているお母さん
 人里離れた谷間にひっそりと咲いている白い百合の花
 世界人類の平和や、家族の幸せを真摯に祈っている人々…等々

 ご本人の多くは自分の行動が“ハチドリのひとしずく”になっているなんて気付いていないかもしれません。そして尋ねたらきっと「私にできることをしているだけです…」と仰ることでしょう。しかしその人の無心な行動やたたずまいは、それを見る人の心に、安心感・暖かさ・生きる元気・感動を与えるのです。そしてその感動こそが人の心を動かし、周りを変え、社会を変え、世界を変えていくのです。 いま自分にできるかもしれない“ハチドリのひとしずく”…。何だか周りにいっぱいありそうに思えてきませんか。

誰もが特別なことをしたがりますが、世の中には特別なことなんてありません。
無いものを探しているうちに一生が終わってしまいます。でも平凡なことならいくらでもある。
そのひとつひとつを大切にしていけば、やがて大きな力になります
鍵山 秀三郎

鍵山氏の著書を一冊だけ紹介しておきます


*次回のコラムは10月20日前後の予定です

2016年8月20日土曜日

自分に無条件の赦しを!

Column 2016 No.39

 親業のひとつの講座の中に、自分と親との関係(自分がどう育ったか)を見つめ、レポートに纏めて提出する…という作業があります。多くの方は、思春期までにいろいろな形でかなり整理して大人を迎えますが、中には“自分が自分であってはいけない”と、どこかで思い込んで、大人を迎えている人も多いようです。

 そういう方々は、結果的に人間関係(夫や妻との関係など)がうまく保てなかったり、我が子が心から愛せなかったり…と現在の生きざまに微妙に影響を与えていきます。講座指導者として私自身がその方の痛みを心から受けとめて、コメントを返していきますが、時には専門のカウンセリングを必要とされるかたもあって癒しが長期に渡ることもあります。

 育ちの上で受け取った自分自身へのネガティブな思い込みから抜け出るのは、やはり並大抵ではありません。何故なら育ちの上で、親や周りの人々から受け取ってしまった感情想念は、ユング(スイスの深層心理学者)の言う個人無意識層の中に根強く記憶しているからです。

 からくりが理解できれば、本当はシンプルに昇華できるはずなのですが、多くは手強いくらいの思い込みもあり、本人は無意識ですがなかなか手放そうとしないのです。潜在意識に抑え込んだ感情は、必ず顕在意識に上がってきて、やがてその人の現実を創っていきます。私がよく受講生の方々に伝えるのは、潜在意識から上がってきたその時こそがその感情が昇華していく良きチャンスだということ。大切なのはその時の捉え方です。それは苦しい作業ですが、感じては手放し、気付いては手放していけば、潜在意識はやがて綺麗になっていくはずなのです。

 日本に上陸して、このところかなりポピュラーな、ヒーリングメソッド“ホ・オポノポノ”(ハワイの精神科医ヒューレン博士提唱のもの)も、実はこの原理にフォーカスしているのです。ところが多くの人々にとって、そうは分かってもその固着した潜在意識の観念の方に足を取られて、せっかく昇華しょうと出てきたその感情想念に多くは執着して、再び潜在意識に落としてしまうのです。この悪循環のループを何とか断ってしまわなければ、いつまでもそのループの罠の中で苦しむことになってしまうわけです。一生懸命に求めながら、望む現実が創れない大きな原因が、この辺りにあるような気が致します。

 ループの罠から外れていく為に、親業のひとつの考え方がとてもヒントになると思いますので、ご紹介したいと思います。まずコラムNo12を参照ください。双方向コミュニケーションの中の「受信」つまり相手が話していることを茶々を入れずに共感をもってそのままに受け入れて聴いていく聴き方です。相手の人が怒っていても落ち込んでいても、一切の判断をやめて、ただひたすらその人の気持ちそのままの感情を、受容して聴いていくプロセスです。

 この方法を自分自身にもやっていこうというのが、親業の勧めている所謂「セルフカウンセリング」です。潜在意識から絶えず顔を覗かせてくるどんなネガティブな感情をも、一切批判・判断しないで、ただ真っ直ぐに事実を見て、無条件に受け入れていく。つまり心からの「共感」をもって自分と語っていくのです。

「私はどうしても母が許せない!」(本音の自分)
「そうかあ、母が許せないんだねえ…」(客観的に見ている自分
「こんなことがあった!あんなことがあった!…」(本音の自分)
「そうかあ、こんなことやあんなこともあったんだねえ…。本当に傷ついたねえ。だから今もゆるせない気持ちでいるんだねえ…」(客観的に見ている自分

