2017年7月20日木曜日

今、この瞬間を幸せでいましょう。それで充分です

今、この瞬間を幸せでいましょう。それで充分です
マザー・テレサ
Column 2017 No.50

 次の一文(作者不詳)は、ずっと以前、受講者のK・Mさんが私に送って下さったものです。

最初 私は高校を卒業し、大学に入ることばかり考えていた
その次には 大学を卒業し、就職することばかり考えていた
その次には 結婚をして、子どもを持つことばかり考えていた
その次には 私が再就職出来るように、早く子どもが大きくなって小学校に上がってくれることばかりを考えていた
その次には退職することばかり考えていた
そしてもうすぐ「死ぬ」という今になって‥‥ふと、“生きる”ということを忘れてきたと気がついた      

 先日、久しぶりに出逢ったこの一文に、私は再び引き込まれました。私自身、今を生きることの大切さを理解し、今に意識を置いて生きようと、心してきたつもりではいたけれど、この作者と同じように、人生の終盤に近づきつつある今、本当に“生きてきただろうか…”と、あらためて自分の人生を振り返ってみる気持ちになるのでした。

 確かに、私は懸命に子どもを育て上げ、また仕事も頑張って一応の成果もあげてはきたけれど、心の一隅に時折よぎる、虚しさや、寂しさ・憂うつ感…はいったい何だろう。機関車のように前だけに向かって懸命に生き抜いてはきたけれど周りの景色をゆったりと眺めてきただろうか…。いつも先々起ってくることを予測して、仕事においても何事においても、用意周到に準備をして臨んできたけれど、自分の成果を楽しんだり、評価してあげてきただろうか…。

 5月の中半、娘と久々に佐伯区の植物公園に行きました。暑くもなく寒くもなく心地いい天候でした。可憐な花、エレガントな花、堂々とした花々たちが、精一杯自分の花を咲かせていました。花々と心を通わせながら丁寧に見ていきました。時折聴こえてくる鳥たちの声にも耳を傾けました。ベンチに腰を下ろしてソフトクリームを食べながら空を眺めると、綿菓子のような雲が浮かんでいました。何という幸せなひとときだろう…。時間が止まっているような感覚がありました。時間に追われるような日々の感覚が、遠くに感じられるようなひとときでした。明日の仕事のことも、今夜の夕食のことも考えていませんでした。そのひとときがただ心地よく、心も身体も平安と喜びに満ちていたのです。久々に今のひとときを楽しんでいる感覚です。

過去に生きることはよそう。今を生きよう。
食べているときには食べ、愛しているときには愛そう。
誰かとおしゃべりをしているときにはしゃべり、
花を見ているときには花を見よう
そして瞬間の美しさをつかみとろう

 以前コラムで取り上げたレオ・バスカリアの詩を思い出しました。そう!躍動している命が感じられるのは、過去でも未来でもない。まさに「今」だけなんだなあ…と、無心に咲く花々や広い空を眺めながら改めて実感したのでした。本当の自分に出逢えたような安堵感…。前だけを見つめて生きることも素敵だけれど、時には周りの景色を眺めたり、こうして心赴くままに降り立って、すべての日常から離れてみる…。こんな機会をもっともっと自分に与えてあげたい…そう思いました。何故なら本当に生きている実感は、こうしてゆったりと自分の心に出逢ってあげているときなんだなあ…と改めて気付いたからです。

 しかし世の中は楽しいことばかりではありません。つまり、晴天もあれば雨天もある…。

誰にだってあるんだよ 人には言えない苦しみが…
誰にだってあるんだよ 人には言えない哀しみが…
ただ黙っているだけなんだよ…    相田 みつを

 心地いい幸福がずっと続くなんて誰も信じてはいないでしょう。その通りです。人生には色々と予期せぬことが起こってきて、希望を失いかけることもあるものです。しかし、本当の自分に出逢うということは、苦しい場面であっても逃げないで、幸せな場面と同じように、そのひとときの住人になることだと思うのです。

ネガテイブな感情も優しく見つめてあげてください。
それを味わうために人として生まれてきたのだから。 日木 流奈

 ネガテイブな感情も私たちの大切な一部です。静かに呼吸を意識しながら、苦しいひとときの自分、哀しいひとときの自分と共にいてあげる。しかし長居をする必要はないのです。感じては見送り、感じては手放す…。あとは気持ちの赴くままに心が喜ぶことをやってあげたらいいのだと思います。何故なら私たちの心は本当はいつも喜んでいたいから…。

 喜びも哀しみも私の人生の大切な伴侶…。「今を生きる」ということは、現在に集中できる能力です。うわの空にならないように、瞬間瞬間を感じて生きていく。

自分を揺すって絶えず目覚めていよう…。
今日を心ゆくまで味わって生きるのだ。 デール・カーネギー

 “自分を揺すって絶えず目覚めて…”というカーネギーのフレーズは、私の心を沸き立たせるものでした。まさに現実は“いま”だけ!そしてそれが本当の自分に出逢っているひととき…。目を覚まして、思い切り感じて、生きていこう。

昨日は去りました。明日はまだ来ていません。
私たちはただ今日あるのみ。さあ始めましょう。 マザー・テレサ


*次回のコラムは8月20日前後の予定です

2017年6月20日火曜日

あなたの感度はあなたの最高の教師です

Column 2017 No.49

 自分からくる感度は、自分にとって最高の教師だ…と思える人は、生きる上で、まさに“最高の感度”を持った人だと思います。今の時代、メデイアによる情報にどっぷりと浸かって自分軸がどんどんブレて、それにつれて生きる上での“感度”が極端に鈍ってしまっている時代に思えます(コラムNo16)とても憂慮すべきことに思われます。

 本来は一人ひとりの中に、いわば感度を基本とした自動制御装置のようなものが備わっており、今は息を抜くとき…いまは頑張るとき…それは誰にも分からないけれど、無意識にそれに従って健康に気をつけたり、休息を取ったり、頑張ったりしていけるわけです。ところが今の時代、会社では一日中パソコンに向かい合い、乗り物に乗ればスマホでのゲームに余念がない人々…。いつ自分の気持ちや自分の身体を感じるひとときを持つのでしょう…。感度はどんどん鈍っていくことでしょう。

 特に子どもにとってはあらゆる瞬間が大切です。一人でぼんやりしたり、砂いじりしたり、パパと釣りをしたり、水族館に行ったり、星空を見たり、ママとお菓子作りをしたり、本を読んだり、冒険をしてわくわくしたり、度が過ぎて叱られたり…どの瞬間も子どもの感度を育て、自分軸を強くします。ところが今の時代メデイアに押されたり、また勉強に時間にとられて、自分を感じる時間は殆どありません。

 子どもは自分軸が弱体化してくると、無意識ですが危機を感じ、いわゆる不登校をしてみたり鬱をやったり、逆に家庭内暴力に出たり暴走したり…社会や大人とのせめぎ合いをしながらでも、自分軸を取り戻すために果敢に戦います。わからなくなった自分を探し求めている状態です。愛のある指導は大切ですが、焦らずじっくりと、今のその体験を味あわせてあげることも大切です。

人間の目は 失敗してはじめて開くものだ
チエーホフ

子どもたちは勿論、人は間違いを侵しながら学ぶ権利があるのです。悩む権利も、迷う権利も、落ち込む権利もあるのです。そんな痛みの中で人は哲学をし、鋭敏な感度・自分軸を育てていくのだと思います。間断なく与えられる外からの刺激(メデイアからの溢れる情報・親からの支配や怒声・説教…等々)によって子ども達は(私たち大人も)自分自身にゆったりと対峙するチャンスが奪われ、大切なエナルギーをすり減らし、自分自身をどんどん見失っていくのです。その結果が今の子ども達や人々の心の混乱であり、憂慮すべき社会情勢なのです。

 受講者Uさんの体験です。「…食事のとき家族みんなでテレビを見ているとき、父がニュースの内容について“あいつはいい・悪い”とか、“けしからん”とか自分の考えを大声でずっとしゃべり続けるので、私は私なりの考えを感じるゆとりがなかった。いつも父親の意見を聞かされてきました。だから、何処か借り物の人生を送ってきたような気がするのです…。」

 Uさんはその痛みがどこから来たのかに気付かれ、乗り越えていかれました。自己理解は大切です。しっかり自分を感じて、この違和感はどこから来るのだろう…このしんどさはどこから…と自分を感じてみることはとても大切なのです。その多くの答えは社会情勢や家庭の中で“自分を生きてこれなかった環境があった”ということです。

 人の数ほど生き方のスタイルはあるのです。正しい・正しくないは無いのです。自分のスタイルを大事にして、自分の感度を大切にして、他者と較べず、自分の道を堂々と生きていけるような環境を、子ども達にも私たちにも与えてあげたいものです。

人は人 吾は吾なり とにかくに 吾行く道に 吾は行くなり
西田 幾太郎

 「親業」が基本にしている考え方は「自分軸」がものさしです。例えば、一般論に“子どもが人を叩いたら、怒る(叩く)べきです”…があったとします。その価値観を100%信頼して、あなたがあなたの子どもにいつもそれをあてはめるとしたら、子どもはつぶれます。「親業」では決して世間のものさしで判断をしません。

 以前のことですがある街なかで、父親が前を歩き、2人の兄弟がその後ろを歩いていました。弟が盛んに兄の方にちょっかいを出しています。兄の方は初めは無視をしたり、かわしたりしていましたが、とうとう切れた様子で弟を蹴って泣かせてしまいました。すると父親がいきなり振り返り、兄の方の頭をげんこつで殴りました。兄は何の抵抗もしないで、虚しそうな表情で歩いていきました…。こんなことが続いたとしたら、この兄の方の救いはありません。いつか潰れてしまうでしょう。父親は子どもの様子は一切見ていないで、無意識ですが、世間の物差しや先入観で反応したのでしょう。

あなたの感性がものさしです

この父子の親子の場面でも、親は自分の“今の感度”を信頼していくのです。ある時は2人の子どもの言い分をきちんと聴いていく。ある時は言って聞かせる。ある時は蹴らずにおれなかった兄の心の痛みに共感していく。或は黙って見守る…。それを決めるのは、お父さんお母さん一人ひとりの感性であり、それを信頼していくのです。またその感性を訓練していく場でもあります。

 自分の感性や感度を、より信頼していくためには、自分の感じ方を尊重していくことから出発です。私たちは育った環境の中で、“あなたの考え方は未熟だ…。あなたの感じ方はおかしい…。あなたは間違っている…。”私たちはそう受け止めてしまった為に、自分の感じ方に自信が持てないのです。感情には間違いというものはないのです!自分に来た感情は、自分にとってはいつも真実なのです!その自信を取り戻していくことからです。また自分の気持ち感情の真実を、どう表現していくかは、勿論大切ですし訓練も必要です。

 外からの情報に頼り過ぎないで、自分からくる情報を信頼して生きてみる。“こんな時あなたはどうしたい?”“今あなたはどう感じてる?”と自分に問いかける練習も必要です。やがて必ず答えが、自分の中からやってきます。自分を信頼すればするほどやってきます。直観力も冴えてきます。社会の、ある種のイデオロギーに流されたり、宗派のドグマや価値観を鵜呑みにすることもなくなり、ひとり一人の中にある感度(制御装置)が正常に起動し始める!それこそが、私たちの悲願である“人類の平和”への強力な流れを作っていくのでは…と私は信じているのです。人類一人ひとりの魂の中にこそ真実が存在していると思うからです。祖父のことをたびたび出して恐縮ですが、名言だと思うので書いておきます。

  本を読み過ぎない(しかし本を読むことは大切と常々言っていました)
  価値観を鵜呑みにしない
  誰であれ他者を崇拝しすぎない

 “何事も過ぎたるは及ばざるが如し…だよ。自分を信じ、自分からくる答えを信頼して生きていきなさい…” それは、彼が常に言いたかったことでした。その影響からか、私は、私に来たフイーリングは、私にとって行くべき道…そう信じて今日も生きています。自分の中にある力を信じない限り、人は“孤独や惨めさ”からは、決して解放されないと思うのです。そして真の平和…も。