 …といった具合にです。大切なことは、自分の本当の気持ちから絶対に逸れないこと。迷っている自分、醜い自分そのまんまの自分を赦すのです。事実をきちんと受け止めることこそが自己理解であり、癒しであり、実は究極の赦しなのです。そしてそれがやがて深い気づきに繋がるのです。例えば“この母に出逢ったからこそ~を学べたのだ…”のような発想の転換にやがて辿り着くことも多いのです。本当の自分に対峙していると、気付きは自然にやってきます。焦らないことです。

 しかし大切なことは、感情に長居をすることは禁物です。「感じること」と「感情に浸ること」とは違うのです。感情に執着しやすい自分に気付いて、爽やかに解き放していく。難しいですが、それがこの世界での学びなのだと思います。

 ずっと以前に聴いた、宗教評論家ひろさちや氏のお話(おそらくカセットで…)の一節に、とても心に残る逸話の紹介がありました。確か「曲がった松」と言うタイトルだったと思います…。

 「あるお寺の庭に、一本の曲がった松の木がありました。和尚さんは、数人の小坊主さんに言いました。“よいか!あの松をまっすぐに見たものに、褒美を与えるぞ…”と。小坊主たちはさっそくまっすぐに見える場所を探そうとして松のまわりを歩き回りました。“和尚さま!ここから見ると松はかなりまっすぐに見えます!”と口々に和尚さんに伝えるのでした。ところがひとりの小坊主Bは、松のまわりを一回りして言ったそうです。“和尚さま。私にはどう見てもこの松は曲がって見えます…”と。和尚さんは、しばらくして小坊主たちに伝えました。“よし!曲がった松をまっすぐに見たB坊主に褒美を与えよう!…”と。」

 曲がった松はどう見ても曲がっているのです。“まっすぐに見る”ということは曲がっている松を曲がったままに見る。それが“事実を見る”ということなんですね。私たちはこの逸話の中の多くの小坊主さんのように、曲がった松なのに何とかまっすぐな松として見たいのです。つまり痛みを伴ったネガティブな感情…怒り、悲しみ、不安、嫉妬、惨め…等の感情は、何処かいけない感情として、見ないふりをしたり、まっすぐに感じることから多くは逃げようとしてしまいます。自分の今いる心の位置をまっすぐに、つまり事実を事実として見ていくことこそが、真の自己理解である…と賢者(和尚)は言おうとしているのですね。

 私の祖父が時に口にしていた言葉があります。「われわれ凡夫は生きているだけで罪深い存在なんだ。しかし佛(ほとけ)さんは、そのことをしっかりご存じで、“罪悪深重の我々を、そのまんまで救う”と言って下さっているんだ…だから何でも恐れず体験することが人間としてとても大切なんだよ!」と…。確かに!地球次元を体験するために私たちは生まれてきたんですものね!

 ところが体験をして失敗をしてしまうと大抵“自分はなんて駄目なんだろう…”と、また自己処罰の感情に圧倒されるんですよね…。そして多くの人が言います。「赦そうと思うのに恨みの感情を手放せない自分が赦せないんです」…と。赦せない自分を赦せない…私にはその痛みが痛いほど解ります。でも私は、それでも赦す練習をしています。何ごとも練習です!訓練です!赦せない自分、駄目だと思っている自分に“…それでも私はわたしを赦します。OK!大丈夫大丈夫!”と何処までも丸ごと赦してしまうのです。

 それが何度来ても赦してそして赦すのです。失敗しても恥をかいても、例え過ちを犯したとしても、そこに気付きさへあれば、経験したことが大切なのですから。祖父が言うように、大いなる存在は我々を初めから赦して下さっているのだから…。「赦し」は自分への最高の愛でありまた未来を創っていく力です。 私もまだまだ修行中ですがどんどん楽になっています。そして練習をしていくと、感じることと手放していくことが、ほぼ同時に出来るようにもなります。

 曲がった松をまっすぐな松に見ようとする徒労はやめて、ネガティブな感情をそのままに抱きしめてあげましょう。幼い子どもと一緒です。むずかっている子どもを、暫く抱きしめていてあげていると、子どもは納得して自分からすっと離れていくではありませんか。感情も同じです。

自分を赦さないということは、世界さえも変えられる力を
自分の中に閉じ込めてしまうことです
パトリック・ミラー

あなた方のすべての過去は、神にとっては何ほどのものでもありません。
神にとってあなた方は自分の世界を試行錯誤しながら探検している子どもなのです
ポール・フェリーニ