*次回のコラムは7月20日前後の予定です

2017年5月20日土曜日

一番おいしい料理はお母さんの作る料理だ

一番おいしい料理はお母さんの作る料理だ
田中 健一郎
Column 2017 No.48

 「食べる」ことは、人間の最も基本的な欲求である…と心理学者のマズローも言っています。生命を維持したい…という“生存欲求”に繋がっているからです。確かに「食」は人間の生存に係わる最も基本的な分野です。しかし飽食と言われているこの時代ですが、人々の「食」に対する心の置き方考え方は今なお発展途上にある気が致します。

 厚生労働省が提示している “食を通じて子どもの健全育成のあり方に関する検討会”に関する報告書の中に次のような一文がありました。

「…近年子どもの食をめぐっては、発育・発達の重要な時期にありながら、栄養素摂取の偏り、朝食の欠食、小児期における肥満の増加、思春期における痩せの増加…など問題は多様化・深刻化し、生涯に亘る健康への影響が懸念されている。また親の世代に於いても、食事づくりに関する必要な知識や技術を十分有していない…との報告が見られ、親子のコミュニケーションの場となる食卓において家族そろって食事をする機会も減少している状態にある…(以下略)」

 確かに私個人の仕事を通してもその実態を知ることになります。
 母親が精神的な不安定で朝起きることができず、よって朝食の用意ができない。お弁当も作れない。また現在多く問題になっているのが、共働きや自営で両親が忙しくまた子ども側にもお稽古や塾などの事情もあって、食事の時間がまちまちで家族そろっての食事ができにくく、子どもが一人で食事をする日が多い。また親が日常的に忙しく、店で作られた食品・加工食品・ファーストフード・レトルト食品…等々で賄っていることが多い。当然、栄養が問題になっているケースも目立ちます。

 さらに厚生労働省が指摘しているように、親自身が“食事が如何に子供の身体・精神に影響を与えているか”という知識を学んでいない。また料理を作る為の技術を習得していない…例えば包丁が使えない。材料の処理の仕方が解らない。レシピが理解できない…等々。その結果、子どもは栄養不良に陥り、筋力の低下・疲れやすい・精神不安定な子どもが目立つ…しかも大人の中高年に発症するような肥満・高血圧・糖尿…等の生活習慣病が児童に増加しつつある…という恐るべき事実が報告されています。

 また子ども達は、メデイアの目覚ましい進化の波に飲み込まれて、たまたま家族そろっての食卓を囲むことがあったとしても、それぞれの子ども達が、テレビを観ながら…スマホを触りながら…と、せっかくのお料理に注目することもなく会話もない…食卓。この寂しい現実をどうしたものやらと、親御さんから相談を受けることも多くなりました。

 私の子ども時代にはまだテレビもありませんでした。もっぱらニュースは新聞とラジオからでした。しかし食事中にはラジオを付けることも禁止されていました。家族みんなが食卓に揃うまで、小さな子どもでも待たされました。(勿論事情があれば別ですが)そしてみんなで声を合わせて「いただきま~す!」と合掌して食事が始まりました。これは我が家が特別ではなく、おそらくどこの家であっても同じだったような気がします。

 今から考えれば食事はとても質素なものでした。でも野菜は豊富に用意されていました。母が料理が得意だったので、質素でも美味しかった…という印象があります。そして現代とは少し違う親の指導がありました。「おしゃべりはしないで静かに食べなさい!」(食事は楽しい会話をしながら食べよう!という今の価値観は素敵ですよね)「残さずに食べなさい!」「よく噛んで食べなさい!」…そのほか“背筋はまっすぐに”“肘をつかない”…等々、結構厳しい食卓だった印象があります。

 中でも驚きは「自分でこぼしたものは拾って食べなさい!と言われていたことです! 現代と比べれば驚きのマナーですね!殆ど風邪もひかない私の並み外れた免疫力はこんな所からもきているのかもしれません(笑) 今も食べ物への敬虔な想いは私の中に根付いていて、レストランでもご飯の米粒ひとつでも残さないように…と心掛けている自分があるのです(笑)幼い頃から育てられた価値観は、人の一生に影響を与えるんですねえ…。

 ちなみに私の祖父が家族みんなによく言っていた食に関する価値観があります。食事に関する祖父の「食事を頂く4原則」です。

“腹八分”“感謝して”“よく噛んで”“美味しい!美味しい!”
と言って食べたら、毒も毒にならないんだよ

 “毒も毒にならない…” 比ゆ的に言っていたのかもしれませんがその文言が印象的に残っています。  「…よく噛むことによって唾液が分泌され、発がん物質に作用し、突然変異能力を弱くすることができる。…。発がんを抑制するにも、噛むことの大切さが再確認された…」と何かに書かれてありましたので、祖父が言っていたことは、まんざら誇大な表現でもなかったようです。
 次は冒頭のフレーズ、帝国ホテル総料理長 田中健一郎氏の言葉です。

一番おいしい料理はお母さんの作る料理だ。美味しいものを
食べさせようという気もちがいっぱい詰まっているから
お母さんの料理が一番おいしい

 今の時代家族そろっての食卓は難しいかもしれません。しかしお母さんが可愛いわが子のために、わくわくと楽しそうにお料理を作る。その愛情のいっぱい詰まったお料理は、例え子どもが一人で食べることがあったとしても、その愛はちゃんと伝わる! お母さんの料理は、いま謳われるこまごまとした栄養バランス・高価な食材・目先の美しいレストランのお料理…等々を、はるかに越えるものだと思います。そのお母さんの料理は、食卓にまで持ち込まれているメデイア依存さへも、解決させていく力を持っているのではないでしょうか。

 カウンセリングの場で時に尋ねることがあります。「お母さん、お料理はお好きですか?」…と。「私は、何の取り柄も無いのですがお料理を作るときは凄く楽しいのです!」そんなお母さんの子どもさんは、今どんなに難しい状態にあっても不思議に立ち直っていけるのです。「食べる」ことは“生きていたい!”と云う人間として一番原点の“生存欲求”です。それが満たされるということは、“あなたを生かしたい!”…と言う親の最高の愛を伝えることができるからだと思います。

 ずっと以前、ある新聞の投稿欄に寄せられた18歳の専門学校生の一文がとても心に残っています。「…10年前、両親は別居し、母が私を引き取った。私はお料理を覚えて、仕事から帰ってきたお母さんに“新作”を作って喜ばせた。…でも本当は“お母さんの作ったご飯が食べたい…”とずっと思っていました…」


*次回のコラムは6月20日前後の予定です

2017年4月19日水曜日

正直な言葉は相手の心にまっすぐ届きます

Column 2017 No.47

 「…断ることが苦手で、本当は行きたくないのに、誘われるとつい行く羽目になったり、買いたくない品を買う羽目になったりして…あとで悔しい思いをすることがたびたびあります…」と言った相談を受けることがあります。

 私たちは断ることが何故こうも苦手なのでしょうか。それはおそらく幼い頃から親子関係の中で“断ることはいけないこと”“断ると嫌われる”…という価値観を色々な形で受け取ってしまったからではないでしょうか。

 お母さんから「お隣に回覧板をもって行ってちょうだい」と言われたとき、あなたが今、観たいTVを観ていたり、模型作りの途中だったりすると、「いやだ!今は駄目!」と言いますよね。するとお母さんは「ほんとに言うことを訊かない子なんだから」とか「役に立たない子ねえ!じゃあお母さんが持っていくわよ!」と不機嫌に応じられることが日常的だったりすると、「ああ、“NO”ということはいけないことなんだ…嫌われるんだ…」と子どもは受け取ってしまい、“NO”ということに罪悪感を覚えるようになっていきます。一方、

 食事のおかずを、「まずい!」と言って子どもが残したが「残念ねえ…」と言って、なぜか母親は受け入れてくれた。
 遊びに夢中になって、親との約束を忘れてしまった子供に、「困ったんだよ…」と親は諭したけれど、許してくれた。
 親にお手伝いを頼まれたが、自分にもやりたいことがあって「いやだ!」と言ったら「そうなの。残念だわ…」といって受け入れてくれた。

 生活万般、いつもそうはいかないにしても、時にこのように機嫌よく“NO”を受け入れてもらった経験のある子どもは、“NO”を言ってもいいんだ…できないことがあってもいいんだ…僕が僕であっていいんだ…と学んで育つので、人間関係に恐れがなく“NO”と言いたいときに率直に言えるのです。

 日本人の多くは、いい子を求められ“NO!ということにはリスクがある”的な教育を受けているので、一般的に自分の本当の想いを表現するのは結構苦手です。その結果“日本人は何を考えているのか分からない”と揶揄(やゆ)されたりし ますが、その原因の多くは、おそらく欧米人と違って、“はっきりNO!と言えない国民性”が、そういった誤解を生んでいるのではないでしょうか。

 でも一度しかない人生です!“NO”が言えない為に、不正直に他人(ひと)さまへの協力だけで、あなたが本当にやりたいことができないままに人生が終わったとしたら、何と悔しいではありませんか。本当に断りたいときに率直に断り、自分の時間を大切にしていくことは、自分の人生に責任をもつ人の、とても素敵で尊い行動なのです。

正直な気持ちはとても大切だ。しかし相手がそれを受け入れ
やすいように準備することは、同じように大切だと思う
おちまさと

おち氏の言っている通りです。自分の想いを表現するとき、自分の想いだけで頭が一杯になっていると、つい押しつけがましくなったり、言い訳がましくなったり…その結果、相手を傷つけたり怒らせたりして、相手との人間関係は壊れる方向に行ってしまいがちです。人間関係はコミュニケーションで成り立っています。よって人間関係が壊れてしまう原因の多くは、コミュニケーションのまずさからきているのです。コミュニケーションを正していけば、人間関係も正されていくのです。

 自分の真実の気持ちを、相手のハートに届けようと思ったら、おち氏のいうように、それなりに周到な準備がいるのです。親業はコミュニケーションの取り方を学びます。自分の本当の想いを大切にして、それがまっすぐに相手に届くように、受け取る側の心情をも大切にしたコミュニケーションの形を学習します(コラムNo11)。そしてそれを相手に伝える前に、さらに周到に訓練していきます。繰り返し訓練していくことで、やがて必ずあなたは、コミュニケーションのベテランになっていけるわけです(コラムNo12)。

 自己表現には色々な形がありますが、今回は、気の進まない誘いなど、“お断りしたいな…”とあなたが思うとき、相手に不愉快な思いを与えずに断る方法を少しご紹介しましょう。親業訓練協会主宰の「人間関係講座」が提供しているスキルのひとつです。断る「理由」と「意思」を相手に明確に伝えることがポイントです。例えば「今日は家で片づけをしたいので(理由)行かないことにします(意思)」 “意思”とはあなたの本当の気持ちです。

 “行けません”とか“できません”は意思ではないので、誘った人は「~してあげますので行きましょう」とか「あなたなら出来ますよ」のように乗っかってこられやすいのですが、“行かないことにします”と意思が伝わると、あなたの固い決意が伝わるので、“なるほどわかりました“と相手に理解頂けるのです。大切な人間関係であれば、“理由”は忘れずに付けて下さいね。「いま病人を抱えていますので(理由)今年の役員は引き受けたくないのです(意思)」のように…。

 しかし人間関係を続ける必要のない場合は、「貴金属は買うつもりはありません(意思)」「新聞は要りません(意思)」と意思だけで伝える方が、はっきりと断れます。この場合、理由を付けたりすると、逆にそこに乗っかってこられやすいのです。

 受講者Sさんの体験です。「…大切な友人なので、誘われても今までは断り切れず、少し無理をして付き合っていました。しかし学習してからは、行きたくない時には思い切って断ることにしました。拍子抜けするほどBさんはあっさり解って下さるのです。それからはBさんも、都合の悪い時は率直に断って下さるようになりました。より親密になれたような気がします…」

 案ずるより産むが易し…です。率直で正直な自己表現は、相手に安心感を与え信頼を得ることになるのです。もっとも、いつも“NO”を発信するだけでは、人間関係は成り立ちません。自分に正直でいるなら、心から“YES”と言いたいこともある筈です。 “自分への思いやり”と“相手への思いやり”が、自分の中で快適なバランスを持つこと…。これがコミュニケーションの基本です。