もしもこの世が喜びばかりなら、
人は決して勇気と忍耐を学ばないでしょう
ヘレン・ケラー

私たちの敵とは「ためらい」です。自分でこんな人間だ思ってしまえば、
それだけの人間にしかなれないのです
ヘレン・ケラー


*次回のコラムは9月20日前後の予定です

2016年7月20日水曜日

小さな晴れ間を楽しんで

Column 2016 No.38

 しとしとと降っていた雨が止むと、ちょっぴり青空が出て、一瞬太陽が地上を明るく照らします。梅雨時期のこのひとときの“小さな晴れ間”に気持ちを注ぐと、心の中が光で満たされます。ああいいな…と楽しんでいると、またあっという間に雲がかかり、暫くすると雨になりました。

 私たちの心も、晴れたり曇ったり、雨だったり、大変な荒れ模様だったり…晴天のひとときばかりではありません。私自身も気持ちが曇り模様だったり、荒天候のひとときが必ずあります。そんな時は何だか力が湧かず、一点を見つめてぼんやりしてたり、ソファに寝っ転がったりしています。しかしお天気と同じで、気持ちも必ず回復するんですねえ。

 私が以前と違うところは、その気持ちの回復に気付ける感度がとてもよくなったということでしょうか。以前の私だったら、心模様は晴れている筈なのに、雨模様を引きずって、無意識にその感情に浸ってしまい、一日中をどんよりの曇り空…にしてしまうわけです。小さな晴れ間に気付ける感度が冴えてきたのは、瞬間瞬間の感情を掴めるようになったこと、気持ちの仕切り直し(コラムNo26)が出来るようになったこと…がその変化を生んできたと思います。

 さて、親業のプログラムには“すべきことよりやりたいことを!”という投げかけがよくあります。“あなたに何の制限もないとしたら…”

  あなたが本当にやりたいことは何ですか
  あなたは何が欲しいのですか  
  あなたの人生であなたはどう生きたいのですか…等々

 受講者のかたは、初めは私もそうであったように、多くは戸惑ってしまいます。「…家族のために主人は朝から晩まで働いているのに、妻の私がやりたいことをやるなんていいのでしょうか…」と質問がくることもあります。 “楽しむことや、やりたいと思うことをやる”ということに対して、私たちはどうしてこんなにも罪悪感が染みついているのでしょうか…。それはおそらく幼い頃から忍耐・勤勉は美徳。努力こそ人間として美しいこと…。遊びは不謹慎…。どこかでそう学んで大きくなったからでしょう。

 “継続は力なり”やはり地道な努力・忍耐・勤勉は実を結びます。確かに道を極めた人々は、忍耐・努力あっての結果だと思います。史上最高年齢(80歳)でエベレスト登頂を果たした三浦雄一郎さんを例に挙げても、壮絶な忍耐・努力の結果の登頂成功でしょう。しかし彼の「ワクワクの感動があるから僕は山に登るのです…」「あきらめない!一歩ずつ…」のフレーズから垣間見えてくるのは、人生を楽しみ、やりたいことをやり、自分の夢を決してあきらめない人達の生きざまの中には、努力・忍耐に悲壮感がありません。

 さて、“楽しみましょう”という投げかけに対して「子どもが小学校に上がれば時間ができるので…」「次男が大学を卒業すればお金が少し楽になるので…」と、楽しむには大きな晴れ間(時間・お金)がいる…と信じている人たちからよく聞く言葉です。しかしその時が来たからと言って、実は大きな晴れ間が来るとは限りません。何故なら“楽しんでいいのだ”という気もちを自分に許していない人は、その時が来ても、また新しい課題を見つけて、やっぱり楽しむことを先送りにしてしまうからです。

 「もしあなたの余命が、あと一年と宣告されたら何をしたいですか?」と続いて質問すると、楽しむことを先送りするタイプの人は「家を掃除しておきたいです」(笑)…と! 何だかどこまでも夢がないのです…。家は日頃から綺麗にしておきましょう…とつい言ってしまいます(笑)

 しかし、人生を楽しんでいる、ある受講者の宿題の中にはこう書いてありました。「…自分が余命一年の命と宣告されたら…“絵を描きたい”と思いました。そんな気持ちで運転していたら、空や雲が泣きたくなるくらい綺麗で、この世の中にある、当たり前のようなあらゆるものが、とても愛おしく思えました。桜を見ても来年はもう見れないかもしれない…と思うと、今のこの瞬間瞬間を大事にしたいと想えてくる…そんな不思議な気持ちになりました…」と。