 自分を大切にするということは、自分に正直になることです。あなたが今、心や身体のどこかに苦しみや痛みを感じているとしたら、それは自分にもっと正直になりなさいというサインかもしれません。誰よりも自分に優しく自分を大切に生きてください。

あなたの人生はあなたのものです


*次回のコラムは5月20日前後の予定です

2017年3月19日日曜日

人の癒しは人生をかけて成し遂げられます

Column 2017 No.46

 私が前回取り上げたテーマを思い出して頂くべく、ずっと以前、受講者Hさんから頂いたお手紙の一文を、了解の上そのまま載せてみたいと思います。次女さんは現在25歳ですが、その次女さんが小学校低学年の頃の体験で、その頃頂いたお母さんからのお手紙です。

「…小学生の次女ですが、先日ふと見ると、ドレッシングの空いた瓶にお茶を入れて、まるで哺乳瓶のようにしてお茶を飲んでいたのです。それを見た時、断乳をした時のことを思い出しました。下の子の断乳の時、熱が出たりして身体の調子が良くなかったので、何の前触れも準備も無くいきなり “はい!お乳バイバイよ!”という感じで、断乳してしまったのです。1才3ヶ月頃のことです…。しかし子どもにしてみればそれはあまりに突然で、しかもまるで拒絶されたかのように感じてしまったかもしれません…。

…それでお茶を飲んでる子に“Eちゃん!Eちゃんは今、お茶をお乳みたいにして飲んでいるけど、お母さんが、お乳バイバイよ!って突然辞めたのがいやだったんじゃない?って訊いてみたんです。そうしたら深くうなずくやいなや、“ウワァ~!”と泣き出してしまい、あとはただただ泣きじゃくるばかりでした。暫くして私がちょっとその場を離れようとしても“だめ~!”と言うので、ずっと抱っこしていましたが、その抱っこも、ただ抱かれているというより、しがみつくという感じでした。やむをえず断乳をしてしまったのですが、子どもにとっては“なぜ!?”と思うばかりだったのかもしれません…。何か私と子どもの間で切れていたものがひとつ繋がったような気がしました…」

  “…子育ては本当に難しいですね…”と続いて書かれていましたが、お母さんの体調というそれなりの正当な理由があって対処したことであっても、子どもはやはり傷つくんですね。しかしこのお母さんは、そのことが子どもの心情にいかに混乱や驚きを与えてしまっていたか…ということに気付かれ、見事に対処されています。お母さんの素晴らしい“感度”に敬服したことでした。岡田氏のいう「愛着障害」に繋がるところを防ぎ止められたということですね…。

 このように子どもという存在は(我々を含めて)、覚えている筈もない年齢のことでも潜在的にちゃんと覚えていて、何かの縁に触れると、その潜在的な傷を表面化して癒す方向へと持っていくのです。子ども(私たちすべて)は誰ひとりとして自分の人生を諦めてはいないのです。何度も何度も親の愛を確かめたり(親に代わる対象を見つけたり)Hさんのお手紙にあったように、子どもの心に残っているこだわりは勿論無意識ですが、“幼児がえりを”してでも、修復を試みます。小学校5年生のW君(次男)の例もそのひとつです。W君は不登校を機にお母さんの“後追い”(あとおい)をはじめました。母親への後追いが見られるのはエリクソンの発達段階によれば幼児期前期に見られる行動です。お母さんのお話によると丁度その時期、長男の入院で次男の面倒が見られず、実家に一年近く預けていたということでした。

 またある女の子Sさん(小学4年生)はトイレに行くのに母親についてくるように執拗に強要し、“パンツ脱がせて!”と要求したり、スプーンを欲しがり赤ちゃんが持つような危なっかしい手つきで食べたり、赤ちゃん言葉で話す…などの行動が現れお母さんは大変混乱されていました。無意識ですが“幼児がえり”をしてでも母親に気付いてもらい、心の空洞の修復を逞しく試みようとする姿です…。そんな“幼児がえり”をする子どもの例は枚挙にいとまがありません。

 しかし“幼児がえり”の背景には大条件があり、母親に母性を感じた時に限られるということです。“今のお母さんなら受け入れてくれそう!”子どもはちゃんとそれをキャッチしているのです!どんな形であれ、空洞を埋め直した子どもは本当に幸せです。そして子どもの幼児がえりに驚きつつ、子どもの心に丁寧に愛を埋め直していったお母さんもあっぱれです!“幼児がえり”はその子の心の空洞を埋める大切なチャンスなのです!“幼児がえり”だけではなく、子どもの困った行動の多くは、やはり心の空洞を見せていますので、お母さんの愛で満たしてあげることが大切です。

 “幼児がえり”への対処の、大切なポイントがあります。現在子どもがどんなに大きくなっていても、“幼児がえり”をしたその年齢の子どもに合った対応をしてあげることです。「もう赤ちゃんではないのよ!」「お姉ちゃんでしょ!」という類いの言葉を言いやすいのですが、それを言ってしまうと多くは本来の年齢にすぐに返りますが、折角の癒しのチャンスを逃したことになります。だから“抱っこ!”と言えばしっかり抱きしめてあげる。“ついてきて!”と言うならついていってあげる。「一緒にいて!」と言うなら居てあげる…。

 …きちんと満たしてあげるなら後退の状態は長くは続かないものです。長く続くようなら、それだけ深く傷ついているということがあるかもしれません。しかし諦めないで付き合い続けたお母さんは、それを機に子どもとしっかりとした絆で結ばれていきます。絆さえできればこれからの人生どんなことが起ころうと、子どもは逞しく乗り越えていけるのです。母親がその子の“心の基地”になれば、人生という大海原に子どもは安心して大きく羽ばたいていけるのです。

 子どもの“心の基地”になってあげられる親は、やはりある程度の心の整理、つまり自立という条件が要ります。しかしいま親をやっている私たちも、育ててくれた親を持っています。必ずしも愛に溢れた親に育てられたわけではありません。多かれ少なかれ岡田氏のいう「愛着障害」と闘いながら我が子を育てているわけで、悲しいかな気付けば自分が育てられたように我が子を育てているわけです。でもそれが人間の性(さが)でありその性と闘いながら懸命に生きているのが私たちであり本当に愛おしい存在です。

 次は受講者E.Tさんの体験です。

「…夫と話していて途中からいつもやり切れなくなって涙が出始めるんです…。夫は“お前はいつもすぐに泣く!言いたいことがあるんならちゃんと言え!” 実は話の内容で悲しいのではない…。ちょうどその頃、講座の中で自分と親の関係を見つめている期間だった。そこでハッと気付いたのです。夫の話し方が父の話し方にそっくりなことに…。自分は幼い頃から父の話し方にいつも威圧感を感じて怖かった…。夫に初めてそのことが伝えられたのです。夫は“そうか…父親に問い詰められているような気がしたのか…。ごめんな…” 胸の中がスーッとして、夫も許せる気がしました…」

 大人になった今でも、E.Tさんの体験のように、ふとした縁に触れて、過去の傷が浮上することがあります。つらいですがやはり癒しのチャンスです!浮上したときこそその傷が消えていくチャンスなのです。大切なのは、その都度それにどう向き合っていくかということです。

 私自身も過去の想念が浮上して辛い時期がありました。その頃すでに両親はいませんでしたし、誰かに聴いて頂くことも結構苦手な方なので、私のやり方ですが、浮上してくる過去の想念や出来事からは決して逃げないで、ありのままに日記のようにどんどん書き留めていきました。しかしただの日記ではなく、実はその出来事に係わった人に宛てた手紙です。そしてその時に抑え込んだ感情を必ず付け加えるのです。「お父さん、あなたはお母さんに対して~と言いましたね。その時傷ついたであろうお母さんを感じて、私もやり切れない気持ちでした。わたしも凄く傷つきました…」というふうに…。そして必ず自分自身に共感をしてあげます。「辛かったね…」「傷ついたね…」「やり切れなかったね…」のように。「過去感情日記」と私なりのネーミングをして、カウンセリングの場で、今もクライアントの方にお勧めしてかなり効果的です。

 本気で人生を楽しむことも大切です。心が喜ぶことを果敢にやることです。さて以前のコラムにも書きましたが、よく挙げられる例えです。「泥水で一杯のコップでも、そこに綺麗な水を注ぎ続ければ、そのコップの水はやがて必ず清水に変わる…」と。 親子関係で、今も親を憎み許せない気持ちいっぱいのあなたでも、理由があるのだから、決してそれを消そうなんて思わないで、感じたら手放して、手放せなかったらそっとそのままにして、一方人生を楽しむというわくわくとした清水をコップに注ぎ続けていると、いつの間にかその水は、“親への捉われ”と入れ替わって、あなたはやがてエネルギーに満ちてくるのです。

 また、人間の気持ちの動きにはバイオリズムがあると言われます。そのバイオリズムが下がっているときには整理していたつもりでも、残っている澱(おり)のようなものが浮上してくることがあります。そんな時も私はやはり泥水の入り混じったコップの水をイメージします。そして自分なりのツールで「大丈夫!大丈夫!」「赦します!」「愛します!」「ありがとう!」…その時その時に思い浮かぶ私なりのポジティブなツールを、例のコップに注ぎながら、更にどんどん綺麗な水になっていくイメージで見つめていきます。

 何でもいいのです。自分にとって分かりやすい具体的で象徴的な形(シンボル)を創って、ポジティブなツールの言葉で自分の中の澱(おり)をどんどん解放していくのです。ある脳学者が書いていました。私たちの脳は実にシンプルで、私たちの想いをそのまま真直ぐに受け取っていくらしいのです。シンボルがとても効果的なのは、シンプルなので脳が受け取ってくれやすい形なのだと思います。

 「…腹が立つ!許せない!愛せない!…でも私を赦します!愛します!大丈夫!何とかなる!…」と、ネガティブな思いは感じて赦して“そのままに”新しいポジティブな想念をどんどん上書きし続けるのです。これは私が絶えずやり続けている訓練です。やがて潜在意識を占領していた自己否定や他者否定の想念が、新しいポジティブな想念に機嫌よく席を譲ってくれる日が必ず来ます。

思考も訓練のたまものなのです

*次回のコラムは4月20日前後の予定です

2017年2月19日日曜日

子どもは母親の愛情を求める本性をもって生まれてきます

子どもは母親の愛情を求める本性をもって生まれてきます
岡田 尊司
Column 2017 No.45

 内閣府が取り纏めた「平成27年版子ども・若者白書」が発表されました(昨年6月)。その資料の中で私が特に目に留まったのは、小・中学生とその保護者を対象に行った「子どもの中の幸せ感・不安悩みに関する意識調査」でした(回収率:子ども70.2% 保護者93.1%)。それによると

 “家庭や学校での生活が楽しいですか”の設問に対して、“まあ楽しい”を含めて“楽しい”と回答した子どもが、
・家庭:99.0%(平成26年)/97.4%(平成18年)
・学校:80.6%(平成26年)/71.8%(平成18年)

 続く意識調査(一部抜粋)では、“どちらかと言うとそう思う”を含めて、
・人の役に立つ人間のなりたい:そう思う97.5%(平成26年)/55.9%(平成18年)
・自分の気持ちに正直に生きている:そう思う87.0%(平成26年)/74.5%(平成18年)
・将来のために今頑張りたい:そう思う94.7%(平成26年)/87.8%(平成18年)

 次に続く意識調査(一部抜粋)では、“どちらかと言うとそう思わない”を含めて、
・人は信用できないと思う:そう思わない81.8%(平成26年)/77.4%(平成18年)
・人と居ると疲れる:そう思わない87.4%(平成26年)/87.1%(平成18年)

 この集計結果を見る限りでは日本の子どもは決して不幸にはなっていない。保護者の意識調査でも子どもの自主性を尊重しつつ子どもに関心をもって臨んでいる保護者が増えていることが今回の意識調査からもはっきりと伺えます。報道機関から流れてくるものはネガティブなニュースにポイントが置かれているので“世の中どうなっていくんだろう…”と多くの人々は不安を抱える結果になっています。明るい報道にも力を入れてもらえると、これらの不安は払拭され、人々の希望が更に世界を明るくしていくと思うのですが…。