 そうです!来年のことは誰にも分らないのです。今だけが現実です。大きな晴れ間を待つ場合ではありません。今のこのひとときの“小さな晴れ間”に気付いて、自分に“…いま何がしたいの?”“何が食べたいの?”“どこに行きたいの?”“何を言いたいの?”“誰と話したいの?”と問いかけてあげましょう。あなたの体からそしてあなたのハートから、必ず答えが来ます。その答えで瞬間をわくわくと生きてみるのです。それを積み重ねることで、私たちは生きる達人になっていくでしょう。つまり生きる実感と喜びの人生が味わえ、生きる本当の意味が見えてくるでしょう。

 “正しい・正しくない”“いい・悪い”“常識・非常識”…等々の価値判断をすべて外して…。行きたいところに行ってみる。見たいものを見てみる。会いたい人に会ってみる。食べたいものを食べてみる。着たいものを着てみる…これまでの人生でやり損ねたことを果敢にやってみる…などなど。

 私の一日の始まりは、たいてい「何が飲みたい?」から始まります。休日のある日、お茶をゆったりと楽しんでいたら、急に“海が見たいなあ”という気もちになってきた。どうしたい?…と、もう一度自分に聞いてみたら“思い切って行ってみようよ”と答えが来た。すぐにお化粧を始めて、服を着替えて、食べたいおやつをバックに詰め込んで、特別身軽にして出かけたものです。私は海が大好きで、呉市の辺りで仕事があるときは、今でも帰りはJRを途中下車してよく海を眺めます。海を見ていると無性に心が喜ぶのです。

 ずっと以前、“私にとって心が喜ぶことって何だろう”と模索し始めた頃、何の脈絡もなく“メリーゴーランドに乗りたいなあ!”と思った。思ったが吉日! 休日とか仕事の後に、どこそこにあるよ…という情報があると、果敢にそれを訪ねて行ったものです。あの頃はデパートの屋上にもありましたよ! ハウステンボスや、岡山のチボリ(現在閉園)にも何度か行きました。ひたすら“メリーゴーランド”目的にです! 大人になってメリーゴーランドに乗りたいと思う人はまずありませんので、行くのはいつも一人…です(笑)

 でも夢がかなって本当に幸せでした。しかし、いざそれに乗るときには、結構勇気がいる! 子どもか孫(まだいません)が一緒だと言い訳けも立つけれど大きな大人が一人で乗るんですから。それに、私ひとりのために稼働してもらうこともあるわけですよ(ハハハ)。今もそれへの憧憬はありますが、もういいかな…という感じです。満たされたのです。

 誰に笑われてもいいのです。本当にやりたいことを、一切の価値判断をやめて、ひとつひとつ丁寧に満たしていくうちに、私の中の、幼いひとりぼっちの寂しがっていた私、気付いて欲しがっていた私、もっと遊びたかった私…が、どんどん癒されていきました。そんなある日のできごとです! それまで胸の左奥あたりに何となく感じていた小さな空洞が、突然熱くなってパッと何か埋まった感覚があったのです! それは今考えても不思議な感覚で奇跡のひとつでした。それから再び空洞を感じないのです。私は癒されていたのです。

 このように無意識ですが、人は自分の中で情報量が足りないものを満たそうとする傾向があるようです。だから価値判断を一切やめて、心が求めることを正直に求め、果敢に満たしていくことを許してあげてください。一日一日を納得しつつ人生の旅を続けていたら、自分に必要なすべての情報がやがて満たされ、人は自然に「自己実現の欲求」へと辿り着くのではないでしょうか。

    “人生なぜ楽しむことに意味がある”のでしょうか。
    私なりに感じてきたことをまとめてみたいと思います。

  • 心が喜ぶこと、得意なこと、あなたの心が動くところは、あなたの使命(人生の答え)に繋がっていることが多い
  • 心が喜ぶことをやることは、自分への最高の愛だから、自分自身への受容度が高まり、自尊心・自己価値感が増してくる
  • 自己受容度に比例して他者への受容度が高まる
  • 心が喜ぶことをやることは、自分への真の癒しに繋がる。機嫌のいい父親・母親になり、子育てが楽で、楽しいものとなる
  • 人生万般のストレスに強くなる
  • やりたいことをやっていくことで、動かなかったエネルギーが動き始める。その結果、健康になり、人生が面白くなり、生きている実感が持てるようになる。
  • 真の欲求を納得して積み上げていくことで、自分にとって必要な情報が満たされ、マズローの言う「欲求段階」(コラムNo15)が次々とクリアされ高度の欲求(達成の欲求・自己実現の欲求)へと自然に向かっていく

人生には速度を上げるよりも大切なことがある
マハトマ・ガンジー

自分の心と直観を信じる勇気をもちなさい。あなたはすでに本当に
なりたいものを知っているのだから。それ以外は二の次だ
スティーブ・ジョブズ


*次回のコラムは8月20日前後の予定です