 もっとも、一部の子どもたちの上で起こっている相対的貧困、児童虐待、ネグレクト…等々の問題は上昇が続いています。私たちはこれらに目をつむるわけにはいきません。子どもをここまで追い込んでしまっている背景に一体何が起こっているのでしょうか…。この辺りを探っていく上でとても参考になった書籍があります。親が子どもを愛せない背景に何が起こっているのか…。この辺りを臨床的に研究し調査し、実際に治療にもあたって書かれた、精神科医で作家でもある岡田尊司(たかし)氏の「愛着障害」(光文社)は、私にとって想像以上に深い共感がありました。

 知人のS.Iさんが紹介下さった時、すぐに手が出なかったのは、“愛着障害”というネーミングに少し抵抗を感じたことと、そのテーマからは、彼が言わんとするところが掴めなかったのです。しかし縁あって求め、読み終わったとき、私が一番大切に思っていることを、興味深い沢山の事例を挙げながら克明に、しかも大変理解しやすく述べられていることに驚嘆し溜飲が下がるような感覚がありました。学生時代、私が心理学を学んだ頃は“愛着”は“アタッチメント”とか“マザリング”とかに訳されていました。それで少し抵抗を感じたのだと思います。母親が子どもにこのアタッチメントを軽視した結果、岡田氏のいう「愛着障害」が深刻な形で出てくる訳です。

 つまり子どもは生誕時から無意識に母親からのアタッチメント(肌によるふれあい・愛情に基づいた様々な関わり合い…等々)を求めており、それを通して、その子の人生の基本的な構え、つまりこれから生きていく周りの世界を、その子がどういう視点で捉えていく傾向になるか…の基本的姿勢が出来上がるのです。これを岡田氏は「第二の天性」と呼んでいます。更に彼はこのように述べています。「母親を主たる愛着対象、安全基地として確保しながら同時に活動拠点を広げ始めるのである。これは大人に於いても…安定した愛着によって安心感・安全感が守られている人は、仕事でも対人関係でも積極的に取り組むことができる‥‥」

 発達心理学者で知られるE・H・エリクソンは、人の一生を、乳児期・幼児期・児童期・青年期・成人期・壮年期・老年期‥‥に分類してそれぞれの発達課題を設けており、それぞれの時代の課題(特に初期の段階)をクリアしていくことで、人間は健康なアイデンティティを構築できるのだ…と。よってその中でとりわけ重要なのが、乳児への母親の密なアタッチメント(スキンシップ・無条件の受容・子どもからの働きかけにまめに答える・話しかけ…等々)で、これこそがその子の一生を左右する基本的安心感・安全感が培われるのだ…と彼も述べています。   

 一方、アタッチメントがうまく起動しないと、人間不信頼・母子分離不安・情緒障害・人格障害…等々に至ることもある…と述べています。岡田氏のいう「愛着」の度合いによって人生の構え(視点)が違ってくるのですね。心理的外傷(愛着障害)を抱えた人々の多くは、思春期・青年期になっても自己像が低く、心の中に強い劣等感を抱き、自信もありません。特に理由のない空虚感や孤独感に悩まされたりしています。
 「愛着障害の人は原点のおいて他者に受け入れられるということがうまくいかなかったのであり、同時に自分を受け入れるということにも躓いたのである」岡田氏の言葉です。

 非行を研究している研究者が次のように述べています。

母親の温かいイメージが子どもの心の中のベースになって
いれば、思春期以降によく起る問題行動(非行・暴力・いじめ・
不登校・鬱・心身症…等々)はまず起らないであろう…

以前、TVの放映だったか…ある動物園の園長のお話はとても印象的でした。「…不幸にも母親猿に構ってもらえなかった子猿が母親になったら、やはり自分の子どもに愛情を示さないのです。母乳を与えることを拒んだり、子猿が母猿に触れようとすると腹を立てて危害を加えることさえもあります。一方、母親に愛されて育った子猿が母親になったら、自分の子どもが餌を獲得できるようになるまで、殆ど手放さないで、抱いたりおぶったりし続けます…」と報告していました。

 岡田氏は愛着障害を抱えた人々がその障害をどう乗り越えていったのかを、世界に大きく貢献した人々を含めて、丹念に調べ、納得できる理論でみごとに解説しています。彼らは愛着障害に苦しみながら、そしてそれと闘いつつ自分を癒しながら、徐々に社会に適応していきました。そしてその苦しみから「哲学」が生まれ、共感を呼ぶ「文学」が生まれ、素晴らしい「芸術」となって人々を魅了していったのです。ある人は得意な「ビジネス」の世界で社会に貢献していきました。

 “世に大きく貢献していく人々の半生は、苛酷な修行があるもんなんだよ…”と、祖父がよく言っていましたが、岡田氏の著書で、“なるほど…”と大いに合点し、感慨深い気持ちになったことでした。私たちも多かれ少なかれ、岡田氏のいう「愛着障害」を抱えて、時には苦しく辛い課題と格闘しながら生きています。翻訳家の山川紘矢氏は「人生は魂を磨く場所」と表現していますが、私たちは、魂を磨かん為に辛い修行にもひたむきに励んでいけるのでしょうか…。

 我が子に“アタッチメント”を充分に与えないできた為に子どもが今も苦しんでいる…。その上母親自身が、親からそれを充分貰えなかった為に、今も理由の解らない空虚感や不安感で、重苦しい気持ちで過ごしている…そんな辛い中にいる親御さんに沢山会ってきました。しかし「愛着障害」は必ず乗り越えられると私は信じています。それに無関心でいるとその人の中で「障害」は起動してしまいますが、自分の中の障害に気付いた人は、それにきちんと対峙できるのでそこから癒しに向かいます! 現に克服し自分を取り戻していった方々は沢山います。気付いた人にとっては、解決しない問題は無いのです。

 岡田氏の著書「母という病」(ポプラ社)も紹介しておきましょう。この本の中にも“愛着障害”を克服すべく具体的な解決策が沢山提供されています。私も親業やカウンセリングを通して今感じていること、大切に思っていることを次回のコラムで続いて書いてみたいと思っています。

*次回のコラムは3月20日前後の予定です

2017年1月20日金曜日

夢は大きく 失敗は大胆に

夢は大きく 失敗は大胆に
ノーマン・ボーン
Column 2017 No.44

 今年の年賀状のフレーズに取り上げたものです。年齢を重ねてもこのようなフレーズに出逢うと、何だか心がときめきます。でも本音を言えば、私が抱く夢は等身大だし、しかも失敗はやはり好きではありません(笑) だからこそ ”Boys be ambitious” 少年よ大志を抱け!(クラーク博士)のような言葉にわくわくしたり、今回のテーマのような勇ましいフレーズに心がときめくのでしょう。 

 失敗は大嫌いな私であるにも拘らず、本当はこれまでの人生、恥ずかしい失敗を数多く重ねてきた私なのです。いわゆる赤恥レベル級です…。あまり話したことのない忘れられない赤恥のひとつを、時効と判断し披露します(笑) 学生の頃、友達関係だった男友達のひとり、彼は私に対しては恐らく友達以上の感情は全くなかった。実は私の方が好意を持っていたことには私自身全く気付かず、相手が私に対して並々ならぬ恋をしていると勘違いをして勝手にことを起こし、途轍もない傲慢な態度で別れを切り出した!その時の彼の言葉と鳩豆状態の顔が思い出され、今も顔から火を噴きだしそうな恥ずかしさと申し訳なさで一杯です…。

 わたしの“恥歴”は枚挙にいとまがないくらいです。そんなことを感じていると、むかし子どもと一緒に読んだ「ドン・キホーテ」(セルバンテス作少年少女世界名作全集)が急に読みたくなって、まだ健在の書棚から黄色く変色したその一冊を引っ張り出して、お正月の合間合間に引き込まれるように再読したのでした。私と温度差があまりないように思えるドン・キホーテ。妄想癖のあるキホーテが風車を巨人だと思い込み、槍をもって全速力で風車に突撃していった…その断片的な下りだけは鮮明に覚えていたのですが、その他数々の突拍子もない騒動はすっかり忘れていたようで、わくわくと全篇読み通しました

 騎士道物語を読み過ぎて夢と現実の区別がつかなくなったキホーテは、自分がすっかり雄々しい騎士になったつもりになって、老馬にまたがり、家来のサンチョを引き連れて、世の中の不正を正すための旅に出掛けるのですが、まさに奇妙で滑稽極まるトラブル(失敗)の連続! 心打たれるのは年老いてもなお、夢や希  望を決して失わず、正義を胸に遍歴の旅を続けていくその一途さ。周りの人々は彼の常軌を逸する行動に呆れながらも、純心で一生懸命なキホーテを愛さずにはおれないのでした。まさに“夢は大きく失敗は大胆に”を地で行く人物なのでした。

 私とドン・キホーテの違いは、キホーテはどんなにまずいことをしでかしても、彼なりの論理(多くは妄想からの)があって、決してめげず、完璧なプラス思考!一方、私は…と言えば、時に妄想で行動してしまうところは彼と一緒でも、幸か不幸か、必ず正気に戻ってしまうところがつらい所で、赤恥をかいては苦しみ、こけては痛みを感じながら、そこで何かを学び今日まで生きてきたわけです。

失敗がないと人生に失敗する

斎藤茂太氏の言葉ですが、私にとっては救いの言葉です。失敗は確かに心が痛むものです。でも失敗を通してこそ、“真の目”は開かれていくのではないかという気がするのです。だから人は、無意識ですが自分にとって必要な失敗をしているではないか…と。その失敗を通して何かを感じ何かを掴んでいける! 特に以前はうっかり者でそそっかしかった私は(実は今もですが…)多くは失敗から学んできたような気がするのです。

 失敗と言えばもう一つの赤恥を思い出しました。もう10数年も前になるかと思います。その頃、“シャンソンを歌う会”に入っていて夢中になっていました。年に1回の発表コンサートがあり、その日はみんな精いっぱいのお洒落をして一人ひとりがステージに立って歌うわけです。いよいよ自分が立つ番になりました。堂々と胸を張って舞台に出ようとした処まではよかったのですが、マイクのコードにヒールが引っかかって、すってんころりん! 観客の方に向けて足が跳ね上がったのできっと見られたざまではなかった…と思う…(クシュン)。

 ところが不思議ですが、その一瞬の情景の中で、スローモーションのように自分の心の動きがはっきりと掴めたのです!“…ああ、私はこうして300人の観客の前でみっともなく転んで赤恥をかいてでも、自分の身に付けた不自由な鎧(よろい)を脱ごうとしているんだなあ…”と。

 そして同時に、観客のエールのような愛の波動を全身いっぱいに感じて、立ち上がった時には体中にエネルギーが返ってきていたのを思い出します。そして“…わたし!素っ裸で今日は街中を歩けそう!”と思うくらい、その時、鎧が脱げている自分を感じたのでした。……しかしいつの間にかまた、無意識に着込んでいる自分も…あるんですよね…。

 私は失敗はとても怖いけれど、失敗することを赦して生きているので、かなり大胆な失敗をよくします。でもその失敗を通して本気で学ぼうとしています。等身大の夢でもいいそれを持ち続けて、真摯に生きていく中での失敗は、学ぶべきことが必ずある筈だと…。きっとこれから歳を重ねても、辛いけれども私にとって必要な失敗は訪れ続けるのでしょう。でもその度ごとに気合いと度胸でもって臨み、学んでいくつもりです。

 夫が生前、ある体験を通して語っていたことをふと思い出しました。「…今日なあ。横断歩道を渡るときにいきなり転んだんだよ!その時ふっと、よっしゃ!思いっきり転んでやろうと思ったんだ…。そう、柔道の受け身だな!そしたらほら!全く怪我がなかったよ…」と。その時はあまり深く考えず、夫らしいな…と笑って聴いていましたが、失態に臨む夫の心意気が今回のテーマに繋がるのを感じました。

失敗を覚悟で 挑み続ける それがアーティストだ
スティーブ・ジョブズ

リスクを取る勇気がなければ 何も達成することがない人生になる
モハメド・アリ


*次回のコラムは2月20日前後の予定です